断罪の瞳7《1》



 話には聞いていたものの、いざ故郷の異様な光景を目の当たりにすると、さしもの彼も声が出なかった。
 噂を知りゲルバに戻ると決めた時点で多少の覚悟はしていたが、六月も半ばを過ぎたというのに辺り一面大量の雪、雪、雪である。それも春を間近にした季節の湿った雪ではない。靴底が踏みしめているのは、真冬の最中の様な氷と化した雪だった。
「……こりゃあ呪いだ何だと噂が立っても無理はないな」
 唾を飲み込み、一歩踏み出してアラモス・ロー・セラは呟く。その吐く息もくっきり白い。明け方に大気が冷えるのは当然であるが、体を包む空気の刺すような冷たさは、現在の気温が氷点下より遥かに下な事を示していた。
「本当に、ここへ置いていってよろしいのですか? ゲルバの方」
 問われて、アラモスは振り返る。領主の城を中心とした街を見下ろす丘の上には、彼の他にもう一人の人物がいた。春真っ盛りのカディラの都から、一瞬で故郷の地に彼を送り届けた亜麻色の髪の美貌の青年が。
「ああ、構わない。送ってくれた事を感謝する。……公子には悪かったと伝えてくれ。戻るなと反対する理由はわかるが、それでも一応故国だからな。見捨てられない」
 自嘲気味な笑みを浮かべ、アラモスは頭を下げる。真実口で述べた言葉通りなら良かったのだが、正直なところ彼の心境は複雑だった。一度は捨てると決めた国に再び戻ってきたのは、何も故郷だからという思いの為のみではない。
「泣きますよ、あの坊やは。自分に内緒で貴方が勝手に出ていったと知ったら」
 いいんですかねぇ、と皮肉な表情で亜麻色の髪の青年は言う。アラモスは少しだけうろたえた。
「泣く……かな? あいつ」
「私の見立てでは、確率十割で泣きます」
「……十割って、そりゃ絶対泣くって事じゃないか」
「おや、泣かないとでも思うのですか?」
 聞かれて、アラモスは答えに詰まる。カザレント公子ルドレフ・ルーグ・カディラとはそう長い付き合いな訳ではなかったが、それでもある程度性格は把握できていた。赤ん坊みたいな肌をした大きな眼の童顔の公子は、人前で涙を浮かべる事に何のためらいも覚えない。それが自身の悲しみの為でなく、他者の苦しみを思いやっての場合は。
 事実、プレドーラスの使者からゲルバに関する情報と噂をもたらされた後は、我が事のように悩み己を気遣ってくれたのだ。それでこの上ゲルバに戻ったと聞いたら、まず間違いなく泣くだろう。何もしてやれなかったと自身を責め、身勝手な行動を取った男の為に泣くのだろう。
「泣く程の価値など、俺にありはしないのにな」
 呟いて、アラモスは溜め息をつく。彼は、自分がルドレフの傍から逃げた事実を自覚していた。似ている誰かと重ね合わされるのも比較されるのも嫌で、己の存在が相手の立場を悪くするのも御免だと逃げたのだ。
 むろん、ルドレフ自身がその様に接したり見なした訳ではない。重ね合わせ比較したのは、もっぱら周囲の連中だった。
「外見はまるで違いますが、あのゲルバ出身の兵士はどこかザドゥ殿に似てますな」
「雰囲気がザドゥ殿と同じ故、公子もあのように信用しているんでしょうな」
「しかしザドゥ殿なら傭兵であれ我が国の出身ですからまだ良かったのですが、敵国人とあまり仲良くされては困りものですぞ。いくら嫡子でないと言っても、あの方は我が国の公子なのですし」
「次期大公を補佐すべき方が、己の立場もわきまえない交友関係を持たれるようではまずいですなぁ」
 カディラの都で大公の居城に滞在していた間、毎日のようにアラモスはそうした囁きを耳にしていた。否、わざと聞かされていたのだ。居づらくなって城から去れば良いと、重臣達や城勤めの者から思われていた為に。
