断罪の瞳7《2》



「王が見つかったですって?!」
 その予期せぬ知らせに、ゲルバ王妃エルセレナは危うくスープ皿の中へ手にした匙を落とすところだった。前国王の侍従ロトは、興奮に顔を紅潮させ、震えながら肯定の言葉を口にする。
「はい。たった今、ケリアの街から書状を携えた使者が辿り着き、そのように申したと連絡がありました。それ故、こうして無礼と知りながらお食事中のところへ報告に参った次第です」
「ケリア……」
エルセレナは、王都に戻ってから数日で頭に叩き込んだ各領地に関する資料の記憶を探る。
(ケリア、……ケリアね。ええと確か王都から西側に位置する街で……)
「刺繍入りの小物や、美麗な模様の織物を安価に生産してる街ね。国内で一番羊が多く飼われている地域で、国立孤児院が八番目に建設された場所でもあるはず。距離的に王都からそう近くはないけど、そんなに遠くでもない土地……で良かったかしら」
はい、その通りでございますと初老の元侍従は答える。
「そこにあの夫がいると? 将校等に攫われたという話だったわね。怪我とかしてはいないかしら? 御無事で発見されたの? ああ、とにかくまずはその使者と直接会うのが先だわね。支度をするから、控えの間に通しておいてちょうだい。余り待たせはしないわ」
 眉を寄せつつ、エルセレナは指示を出す。行方不明のゲルバ国王オフェリスが、怪我もなくピンピンした状態で見つかったというなら、彼女としては誠にありがたくない話であった。なにしろ過去が過去である。できれば死体になってから見つかってほしかった、というのがエルセレナの偽らざる本音だった。
 ところが、いざケリアから駆け付けた使者と対面すると、どうもオフェリスは必ずしも無事という訳ではないらしかった。
「いえ、お怪我とかは特にないそうなのです。陛下本人がそのようにおっしゃってましたから。ですが……」
 使者は苦悩の表情を浮かべ、心苦しそうにその事実をエルセレナに告げる。
「ですがその、どうも行方不明の間に忘れ病にかかったらしく、御自分がこの国の王である事を少しも思い出しては下さらぬのです。皆必死で思い出させようと努力はしてるのですが、成果は一向に上がらず……」
 もはや、妻である王妃様におすがりするより我々に術はありません。どうか陛下をお迎えに、ケリアの地までおみ足をお運び下さいませ。そして何とかあの御方の説得を。そう嘆願し、使者は深々と頭を下げる。
(ちょっと、またなの? いい加減にしてよね。私は貴方達専用の、何でもこなす便利屋じゃないのよ)
 うんざりして額を押さえ、エルセレナは心の内でぼやく。本当にこの国の人間ときたらどいつもこいつも他力本願、他人任せなんだから、と。
(忘れ病だというなら、いっその事永久に忘れさせておけば良いじゃない。はっきり言って、その方がずっとゲルバの為になるわよ。あの男の場合)
 とはいえ、生きて見つかったのなら放置しておく訳にはいかなかった。なにしろ相手は一応この国の王である。いない方が遥かにましな愚か者のろくでなしでも、取り合えずは王なのだ。行方が知れぬ間はプレドーラス出身の王妃に従っていた者達も、発見された以上は王の帰還を望むだろう。建前としては。
 仕方がなかった。自分の努力が正当に評価されぬまま無に帰す事になるのは耐え難かったが、結局そういう仕組みになっているのだ、世の中は。
「それで、本気であの王を迎えに行かれるおつもりなのですか? エルセレナ様」
 プレドーラスから付き従ってきた女官ノエラが、嫌悪の念を隠しもせず尋ねる。エルセレナは肩を竦め、そうするより他にないでしょう、と答えた。だって私は所詮よそ者だもの、と。
「エルセレナ様っ!」
 女官の非難の叫びに、エルセレナは口元を歪めて振り返る。

「迎えには行くわ、ノエラ。当人が自身を王と認めず王都への帰還の誘いにも応じようとしない以上、私が直接行って連れ帰るしか手はないのでしょうし」
