断罪の瞳6《3》



 北の小国ロネから隣国プレドーラスに嫁いだ姫君が突然離縁されたのは、彼女の産んだ長子、王女エルセレナが八歳になる年の事であった。
 王妃は当時二十四歳、国王は二十七歳で、従兄妹同士の二人は子供の頃からの顔見知りであり、始まりは政略結婚だったにせよ誰が見ても相思相愛の仲だった。互いを愛しみ、幸福そうに寄り添っていた。
 夫婦仲は極めて良好、子供はエルセレナを筆頭に五歳の王女と二歳になる王子が一人。もうすぐ、四人目も生まれる予定だった。
 だのに何故、そんな二人が引き離されねばならなかったのか。
 幼いエルセレナには訳がわからなかった。周囲の大人達が苦り切った顔で、イシェラがどうとか断って戦を仕掛けられでもしたら勝ち目はない等と議論をしているのは幾度も眼にしたが、やはり理解はできなかった。
 わかっていたのは、自分達の両親が決して離婚も別離も望んでなどいない事、それだけである。
 離縁が正式に二国間で決まってからというもの、妻の地位を奪われると知った王妃は食事も満足に取らず泣き続け、母国からの迎えが到着した頃にはすっかり痩せ細り、病人の様になっていた。そして帰国直後男児を出産すると亡くなったという。
 生まれた子供は、国が違えどエルセレナにとっては両親を同じくする弟だったが、母体の精神状態に引きずられたのか産声も満足に上げられず、僅か三日の命だったと後に聞かされた。
 そしてエルセレナの父は、最愛の妻と無理矢理別れさせられたプレドーラス国王は、それまでの陽気な性格が完全になりを潜め、陰欝な影を漂わせる男に変化した。
 以前のように子供達の遊びに加わる事もなく、食事の席にも顔を出さず、抱き上げる事すらしなくなった。特に母親似の二番目の王女リゼラに対してはそれが顕著で、己の近くに寄せ付けようとせず、言葉一つかけなかった。
 プレドーラス王家の三人の子供達は、父王のそうした態度を悲しみ、失った母王妃を思い出しては懐かしんで涙を流し、惨めな気持ちで毎日を過ごしていた。
 けれども、彼女等にとって真に辛い日々は、その翌年から始まったのである。


 イシェラの第一王女サデアーレは、プレドーラスに輿入れしてきた時、既に四十近かった。これは王家の姫の初婚年令としては極めて高く、例外中の例外と言える。一番年上の子供エルセレナでさえ、彼女にとっては孫でもおかしくない年齢であった。
 どうしてこのような事になったのかといえば、イシェラ王家の事情によるところが大きい。
 イシェラ国王の最初の正妃は三人の子を産んだが、全て女児で男児はいなかった。次に国王の愛妾となった女性も、産んだのは王女一人だけである。イシェラ王家は後継の男児に恵まれなかった。それ故、このまま王子を得る事がなかった時の為にと、第一王女を婿取りをする仮の跡継ぎに決め、そのような教育を施し、妹姫達を嫁がせた後も自国に留めておいたのである。
 だが、結局イシェラ国王は息子を持つ夢を諦めきれなかったのだ。サデアーレの婿を選ぶ事を何年も躊躇していた彼は、唯一愛した女性の忘れ形見である第四王女、セーニャ姫を隣国カザレントに嫁がせた後、自らの高齢も顧みず再び正妃を王宮に迎えたのである。 新たな正妃は、三年後に第五王女にあたる姫ソーシアナを産んで周囲の者を落胆させたが、その二年後には遂に念願の男児を出産、国王ヘイゲルと臣下達、そして国民を狂喜乱舞させた。
 湧き立つ思いで国王は、ただちに生まれた赤子を跡継ぎと認定し、国の内外に正式に公布したのである。
 そうなると納まらないのはサデアーレであった。突然用済みとされた彼女は、後継者と定められたが為に妹達よりも厳しく教育されてきた。王宮を離れて遊びに出る事も禁じられ、毎日毎日政治だの経済だの自国の歴史や系譜だのといった難しい事ばかりを聞かされてきた。妹達のように、年齢的に釣り合いの取れる他国の王子の許へ嫁ぐ事もできなかった。身近な相手との恋の真似事すら、立場を考えよと許してはもらえなかった。
 全ては皆、男児に恵まれぬ王家の第一王女に生まれたが為の責務、貴方様はイシェラの後継者、いずれはこの国を継ぐ御方なのですから仕方がないのですよと説得され、やむなく堪え忍んできたのである。
 だのに王子一人が生まれた事によって、その一切が無駄になるというのか? だとしたらこれまでの努力は、自分の人生はなんだったのか?
