全てを失うとしてもかまわない
この腕だけはほどかない
春も夏も秋も冬も 君の側に
雨も雪も砂も風も 同じ道を君と共に


 始まりは、一人の女の死がもたらした。宰相ディアル。カザレントを治めるカディラ一族の、若き大公ロドレフ・ローグ・カディラを補佐し、常にその傍らにあって事実上の妻と囁かれた女性は、彼の息子を産み落とした次の朝、冷たい骸と化して寝台に横たわっていた。
「何故だ」
 大公は問う。答える者はいない。血の大公と呼ばれ、多くの人間を粛清の名の元に処刑した男。兄弟・姉妹すら斬り殺す事を躊躇わぬ、そんな彼が激昂もあらわな表情を見せている時に、声を返す度胸のある者などいるはずもなかった。
 唯一それが出来たのは、今や永遠の眠りについたディアルその人、彼女のみである。
「何故だ、ディアル!」
(何故だ!? 何故、先に逝く?)
 遺体を掴み、抱き寄せ、揺さぶりロドレフは叫ぶ。戻れ、勝手に逝くな、と。だが、ローグ、と彼を呼ぶディアルの声は聞こえない。愛しい女の閉ざされた紅い唇は、二度と名を呼んではくれなかった。
「……連れてまいれ」
 ややあって、大公はボソリと呟いた。
「は……?」
 怯えつつも背後に控えていた者達は、一様に首を傾げる。どなたを? と。振り向いた大公の顔には、ゾッとするような笑みが張りついていた。
「決まっているであろう? ディアルを死なせた犯人だ。赤子を連れてまいれ。この手で引導を渡してくれよう」
 瞬間、その場にいた者は皆凍りついた。何という事を、それは貴方様の子ではないか!?生まれたばかりの我が子を、父の手で殺すと?
 誰もが、そう思った。しかし、誰もそれを口にする事は出来なかった。
「何をぐずぐずしておる! さっさと連れてこないか!!」
 主君の怒鳴り声に身を竦ませる者達の中で、一人が立ち上がった。一年前よりディアルの従者を務めていた、元衛士のラガキスが。

 赤子は、何も知らぬ侍女の手であやされ、安らかな寝息を立てていた。
「今おねむになったんですよ。いっぱいミルクを飲んでご機嫌で。……ラガキスさん?」
 どうなさったんです? との問いにラガキスは泣きそうな表情で首を振り、侍女の腕から赤子を譲り受けた。
 赤ん坊特有の匂いと、頼りなく柔らかな体に胸が熱くなる。殺されるのだ、自分がこのまま大公の元へ連れていけば。この小さな生命、無垢な魂は、この世から奪われてしまうのだ……。
(男の子だったらルドレフよ。彼と似た名前を付けるの。さぞ嫌な顔するでしょうね、あの人。今から私が赤ん坊に夢中になって、自分をないがしろにするんじゃないか気にしてるのよ。仕方のない人でしょ? まるで大きな子供だわ。あっ、もちろんこれは内緒よ、ラガキス)
 半年前に聞いた、ディアルの明るい声が甦る。黒い髪と大きな黒い眼、そして紅い唇が目立つ顔。一度言葉を交わしたら忘れられなくなる、そんな印象深い女性だった。
 大公の正室、隣国イシェラから嫁いできたセーニャ妃に比べれば、容貌の上ではやや劣るものの、人を安心させる雰囲気というものを彼女は持っていた。そこに、おそらくは大公も惹かれたのだろう。自分がそうであったように。
「あぶ……」
 腕の中で、小さな生命が脈打つ。ディアルの子供、ディアルが誕生を待ち望んでいた赤子が。
 ラガキスは足を止める。次の渡り廊下を過ぎれば、大公の待つ部屋はすぐだった。
(許せ)
 心の内で、彼は詫びる。妻に、子に、年老いた母に。
(許せ、許せ、許してくれ……!)
 赤子を抱きしめ、ラガキスは踵を返す。そして一目散に、廊下を駆け戻った。
(お助け致しましょう、ルドレフ様。このラガキス、命にかえてもお守りしますぞ!)


