断罪の瞳7《4》



 ゲルバ国内の街や村を襲った妖獣達を追撃しては倒して回っている異国の妖獣ハンターと、その風変わりな連れに関する情報は、人間のみならず妖獣も耳にしたのだろう。彼等の行動パターンに、明らかな変化が起きていた。集団で襲いかかり住民をほぼ皆殺しにするまでやめないのは同じだが、襲撃先の規模が以前と異なっている。
 前は多くの人間が住んでいる領主の館がある街や、大勢の兵が駐屯している地域を集中的に襲っていたのだが、それでは途中で邪魔が入る、という事を学習したのかはたまた伝達されたのか、今では山間の小さな集落といった村ばかりを襲い、ハンターが気配を感知し駆けつける前に撤収するようになっていた。
 小さな村だから、僅かな時間であっても住民を殺すには充分、という事なのだろう。
 おまけに、最近では決して放っておく訳にはいかないやっかいなお荷物を残していくようになっていた。住民の中に赤ん坊や五歳未満の幼児がいた場合は、殺さず食べもせず、わざと無傷で放置していくのである。
 そして妖獣ではないルーディックとパピネスは、人道上孤児となった子供達を見捨てて任務優先と立ち去る事はできなかった。自然、追跡を諦めそれらの生存者を保護する形になる。
 だがしかし、不法入国者である二人にしてみれば、子供等をその地域の領主の元へ連れて行き、正直に事情を説明する訳にもいかないのだ。何せただ今停戦中であるにせよ、終戦条約はまだ結んでいないのだから、立場上は敵国の人間である。そんな彼等がのこのこと赴いて、「どーも、行きずりのハンターですが、妖獣の襲撃先からこの子等を保護しましたので後はよろしく」……と預けるのは、どう考えても無理だった。
 かくして二人は、泣いてる生存者をあやしつつヤンデンベールに連れ帰り、面倒を見てくれるよう周囲にお願いしたのだが、さすがにそれも五回六回と回を重ね、子供の数が二十人を超える事態になると、ザドゥの顔も引きつり気味になった。以前よりは態度が好意的になった城塞守護職のエルセイン子爵も、露骨な嫌味こそ口にしなかったが、「ここは国境を守る城塞であって、孤児院や託児所ではなかったと思うが、私の記憶違いだったのかな? ハンター」とやんわり釘を刺してきた。つまり、もうこれ以上孤児を連れ帰るのはやめろという事である。
 そこでルーディックは、ある朝寝ていたパピネスを起こして一つの手段を持ち掛けた。事情を記した手紙を事前に用意しておくのはどうだ? それを生存者の体に括り付けた上で、ゲルバの王宮内部へ送り込むのは、と。
「いくら何でも、孤児となった自国民を見殺しにして放り出す王族はたぶんいないと思うからな。少なくとも事実を確認するまでは、保護して面倒をみるだろう。で、俺がそれを行なってる間に、そちらは逃げた妖獣を追跡し退治する。そんなところでどうだ? 他に効果的な策がある訳でなし、悪い案ではないと思うが」
「……あのさ」
 普通の人間と異なる能力を持つ身ではあるが、一応人としての意識も常識もあるパピネスは、この提案に軽い頭痛を感じ寝癖でボサボサの髪を掻き乱した。
「確かに悪い案ではないけどな。普通その場にいないはずの子供が突然、しかも何人も王宮内に出現したら、ゲルバの人間も驚くと思うぞ。その点はどうするんだ?」
「知るか」
 ルーディックは、パピネスの懸念をあっさり一蹴する。
「知るかって……、おい」
「向こうの人間が驚いて騒ぎ立てようと知った事か。ぐだぐだ文句を言ったところで今更遅いぞ、ハンター。もうこれまでに保護した子供達は、昨夜遅く眠っている内に全員ゲルバへ強制送還してきたからな」
「なっ……何だとぉっ?」
 余りの驚愕に、眠気も吹き飛んだパピネスは椅子から腰を浮かせ怒鳴り付けた。
「ふざけるなっ! 何で俺へ事前に一言の相談もなしで、そんな勝手な真似をしたっ?」 乱暴に胸ぐらを掴まれ、抗議の怒声を浴びせられた相手は、怯む事なくきつい眼差しを向ける。
「勝手な真似? それがどうした。俺はなっ、これ以上自分の部屋の中に大量のおむつを干しておきたくなかったんだっ! おねしょでぐしょ濡れの悪臭漂う布団で目を覚ますのも、睡眠時間を削るのもミルクの世話もいい加減嫌気がさしたっ! 何より、男の身で母親扱いされるのはもう御免だっ! それが悪いかっ!」