 しかも、イシェラ国王は彼女をすぐに解放しようとはしなかった。待望の王子を授かったとはいえ、生まれたばかりの赤子である。無事に育つという保証などどこにもない。それ故、もしもの時の保険としてサデアーレは王宮に留め置かれた。たぶんもういらない、けれど念の為の道具として残された。三十を過ぎ、三十五を越えてもなお、サデアーレの地位は王女のままで、イシェラ王宮から出される事はなかった。
 そして王子ブラウが無事十歳の誕生日を迎えようという時期に、ようやく国王は彼女の夫を、嫁ぎ先を決めたのである。
 だが相手は生さぬ仲の子が三人もいるプレドーラス国王、しかも前王妃を強引に離縁させた上での婚姻では、己が歓迎されるはずもない。その事実が、サデアーレの心を打ちのめし自暴自棄にさせた。到着したプレドーラスの王城が、長年暮らしていたイシェラの王宮に比べ遥かに見劣りする造りである事も、そうした気分に拍車をかけた。
 何故、と彼女は唇を噛む。私は将来イシェラを継ぐ身であったはず、だのに何故このような貧しい国へ、この年になって嫁がねばならぬのかっ!
 許せなかった。この縁組を決めた父も、それに賛成した大臣達も、王妃を離縁して婚姻を結べという理不尽な申し出に唯々諾々と従ったこの国の王と臣下も、誰も彼も皆許し難かった。
 そして彼女の荒れた心は、婚礼の夜引き合わされたプレドーラス王家の三人の子供達、二人の王女と末っ子の王子を怒りの吐け口、八つ当りの対象と定めたのである。


 エルセレナの眼に、初対面の義母サデアーレは老女として映った。それは引き離された母王妃と比較したせいもあるだろうが、主な要因は相手の眉間に深く刻まれた四本の縦皺と口元の小皺、そして気難しげな表情にあった。
 しかし、エルセレナは幼くても淑女であった。思った事を素直に口にしてはいけない場合も社交の場ではあるという事を、彼女は既に知っていた。だから、お父様の新しい連れ合いはまるでお婆さんみたいねと心の内で思いながらも、決して声にはしなかったのである。
 然るに、残念ながらそうした意味では、新たな王妃は淑女とは言い難かった。
「おお嫌だ、何て事。豚を放し飼いにしているの? この城では」
 彼女の発した第一声に、は? と周囲の者は首を傾げる。王妃の視線が自分に向けられていると気付いて、エルセレナは問い掛けた。
「何の事でしょう? 農場ならともかく、お城では豚を放し飼いになどしませんわ。それに、そもそもこの広間には豚などおりませんけれど」
 おや、と王妃は眉を寄せ、つんと顔をそらす。そのくせ、眼差しだけはエルセレナに向けたまま言った。
「人の言葉を話すところを見ると、どうやら豚ではなかったようね。あんまり不細工だから、てっきり婚儀の余興に豚へドレスと鬘を付けて連れて来たのかと思ったわ」
「………」
 エルセレナは顔色を失い、絶句した。よもや初対面の人間からこの様な台詞をぶつけられるとは、夢にも思わなかったのである。その上周囲の誰も、相手のそうした無礼な物言いに対し抗議しようとはしないのだ。普段なら自国の王女へのこの様な侮辱は決して許さない者達すら、顔を怒りに歪ませつつも無言なのである。
 公衆の面前で誇りを傷つけられたエルセレナの復讐をしてくれたのは、小さな弟王子アレクだった。無邪気な王子は、その場の異様な雰囲気に気付きもせず歩み出て、豪華なドレスに身を包んだ義母の顔を眺め、舌足らずな声で言ったのである。
「ねぇ、乳母やが言ってた新しいお母様ってこの人の事なの? 違うよね、姉様。だってこの人お婆さんだもん。お母様じゃなくてお祖母様だよね」
「アレク!」
 悪気はなかった。小さな王子に悪気は少しもなかったのだ。ただ見て感じたままを、素直に口にしてしまっただけなのだが、結果としてこれにより生さぬ仲の親子の初顔合わせの場は台無しとなったのである。
 本当の事をここまではっきり言われ逆上した王妃は、夫となるプレドーラス国王や臣下の目の前で幼い王子を追い回し、髪を掴んで引き摺っては殴る蹴るを繰り返した。慌てて止めに入ろうとした者達は、イシェラを敵に回したいの、というサデアーレの一言で及び腰となった。結局身を盾にして王子を庇ったのは、エルセレナと妹のリゼラ姫だけであった。