 その日より、ラガキスと赤子は都から姿を消した。
 大公は当初こそ追っ手を差し向けたものの、彼等が足取りを掴めず戻った後は命令を継続しなかった事もあって、二人の行方は知れぬままとなり、ラガキスの出奔は半ば黙認された形となった。
 そうして歳月は流れ、いつしか大公の周辺の者すらディアルの産んだ赤子の存在を忘れ去った頃、密かに何名かの家来を呼んで、ロドレフは新たな命令を下したのである。
「捜し出せラガキスを。そしてあの赤子が、もし無事に生きて成長していたのなら……」
 自らの小指にはめていた指輪を抜き取ると、大公は手前で跪いていた男の手に渡す。
「伝えてほしい。都に、我が居城にまいれと。カザレントの公子として正式に承認する旨必ずや伝えるがよい」
 しかと頼んだぞ、とロドレフは呟く。生きていれば、それこそが真実の……。
「唯一の、我が息子だからな」



カディラの風〜前編〜《1》

by 天 越 陸


 焼けつくような痛みが、右の額から顎にかけて広がった。視界が、血で赤く染まる。それでも、彼は必死で叫んでいた。やめろ、と。
(やめろ、殺すなっ! この上母さんまで殺すなーっ!!)
 斬りつけた男は、ニヤニヤと笑ったまま兵士達に命ずる。放り込め、と。半裸にされた母親の身体が、男達に捉まれて宙に浮く。そして ―― 悪臭漂う飛沫が上がった。
 狂気を秘めた笑いが、男の唇から漏れる。いい肥料になるだろうよ、と。汚物に塗れ、這い上がろうと縁に手をかけた女の体に、剣先が突き立てられる。顔に、喉に、胸に。やがて力尽きた女は、汚物の中に沈んでいった。生きながら、肥溜めに沈められたのだ。
 彼は、残された片目で見た。母親が無惨に殺される様を。
 彼は見た。それを命じ、自分の顔に消えない傷を刻んだ男の姿を。
 決して忘れる事はない。その姿を、名前を、光景を。
 領主ユドルフ! 村を焼き、家族を、村人の多くを殺したカディラの悪魔! 貴様を地獄に落とすまで、自分は死にはしないっ!! コオウの村の村長の息子ザドゥは、この世の果てまででも貴様を追って、その首叩き落としてやるぞ!!

 炎に包まれた村を背に、殺戮と掠奪、暴行の限りを尽くした一団が去っていく。母親が沈められた肥溜めの側で、倒れ伏し動けずにいる子供の事など、彼等は思い出しもしなかった……。



 傷が、疼いて目が覚めた。右の額から、顎にかけての刀傷。
 ザドゥは舌打ちして体を起こす。十五年も前に受けた傷だった。今更痛むはずもない。
「ザドゥ?」
 隣の男の動きに女は反応する。波打つ赤い髪が揺れ、豊かな乳房がシーツから離れた。
「なぁに? まさかもう帰るって言うんじゃないでしょうね」
 ザドゥは答えず、ベッドから降りた。手早く衣服を身に纏い、剣を手にカーテンの向こうへ消えた男に、女は慌てて後を追う。
「ちょっと、ザドゥ!」
 ガウンを羽織って顔を覗かせた時には、男はもう廊下の端にいた。
「ザドゥ!!」
 自分の名を呼ぶ女の声は、確かに聞こえたはずである。だが、向けられた背中は、何の反応も示さなかった。
 女は、唇を噛み立ち尽くす。それ以上追う事は、彼女には出来なかった。


「あ、いたいた、ザドゥの兄貴ィ。やっぱりドリナの姐御の店にいやしたか」
 店を辞したところで、自分を捜していたらしい若い者と鉢合わせとなり、ザドゥは眉を寄せる。夢見が悪かったせいで、気分が良くない。こんな日は、厄介事と関わりたくはなかった。
「いいっすねー、何たって姐御が商売っ気抜きでのお相手でやんしょ? あっしも一度くらいあの胸に、こうかぶりついてみたいもんっすなァ」
「……用件は何だ、デド」
 ザドゥは溜め息と共に切り出す。この上男のお喋りなど聞かされるのは御免であった。
「あっ、そうだ。こうしちゃいられねぇっす、即刻宿の方へと戻っていただかにゃあ」
 デドは一旦口を閉じ、声をひそめて囁いた。
「カディラの一族絡みの依頼でさァ、ザドゥの兄貴」
「何だと?!」