「悪いかって……。だってさ、あんたは……」
 パピネスは気まずい思いで手を離し、口にしかけた言葉を呑み込んだ。その甘い体臭と長い髪、加えて滑らかな肌と細身の体に綺麗な顔、でありながら女に見られたくないと言うのはかなり無理があるぞ、と彼は思う。実際、女と見做すには高すぎる背丈と、明らかに男とわかる低めの声さえ持っていなければ、この客人を迎え入れたヤンデンベール城塞の面々とて男か女か判断に窮したに違いないのだ。裸にして確認したなら話は別だが。
 母親扱いされるのはもう御免、という主張に関しても言ってやりたい事はある。子供等に手作りおやつを与え、食事や着替えの面倒を見、衣服の大半を手縫いで作ってやりながらなつかれたくはない、と言うのは矛盾した話じゃないかと。どうかしてるぜ、全く。そう、赤毛のハンターは心の内で断言する。
 が、正直にそれを告げたところで余計な怒りを招くだけなのだ。ならば黙っていた方が利口というものである。それくらいの事はパピネスにも計算できた。昔から言うではないか。口は災いの元、なのである。
 とにかく、任務をこなした上帰ってからまで子供の世話では確かに神経が休まる暇もない。これが仕事とか、愛情があるなら話は別だが、そうでないならたまらないだろうと自身に言い聞かせ、パピネスは相手の勝手な行動を理解すべく努力する。既に実行に移された後では、文句を言っても意味がないので納得するしかなかった。
 けれども実際のところ、ルーディックは口にした理由より更に切羽詰まった事情があって、この案を実行に移したのである。なにしろ同じ肉体に棲み憑いている(住み着いている、ではない)……としか言えぬ存在の異界の魔物が、神経ささくれ状態の自分よりも遥かにこの現状に苛立って、爆発寸前だったのだ。
 孤児となった子供達は、温もりを求めて夜中も側を離れようとしない。故に、異界の魔物も夜毎の習慣となっていたお楽しみ行為を行なう訳にはいかなくなっていた。むろん、姿を現わす事も気配を放つ事も駄目である。子供は大人より遥かに人外の存在の気配に敏感なのだから。
 そんな状況に置かれた魔物が、面白いはずはない。実際、あと半日でも忍耐を強いていたら荒れ狂って子供達を皆殺しにしかねない状態だったのだ。否、それで済めばまだいいが、城塞そのものを吹き飛ばしかねない危険すらあったのである。
 ルーディックは、保護した子供達を異界の魔物に殺させる気はなかった。だから多少強引ではあったが、彼等の送還を昨夜の内に実行に移したのである。それも騒がれぬよう熟睡している時間を見計らって。
 ただ、そうした本当の事情を説明できない以上、周囲に身勝手な奴と誤解されるのは仕方がなかったし、ハンターから非難されるのもやむを得なかった。まあ、だからと言っておとなしく文句を拝聴する気はないのだが。
 それにしても、とルーディックは虚しい気分で溜め息をつく。何だってこれ程周囲や他人に気を使いながら、俺は身勝手呼ばわりされねばならんのだろうか? と。
「……でさ。おい、何だよ溜め息なんかついて。人の話聞いてんのか?」
「あん?」
 問われたルーディックは、我に返った表情で瞬きし、向かいの椅子に座るハンターを見つめる。その一連の動作を眺めてパピネスは、ちっと軽く舌打ちした。
「その様子じゃまるっきり聞いてなかったな。寝不足なのはわかるけど、他人の部屋で朝から眼を開けたまま寝ないでくれよ」
「いや、別に寝ていた訳ではないぞ」
「でも聞いてはいなかった。……そうだろ?」
「……それは認める」
 気まずい思いで頷いたルーディックは、気を取り直して尋ねる。何の話だった? と。 赤毛のハンターは寝台脇に置かれた小型の机の抽斗から、一枚の羊皮紙の地図を取り出すと、ルーディックに向けて放った。
「カザレントの大公からの貰い物だ。この大陸全土を描いた珍しくも貴重な地図。ただしイシェラが国として機能していた頃の物だけどな」
 イシェラという国家が消滅した為用済みとなったそれを、処分される前に譲り受けたとハンターは言う。
「だってさ、勿体ないだろ? 精密な地図なんて、一般庶民にゃ滅多に見られる物じゃない。ましてや、手に入る物じゃないもんな」