 そのやり方のせこさ、手段の姑息さに腹は立ったが、相手の立場にしてみれば無理なからぬ事とアラモスは理解していた。行方不明の公子がやっと自分達の許に帰ってきたと思ったら、隣にいるのが脱走兵とはいえ戦相手の敵国の人間、それも一番の難敵であるゲルバの兵士では、カザレントの住民は面白くあるまい。
 この方は我等の公子なのに、おのれ敵国人の身でよくもたぶらかしおって、と排除の動きに出るのも、まぁ当然と思えた。される方にしてみれば、たまったものじゃないが。
 何にせよ、あのまま自分が大公の城に居続けたら、日毎にルドレフの立場が悪くなるのは眼に見えていた。
 悪意が己一人に向けられている内は良い。けれど、それでも排除できない、通じないとなれば、怒りは好意を向けていた相手に対する恨みに容易く変化する。
 だから離れた方が良かったのだ。たとえそれで公子に泣かれる事になっても、ゲルバに戻るのが正しい道なのだ。そう、アラモスは自身に言い聞かせる。
 もちろん、脱走兵の自分がゲルバに帰還して無事に済むとは考えていない。加えて今のゲルバの状況は、最悪に限りなく近かった。そこへ戻って生きていられると思うほど、アラモスは楽観主義者ではない。
 しかし、あえて困難な状況に身を置く方を選択できる程度には、彼はルドレフ・カディラに好意を抱いていた。自分のせいで立場を悪くするような事態に、あの公子を追い込みたくはなかった。行方知れずになってから一年半余り、ようやく帰るべき場所に帰ったのだから。
「人の価値なんて、本人が決めるものではありませんよ。ゲルバの方」
「……!」
 突然耳元で囁かれ、アラモスは驚いて顔を上げる。気配を全く感じさせず近付いた青年は、彼の腕を掴み袖口を捲り上げると、売れば一財産作れそうな腕輪を問答無用で手首にはめた。
「坊やからの餞別です。もし貴方がどうあってもゲルバに向かうなら、その時は渡してほしいと頼まれ預かってました。大して力のない妖獣相手なら、これが護符代わりになるでしょう」
「護符?」
 聞き慣れない言葉に、アラモスは首を傾げる。利き腕の手首にはめられた腕輪は、いかなる名工の手によるものか見事な彫金細工で、中央部の台座には大きな赤い宝石がはめ込まれていた。
「ええ、護符です。それとこれは私から」
 亜麻色の髪の青年はそう言って、一個の指輪を取り出した。貴方の前途が開けますようにと右手中指にはめられたそれは、何の飾りもないちゃちな安物に見えた。それ故、アラモスは安堵し黙って受け取る事に決める。
 ルドレフの昔の恩人で呪術師だというこの青年とは、今日までろくに言葉を交わした事すらなかったのだ。当然、餞別を贈られる理由なぞ思い浮かばない。だが、それが好意からのものであるなら、無下に断る訳にはいかなかった。
 それでも、出された指輪がひとめで高価な品とわかるような物であったら、受け取る理由がないと外して返しただろう。しかし、幸いにして指にはめられたそれは縁日の屋台で売られる玩具よりちょっとまし、な程度の品に見えた。それなら受け取っても大して問題はない、と判断したのである。
「くれぐれも外してはなりませんよ。腕輪も、その指輪もね。貴方専用のお守りなのですから」
 どこか面白がっている様子の相手を訝しみながらも頷き、別れを告げてアラモスは眼下の街をめざし斜面を駈けおりる。その背中を見送った美貌の青年は、降り出した雪のベールで彼の姿が視界から完全に消え去ると、楽しげに手を合わせ呟いた。
「さて、こうなるとあの駒がどう動くか見物ですねぇ。それなりに骨はありそうな若者ですし」
 ま、どういう結果になろうと、この国が今より悪くなる事だけはないから別に良いですよね。ゲルバの住民にしてみれば、現在こそが最悪に違いありませんし、と。