「ですが……!」
「ただし、戻る途中で事故がないとは限らないわね。そう、運よく怪我もなく見つかった王だけど、帰還途中でいつものように一人勝手な行動を取って、皆とはぐれる事はあるかもしれないわよ。うっかり川に落ちたりする可能性もね」
「………」
 主が言わんとしている事を、女官は正確に把握する。つまりエルセレナは、オフェリスが以前のままの馬鹿王であれば、王都に戻る前に事故に見せかけ暗殺する覚悟で迎えに行こうというのだ。
「……わかりました。では、どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ。御身だけは、何事もなく無事にお帰りになりますように」
 少女の頃からの付き合いである女官の言葉を、エルセレナも正しく理解する。ばれないように巧くやって下さいね、と言っているのだ。二人の女は視線を合わせ、共犯者の笑みを浮かべる。
「成果を期待していて。ノエラ」
 謁見用のドレスよりは動きやすい衣装に着替えた王妃は、そう宣言して私室を出ると、数日間留守にする事を伝えるべく娘の部屋へ向かった。
 本来ならばケリアまで気心の知れたノエラを同行させたいところだったが、それをやっては後に不安が残る。
 なにしろ現在王宮にいるのは、昔王宮勤めだったという年寄りの元侍従や、高齢の元侍女だった者ばかりなのだ。現役は一人もいない。
 衛兵に至っては、正規の兵士が例の反乱騒ぎで殆ど殺されてしまった為に、兵士見習いだった訓練途中の十三歳から十五歳の少年達を動員し警備にあたらせている状態である。腹心の部下を残さねば、とても安心して留守にできる状況ではない。
 とにかく、できるだけ急いでケリアから戻る事ねと決意して、エルセレナは王宮を後にした。
 政務に携わる者が、あまり長く王都を留守にする訳にはいかない。そうした王妃の主張によって、ケリアまでの道行きは男でもきつい強行軍となった。領主の命令を受け王宮を訪れた使者も、護衛の兵士達も次々に馬を乗り換え、七月とは到底思えぬ雪景色の中、一路ケリアの街を目指す。
 エルセレナの乗った馬車も、停車場に着く度引き馬を替えていた。おかげで、冬場なら通常馬を使っても三日はかかる行程を、半分以下に短縮し到着したのである。
「これはこれは王妃様、かようにお早くこの地へ参られるとは思いませんでした。ささ、お供の皆様もお疲れでしょう。まずはこちらへ。ちょうど昼食の用意もできている事ですし……」
 先触れを受けて出迎えに出ていたケリアの領主は、己の城館の門前に王家の紋章を彫り込んだ馬車を迎えた事で、ひどく上機嫌だった。だが、ここへ来るまでに破壊された三つの門と、生きている者の姿が見えない静まり返った街を窓から眺めてきたエルセレナは、そんな俗物的対応をする領主の態度に眉をひそめる。
 それ故、彼女は単刀直入に用件を切り出した。ここまで馬を急かしながら休む間も惜しんで駆け付けたのは、何もこんな男と昼食を共にし、世間話をする為ではない。
「夫は、こちらの城内におりますの?」
「は? あ……、いえ」
 にこやかだった領主の顔は、途端に引きつったものに変わる。
「ではどちらに?」
「はあ、その……小貴族の館が建ち並ぶ居住区の方におられます。目の前に平民居住地があるような、環境上あまり良いとは言えぬ場所に……。もちろん、何度も我が城館へ移られるよう説得したのですが、残念ながら聞き入れては下さらず……」
「ならば、私もそちらへ参るとしましょう。どなたか案内をお願いできるかしら」
「お……王妃様があの場所へ行かれるのですか!」
 焦る領主に一瞥をくれ、エルセレナは頷く。
「し、しかしですな。あそこは王妃様のような高貴な方が、足を踏み入れて良い地域では……」
「でも、そこに夫はいるのでしょう」