 まぁ、カザレントで作成された地図だからどこまで他国が正確に描かれてるかはわからないけれど、と呟きながらパピネスはゲルバの王都の位置を指で差す。更に別な指で自分達がいるヤンデンベールの位置を。
「あんたは、一瞬でここからこちらへ移動できる訳だよな。その気になれば」
「ああ。そこへ移動する為に必要な情報さえ与えてくれればな」
 気のない様子でルーディックは応じる。
「必要な情報ってのは?」
「地名、もしくは建物の名前。あるいはその場所の景色や具体的な様子を思い浮かべてくれれば、読み取って移動できる。……それで、いったい俺にどこへ連れてってもらいたいんだ? ハンター。どうやら任務とは関係ないようだが」
 図星をさされたハンターは一瞬虚をつかれた表情になり、次いで苦笑を浮かべた。
「朝食を済ませた後でいいし、特にどことは限定していないんだが……市とかで賑わってる場所がいいな。ちゃんと物を選べるような。あの二人、今日の午後にはここを発つって言ってたろ?」
 その言葉を聞いて、ルーディックの顔はたちまち曇った。まだ冬と呼べる季節に迎え入れた、ゲルバからの亡命者。大公家とイシェラ王家の血を引く少年ローレン・ロー・ファウランと、その護衛を務める駆け出しの妖獣ハンター、アディス。
 二人の最終目的地はカディラの都だったが、そこへ赴く旨を大公代理に伝え正式に受理された後も、かなり長きに渡ってこの城塞に留まっていた。季節が冬から春に変わり、そして初夏を迎えようという現在に至るまで。
 原因は、妖獣から受けた傷が治った後も一向に体力が回復の兆しを見せなかったローレンにある。数ヶ月が過ぎた今も彼は、健康体とは言い難かった。その顔色を見ただけで、周囲が病人扱いする程に。
 けれども、当のローレンは言う。いつまでも皆さんのご好意に甘えている訳にはいかない、これ以上のご迷惑はかけられない、と。
 本来なら、大公の居城に元イシェラ国王ヘイゲルや公妃セーニャが居る内に行く予定だったのだ。そうすれば、母方の祖父や血縁者である公妃を頼ってゲルバから亡命してきた子供、という立場で済む。
 だが、健康状態が回復せぬまま寝台に横たわり日々を過ごしていた間に、少年は行くべき時期を逸してしまったのだ。大公ロドレフの身柄を預かる目的でカディラの都を訪れたプレドーラスの一行は、次期大公クオレルの提案に従って毒が全身に回り死体同然の大公ではなく、ヘイゲルとセーニャの二人を連れ去った。イシェラ全土を手に入れる、その野望を達せんが為に。
 そして身内の二人がいない今カディラの都に行くローレンは、敵国ゲルバの出身である以上大公家の血を引いている事実を明らかにせねば身の置き所がない。そういう微妙な立場に立たされてしまっているのだ。然るに、大公家の側から己の立場を確立しようとすれば、彼は認めねばならなくなる。自分がユドルフ・カディラの息子である事実を。
 甥である父が叔母にあたる母を遊びで強姦した結果生まれた子供、それが自分であるとカザレントの臣の前で宣言せねばならないのだ。そうしなければ、ローレンは大公の居城に存在する事を許されない。
「……だったら何も無理して都へ行かなくても、ここにずっといれば良いのに」
 ぼそりとルーディックは呟く。その思いは、城塞内の他の面々も同じだろう。ヤンデンベール城塞の住人達は皆、運命共同体であり擬似家族、といった意識を抱いている。ゲルバからの亡命者ローレンとアディスもその例外ではない。つまり、ここにいればローレンは、辛い思いをせずとも居場所を与えられるのである。
「その好意に寄りかかり甘え続ける事が、あの坊やには負担になってんだろ。なら、行かせるしかないさ。当人が選んだ道だ。周囲が口出しする事じゃない」
 赤毛のハンターは突き放した見解を口にし、不機嫌に眉を寄せたルーディックの額を弾く。彼としてはむしろ、受け入れる側のクオレルの心情の方が気掛かりだった。
 ユドルフ・ユーグ・カディラ。誰からも望まれず生を受けた、人の姿をした獣。没してなお、彼が巻き起こした災厄は広がり続け死地となったイシェラを、生国カザレントを、そして周辺諸国を汚染している。
 そんな男の息子を近親として引き取らねばならぬ立場の人間は、いったい何を思い、どう接するだろうか?