「後は……そうですね、ここまで来たのだからついでにヤンデンベールの方にも顔を出しますか。急な不在の理由については、あの人間のハンターとルーディックが上手く誤魔化してくれたようですが、挨拶なしで数ヶ月ってのはやはりまずかったと思いますしねぇ。今ならちょうど二人とも留守ですし、行くとしましょう」
 それに城塞の責任者である彼が、坊やの消息を聞いてどんな表情を浮かべるか見てみたいものですしね。そう独りごちて、蜘蛛使いのケアスと寸分違わぬ姿と声を持つ青年は、ゲルバの一領地ケリアの街を見おろす丘の上から姿を消した。



 街へ近付くにつれ、尋常でないという思いは強まった。春であって良いはずの季節に降りだした雪を上回る異常が、その場所からは感じられた。アラモスは緊張に口元を引き締め、周囲に気を配りつつゆっくりと歩を進める。
 領主の城館を中心とした故郷の街は、外敵の侵入に備え三層の壁が周囲に廻らしてあった。その第一の壁の通用門に、門番の姿はない。いや、そもそも門の扉自体が巨大な爪で抉られたかのような跡を残し、破壊されているのだ。既にそれは敵の侵入を防ぐ門としての機能を失い、無防備な出入口と化していた。
「……酷いもんだな」
 アラモス・ロー・セラは溜め息を漏らし、人間ならばどんな長身でも楽々通り抜けられるその穴から壁の内側へと侵入して、第二の壁の通用門へと向かった。
 二番目の門にも門番は立っておらず、扉は片側が粉砕されていた。内側へ踏み込むと、最後まで門を守ろうと抵抗したらしい兵士達の、凍り付いた遺体がいくつか眼に入る。散乱した遺体の損傷はかなりなものだったが、それでも顔の区別がつく骸は何体かあった。 アラモスは屈み込み、その中の一人を確認する。それはイシェラに発つ前一緒に酒を飲み交わし、再会を約束した友の変わり果てた姿だった。
 殺された時の状態のまま放置されたそれらの遺体を、彼は一ヶ所に集め、冥福を祈り次へ向かう。雪は、次第に激しさを増して視界と歩みを妨げた。
 街へとつながる第三の壁の通用門前は、先の二つとは比べものにならぬ惨状を呈していた。風が吹き付ける度、舞い上がる雪の下から覗く馬の死骸、折れた剣や槍、重なった兵士の遺体の山。そしてほんの僅かな数の、倒された妖獣の骸。
 死んだ兵士達の人数に比較すると、妖獣の遺骸は余りに微々たるものであった。アラモスは言葉もなく、拳を震わせる。通用門は、周囲の壁ごと破壊されていた。瓦礫の下にも埋もれた兵士の遺体がある。脱走兵の青年は、無言でその場を通り過ぎ、死んだような静寂に包まれた街へと入っていった。己の育った家を目指して。


 家は、建物自体は無事だった。逆に言うなら、建物だけは無事だった。炎にまかれる事もなく、妖獣に破壊される事もなく。だが、それだけだった。住人の姿はどこにもない。 妖獣の襲撃と聞いて取るものも取りあえず逃げたのか、それとも皆喰われてしまったのか、アラモスには判断がつかなかった。
 どうか前者であってほしいと願いながら、彼は家の内部を見て回る。瓶に貯められた水の減り具合は、襲撃が昼食の支度前に行なわれた事を示していた。テーブルに置かれていたカップの底には、飲みかけの茶が残ったまま、氷の幕を張っている。しかし、人の気配は感じられない。
 唐突に、アラモスは庭にある地下貯蔵庫の存在を思い出した。冬場に食べるジャガ芋や人参といった野菜を貯蔵する為の地下室を。昔はよく、兄や近所の友達とかくれんぼに利用したものである。もしやそこに家族が隠れてはいやしないかと、一縷の望みを抱いて彼は駆け出す。妖獣部隊の襲撃が一週間以上前に行なわれたものなら、日が経ちすぎていると諦めるしかない。だがもし数日前の出来事であるならば……!
