断罪の瞳7《3》



 闇が、周囲に満ちていた。人を眠りに誘うような、優しい闇が。
「ケアス……」
 レアールは、困惑気味にその名を口にする。自分が闇の中、ゆっくりとではあるが流されているのを感じながら。そしてそれを必死に引き止めようとする、二つの手の存在も。「お前……馬鹿だな。無駄なのに……」
 言葉は、そこから暫らく続かなかった。
 ああした形で死を迎えようと決めたのは、むろん自分である。蜘蛛使いのケアスの見ている前で死のう、と。
 それは、レアールにしてみれば己の運命を変えた相手への、ささやかな復讐であったかもしれない。
 自分は出来損ないな訳ではなかったのだと、本来は側近候補生として妖力の使い方を教育係に一から教えられ、守られて育つはずの存在だったと妖魔界の王から聞かされても、彼の心に蜘蛛使いに対する憎しみは湧かなかった。そうだったのかと納得し、溜め息を漏らしたのみである。
 レアールは、そのように育ってしまっていた。他者を憎む権利など己にはなく、自分を傷つける者であっても憎む事は許されない。繰り返された暴力と辱めの日々の中で、支配する側の者達により心の奥底に刷り込まれた認識は、彼の内にあった憎悪の感情を封じ込め、表に出す事がない。
 代わりに、レアールには自身を責めて追い詰める癖がついていた。故に、事実を知った後の彼は思う。どういう生まれであったにせよ、己の過去は今更変わらないのだ。何があったか知っている連中を、全員殺して歩く訳にもいかないだろう。過去はついて回る。自分が生きている限り。
 だから、死んだ方が良い。思考はその一方向に流れた。
 死ねば逃れられると、自分の嫌悪せずにいられない過去から、何故、どうしてという思いから逃れられると信じて、レアールは王に申し出た。頼むから、もう死なせてくれと。 ただし、できればケアスの目の前で、ケアスに危害が及ばない形でと条件を付けて。
 王は了解した。だからケアスは無事なはずだった。あの空間が消滅する時、妖魔界に戻されるはずだった。だのに、まだその手がここにあり、衣装の裾を掴んで放すまいとしている。
 この状況を説明できる理由は一つだけだった。蜘蛛使いのケアスは、王によって保護されていた肉体から魂の一部を分離させ、自分を追ってきたのである。生と死の狭間であるこんな場所まで。
「ケアス……、あのな」
 言わねばならない内容は、レアールにもわかっていた。王のお気に入りの側近であるケアスは、帰してやらねばならない。彼には、その存在を必要としている者がいる。待っている者達が、故郷の妖魔界にいるのだ。このまま自分に付き合わせて魂の一部を引きずり込み、共に黄泉路を辿らせる訳にはいかない。
「……お前、どうする気なんだ? このまま俺といたら、間違いなく行着く先はあの世だぞ」
 二つの手は身じろぎしたが、掴んだ裾を放そうとはしなかった。
「だから……、なぁ言ったろう。俺はお前の為には生きられないって。言葉の意味が伝わらなかったか?」
 手は、更にきつく裾を握りしめる。それでレアールは、自分の口にした言葉の意味が蜘蛛使いへ正確に伝わっていたと知った。
「俺は、パピネスの為ならたぶん生きられた。あいつが生きている間だけは。生きる事を放棄したのは、相手が人間で……絶対先に死んでしまう存在だからだ。あいつが死ぬのを見たくないから、先に死ぬ事を選んだ」
 蜘蛛使いの手は、レアールの衣装の裾を放さない。流れに逆らい、彼をこの場に留めようと、叶う事なら生へ引き戻そうとしている。それでも、徐々に流れていくのは止められない。
「俺は、これ以上辛い記憶なんか増やしたくなかった。大事な者が死ぬ記憶なんか、断じて欲しくなかったんだ。ケアス」
 レアールは口を閉じる。どう言ったらわかってもらえるだろう、と彼は頭を悩ませた。こうした心理状態を、どのように語れば蜘蛛使いは理解してくれるだろう?