「はぁ、それは確かにそうですが……。いやしかし、あの場所はですな……」
 煮え切らない領主の態度に、エルセレナの眦が上がる。
「案内して下さるの、して下さらないの? 私は答えを求めているのです。はいかいいえか、二つに一つ。男ならはっきりおっしゃいなさいっ!」
 辺りに響き渡る鋭い声に、領主は肝をつぶして引っ込んだ。代わりに、年若い従者姿の青年を前に出す。
 平民のように髪を短く切った青年は、ゲルバ貴族の正式な作法に則ったお辞儀をエルセレナにして見せると、敬愛の眼差しを向け微笑んだ。
「父が失礼を致しました、王妃様。陛下のおられる場所まで、私ラウドが御案内させていただきます」
「父? あら、でもその格好は……」
「ああ、この髪と服ですか?」
 エルセレナが何を言いたいのか察した青年は、苦笑し説明する。
「正確には、以前は父だった御領主様が失礼を致しました、となりますね。私は勘当された身ですから、今はこの通り単なる労働階級、この城館の召し使いです」
 一年前亡くなった妻が、平民の出なんですよ。そう、あっさりと彼は言う。つまりこの若者は、少年時代に平民階級の少女と出会い恋をして、相手と一緒になる為に領主の息子の地位を捨てたのだ。そして妻を亡くし連れ戻された今も、平民のままであろうとしているらしい。
 骨のない連中が多いゲルバの有力貴族の中では、実に希有な存在と言えた。お見事、とエルセレナは心密かに拍手を送る。
 勘当前の名前はラウド・ロー・ラジルですと名乗った青年は、慣れた手綱さばきで路上の瓦礫や遺体を避けつつ馬を進ませ、エルセレナの馬車と騎乗の護衛兵士達を誘導した。「書状にも書いてあったけれど、どうやらこの街の住民は殆ど殺されてしまっているようね。その割に貴方の父君や館の召し使い達が無事なのは何故?」
 揺れる馬車の窓から顔を突き出して、エルセレナは問う。振り返ったラウドは、意外な答えを返した。
「妖獣の襲撃と聞いて、父は城内の隠し部屋に、我々は緊急時用の地下通路へ避難していたんです。大した時間稼ぎにはなりませんでしたが、幸い見つかって殺される寸前、妖獣ハンターが現れ助けてくれました。そして彼は、街で殺戮を繰り返していた妖獣をついでだからと倒していってくれたんです。同行の呪術師と共に」
「妖獣ハンター? 本当なの? この国にはもういないはずじゃ……」
 王妃の発した疑問に、領主の息子は頷く。
「ええ、残念ながらこの国の妖獣ハンターではありません。カザレントの大公と契約を交わしたハンターだそうです。本人の弁によると」
 え? とエルセレナは眼を丸くした。
「……それって、要するに諜報活動の為潜入していたって事? カザレントの手の者が我が国に」
「そうなりますね。しかし、おかげで我々は死なずに済みました。間者だろうと何だろうと、命の恩人に変わりはありません。捕らえるような真似はできませんでした」
 それはそうね、とエルセレナは窓から顔を引っ込める。確かにそのハンターがいなければ、ケリアの街に生存者は一人もなし、となっていたかもしれないのだ。カザレントの間者がゲルバに入り込んでいるというのは問題だが、その人物が妖獣ハンターであるというのは現状を考えればむしろありがたい話と言えるかもしれない。
 馬車が一際大きく揺れて、動きを止める。着きました、と外から声がかかった。扉が開けられ、ラウドに手を差し伸べられて、エルセレナは馬車からおりる。
「……ここなの」
 周囲を眼にするや、彼女は小さく呟いた。
 そこは、古びた貧相な館が補修もされぬまま建ち並んでいる通りだった。別に妖獣がわざわざ破壊せずとも、これでは雨漏りや隙間風がさぞひどかろう、と思えるような。領主が見せたくなかったのも、これなら頷ける。貴族がこうした館で暮らしていたのなら、平民やその下の階層の者の住居は推して然るべしだった。