 万が一の可能性でしかなかった。それでもアラモスは望みを捨てきれなかった。
 そして、彼の家族だった者達は確かにそこにいた。ただし、妖獣に喰い散らかされた遺体となって。家の中が荒らされていなかったのも道理である。襲撃者は獲物がここに隠れたと知って、まっすぐこちらへ向かったのだ。
「………」
 階段の上から角灯で薄暗い内部を照らし、家族の末路を確認した男は、血が滲むまで唇を噛み締める。もはや故郷に家族はなく、友もいないという現実をアラモスは突き付けられた。彼にとっての帰るべき場所は、この地上から永遠に失われてしまったのだ。
 雪が髪に、肩に積もる。まるで全てを覆い隠そうと言うかのように。
「……このままいたら、凍えるな」
 呟いて、アラモスは地下貯蔵庫の蓋を閉じる。呆然としていたのは、せいぜい数分程度の事だった。遺体を埋葬してやらねばと、彼は準備をすべく家へ戻る。壁に掛けてあった兄の外套を纏い、帽子を被り、手袋を付けて外に出る。それから納屋に行き、必要な道具を手にして裏庭に向かった。
 氷のような雪面をつるはしで砕き、二時間余りかけて家族全員分の穴を掘り終えると、再び地下貯蔵庫の蓋を開け、今度は下までおりて遺体を運び出す。母と、兄と、義姉と、それからもう一人。
 彼が家を離れる時赤ん坊だった小さな甥は、セラ家の次の跡取りとなるはずだった幼子は、バラバラの小さな骨しか残していなかった。一つ残らず拾おうと暗がりの中床に手を這わせながら、アラモスは初めて涙を流す。
 この時になって、ようやく悲しいという感情が彼の心に湧いた。それまではただ、喪失感だけがあったのだ。
 泣いてどうなるものでもないと思いながらも、アラモスは嗚咽が漏れるのを止められなかった。この世に生を受けながら殆ど生きる事なく逝った小さな甥の為に、突然の出来事になす術もなく殺された兄夫婦の為に、非業の死を遂げた母の為に。そして、一人残された自分の為に。アラモス・ロー・セラは泣き続けた。


 全員の埋葬を終えた頃には、既に昼を過ぎていた。朝食も抜きで朝から動き回っていたアラモスは、さすがに空腹と軽い疲労を覚え台所で一休みする。昨夜の夕食の際持ち出したパンとチーズをちぎっては口に放り、念入りに噛んだ後水で流し込む。それは食事というより、何かの作業のようだった。
「……あいつ、今頃一人で食事してるかな」
 ふと思いつき、呟いてみる。カザレント公子ルドレフは、成人男子とは思えぬ程の少食で、城では毎食ごとに食べきれず残した料理の始末を彼にお願いしてきたのだ。あの大きな眼ですまなそうに見つめながら、アラモスごめんっ、作ってくれた人に悪いから片付けるの協力して、と。
 自分がいなくなった以上、今朝の朝食からそれはできない訳である。一人で頑張って食べたろうか。それとも誰かに泣き付いて、協力要請してるだろうか。
 あの眼でうるうるされて頼まれたら、まず断れる奴はいなかろうなと自身もそうだったアラモスは苦笑する。気分は、どうにか浮上しつつあった。
「そうだな。この後は生存者がいないか街中を見回ってみるとするか。領主の城や大貴族の館なら隠し部屋も多いだろうから、何人か生き残ってる可能性もあるし」
 全住民が殺害され喰われたとは、アラモスは思いたくなかった。少しくらい、逃げ延びた者がいても良いはずである。妖獣相手にそれは、著しく困難な事であると知ってはいたが。
 ともすれば悲観的な方向へと暴走しかける思いを振り切り、彼は立ち上がる。悩んでいるよりまず行動、それがアラモスの信条であった。しかし、己のそうした部分までが大公の居城で比較され続けたザドゥと似ている点を彼は知らない。知る由もなかった。


 生存者探しは、まず無駄だろうと思いつつも家の近所から行なう事にした。朝方ここへ戻った際は何の気配も感じられなかったが、念には念を、である。そして結果は予想通りであった。