 子供達の父親でありサデアーレの夫の国王は、この騒ぎを止めに入らなかった。入れなかったのだ。己の国が、イシェラという巨大な猛禽類に狙われた小動物も同然の立場であると自覚していたが故に。
 そして国王であっても己の行動を止められない、という事実がその後の新王妃の振る舞いを決定付けた。以後、エルセレナとリゼラ、そしてアレクの三人に、生傷が絶える日は一日たりともなかったのである。


 娘の頭部が前後に揺れだした事に気付いて、エルセレナは思い出話を中断した。
 プレドーラスでの少女時代から侍女として仕えてくれた女官と視線を合わせ、微笑みを交わしつつ二人で寝入った王女を寝室へ運ぶ。暖炉の上の置き時計を見れば、もうじき日付が変わろうという時刻だった。田舎暮しで早寝早起きが習慣となっている、健康な子供の起きていられる時間帯ではない。
「どうしてお母様はこの国に来たの? プレドーラスでお生まれになったのでしょ?」
という娘の質問に答えるべく始めた思い出話だったが、少し前置きが長すぎたらしかった。眠る王女を部屋に残して、現ゲルバ王妃と側仕えの女官は灯りを燈したままの階下へ向かう。
「だけどこの前置きがない事には、どうしてかを正確に説明できないのよね」
 十歳になる娘を抱きかかえ運んだ為にこった肩と腕を手でほぐしつつ、長椅子の上に腰をおろしたエルセレナは呟く。彼女の乳母を勤めた女性の娘でもある女官は、主の為に温かい飲み物を用意しながら同意の印に頷いた。たとえ子供相手でも話を端折らず、理路整然と物事を語ろうとする主の性格を、女官は好ましいものと認識している。
「でもエルセレナ様、あれは余計だったと思いますけど」
「あれって?」
「あのイシェラ女の王女時代に関する説明と、その心理についての語りの部分です」
 エルセレナは納得し、苦笑する。
「あながちはずれてはいないと思うわよ、ノエラ。当時のイシェラ国王の行動、及び伝え聞いた情報と史実を組み合わせ推測した結果ですもの。真実に当たらずとも遠からず、な内容を語ったんじゃないかしら。心理分析としてはそんなにまずくないでしょう?」
 ノエラと呼ばれた女官は溜め息をつく。
「どちらかと言うと、私には大衆受けする小説の一部のように聞こえました。母親を失った不幸な王女とその弟妹、そこへ新たに降り掛かる災厄。大国から嫁いできた意地悪な継母、しかし彼女には彼女なりの屈折した想いと過去が……。いかがです? 実にそれっぽいでしょう」
 エルセレナは笑って、演技達者な女官へ拍手を送る。
「良いわね、ノエラ。確かに大衆向けの売れ線なお涙頂戴物語に相応しい筋書きだわ。ああ、いっそ本当に小説として書いて売り出そうかしら。尤もこの国じゃ購買層が限られてるから、売り上げはあまり期待できないわね。識字率の高い他国で出版しなくちゃ、国庫の足しにはならないわ」
「エルセレナ様……」
 女官は再度溜め息をつく。どこの世界に自ら小説を書いて稼ぎ、売り上げを国庫の足しにしようと考える王妃がいるのか。
 けれど彼女は、賢明にもそれを口にする事はなかった。言えば間違いなく、ここにいるわよと答えが返ってくる事実を知っていた為に。
 元プレドーラス王女にして現ゲルバ王妃エルセレナは、そういう人間なのである。
「でもねノエラ、そろそろ本気でお金儲けの手段を講じねばならない時期に来てるわよ。イシェラ制圧の為に投じられた金額は半端じゃないわ。その後も軍事費はかさむ一方、男手を奪われて農村部はお手上げ状態、更に税金はうなぎ登りで、おまけにイシェラの住民から掠奪してきた財宝も、庶民の口を潤す為には使われない、となると王家の存続も怪しいわね」
「……エルセレナ様」
 女官はまたもや出そうになった溜め息を堪え、主に向き直る。
「ですから、お国へ里帰り致しましょうと以前より言っております。貴方様を蔑ろにし、あまつさえ暗殺まで企てた男の妻で居続ける必要がどこにありますか」
「またその話? 耳にタコだわ」
「何度でも言わせていただきます。既にあのイシェラ女はいません。姫様がお帰りになられても、プレドーラスでは何の差し障りもないはずです」
 エルセレナは首を振る。