 カディラ大公家はここ二、三代の間に、その醜聞を国内に大きく広めつつあった。
 先々代の大公、ニオレグ・ニーグ・カディラは、城にいた期間より戦場にいた年月の方が遥かに長い、と言われた戦好きの男であったが、一方では病的なまでの女嫌いで通っていた。大公妃となった女性にも、触れる事はおろか口をきく事すら拒むという有り様で、ついに生涯妻と褥を共にせず没したのである。
 その為、次の大公となったのは甥にあたるケベルス・ケーグ・カディラであったが、こちらは伯父のニオレグと対照的に、無類の女好きの放蕩振りで有名となった。
 なにしろ息子の妻として迎えた女性にさえ、当の夫となる息子より先に手を出したのだから、始末に困る。
 彼が在位の間に側室とした女性の数は百を越え、更にそれ以外にも、人妻だろうが処女だろうがおかまいなく城内の女性達に片っ端から手を付けて、産ませた子供の数たるや認知しただけで百五十人。実際にはその倍はいるはず、というのが国民の通説である。
 そして、現大公にしてケベルスの嫡子ロドレフ・ローグ・カディラ。公子であった時代には、無口でおとなしい父親に従順な子供、と見做されていた彼は大公の地位に就いたとたん、抑えていた本性をあらわにしたのだった。
 些細な過失で捕えられ、処刑された者は数知れず。また生きながら獣の餌とされた者も多い。
 先代の大公の側室だった女性達は、全て首をはねられ庭園の肥料となり、その子供の殆ども同様の運命を辿ったと聞く。ロドレフが、血の大公と称される所以であった。
「で、ここに加わるのが大公の長子とされてる、ユドルフって野郎なんだが」
 使いの者と馬を表に待たせて、荷物を纏めながらザドゥは語る。
「こいつが大公になったら最悪、だろうな。無抵抗の相手や自分より弱い者を嬲り殺すのが趣味で、ケベルス大公同様の好色漢。気に入った娘は有無を言わさず連れ攫い、年端も行かぬ子供であっても寝室に引っ張り込んでいる、というのが俺がガキの頃耳にした奴さんの評判だ」
「ははァ」
 納得したようにデドが頷く。
「そいつぁ、さすがの大公も頭が痛くなりますなァ」
「そこでだ。認知していなかった息子を一人、引き取る事に決めた、という話さ。来月迎える就任三十周年の祝いの席で、皆にお披露目するつもりらしい」
「へえ、で、兄貴が都までその公子様の護衛につくと?」
「そういう事だ。大公家にも興味はあるし、それに……」
 ザドゥはふと、言葉を途切れさせ黙る。切り刻まれた小さな妹。燃え盛る炎の中に投げ込まれた父。凌辱されたあげくに殺された母。自分達家族のささやかな幸福を、日常を破壊した仇。その男に近づく手段が、機会が思いがけなく転がり込んできたのだ。