 寒さの為に腐敗が殆ど進む事なく、殺された時のまま倒れている近所の人々の遺体を山と見るはめになって、アラモスは嘆息する。遺体の中には一部喰われているのもあれば、単に殺されただけのものもあった。どちらにしろ、彼等の死に顔は恐怖に引きつり強張っていて、生前の面影を探すのが難しい。兄夫婦や母親がそうであったように。
 十三軒目で、アラモスは近所の探索作業を放棄した。さして親しくはなかったにせよ、顔馴染みだった者達の無惨な遺体など、あまり続け様に見たいものではない。
 いっそ先に領主の城館辺りを見て回ろうか、そう思い始めた時だった。己の様子をこっそり窺う複数の視線、怯えと期待を含んだ人の気配を感じたのは。
「誰だ?」
 破壊された玄関の扉から離れ、アラモスは視線の主に呼びかける。
「誰かいるのか?」
 再度呼びかけると、雪を踏みしめる音が聞こえ、崩れた塀の向こうや家の陰から、おずおずと人影が現われた。大きな者で十歳かそこら、小さい者はまだ三つ四つか。皆が皆、栄養不良で痩せ細っている。着ている衣服は使い込んだ雑巾より少しはまし、程度な代物であり、この寒さであるのに手足を露出している者も多かった。履いている靴はサイズの合わない木靴か、靴底の取れかかった壊れ物で、中には単に裂いた厚手の布を足に巻き付けただけの子供もいた。
 アラモスの前に姿を見せたのは、そんなみすぼらしい身なりの子供達だった。この街に戻って、初めて彼が目にした生存者は。総勢七名の、痩せこけ垢にまみれた幼い男女。
「……お前達、もしかして国立孤児院の子か? 街はずれにある第八施設の」
 全員の姿を確認した後、アラモスはそう尋ねていた。
 彼等が一般家庭の子でないのは、垢だらけの肌と衣服を見ればわかる。どんな貧しい家でも、親は子供に清潔な服を着せたがるものだし(たとえそれがつぎ当てだらけの古着であるにしろ)、何ヶ月も入浴させないでいるという事はない。
 同じ孤児でも領主への献上品の子供なら、サイズが多少合わずともこざっぱりとした衣装を着せられ、栄養不良にならぬ程度の食事を口にし、週に一度は入浴しているはずだった。だから目の前の子等はそれではありえない、とアラモスは判断する。
 彼の前に立つ子供達は、顔を強張らせたまま返事をしなかった。互いを庇い合うように身を寄せ、ただじっと視線を向けている。それはまるでアラモスを、敵か味方か見極めようとしている様でもあった。
「……あのな、俺はそんなに警戒しなきゃいけない危険人物に見えるか? そりゃ子供に好かれる顔ではないかもしれないが、極悪人な面相ではないだろう?」
 屈み込んで眼の位置を合わせ、苦笑気味にアラモスは言う。子供達は途惑った様子で互いに視線を交わし、どうする? といった表情になった。それを見て取った彼は、駄目押しに呟く。
「取りあえず、こんな所で立ち話もなんだから死体のない家の台所にでも来ないか? 薪は残っていたから、かまどに火を入れて暖まって。そうだ、野菜と香辛料と水はあったから、簡単なスープぐらいなら作れるぞ」
 スープと聞いて子供達の眼は一様に輝いた。元々満足な食事を与えられていなかった上に、ここ数日は何も口にできなかったのだろう。まだ警戒を完全に解いた訳ではない様子であったが、それでも全員アラモスの提案に従い、後について歩き出した。
 が、ほんの少し歩いただけで布を足に巻き付けた子供が遅れだす。どうやらかじかんだ足から感覚が失せ、まともに歩けないでいるらしかった。
 アラモスは立ち止まり、その子供がどうにか追い付いたところで両脇を掴み、ひょいと抱き上げる。びっくりして叫ぶ相手に、彼は笑って声をかけた。
「よしよし、驚かせて悪かった。それにしても足が冷えきってるな。これで歩くのは辛いだろ? 俺の外套の中へ突っ込んでるといい。少しは暖まる」
「………!」
 抱き上げられた子供は、驚愕に眼を丸くする。周囲の子供達も絶句した。彼等は、こんな大人を知らない。垢まみれ汚れ放題の自分達の足を、服の内に入れ胸で暖めてくれる人間がいるなどとは、これまで想像した事もなかったのだ。

(やっぱり)
(うん、やっぱりそうだった)
(夢のお告げは本当だったんだ。僕等を救いに来た)
(でも信じられない。こんな事ってある?)