 中でも一番粗末な造りの家から、痩せこけた子供が二人、顔を覗かせてこちらの様子を窺っていた。見た事もない馬車と十数名の騎乗の兵士、そして降り立ったエルセレナの姿に驚いているのか、子供は扉の内から出てこようとはしない。
「こんにちは、貴方達はここの子供?」
 弱ったわね、こんなに警戒されてはどう対処したものかしら、と迷いつつ王妃は話しかけてみる。誰なの、と尖った声が返った。扉の奥にいる少女が、手前の子供を守るように抱きしめ尋ねている。
「私? 私の名はエルセレナよ。この国の王妃なの」
 できるだけ優しい声音で言ったつもりだったが、それでも二人の子供は仰天したのか扉を閉めて、バタバタと逃げだした。あらまぁ、とエルセレナは肩を落とす。
「美女じゃないのは自覚してるけど、私、そんなに恐ろしい顔してるかしら?」
 途方に暮れて背後のラウドに問うと、勘当された領主の息子は吹き出した。
「いいえ、そのような事は断じてありませんよ。王妃様」
 笑いの発作が治まると、彼は事情がわからぬエルセレナ一行の為に説明を始める。
「あの子供達は、誰が訪ねてこようと常にあの態度です。我々によって陛下が連れ去られてしまうと、自分達の側から奪われてしまうと警戒しているのでしょうね」
「王が自分達の側から奪われる……?」
「妖獣の襲撃後、生き延びた彼等を保護し、飢えや寒さから守っていたのは陛下です。生まれて初めて自分達に優しくしてくれる大人を得た以上、奪われたくないと思うのは当然ですよねぇ」
 エルセレナは、今度という今度こそ驚愕に絶句した。あの王が、子供を保護し面倒を見ていた? あの夫が、何の見返りも期待できない相手に優しくしたですって?!
「……天変地異の前触れかもしれないわ」
 呟いて、ゲルバ王妃は我に返り笑いだす。天変地異なら既に起こっているではないか、と。春が訪れない国、雪に覆われた大地。今年は作物の収穫など望むべくもない。税収も同様だった。餓死者の数は増え続けるだろう。凍死者の数も。そして己は無力である。王妃という肩書きがあるだけで、民を救う力はない。
 エルセレナが軽い自己嫌悪に陥ってる間も、案内役のラウドは行動していた。扉の前に立ち、何度もノッカーを叩いて呼びかける。陛下、おられますか? 王妃様がおいでですよ、と。
「おかしいな、おられるはずなんだが……。陛下、聞こえますか? 居留守は使わないでほしいのですが」
 そう、首を傾げて彼が言った時だった。
「誰が陛下だ。いい加減にしろ。俺はそんな御大層な者じゃない」
 声は、扉の中からではなく、家の外側から放たれていた。エルセレナは吸い寄せられるように、声のした方向へと視線を向ける。耳にしたそれは、記憶にあるオフェリスと同じ声だった。しかし、口調はまるで違う。
(そうよ、違うわ。オフェリスはあんな口調で人と話したりはしない。もっと尊大で、傲慢で、他人を突き放し見下していたもの)
 では、今の声は誰のものなのか。己の置かれた立場にうんざりしたような、けれども自分をそう扱う相手に対し本気で怒っている様子はない、どこか親しみを込めた声を発した男性は。
「………」
 当惑しつつ振り向いたゲルバ王妃の眼に映ったのは、一抱えもある薪の束を肩に担いだ若い男だった。
 背中にかかる緋色の髪、切れ長の眼。そして頭に巻き付けられた、血の滲んだ布。
 印象的な男だった。ひとめで、それがあの馬鹿夫ではない事をエルセレナは見抜く。同時に、領主や他の者が彼を国王と間違えたのも無理なからぬ事と納得した。
 何故なら目の前に立つ男は、各施設や領主の館に飾られている例のはなはだしく美化された、外見修正済みの肖像画の国王そのものの容姿を持っていたのだから。本物を間近に見た事のない人間が、彼を国王その人と思い込むのはむしろ当然であると言えた。
「陛下、その血は? お怪我をなされたのですか?」