(逃さない、今度こそは)
 かつては白かった ―― 今は褐色に変化した肌を見つめ、拳を握り締める。十五年前の子供の頃とは違う、大きな力強い腕。逃すまい、と心の内で誓う。
(今度こそ、貴様を殺してやる! ユドルフ・カディラ!!)
「しかしあれっすね。大公と言えば、異母兄弟・姉妹殺しで有名な御方じゃないっすか」
 デドの声で、ザドゥは我に返り止まっていた手を動かす。
「やー、ザドゥの兄貴ィ、命だけは大切にしておくんなせぇよ。カディラ一族絡みの仕事となると、こりゃ相当にやばそうっすからねー。おお、ぶるるっ。あっしは首と胴体が生き別れになった兄貴たあ、再会したくありませんや」
 自称・弟分の言い草に、ザドゥはくっと鼻で笑った。
「安心しろ、俺はそう簡単にくたばるつもりはない。何と言っても二年前、死にかけたばかりだしな」
 デドは懐かしげに頷く。
「そういや、あん時の兄貴はここに一晩宿泊しただけの渡り剣士だったんすよねぇ。そいつが何の縁もないあっしらを守って、剣一本で妖獣相手に立ち向かってくれた時は、もう泣けてきやしたよ」
 そう、二年前にこの村を襲った妖獣に剣一本で挑んだあの時、死んだはずの命だった。辛うじて倒しはしたものの、妖獣の触手から流し込まれた毒により、一週間も生死の境をさまよって、助かった時には全身の肌が褐色に染まっていたのである。
(だがそのおかげで、この傷という目印があっても別人に見える)
 自信に満ちた笑みが浮かぶ。大丈夫、自分と会ってもユドルフは、己が傷を顔に刻んだ子供とは思うまい。
「じゃあな、デド。留守中、達者でいろよ」
 荷物を手に出かけようとしたザドゥを見て、デドは慌てて腰を浮かす。
「じゃあな……って兄貴、そいじゃドリナの姐御に挨拶はなしですかい? まさかこのまま行く気じゃないっすよね」
 ザドゥは肩を竦めた。ドリナとは、別に恋人でも情人でもない。しつこく誘いをかけてくるのを、断り続けるのも面倒になって何度か応じただけ、と彼は考えていた。
 もちろん、男と女でそうした関係を持った以上、応じただけ、などという言い分は世間的に認められない。しかしながら、ザドゥにとってはそれが正直なところ、であった。
「ドリナには、お前から伝えてくれ。しばらく留守にする、とな。ああ、ついでに店の若い娘をあんまり苛めるな、とも言っといてくれるとありがたい」
 デドは世にも情けない表情となった。
「そりゃないっすよー、兄貴ィ。女豹をわざわざ怒らせてどうするんすかー」
 思わず漏らした嘆声に、返ってきたのは立ち去るザドゥの足音と、高らかな笑い声だった。