(嘘みたい。だけど本物よ。だって院長室にあった肖像画そのもの)
 年長の子供達がヒソヒソと囁きを交わす中、一番年下の子供がアラモスに擦り寄り、外套の裾を掴む。幼児の視線の先に抱っこしている子の姿が在るのを見て、アラモスは微笑しその子の事も抱き上げ、己の肩に乗せた。
「落ちないようにしっかり掴まっているんだぞ。揺れるからな」
 小さな子供は歓声を上げ、言われるままにアラモスの頭部へ腕を回し、しがみついた。残った五人の子供達は羨ましそうにその様を眺める。しかしさすがに、二人も抱えて歩くアラモスに対し自分も抱っこしてほしい、とはねだれなかった。
 もっともアラモスの方は、そうした彼等の心情などお見通しである。良かったら後でかわりばんこに抱っこしようか、その方が暖かいし、と声をかける事を忘れなかった。そしてこの一言で、子供達の内にあった警戒心は完全に粉砕されたのである。この人は、自分達を野良猫扱いして追い払ったりしない、見回りの兵士のように目障りだと言って殴ったりもしないのだ、と。


 貧乏貴族であるセラ家の家屋は、貴族居住区域の中でも端の位置にある。まあ財政状況は左右両隣や通りの向こうの家々も似たり寄ったりだったが、平民居住区が川を挟んですぐの距離に在るのは確かだった。
 けれども、子供達の住居である孤児院となると話は別である。国立孤児院第八施設は、平民居住区域内に建てられている訳ではなかった。その先の工場地帯の更に向こう、貧民街と呼ばれている奴隷居住区に隣接して建っているのである。
 だから、アラモスは不思議でならなかった。どうしてこの子供達が、用もないのに貴族の居住区域まで遠出して来たのか。好奇心で何となく足を運ぶ、というような距離ではないのである。子供の足なら、どんなに急いでもここまで来るのに一時間半はかかったはずだった。雪の中、寒さもろくにしのげない格好で二時間近くも、明確な目的もなく空腹を抱え歩くというのは、およそ理解できない行動である。
 壜に保存してあった煮豆と玉葱であっさりしたスープを作り食べさせ、大量に沸かした湯で全員の髪や体を洗い終わると、周囲はもう暗くなっていた。
 男の子には自分と兄が子供時代に着ていた冬物の古着を、女の子には隣家の子供部屋から無断拝借した衣服を渡して着替えさせたアラモスは、燭台の蝋燭に火を灯しながら今夜は全員ここへ泊めるしかないなと考える。
 積もった雪の為窓の外は真っ暗闇でこそないが、気温はどんどん低下しているだろう。入浴させた後の子供等をそんな所へ連れ出し歩かせたら、まず間違いなく風邪をひく。故に今夜は帰す訳にいかなかった。が、そうなると今度は孤児院に残っている他の者が、一晩不安な思いで過ごす事になる。その点が気がかりで、アラモスは彼等に尋ねた。誰か施設に残っている子がいるなら、今から迎えに行くがどうなんだ? と。
 されど、質問された子供達は皆、孤児院には誰も残っていないと繰り返す。
「大人も子供も、誰一人いないのか? 生存者はこれで全てだと?」
「うん、そうだよ。誰もいない。僕等だけ」
 八歳ぐらいの男の子が、笑顔で頷き強調する。納得できないアラモスが首を傾げると、説明不足を悟ったのか一番年長に見える少女がフォローした。
「院長と監視員の人達は、妖獣が襲ってきた時さっさと逃げ出して、それきり戻ってこなかったの。それであそこにはあたし達だけ残されたんだけど、妖獣は何もしなかったわ。思うに、皆痩せてて汚くて不味そうに見えたから、無視して去ったんじゃないかしら」
 それはありえるかもしれん、とアラモスは頷きかける。しかし、学生時代に奉仕活動で回収した古着を手に四回ほど孤児院を訪れた経験のある彼は、当時第八施設に収容されていた子供の数を記憶していた。一番少ない時でも、十五名以上はいた事を。