 ローレン・ロー・ファウラン自身の資質や性格は、この際全く関係ないのだ。彼は少なくとも義理の叔父から愛され、守られてまっすぐ育った人間であり、自分の具合が悪くても他人に気配りができる善良な子供である。
 けれど、そうした事はカディラの都の人間にしてみればたぶんどうでも良いのだ。問題はローレンがユドルフの息子であるという事実、その一点にある。
 それは、負の遺産だった。ローレンという少年がどれだけ努力したところで払拭しきれない、ユドルフが残した負の遺産であった。
 パピネスが知る限り、次期大公クオレルはユドルフの名を聞くだけでおぞましさに身震いする程、この同じ母を持つ男を嫌っていた。ユドルフ本人には一度も会った事がないにも関わらず、である。子供の頃周囲の大人達から聞いた噂話と、大公の傍へ仕えるようになってから眼にした公文書に記されていたユドルフの過去の所業、それだけで充分だったのだ。前大公ケベルスが己の息子の妻に手を出し生ませた相手に、憎悪と嫌悪の念を抱くには。
 そうした負の感情を持ったままローレンと対面したのでは、良い結果を生まないとパピネスは懸念する。
 一国を肩に背負おうというクオレルだ。馬鹿ではない。どちらかと言えば聡明な方である。けれども他者に対する嫌悪の情は、理性や知性で割り切れるものではない。それは、別段クオレル一人に限った事ではなかったが。
 大公の臣下は、カディラの都の住人は、カザレント国民は、ユドルフ・カディラを憎んでいる。既にイシェラ王家の手によって自業自得の死を迎えた存在と知りながらなお、憎悪の念を消せずにいる。今後も、その念は消えないだろう。彼等がユドルフという罪人を許す事は、記憶が完全に風化しない限りないのだ。
 ローレン・ロー・ファウランがこれから赴く場は戦場だった。心理的な苦痛を伴う、戦場だった。憎まれるのは彼のせいではない。彼に罪はない。だが人々はユドルフへの嫌悪感と憎悪を引きずったまま、あの少年に接するだろう。言葉で、眼差しで、態度で傷つけるだろう。それが無意識であれ故意であれ。
 そしてローレンは、ファウラン公爵家の一員として生きてきた少年は、たぶん人々のそうした悪意を理不尽と怒る事なく受け止める。やり過ごすのでも聞き流すのでもなく、真摯に受け止め、気に入られるよう努力するのだ、おそらくは。
 自分を見てもらおうと頑張って、遺伝子を提供しただけの父を憎む者達の心を理解しようと努めその結果、精神も肉体も徐々に壊れていくだろう。かつて自分の八つ当りに付き合い続けたレアールがそうであったように。
 どんな健康な体や精神でも、不当な攻撃を受け続ければ蝕まれ、病んでいくのだ。そんな事態はできれば避けたい、とパピネスは思う。周囲が皆敵に回れば、ローレンの健康状態が急速に悪化するのは間違いなかった。だが、もしも味方が側に一人でもいれば、最悪の事態だけは何とか避けられる。
 大公大事でユドルフ嫌いのクオレルを、完全にローレンの味方にするのは無理だろう。しかし、負の印象を減らして多少の好意を向ける程度の改善ならば可能なはずだった。クオレルの自分に対する感情を承知の上で利用する事にはなるが、一人の少年の心と体を守る為と許してもらうしかない。そう、ハンターは決断する。
「それで、思うんだけどさ。嫌いじゃない人間から贈り物を貰って悪い気がする奴は普通いないよな? 俺、次期大公殿にどっちかと言えば好かれてる自信はあるから、この際それを利用して、ローレン坊やの後押しをしてやろうかなーと……」