◆ ◆ ◆



 カザレントの最北端、イシェラとの国境沿いに連なる山脈の一つに、廃棄された館があった。
 かつて両国が互いの領土を拡張しようと睨み合っていた頃には、間諜としてイシェラに入り込んだ者からの報告を受ける為に頻繁に利用されていた建物である。しかし、ケベルス大公の代になってからは訪れる者とてなく、放置され続けていた。
 その一角に人が住むようになったのは、十年程前からの事である。殆ど幽霊屋敷と言って良い館の中で、そこだけは黴の臭いと埃に埋もれる事を免れ、生活空間としての生を取り戻していた。
 人間が留まってこそ、の住居である。館は、二人の侵入者を歓迎した。後に床を、血で汚される事になっても。


「……爺?」
 物音に、青年はうたた寝から覚め呟いた。静まり返った廃屋で、錆びた扉を開ける音は思いのほか響くものである。
(ラガキスが帰ってきたのか?)
 最初、彼はそう考えた。都までの護衛役、兼道案内を務める者を雇いに出かけた老人が戻ってきたのかと。しかし、すぐにそれは間違いと気づく。階下から響く足音や声は、一人二人のものではなかった。
「………」
 重い頭を叩いて、青年は身を起こす。腰まで届く長い黒髪が背中から流れ、シーツの上に落ちる。目覚める寸前まで見ていた悪夢のせいで、ひどく具合が悪かった。平衡感覚も戻らず、上体がぐらつく。それ故、護身用の剣を取りに行くのが遅れた。
「おーっと、そいつを持たれちゃ困る」
「……!」
 指が剣に触れる寸前、毛むくじゃらな男の手が青年を捕え、羽交い締めにした。仲間と思われる四人のごろつきが、周囲を取り巻く。
「失礼、ルドレフ殿ですかい?」
 男の一人が呼びかけ、手首を掴む。他の面々は薄ら笑いを浮かべ、各々の武器をちらつかせていた。どれも皆、一目でならず者と知れる風体である。背後の男からかかる息は、強い酒と口臭の混じった臭いがした。
 問いかけた男は、顎髭を撫でながら青年の左の中指にはまった指輪を確認する。
「どうやら、間違いなくルドレフ殿のようですな」
 翼のある蛇が、緑の玉石に絡み付いている。それは一族の中でも大公家の者だけが持つ事を許される、カディラの紋章を象った一品であった。
「すみませんなぁ。あんたさんにゃ恨みはないが、生きててもらっちゃ困るとさる御仁がおっしゃるもんで。ここは一つ、おとなしく殺されてくれませんかね。おとなしくしてねぇと、余計に痛い思いをしますぜ」
「……誰が困ると?」
 首を締め付けられた状態のまま、苦しげに青年は問う。男達はニヤニヤとするだけで、答えは返さなかった。剣の先が、捕われ身動きできない青年の胸に迫る。誰もが、なす術もなく相手は殺されると信じて疑わなかったその時、思わぬところから邪魔は入った。
「ちょいと待てや。そう焦る事はなかろう?」
 突き立てられようとした切っ先を、背後の男の手が遮る。青年のみならず、仲間の男達も突然の行動に首を傾げた。何のつもりか、と。
 青年を羽交い締めに捕えていた男は、ニンマリと相好を崩し言い放った。
「殺しちまうのは後でも出来るって。野暮だぜ、せっかくの獲物を」
 男の意図を察して、青年を除く全員がうんざりとした表情を見せる。
「おい……、そりゃあ男だぞ」
 また悪い癖が出たか、といった顔で一人が呟いた。
「かまいやしねぇって。これくらいの顔してりゃあ、俺はどっちだって良いんだよ。おっと、こりゃあ肌も吸い付くようじゃないか」
 賊の、他の四人はゲンナリとして顔を見合わせた。既に男は相手の衣服の中へ手を突っ込み、舌なめずりせんばかりの様子でまさぐっている。止めたところでやめるまい。
 だが、男同士の情事など、眺めていて楽しいものではない。いや、出来れば見るのは遠慮したい。頼まれたって御免である。彼等は肩を竦め、一旦退出する事を全員一致で即決した。
「済んだら呼びな。俺達は部屋の前で待ってるからな。さっさと済ませよ」
 念の為に、と背後に腕を回し両手首を縛り上げた状態で青年を男に向け突き飛ばすと、彼等は部屋を後にした。
 こうして一味は、二手に別れたのだった。何の警戒心もなく。
 皆が、油断していた。殺すよう依頼された相手のおとなしさと、諦めきった顔でされるがままになっている様子に。
 誰一人、気づかなかった。男の腕に抱かれた青年の眼が朱に染まりかけている事実、その意味を。