 言葉もなく観察を続けるエルセレナをよそに、領主の息子である青年は男の姿を見るや顔色を変え駆け寄り、問いかけていた。
 陛下じゃないと言ってるだろう、と男は呟き質問を無視して歩きだす。黙殺された形のラウドは、めげずに追いすがり、同じ問いを繰り返す。玄関の扉を開き薪の束を床におろした男は、答えない限り煩わしい思いをすると悟ったのか、溜め息を漏らし言葉を返す。「大した傷じゃない。切れたのが頭部や額の皮膚だから、出血が少しばかり多いだけだ。じき止まる」
「しかし、どこでそのようなお怪我を……」
「工場内の遺体を運び出してる最中に、天井の梁が落ちてきた。やたらミシミシ言う建物だから床が抜ける心配はしていたが、まさか天井の方が先に崩れるとは思わなくて、避け損なった」
「工場内の遺体の運び出しですとっ?!」
 ラウドだけでなく、エルセレナの護衛に付いてきた兵士達も驚きの声を上げる。死体運びなど、どう考えても国王のする作業ではない。
「いつまでも死んだ時のまま放置しておく訳にはいかないだろう? 全員分の墓を建てるのは無理でも、埋葬ぐらいしてやらん事には死者も浮かばれまい」
「陛下、それは領主のすべき仕事です。御自分でなされる前に一言御命令下されば……」「ここの領主は、命令されなきゃ己の民の亡骸を放置しておくのか? ずいぶんだな。いや、それよりも領主なら一度被害状況を見回りに来て、彼等が食べる物もなく餓死する前に己の城の貯蔵庫から食料を放出すべきだったと思うぞ。違うか?」
 その領主の息子であるラウドは、弁明の言葉もなくうなだれる。妖獣達の襲撃後、城に篭もったまま現実逃避して、住民の生死の確認すら部下が提案するまでは怠った父。己の領土より王都の動向へ関心を寄せる、そんな領主の姿勢を彼が恥じているのは間違いなかった。
「まぁ、領主がやってくれると言うならあとはそちらに任せる。さすがに俺一人でやるのはきついしな。遺体の数が数だから、穴掘り人夫の役だけでもうくたくただ」
 包帯代わりに巻き付けていた布がゆるんだのか、男は一旦ほどき、もう一度きつく縛ろうとする。と、その髪に触れる手があった。
「消毒はしたの?」
 男の顔を見つめ、エルセレナは訊く。
「この布は、衛生的とはとても言えないわね。止血するには良くても、却って雑菌が傷口から入りかねないわよ」
 淡々と事実を口にする相手に、男は苦笑を浮かべ首を振った。
「あいにく、ここには傷薬とか包帯とかいう贅沢な品物は残っていない。持ってきてもらえれば、俺としては助かるんだが」
 それを聞いたラウドは、身を翻すや己の馬の手綱に手を掛け、飛び乗った。
「薬と包帯ですね? すぐにお持ちします」
「ああ、できればついでに何か食べ物を調達してきてくれるとありがたいんだがな。近所の食料貯蔵庫にあった野菜も僅かばかりの干し肉も昨夜で底を突いたんで、今日は皆まだ何も食べていないんだ」
 騎乗の青年は予想もしなかった言葉に眼を剥き、次いで大きく頷いた。
「承知しました! お待ち下さい」
 駈け去る若者を見送って、男はエルセレナに向き直る。
「さて、王妃様……だっけか。あんたは」
 エルセレナは悠然と微笑む。
「貴方の妻よ。お忘れ?」
 男の顔が、勘弁してくれと言うように歪んだ。
「あー……、とにかく、この国の王妃だというなら見てほしい光景がある。良ければ現場まで同行してもらいたいんだが、構わないだろうか」
「もちろん同行しますわ。夫の命令とあらば喜んで」
 言った途端、男の上体は不自然に傾き、緋色の髪が乱れて顔を覆い隠した。だからその悪趣味な冗談はやめてくれっ! と全身で彼は主張している。それが、エルセレナにしてみれば楽しくてたまらない。