「後押し?」
「ん、手紙と贈り物を持たせてやって、渡し役をやらせんだよ。そうすりゃ少しは態度軟化するかもしれないし」
 ルーディックはふぅん、と顎を掻きつつ考え込む。
「それは良いかもしれないが、一つ問題があるな。大公家の跡取りが貰って嬉しがるような物を購入するだけの予算など、今すぐ用意できるのか? ハンター」
 あまりと言えばあんまりな台詞に、パピネスは顔を顰め天を仰いだ。
「あんたも顔の割に朴念仁だな。なら聞くけどさ、例えばある日好きな相手が川原で拾った石を磨いて色を塗った物をくれたとする。同じ日に、好きでも何でもない相手が高価な宝石を贈ってくれた場合、人はそのどっちを嬉しく思い大事にする?」
「そりゃ……」
 もちろん好きな相手がくれた石の方だ、と即答しかけてルーディックは納得する。宝石には価値があり、川原の石には価値がない。それが世間の常識というものだろう。けれど好きという感情は、そんな常識や基準など簡単に蹴散らしてしまうのだ。
「……なるほど。どうやら野暮を言ったらしいな」
 呟いて、ルーディックは赤毛のハンターをまじまじと見つめ首を傾げる。
「しかしハンター。俺は次期大公と一度も会った事がないので余計な意見かもしれないが……、石ころでも嬉しいと思われるくらい相手に好かれているというその自信は、いったいどこから来てるんだ?」
「おい……」
パピネスは脱力し、前髪を掻き毟った。
「あんた、とことん失礼な奴だな。……ったく、誰が本当に拾った石ころ贈るかよ。んな訳ねーだろ?」
「違ったのか?」
 真顔で馬鹿言うな、と言いかけたところへ追い打ちの如きこの台詞である。元々長くもなかったパピネスの堪忍袋の緒は、これで切れた。ぶっちりと切れ果てた。
「いっぺんくたばれっ! このど阿呆がっ!」
 怒鳴った声と突き出した拳は、ほぼ同時であった。





 当然だが、パピネスはクオレルに川原の石を贈ろうなどとは考えていなかった。いくら何でも、それでは余りに甲斐性がない。ハンターは決して裕福ではなかったが、だからと言って懐に余裕が全くない訳ではないのである。
「それで賑わっていて物が選べる場所なのか」
 客寄せの声が左右からかかる市場の通りを眺めつつ、美貌の青年は納得して頷く。隣を歩くハンターは、まだ朝の一件による不愉快さを顔に残したまま、それでも装飾品関係の品を扱っている店を見つける度、陳列された商品にざっと眼を走らせ、購入候補に加えるか否かの選定を行なっていた。
 彼等が訪れたのは、イシェラをめぐる争いに全く関係のない遠方の国、大陸の西北に位置する王国メイガフの、内陸部の地方都市だった。
 妖獣ハンターになる以前から各地各国を転々と渡り歩いていたパピネスも、こちらの国までは足を運んだ事がない。ハンターの需要がない国、という訳ではなかろうが、足で歩いて訪れるには遠すぎたのだ。
 そういう遠方の国だからこそ、普段お目にかかれないような希少価値がある品が手に入るかもしれない、と主張して来てみたのだが、カザレントやその周辺国では見られない珍しい物だらけというのは嬉しい誤算であった。
 なにしろ同じ大陸にありながら、険しい山々に囲まれている事もあって他国と交流少なく、独自の文化を築いてきたメイガフである。まず建物の形と材質が違う。行き交う人々の衣服も違う。視界に映る大半の者が黒い髪というのも、この大陸では珍しい。女性達の髪型も、カザレントや周辺の国とは大きく異なる。奇妙だが美しい、それがパピネスの抱いた感想だった。