「またどえらく辺鄙な所に住居を構えたもんだ」
 足元のあまりの悪さに、ついついザドゥは愚痴をこぼす。仕事柄、悪路にはけっこう慣れているのだが、それでもこれはきついと思われた。
 馬も入れぬ獣道を、先程から黙々と進んでいた使いの老人は、背後の声に足を止める。
「あの方を、人目につかせる訳にはいきませんでしたから」
 返された言葉に、ああ、とザドゥは相槌を打つ。
「確かにな」
 血の大公の隠し子ともなれば、狙われる事も多かろう。その存在自体を隠し、出自を知られぬよう生きてこなければならなかったはずである。
「しかし、都に出るとなればここで暮らすより遥かに危険だと思うが、その点は良いのか?」
 再び歩き始めた老人の背に、ザドゥは問いかける。
「……悲願でしたから……」
 絞り出すような苦渋に満ちた声が、老齢の従者・ラガキスの唇から漏れた。
「ルドレフ様がお生まれになった時、大公はあの方を殺すおつもりで、私に連れてくるよう命じられました。母君が……、ディアル様が難産の末に身罷った事実に、大変激昂なされまして……」
 ラガキスは言葉を途切れさせ、目尻に浮かんだものを拭う。
「大公は、ディアル様には愛情をお持ちでいらしたご様子でしたが、子供は望んでいなかったのでしょうな。生まれる前から、どこか疎ましく思っていられたような節もございましたし……」
 そりゃずいぶんな父親だ、とザドゥは心の内でぼやく。やる事をやっといて、出来たものをいらないとは。
「私は、命令に従う事が出来ず、出奔してルドレフ様をひそかにお育て致しましたが、なにぶん子育てとは縁のない身でありましたから行き届かない面も多く、また所持金も乏しかったもので、長らくあの方には惨めな暮らしをさせてしまいました。そこへ、かつての同僚から連絡が入ったのです。ずっと捜していた、大公はルドレフ様を息子として引き取る所存である、と」
 老人は歩みを止め、振り返る。
「その言葉が真実である証として、都に来るまでの支度金と、大公家の一員である事を示す一族の紋章を象った指輪を託された時、どんなに嬉しかった事か!」
 顔を歪ませ叫ぶラガキスに、ザドゥは無言で頷く。長年の苦労が報われる思いだったのだろうな、と。
「わかりますか? 悲願なのですよ。ルドレフ様が大公の隣に並び、息子として正式に紹介される。それだけで、もう良いのです。あの方もそう思っておられます。たとえ生命と引き替えになっても、構わないと」
「………」
「隻眼のザドゥの勇名は、この地まで聞こえております。本来であれば、あの方をお守りするは我が任務でございますが、老いたこの身で護衛を務めるのは無理というものでしょう。貴殿を信じてお任せします。どうかルドレフ様が無事に大公と会えますよう、御助力をお願いしますぞ。ザドゥ殿」
 熱のこもったラガキスの言葉に、ザドゥは軽い痛みを感じた。同行する真の目的など、とてもこの老人には言えない。
(可哀想に。あんたはそれと知らず大事な兎を、猟師の前に差し出したんだ)
 カディラの血を引く者を、守ってやる気になどなれない。ましてや、あのユドルフの異母弟ともなれば。護衛する時があるとしたら、それは刺客がユドルフの手の者だった場合のみ、である。そんなザドゥの思惑などつゆ知らず、ラガキスは彼に語りかけた。
「ああ、見えてきました、ザドゥ殿。ようやく着きましたぞ。ほら、あの木の向こうにある館です」
 欝蒼と茂った木々の途切れた場所に、蔦の絡まる廃墟のような建物があった。カディラ一族、現大公の息子が住んでいるにしては、余りにも小さな、荒れ果てた外観の館が。
 ザドゥの視線から心中を察したのか、ラガキスは恥ずかしげに喋りだす。
「な、なにしろ大公の御命令を無視しての出奔でしたから、いつ追っ手に捕まるかと気が気でなく、まともな住居を求める訳にもいきませんで……。ここは空き家になっていたのを良い事に住み着いた次第なのです。地元の人間すら存在を知らない、廃墟でしたから」
 ザドゥはあきれた顔で、目の前の老人を見る。
「よくも住む気になれたもんだな。いかにも何か出そうな雰囲気の館じゃないか。俺はそういうのを信じる方じゃないが、幽霊や魔物が根城にしている、と言われてもここなら納得しそうだ。怖くはなかったのか?」
 ラガキスは冷え冷えとした笑いを口元に浮かべ、首を振る。
「別に怖くはございませんよ。幽霊も魔物も、生きている人間に比べれば」
「………」
 返す言葉を失ったザドゥの前へ、何かが落ちてきた。館の二階の窓から放り投げられた物体。恨めしげな眼の、舌をベロリと出した赤と黒のまだらの固まり。瞬時に髭面の男の生首と判断し、彼は視線を上へと向ける。
 長い、黒髪が眼に映った。窓から身を乗り出している男の、女のような長い髪。血で赤く染まった白い衣装は、前が大きくはだけられている。袖口から覗くのは、剣を振り回すには不似合いな細い手首。さぞ重かろうと思われる長剣を握った右の手は、真っ赤に濡れていた。
「ルドレフ様!? こ、これはいったい……?」
 真っ青になって、ラガキスは問いかける。どこか感情に欠けた声が、それに応えた。
「ルドレフ・カディラを殺すのに、この程度の腕の者を五人しか寄こさないとは、暗殺を命じた奴も相当舐めてかかってくれている」と。