 顔は五割増し男前、性格も悪くはなさそう。これなら身代わりの夫にしても良いじゃない、と内心ほくそ笑み、プレドーラス出身のゲルバ王妃は嬉々として相手の腕を取った。 美化された国王の肖像画そっくりな容貌を持つ男は、溜め息をつきつつもその手を振り払わず、黙して目的の場所へと向かう。その後を、護衛兵士の半分が供する為に追った。残り半分は、領主の息子ラウドの帰りを待つ事にしてその場に留まる。
 そんな彼等の姿を、家の中の子供達は不安げな眼で見つめていた……。


「これは……」
 目の前に広がる光景を凝視し、エルセレナは声を途切れさせ固まる。痩せこけた、ミイラ寸前の遺体が紡ぎ車の前、或いは横に何十体も転がっていた。
 髪型や衣服から、それが女性、もしくは少女の遺体である事はわかる。わからないのは妖獣に襲われた痕跡もないのに、何故皆ここで絶命しているのか、という点である。
「ここで死んだ者達は」
 彼女の疑問に答えるように、この場所まで案内してきた男は呟く。
「全員奴隷の身分で年中休み無し、おまけに無給で働かされていた。それこそ日の出前から深夜までな。ただ、働いている限りは日に二回、食事を与えられたらしい。石みたいに固いパン一切れと、野菜の切れ端が浮いてる程度のスープだったそうだが」
「………」
「妖獣は、奴隷居住区に関しては通り過ぎるだけで、住民を襲いはしなかったらしい。そして住民達は襲撃があった事実は知っていたが、翌日も時間になるといつものように出勤し、仕事を始めた訳だ。休んでいたら鞭打たれる、食事も貰えない、とな」
 痛ましげに死者を見おろし、男は言う。
「働いていれば、いつかは食事を与えてくれる。そう信じて、ここに倒れている連中は飢えと寒さに苛まれながら仕事を続けていたのさ。……それこそ死の寸前まで」
 工場はどこも、そうした死者でいっぱいだと彼は告げる。死ぬまで糸を紡ぎ続けた者、死の瞬間まで針を使い刺繍をし続けた者、未完成の布を前に織り機に突っ伏し亡くなった者……。
「覚えておいてくれ。これがこの国の資本を支えている者達の置かれた現状だと。あんたが王妃なら、この光景を忘れないでくれ」
 エルセレナは無言で頷く。頷くより他にできる事など、今の彼女にはなかった。死者達に泣いて詫びる権利は、己にないと思うが故に。特権階級に座する自分が、詫びたというその事実によって自己満足に浸ってはいけないのである。
「護衛兵に命じて、遺体の運び出しを手伝ってもらうわ。良かったら後で、生き延びた工員に会わせてもらえるかしら。貴方がそこまで事情に通じているという事は、生存者がいるのでしょう? ここで働いていた者達の中に」
 男は沈黙のまま、同意の印に頷く。それでこの件は済んだとして、彼女は切り出した。二人きりの今ならば尋ねられる。相手の素性、正体を。
「それで、貴方は誰? 名前を教えてもらえるかしら」
 問われて、男はホッとした表情を見せ微笑した。ようやく自分の、国王じゃないという主張をまともに受けとめてくれる人物が現れた、というように。
「名前は、アラモス・ロー・セラ。新たにゲルバ領土となった元イシェラの地に配属されていた兵士だ。この街は、俺の生まれ故郷だった。さっきのボロい館が俺の生家で、家族が心配でつい戻ってきてしまったが、結局全員殺されてしまっていたな……」
 続けて彼は言う。信じてもらえないかもしれないが、今の自分の姿は本来のものではない、と。こんな顔をしてはいなかった。髪の色も、声も己のものではない。気が付いたら別人の姿に変化していて、しかもそれがどうした訳か、孤児院の院長室に飾られていた現国王の肖像画そっくりだったのだと。
「そう……。そういう事情な訳ね」
 エルセレナは、あり得ない事と否定しなかった。消えた妖術師の仕業かあるいは全く別の、彼女があずかり知らぬ存在の為せる業か。どちらにせよ可能性はあると判断したのである。