 衣装や髪型が異なれば、当然装飾品の方も見慣れぬ形の物となる。しかしそれらは皆、女性達の髪型同様珍しいなりに美しかった。そうなると今度は、目移りして候補を一つに絞れない。あれも良い、これも綺麗だと迷うばかりなのである。
 そもそもハンターにしてみれば、他人に贈る何かを買うという行為自体、滅多にない体験なのだ。ルーディックの存在を意識しても、こうワクワクしながら不機嫌を引きずり続けるのは、いいかげん不可能だった。
「……なあ」
 そんなパピネスの様子を窺いながら、ルーディックは躊躇いがちに話しかける。
「また余計な事を言って今朝みたいに殴られるのは、俺ももう御免なんだが……」
「顔は避けてやったろ? で、何だよ」
視線は陳列された商品に向けたまま、赤毛のハンターは応じる。ルーディックは声を潜め、その耳元へ囁いた。
「どうしてさっきから女性向けの装飾品ばかり見てるんだ? 男がそんな物貰ったって、意味ないだろうに」
「………」
 相手の脛を蹴り飛ばす寸前で、どうにか堪えパピネスは溜め息をつく。ルーディックが知っているのは、次期大公クオレルという呼び名のみである。それで男と思い込むんじゃないと主張しても、言うだけ無駄だろう。大公はクオレルを跡継ぎと定めた後も、その本名を公表しようとはしなかったし、公女であるとも言っていない。
 クオレル自身も、性別を明らかにする素振りはなかった。世間の誤解は承知の上で、黙認し続けている。
 ならば真実は、今も秘密に属するのだ。侍従として仕えていた頃と同様に。
「あのさ」
 迂闊だったな、と反省しつつパピネスはルーディックの耳へと口を寄せる。
「これ、内緒だからな。……女なんだ」
「………」
 妖魔界の王の側近は、驚きに眼を丸くする。それでもさすがに、誰が? と尋ねはしなかった。
「他言は無用だぜ? いいな」
 コクリと頷いた相手の手を軽く握って、ハンターは感謝の意を示す。
「……そういう事情なら、見える場所に付ける髪飾りや耳飾りよりは、衣装の中に隠せる品の方がいいんじゃないか? 指輪なら、デザインの差こそあれ男女の別なく付ける物だが、誰から貰ったのかと周囲に詮索されては気の毒だし、サイズが違ってたらがっかりされて事だ。大抵の場合、女性は好きな男からの贈り物なら、常に身に付けていたいと考えるものだしな」
「そういうもんか?」
 疑わしげに問われて、美貌の青年はほろ苦い笑みを浮かべる。
「実例があるぞ。死んだ妻は、付き合い始めた頃に俺が髪留めを贈ってからというもの、それしか付けようとしなかった。地味なデザインの安物で、おまけに似合いもしない品だったのにな。他に自分で買ったリボンや、別な男から貰った髪飾りをいくつも持っていたくせにだ」
 あんな事なら、多少無理をしてでも髪の色に似合う高級な品を選ぶんだった、とルーディックは笑う。その言葉に赤毛のハンターは絶句し、同情の眼差しを向けた。
 彼は知っている。目の前の妖魔の青年の妻が誰の手によって殺されたかを。その男と同僚として付き合わねばならぬ相手の心情を思って、パピネスは暫し沈黙した。
 だが、歩き出したルーディックはそうしたハンターの配慮も知らず、自棄的な笑みを見せたまま呟く。