「お前さん、実は護衛なんざ必要ないんじゃないのか?」
 心臓を一突きにされた死体を運び出し、裏庭に掘った穴へ放り込むと、ザドゥはルドレフに尋ねてみた。本当ならすぐにでもここを発つ予定だったのだが、いくら放置するつもりの館でも死体をそのままにして去る訳にはいかない、というラガキスの主張によりこの作業である。
 ルドレフは聞こえていない様子で、首をなくした大男の胴体を引きずっている。むき出しになった腕は、ザドゥに比べると半分の太さしかない。
(まぁ、それで油断したんだろうな。この野郎も)
 寝室に入り、ベッドの上で死んでいる男を眺め、ザドゥは思う。明らかに、情事の最中に殺されたとわかる姿だった。顔には、驚愕の表情が張りついている。
「全く、昼間っから見たくもないもん見せてくれるぜ。せめて下ぐらいは隠しといてほしかったぞ、くたばる前に」
 ぶつぶつとボヤきつつ、シーツに包んで死体を運び出そうとしたザドゥは、ふと奇妙な点に気づく。これまでの死体と違って、この男には剣による外傷がどこにも見受けられないのだ。
「……?」
 再度、確認する。傷はない。シーツに血痕もない。首を絞めた訳でもなさそうだった。ではどうやって殺したのか?
 物音にハッとして振り向くと、扉の前にルドレフが立っていた。黒い瞳は、自分が殺した男を確かに映しているはずだが、そこには何の感慨も見られない。
「ああ、もういいぜ。こいつは俺が運ぶから、あんたは着替えて血を拭いた方がいい。べとべとだろう、その服は」
 言って、よっこらせと死体を担ぐ。沈黙を続けていたルドレフは、ザドゥが脇を通り抜けようとした時、ようやく口を開いた。
「本気で、都まで私を護衛してくれるつもりか?」
「?」
「もしそうなら、やめた方がいい。爺がいくら払ったかは知らないが、生命に見合う代価などありはしない」
「お前……」
 ザドゥは目線を下げ、まじまじと相手の顔を見つめた。現大公の隠し子、カディラ一族の血を引く男。五人もの刺客を返り討ちにして、なお無表情の……。
「刺客は、間違いなくまた来るだろう。暗殺者がこれであきらめるとは思えんからな。私は、自分の為に他人の血が流れる様など見たくはない」
 ザドゥは鼻で笑う。
「おいおい、俺がそんなに弱そうに見えるのか? 刺客に負ける程度の腕の持ち主だと」
「いいや、だが……」
 ルドレフは、少し逡巡した後、唇を開く。
「私の為に剣を振るうのは、本意ではなかろう? 先程から私に向けて放つ気は、敵に対する戦士のそれだ。守りたくない者の護衛を、仕事だと割り切ってするのはむずかしい。剣に乱れが生じる。結果、血を見る事になるのでは、と危惧したのだが……違うか?」
「!!」
 瞬時に、ザドゥの態度は豹変した。肩に担いでいた死体を放り、ルドレフの首を片手で掴むと、上着の内から取り出した短剣をその顎に突き付ける。もはや、殺意を隠そうともしなかった。
「何故わかる!?」
 牙をむき出しにした獣の勢いで、ザドゥは詰め寄る。首を掴む手に、力がこもった。ルドレフは苦しげに、眉を寄せる。
「お前は、何を知っている!!」
「……知らない」
 荒っぽい問いかけに、ルドレフはかぶりを振った。
「私は何も知ってはいない。さっき初めて会った相手の、何をどう知れと言うんだ?」
 ザドゥはギリッと唇を噛む。
「だったら、何で俺があんたを守りたくないとわかるんだ!」
「見ればわかる。自分の演技力のなさを棚に上げて、責めないでほしい」
「う……」
 淡々とした反論に、毒気を抜かれてザドゥは手を緩める。ルドレフは、ホウッと深く息をついた。それでも、爪先が床から離れかけている事実に変わりはない。腰に下げた大剣から大方の予想はついたが、とんでもない怪力である。
「それで、俺があんたを敵視して守る気が全くなければ、どうするんだ? あの爺さんに告げて、新しい護衛を雇うのか?」
 ザドゥは半ば自棄気味に問う。せっかくユドルフに近づく手段を得ながら、その異母弟にあっさりと敵意を見抜かれた己の迂闊さに、腹が立ってならなかった。
 だが、ルドレフの返した答えは、そんな彼を驚愕させるに充分であった。まっすぐにザドゥを見つめていた黒い瞳が、優しくなごむ。そして口元に、笑みが浮かんだ。