 過去の体験を全部暴露すれば、死にたいと願う気持ちはわかってもらえるはずだった。しかし、できればそうした事柄は口にしたくない。それは、己にとっても思い出したくない記憶であったから。
 故に彼が取った手段は、言葉による説得や理解を求める努力を投げ出して、掴まれている裾はそのままに衣装を引き裂き、蜘蛛使いの手から自由になる事であった。
 二つの手は、この突然の事態にうろたえる。行かせまいとしていた相手が逃れたのを知って、慌てて追いかけようとする。けれど流れはレアールを急激に手から遠ざけ、闇はその体を浸食し周囲に埋没させていった。
 蜘蛛使いの糸が、闇色に染まったレアールの足首に巻き付く。絶対に死なせまいという相手の意志を感じ、黒髪の妖魔は苦笑した。これがパピネスと別れた当時であったなら、自分は喜んで生きようとしたかもしれない。たとえ記憶を取り戻していたとしても、当時の肉体のままであれば。
 だが今は、もう駄目だった。ルーディックの魂が代わりに動かしている体、生きるという選択は、あの肉体に戻るという事である。自分とは少しも思えぬ、あの馴染み少ない肉体に。
 ルーディックは、耐えられるのかもしれない。自身のものではない肉体に入れられ、連日の如く異界の魔物に嬲られる状況下であっても。けれど、自分は駄目だった。耐えるより、死んだ方がましだったのだ。
 何より、どんなに酷い真似をされても傷つけられても、その相手がちょっと優しくしてくれれば嬉しくて、嫌な行為を嫌だと言えなくなる、拒絶できない性格の自分が許せなかった。余りに惰弱で、滑稽で醜悪。レアールという妖魔はやはり出来損ないであり、唾棄すべき存在としか思えなかった。
 パピネスの時にしても、拒絶できずにいた事があんな結果を招いたのだ。相手が八つ当たりで暴力を振るっている、それがわかっていながら、その事実を指摘し糾弾する事が自分にはできなかった。大人なら、当然すべき事であったのに。
 相手の間違いを指摘し、過ちを重ねさせないよう導くべきだったのに、自分はそれをしなかった。恋した少女を死なせたばかりで可哀想だからと眼をつぶり、その肉体が内包している能力故に苦しんでる相手を傷つけたくはないからと甘やかして、際限なく暴力を受け入れその精神を歪ませたあげく、とうとうあんな言葉を叫ばせてしまったのだ。
『何で抵抗しないんだよっ!』
『下手すりゃ俺、殺しちまうとこだったぞっ!』
『どうしてお前、そうなんだよっ?』
 つまり、パピネスにもわかっていたのである。自身の行動が間違っていると。けれど、修正するきっかけが彼には与えられなかったのだ。お前のしている事は間違っている、そう言ってくれるはずの相手が、不当な暴力に耐え続けてしまった為に。
 だから自分は罪深いのだ、と薄れていく意識の中でレアールは思う。己を相棒と呼び、妖魔と知りつつ側にいてくれた相手の精神を歪ませ、狂気へと向かわせたこの身は最低だと。
 パピネスが遠ざけたのも無理はなかった。こんな存在は正常な者にとって害にしかならない。罪の意識を抱きながら、それでも暴力を振るわずにいられない、そんな存在は。
 最も嫌いな自分自身を、惰性で生かしておきたくはない。故に彼は、自分で自分を断罪したのだ。生かしておく価値が己にあるとは、到底思えなかった。いくら蜘蛛使いが必死にすがり、生者の側へ留めようとしても、生きたいとは思わなかった。
 だから、彼はそれを実行した。
 ピンと張られていた糸が、突然たわむ。糸自体を切られた訳ではなかった。蜘蛛使いの糸は、ちゃんとレアールの足首に巻き付いている。
 切られたのは、その足だった。
 事ここに至って、蜘蛛使いの魂の一部たる二つの手は悟る。これ以上相手を止めようとしても無駄な努力だと。レアールは死にたいのだ。どうあっても死にたいのだ。たとえ自身を切り刻んでも。
 そうして、流れの中レアールは感じ取る。蜘蛛使いの気配が、この狭間から消失した事を。
(行ってくれた……)
 安堵して彼は眼を閉じる。もうこれで、気がかりとなるものは何もなかった。流れは速くなり、闇はレアールを包み込む。
 切り落とした足は大した出血もなく、痛みも鈍かった。苦痛がろくに感じられないという事は、殆ど死にかけているのだな、と思って彼は微笑する。ならば少なくとも、今後は己を嫌わずにすむだろう。そう考えると、少しだけ気は楽になった。
(………?)