 だが、そのような真似をした相手の真意までは彼女にも想像がつかなかった。けれど、変化させた者の思惑はどうあれ、この人物はゲルバを滅亡から回避させる為に必要な人材だと王妃は見做す。
 王都に報告に来た使者の弁は、ある意味正しかった。彼は、行方不明の国王が発見されましたと述べたのだ。そして国王が発見されたという部分において、使者の表現は完全に正しい。緋色の髪の青年は、王の精神を持っていた。国を治める者としての資質を、目の前の人間は間違いなく持っているのだ。
「信じてくれたなら、俺があんたの夫でないと外で待ってる連中や領主に説明してくれないか? 自分で言っても、忘れ病だの一時的な記憶障害だのと決め付けられて埒があかない」
 黙り込んだエルセレナに、アラモスと名乗った男は嘆願する。期待の眼差しを向けられた彼女は肩を竦め、悪いけどそれはできかねるわ、と却下した。
「何でだ?」
 気色ばむ男に、彼女は理由を説明する。
 まず第一に、彼等は自分と異なり現国王の実物を側で見た事が一度もない。それ故、あの肖像画がどれほど本人とかけ離れた物であったかわかっていないから、別人と断言したところで信用されない。
 兵士達は、それでも王妃の言葉だから信憑性があると思ってくれるかもしれないが、領主は無理である。以前の王宮でもそうだったが、地位のある貴族は、異国出身の王妃の言を重んじてはくれないのだ。
 第二に、ゲルバは現在大変な困難状況にあり、人々は心の拠り所を求めている。そして都市部の人間と違い国土の大半を占める農村部の人間は、今なお王家に敬愛の念を寄せている。そうした現状を思えば、国王はいた方が良いのだ。それも餓死者や戦死者の数を、単なる数字と思わない国王が。
「だから、貴方は最適だわ」
「おい……」
 俺は王なんかじゃないぞ、と主張する男に、エルセレナは負けじと言い返す。本物の王か否かなんて、そんな事はどうでもいいのだと。
「要は、皆が望んでいる国王の姿に近ければそれで良いのよ。偶像が本物である必要性などないわ」
「ゲルバの国民全員を騙せと言うのか。俺に」
「嘘も貫き通せば真実よ」
「後で本物の国王が現れたら、あんたの夫が戻ってきたらどうするつもりだ? お払い箱で処刑か?」
「その時は責任持って私が殺すわ! 本物を」
 両者の間に、重い沈黙が降りた。アラモスは気圧され後退し、エルセレナはその腕を掴んで引き戻す。
「いい事? 私は王妃として、この国を救いたいの」
「………」
「貴方は王よ。貴方は王だわ。そして私の夫、我が娘の父親となる方」
 視線を合わせ、彼女は囁く。共犯者となってもらうわ、選択の余地など与えない、と。「……ばれたらお互い、生命はないぞ」
 暫しの逡巡の後、男は呟いた。承知の上よ、とエルセレナは応じる。
「それに、多くの民を結果的に救うなら、神様も眼をつぶって見ない振りしてくれるんじゃなくて?」
「ご都合主義な神様だな」
「あら、自分に都合の良い事が嫌いな神様なんて存在するの? 初耳だわ」
 エルセレナの台詞に男はこめかみを押さえ、しぶしぶだが共犯者として国王の身代わりを務める件を承諾した。脱走兵のアラモスでいるよりは、王でいた方が何かと都合が良いだろうと考え直して。が、国王の身代わりとなる事は、同時に他の役割も背負う事を意味していた為、後に彼は冷汗をたっぷり流す羽目になる。
 その内一つは、王都で待つゲルバ王女リスティアナにこれまで会う暇もなかった父親として対面し、不足していた愛情を与える事だったから別に問題はない。
 しかしもう一つは、承諾が大いにためらわれる内容であった。エルセレナは、事もあろうに男へこう要求したのである。国王と名乗る以上は我が夫。常にそれらしく振る舞うように、と。
 むろんそれは、寝室であろうと例外ではなかったのである……。

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