「護衛をする気がないなら、むしろありがたい。都までの道中、この国の事をいろいろと教えてもらえるだろうか。なにしろ私は、全く知らないんだ。ここに来てから外に出た事がないものでな。ザドゥは詳しいのだろう? よろしく頼む」
「な……」
 顎がはずれる寸前まで口を開け、ザドゥはあきれ果てて自分が捕らえている相手を眺める。信じ難い申し出に、頭の中は恐慌状態となった。
(何を考えているんだ、こいつはっ!)
 当の本人は、至って冷静である。伺うようにザドゥを見つめ、駄目か? と首を傾げて見せた。
「良い考えだと思ったんだが……。守る気もないのに護衛を引き受けた、って事は都に用事があったからじゃないのか? もしくは、私の向かう大公の居城に」
「おい……」
「つまり、私に利用価値があると思ったから雇われたのだろう。だったら別に構わないと思うんだが。私は護衛はいらない、と言ってる訳だし。心おきなく利用してくれていいんだが、何か問題があるのか?」
「あのな……」
 ザドゥは疲れを感じて、ルドレフの首から手をはずし、床に降ろした。次いで、顎に突き付けていた短剣も引く。ルドレフはにっこり笑って囁いた。
「交渉成立、だな。では、これはお返しする」
 つんつん、と脇腹に触れられ、ザドゥは下方に視線を向ける。そして絶句した。いつの間にか己の腰に下げていた剣が鞘から引き抜かれ、相手の手にあるではないか。
「お前……っ!」
「怒らないでくれ、返すから」
 音もなく、ザドゥの腰に剣を戻し、ルドレフは言う。
「死体の件だが、穴を埋めるのも任せて良いだろうか。爺にやらせては、ぎっくり腰になりそうで心配だ」
「あ、……ああ」
 ほうけた顔で、ザドゥは応える。
「お前……、とんでもない野郎だな」
「ルドレフ・ルーグ・カディラだ。お前という呼び方はなかろう?」
 ザドゥはポリポリと頬を掻く。
「まだ大公に息子として正式に承認される前から、カディラの姓を名乗るとは、いい根性だぞ」
 ルドレフの表情が、ふと翳りを帯びた。
「名乗っても良かろう。カディラは母の姓だ」
「あ?」
「ディアル・ディーグ・カディラ、母の名だ。先代ケベルス公の娘で、大公にとっては姉にあたる。母親は異なるが、な」
 ザドゥは頭を殴られた気分になった。まさか、と目の前の人物を彼は見る。
「ちょっと待て、それじゃ……。つまりお前は……」
 ルドレフは、力なく笑った。
「大公家の醜聞がまた一つ増える訳だ。生まれた時に殺そうとしたのもわかるだろう?」
 声を返せぬザドゥに、ルドレフは背中を向ける。
「着替えてくる。そろそろ出発せねば、麓に着く前に日が暮れてしまいそうだしな」
 背中ごしの呟きは、泣いているかのような響きがあった。
「………」
 見送って、ザドゥは唇を舐める。
「ふん……、こいつは面白い」
 がぜん興味が湧いてきた。血の大公が異母姉と子を成すような行為までしていた事を、国内で知る者はまずいまい。せいぜい城内の一握りの臣下が、耳にしている程度だろう。 諸刃の剣ともなる切り札を、ザドゥは握った事になる。大公がこの庶子の出自をうやむやにするつもりなら、事実を知る者は消されるだろう。しかし、旨く行けば逆に、脅しの種に使えるのだ。
(若様はやっぱり若様か。甘く出来てるぜ、そんな秘密を不用意に口にするとはな)
 けれども、そうした考えとは裏腹に、ザドゥはルドレフを気に入っていた。否、気に入りつつあった。
 人をその手で殺しておいて、何の動揺も興奮も見せず、剣士である自分の腰から、気づかれる事もなく商売道具を抜き取るような真似をするかと思えば、それをあっさり返して今のように迂闊な面を見せる男。
「面白い」
 再度、その言葉をザドゥは呟く。
(こいつは道中、退屈せずに済みそうだ)
 陽気に口笛を吹き鳴らすと、上機嫌で彼は床に放り出した死体を掴み、肩に担ぎ上げて運び出す。死者の恨めしげな眼は、気分に何の影響も及ぼさなかった。

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