 誰かの腕が、自分の肩を捉えている。ぼんやりとだがそんな気がして、レアールは閉じていた瞼を開く。
 赤い、髪が眼に映った。周囲の闇を払うかのように鮮やかな、見覚えある赤い髪。そして、ほのかに発光する身体。
(……パピネス……!)
 言葉は、声とはならなかった。喉の声帯機能は、既に失われていた。レアールは、夢中で腕を伸ばししがみつく。幻に違いない、懐かしい相手の体に。
「久し振り。やっと会えたか。迎えに行くって約束だったよな、レアール」
 ここにいる訳がない成長した姿のパピネスは、愉しげに語りかけてきた。記憶にある声より、それは少々大人びた響きを持つ。
「暗くてよく見えないけどさ、喉の痣……消えたか?」
 頷きながら、レアールは泣き笑いの表情になる。幻でも何でも良かった。今、パピネスがこの場に一緒にいてくれる事が、最高に嬉しかった。
「あの時は、八つ当たりして悪かったな。それと、絶対言っとかなきゃいけない事があった」
 幻でしかないはずの相手は、本物のような笑顔を浮かべ耳に唇を寄せて囁く。
「妖魔だろうと何だろうと、そんな事はどうでもいい。お前は俺の相棒だ、レアール。これまでも、これからも」
(…………)

 レアールは、涙が止まらなくなった自分に困り果てた。嬉しさを伝えたいのに声は出ないし、笑顔にもなれない。けれど、幸いにして想いは相手に伝わったらしかった。
「馬鹿、無理して笑おうとすんなって」
 額を指先で軽く弾き、パピネスは言う。その指の感触も声も、幻とは思えなかった。
「俺は、大人になったら迎えに行くって約束しただろ? いいからもう無理すんなよ。辛い時に我慢しすぎるのは、お前の悪い癖だ。わかるか? 俺はもう、お前に八つ当たりしなきゃ生きられなかったパピネスじゃない。だからさ……」
 口付けて、パピネスは告げる。もう聞き分けの良い大人の振りして、我慢なんかするのはよせ、と。
「今なら……、遅すぎたかもしれないけど、今なら俺はお前が泣いても、寄りかかっても大丈夫だ。ちゃんと支えられる。だから無理に笑う必要はないぜ、レアール。好きなだけ泣いちまえよ。貸してやる胸もここにある事だしさ」
(……いいのか?)
 声が出ない事も忘れて、レアールは問う。
 いいのか? 俺は寄りかかってもいいのか? 泣いても許されるのか、パピネス。本当にそんな権利があるのか?
 赤い髪の、もう青年と呼んで差し支えないハンターは、微笑みながら眼差しを向けている。その表情を見ている内に、レアールは納得した。素直に感情を面に出す事は、必ずしも悪い事ではないのだと。
 生きている者が怒りや悲しみを示したからといって、それは罪ではない。執拗に咎められる必要など、本来なかったはずなのだ。
 泣きたい時に泣いたからといって責める連中は、もういない。ならば、辛い時は泣いても良いのだ。嫌な事は嫌と拒否しても良く、自分に不当な危害を加える者とは、闘っても構わないのだ。たとえ相手が妖魔以外の存在で、結果的に殺すはめになろうと、身を守る権利は己にもある。自分の体を、心を守る為に闘う事は、罪でも、許されない事でもないのだ、決して!
 呪縛は、ここに至ってようやく解けた。幾重にも巻かれた心を呪縛する鎖は、この瞬間砕かれたのだった。
(パピネスっ!)