「だのに今もこうしてしぶとく生きている俺は、最低な事に妻の髪がどんな色だったか思い出せないときてる。それどころか、顔さえ覚えちゃいないんだ。綺麗さっぱり忘れてしまってる。……酷い話だろう?」
 妻子がいた記憶はある、思い出は残っている。けれど肝心の相手の顔が、姿が思い出せない。名前すら忘れてしまっている。薄情な奴だ、とルーディックは顔を歪め自身を罵った。お前の妻でなかったら、お前の家族でさえなかったら、あの二人は平穏な生を全うできたはずなのに。
「今度蜘蛛使いに会ったら、是非とも文句を言ってやらねばな。全く、何だってあいつは俺が、妻子の顔を覚えている内に殺してくれなかったんだか。ちゃんと殺してくれていれば、まだ二人に対して申し訳が立ったものを」
 不意に、ルーディックは足を速めてハンターの側から離れ、遠ざかった。彼は覚えていた。死ぬなと自分に呼びかけたのは、ケアスの姿をした蜘蛛使いだった事を。
 正気ではなかったのに、あの時はもう半分死にかけていたはずなのに、どうしてかその記憶だけは鮮明に残っている。死ぬなと叫んで、泣きながら自分を抱きしめたのは、百年傍らで時を過ごしたケアスではなく、仇なはずの蜘蛛使いだった。
 どうしてだろう、とルーディックは苦笑する。愛した妻子の顔は忘れてしまっているのに、どうしてこんな余分な記憶は残っているのだろう? あいつは淋しかったのだと、あの時自分は理解してしまった。そんな過去の思いを何故、今も忘れず覚えているのだろうかと。
「おいっ!」
 雑踏に残されたパピネスは、慌てて人の流れの向こうへ消えた相手を追いかける。けれど、見知らぬ街の入り組んだ通りは迷路も同然で、たちまちの内に彼は妖魔の青年を見失った。
「……そういうのは、駄目だ」
 急ぎ足で行き過ぎる通行人に障害物扱いされながら、赤毛のハンターは呟く。
「本気でそんな事、願っちゃ駄目だ。言うんじゃない」
 この場にいないルーディックに向け、彼は告げる。
「自分が死ねば良かったなんて、絶対に願うな。そいつは駄目だ」
 声は徐々に大きくなる。いない相手に届けとばかりに。
「生きてる事を罪だと思うんじゃない。少なくともあんたは、その手で自分の大事な者を殺した訳じゃない。だけど俺は」
 言葉を切ると、パピネスはルーディックの居場所を掴もうと意識を飛ばし探索する。だが、周辺を探ってみたものの気配は感じられなかった。それ故、彼は言いかけていた言葉を呑み込む。
(俺は、あんたと違って被害者じゃない。自分で相手を殺した加害者なんだ。一人はこの身の持つ特殊能力で肉体を破壊し肉片に変え、もう一人は暴力で追い詰め精神を壊して死なせちまった。妖魔の能力で助かったにせよ、一度は間違いなく死なせた。俺が殺したんだっ!)
 だから恋はできない、もう二度とできないとパピネスは思う。その人だけが大事で、他の誰を傷つけようが殺そうが構わないと感じるあの狂気に似た想い。あんな獣じみた、理性も何もかも吹き飛ばす狂暴な感情を持つ訳にはいかない、と。
 カディラの都にいる男装の次期大公を、好きだとは感じていた。愛しいと思っていた。けれど彼女への想いは恋ではない。断じて恋などではない。
 赤毛のハンターはうつむき、血が滲むまで唇を噛む。彼の声なき叫びは、誰の耳にも届かなかった。


 どうしてあんな事を言ってしまったのか、と異界の魔物に身を任せながらルーディックは思う。レアールの相棒だったとはいえ己とは無関係なはずのハンターに、何故自分は妻との思い出を語ったりしたのだろう……?