 戦が始まって税が重くなってからは、おそらく捨て子の数も前より増えたはずである。だのに七人だけしかいないというのは、どうも妙に思えた。
「去年の夏までは、三十人近くいたんだよ」
 アラモスの疑問に、子供達は先を争うようにして答えを返した。一番年下の、寝入ってしまった子供を除いて。
「そうだよ、足をのばして眠る事もできなかった」
「それで、院長が収容しきれないって工場に売ったんだ」
「本当なら、成人の年の十三になってからじゃなきゃ駄目なはずなのにさ。外に働きに出すのは」
「夏の時点で十歳以上の子は皆、工場へ売られちゃったわ。働き手が足りなくなったって言ってたから、工場側も法律違反は承知の上よね」
「工場は一日十六時間労働でしょ? 売られた友達とは、結局それきり会えなかったの。彼女が行ったのは糸を紡ぐ工場で、何度かその前を通ったけれど姿を見る事はできなかったわ。窓も高い位置にあって、建物の中は全然覗けないし」
「それで、秋には二十人ぐらいになったんだけど、その後もどんどん減ってったんだ。小さいのとか、体が弱ってた奴は寒くなるとバタバタ死んじゃって」
「仕方ないよ。食べる物がろくにないんだから。去年は野菜も不作だったし、配給も来たり来なかったりになってたし」
「うん。結局、年越す前に十人以下に人数減ったもんな」
「朝、目が覚める度怖かったわ。今日は誰が死んでるかしらって」
 わかった、もう言わなくていい、とアラモスは両手を上げる。孤児院への配給がきちんと行なわれなくなっていた、というのは彼にとっても衝撃だった。そこまでこの国は行政機能が麻痺していたのか、と。
「そして、お前達だけが残ったんだな」
 そうだよ、と子供達は頷いた。
「でも、生き延びて良かったと今は思うわ。昨日までは、とてもそんな風に思えなかったけど」
 四月で十歳になったという痩せぎすの少女が言う。
「そうね。死んだ方が楽だったかなって思った事も、何回かあったけど」
 同意の声が、周囲から上がった。
「僕なんて毎日それ考えてたよ」
「そうそう、お腹がすいて目が回ってる時なんかさ」
「このまま飢えて死ぬのかなー、それとも凍え死ぬのが先かな、とか」
「思っちゃうよねー」
 泣き笑いな表情を見せた子供の頭に、アラモスは手を置き、無言で髪を掻き回す。手の甲に領主への献上品の証拠である焼印を押された子供は、最初きょとんとして首を傾げ、次に本格的に泣き出した。声を張り上げ、顔をぐしゃぐしゃに歪ませて。
 安堵の思いが伝染したのか、他の子供等もいっせいに泣き始める。アラモスにしてみれば、まだまだ聞き出したい事柄があったのだが、これではどうしようもなかった。苦笑混じりの溜め息を漏らし、彼は子供達を泣くに任せる。それから、少し落ち着いてきたところで声をかけ、代わる代わる抱きしめては背中を撫でた。
「見捨てない?」
 アラモスの腕の中で、しゃくり上げながら子供は訊く。真剣な面持ちで。
「僕等を見捨てない?」
「もうひもじい思いはしなくていい?」
「助けてくれる?」
「置き去りにしない?」
 アラモスはその問いかけに応え、約束する。大丈夫、心配するな、もう大丈夫だと。事実この時、彼は本気でこの子供達の面倒を見るつもりでいた。国が何もしてくれないのなら、己ができる範囲でやってやると。
 問題は、脱走兵である自分がいつまで逮捕されずに行動できるか、行動する事を許されるか、だったが。


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