 歓喜する魂は赤毛のハンターを捉え、抱擁する。闇に浸食されていた体は今、相手同様光を放っていた。
「俺は、お前が八つ当たりを始めた時に、怒鳴りつけても良かったんだな?」
 失われたはずの声帯機能は復活し、言葉は確かな声となる。パピネスは、決まってるだろ、と同意した。
「お前が一人にさせてくれと言った時、嫌だと主張しても良かったんだな?」
「レアール……」
「俺は、嫌だったんだ。離れたくなんかなかった。お前の側にずっといたかったんだ。そうとも、八つ当たりで蹴られようが殴られようが、そんなのは慣れている。女の代わりにされたところで、我慢できない訳じゃなかった。相手がお前なら耐えられたんだ」
「おい、レアール」
「それより、一人にされる方が嫌だった。歩いていても隣に誰もいない、声をかけても応えを返す相手が側にいない、そんな状態は耐え難かった。気が狂いそうなほど嫌で……辛かったんだっ!」
 だったら何で? とパピネスは訊く。何で文句も言わず従ったのか、離れていったのかと。
「お前が……」
 涙で、レアールは声を詰まらせる。
「お前が一緒にいたくないと思っているのに、どうしてそれに逆らえる? 俺の存在がお前を歪めていると知りながら、側にいたいとは言えなかった。……けれどパピネス、俺は本当は、迎えに来るのを待ってなんかいたくなかった。いずれ迎えに行くと約束されるより、このまま側で耐え続けろと言われた方がましだったんだっ!」
「……あのなぁ」
 パピネスは前髪をくしゃくしゃに掻き乱し、あきれ果てて溜め息をつく。そんな殺し文句を今更言うのか、この馬鹿は。殆ど愛の告白に近いぞ、赤面ものだぞ、と。
「お前、そーゆー台詞を真顔で吐くなよ。知らない奴が聞いたら、自虐趣味でもあるのかと勘違いされるぜ」
「別に、苛められて喜ぶ趣味はないが」
 憮然としてレアールは呟く。
「だったら先刻みたいな台詞は口にするな。俺はあの当時お前をどう扱ったか、しっかり記憶してるんだからな。自分がやられる立場にいたら、間違いなく最初の数日でぶち切れて、蹴り倒した上重しを乗っけて、手足を踏み潰す程度の仕返しはしていたぞ」
 言われて、レアールは首を傾げる。
「……仮に蹴り倒したとしても、お前は俺を嫌わなかったか? パピネス」
「蹴られても仕方がない事を俺は毎日やってたろーが。非は全面的にこっちにあるのに、どうして嫌ったりするんだ? お前は俺のせいで、精神的にも肉体的にも多大な被害を被ったんだろうが。被害者が加害者を嫌うならまだわかる。けど、その逆は変だぞ」
 だからって、本気でお前に嫌われたら困るけどな、とパピネスは苦笑する。つられてレアールも笑い、それから暫し逡巡すると、思い切ったように相手の胸へもたれかかった。
「……パピネス」
「うん?」
「少し……こうしていてもいいか? もっと色々話したい気もするが、何だかすごく眠くなってきた」
「ああ、いいぜ。話ならまた後で聞いてやるよ」
 パピネスは軽く頷いて承諾する。背中に腕を回されたレアールは安心し、ゆっくりと瞼を閉じた。
 この時、彼は忘れ去っていた。自分が死ぬつもりでいた事、魂が死へと向かっていた事を。ここがどこであるかすら忘れたまま、黒髪の妖魔は眠りに落ちる。
 闇色の流れの中、レアールの幽体は徐々に輝きを失い、暗褐色に染まっていく。一方のパピネスが光を放ったまま全く染まらないだけに、それは異様な光景であった。
 やがて、完全に闇に染まった体は、末端から乾いた砂の如く崩れ周囲の闇と同化する。パピネスは、先程までと異なる沈痛な表情でその様を眺めていた。自分の腕の中でレアールの細胞組織が壊れ、消えていくのを。
 最後の瞬間まで無言のまま、抱きしめた姿勢を変える事なく、かつての保護者、そして相棒の死を彼は見送ったのである。生と死の、界の狭間で。

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