『やめにする。そろそろ帰った方がいい』
 極彩色の巨大な、異形の獣としか見えぬ姿をとっていた異界の魔物が、本来の霧へと戻っていく。珍しい事もあるな、とルーディックは気のない声を返した。お前がお楽しみを途中でやめるとはどういう心境の変化だ、と。
『心ここにあらずな奴を相手にして、楽しいと思うか?』
「……そいつは悪かった。ガーラム」
 素直に詫び、乱れた髪を手櫛で梳いてルーディックは粗末な寝台から身を起こす。メイガフのあの都市で、体内の魔物が現われようとするのを感知し咄嗟に移動した先が、このゲルバの廃村だった。妖獣達に襲われ、住民が一人もいなくなった村。ここでなら最後まで寝台でやれると、極彩色の魔物はご満悦だった。それが途中でやめるくらいだから、余程自分は上の空でいたらしい。
 ガーラムという名を得た異界の魔物は、姿を模る時以前とは違っていた。前は子供が作った出来の悪い人型の、極彩色の泥人形もどきだったのが、今は獣と鳥と人間の各部を合体させたような妙な姿に変化している。と同時に、以前はできなかった事もできるようになっていた。
 その現象は、任務の際ゲルバでこの魔物が生きた妖獣を何体か取り込んでしまった事に起因していると思われたが、ルーディックに深く追求する気はなかった。
 とにかく、現在の異界の魔物には爪や舌があり皮膚がある。そして別行動可能な肉体があった。もちろん、完全に分離する事はないのだが、繋がっている部分が眼に映らず、意識もされないのだから別の個体と言って良い。行動後、最後は必ず体の内に戻る事を除けばだが。
「まあ、戻る頃合いではあるな。出発の時間も迫ってるし、いつまでもハンターを放っておいてはまずいだろう」
 疲労が回復したところで衣装を身に付け、長い髪を後ろで一つに束ねると、支度が整うのを待っていたガーラムはぶつくさ文句を言いつつも器の中へと戻った。今夜はちゃんと自分を見て付き合え、と念を押しながら。
「今夜もう一回か? 飽きない奴だな」
 溜め息をついて、ルーディックはハンターのいるメイガフの地方都市へと移動した。
 人目を避ける為に狭い路地の陰となった暗がりへ出現すると、眼を閉じて先刻のパピネス同様意識を飛ばし、置き去りにした相手の気配を探す。
「……?」
 ルーディックは不審に思い眉を寄せる。気配は、微弱だが感じた。が、微弱であるという事実が引っ掛かる。日頃あの赤毛のハンターが発している気は、当人が隠そうとしない限り意識せずとも感じられる程強いのだ。
 だのにそれが今は、消えんばかりに微弱である。胸騒ぎを覚え、ルーディックは気配を感じた方向へと駆け出した。どうか気のせいであってくれと願いながら。けれど、そうした願いは往々にして裏切られるものだった。
「!」
 市場の通りは、先に見た平和な様子が一変していた。荷崩れを起こした屋台、怪我をしてうずくまる人々。意識を失った我が子を抱え、泣き喚く母親。怒り叫ぶ男達。
「何があった?」
 血相を変え問うルーディックの髪と風体を見て、街の住人らしき一人の老人が反応を示す。
「ああ、あんたその髪の色と妙な装束はもしや旅の人かい? なら、あの赤い髪の御仁と知り合いかね」
「連れだ。そいつはどうした? どこにいる?」
 気の毒に、と老人は呟き祈りの仕草を見せる。
「髪が目立っておったからなぁ。ちゃんと端へ避けたのに、わざわざ馬首を向けて突っ込んできおったわい」
 近くにうずくまっていた、怪我人の中年女が叫ぶ。
「御領主んとこの若様と取り巻きの一団が、騎馬で市場を突っ切ったんだよ。それでこの有様さ。赤い髪のあんたの連れなら、槍で突かれてそのまま引きずられてったよ。運がよけりゃ、その辺に転がってるだろうさ」
 それだけ言って、女はルーディックから眼をそらす。周りの者達も、下手な慰めの言葉はかけようとしなかった。彼等の半数は目撃してしまったのだから。突き出された槍が、不運な異国人のどこを貫いたかを。
 けれど、そうした人々の沈黙という思いやりは正直無駄であった。妖魔の能力は、精神感応という形でルーディックに見せてしまったのである。
 向かってくる馬、騎手が繰り出した槍。……突き刺された箇所は、喉だった。

『断罪の瞳』7・了