「差し障りは大いにあるわ、ノエラ。あの王妃が亡くなったのなら、アレクは安心して未来の妻を候補に上がった姫君の中から選べるはずでしょ。正式な婚姻は今回の戦の後始末が済んでからになるにせよ、出戻り女の居場所はないわ。弟の幸せを邪魔するつもりはなくてよ、私」
 言いながら、彼女は昨年の夏ひそかに届けられた、故郷の父からの手紙を思い出す。
 それは、手紙としてはひどく素っ気ないものだった。なにしろ書いてあったのはたった一行、イシェラは滅びた、それのみであったのだから。
 しかしエルセレナには、それで充分父の心情が汲み取れた。もう我慢する必要はない。妻と無理に離縁させられた恨みを、その妻に似た娘をいびり殺された恨みを遂に晴らせるのだ、今こそ晴らすのだと、その僅かな文面は示唆していた。踏み躙られた王としての、否、人としての尊厳も、無事取り戻せた事と思う。
 プレドーラスの王城で周囲に馴染もうともせず、二言目にはイシェラの名を口にし、居丈高に振る舞ったサデアーレの心境は、今夜娘に話して聞かせた内容とさして違わなかったろう。被害をその身に受けていない人間ならば、彼女を哀れと見る向きもあるかもしれない。
 だが、あのイシェラ出身の王妃は、妹を殺したのだ。直接短剣で喉を突いたのはリゼラにせよ、そう仕向けたのは、死ぬより逃れる術はないと思い込ませたのは間違いなくサデアーレであった。この事実がある限り、エルセレナの内に彼女に対する同情心が生まれる事はない。
 母王妃と同じ淡い金の髪と小さな唇、優しげな緑の眼をした内気な妹姫リゼラは、絶対に守ると決めた対象の一人だった。その守らねばならない存在が、ドレスを裂かれ人々の目の前で四ん這いにされていたあの時の衝撃、屈辱と怒りは十二年が過ぎた今も忘れられない。
 まして無理矢理離縁させられた母を熱愛していた父と、年の近い美貌の姉を慕っていた弟の抱いた憤怒の念は、想像に難くなかった。サデアーレがイシェラ滅亡後どのような殺され方をしたにしろ、それは自業自得というものだろう。
 イシェラは自分が継ぐべき国だったと、それをたかがカザレント如き弱小国の公子に譲ると宣言するなど狂気の沙汰だと断言し、王が国を空けている今が絶好の機会だから攻め入れと父に命じたその時点で、彼女の命運は尽きたのだ。
 イシェラという巨大な後ろ盾を失ってなお、自分が生かしておいてもらえると考えていたのなら、あの女の現状認識能力は極めて低いとしか言えない。
 あれだけプレドーラスを見下した発言を連発し、夫となった父王をイシェラの中流貴族にも劣ると虚仮にし続け、加えて大臣達をイシェラから連れてきた侍女より目下の者扱いして馬鹿にしながら、生命の危険を少しも感じていなかったとは信じ難い話である。
 そんな女がイシェラの支配者になる権利だけは主張していたのだから、救い様がない。イシェラという国家には恨みしかないが、それでも統治者たる王の跡継ぎであるべき人間がこんな者しかいなかったのなら、気の毒としか言い様がなかった。
 カザレントについては現在のところ、資源に乏しい小国の割に意外としぶとく、周辺諸国皆敵の状態で善戦を続けている国、という印象しかなかったが、そこの公子とやらにイシェラ国王が譲位したくなったのも、無理なからぬ事だとエルセレナは思う。誰であれあの義母よりは、理性と知性と思いやりを持ち合わせているだろうから。
「とにかく、実質上の権限は何も与えられていないお飾りの王妃である事はわかっているけれど、私にこの地位を進んで手放す気はないのよ。愛する娘の為にもね」
「リスティアナ様ですか……」
 女官は視線を床に落とす。王女の事を持ち出されると、彼女も口ごもるしかなかった。ゲルバを脱出しプレドーラスへ帰還する。自分達はそれで良い。元々この国の人間ではないのだから。しかしリスティアナは、彼女の主エルセレナの娘であったが、同時にゲルバ国王の血を引く唯一の存在、正真正銘ゲルバ王家の一員であった。
 プレドーラスへ王女を伴い帰国した場合、必ずしや彼女を巡り二国間で諍いが生じるだろう。そしてどういう結論が出たにしろ、主が娘を手放す事はありえなかった。
「……そうですね。リスティアナ様だけをこの国に残す訳にはいきません」
「そうよ。あの最低最悪ごろつきの変態糞男に、父親の権利なんか今更主張されてたまるものですか。生まれた時だって、女児じゃ役に立たんと顔すら見にこなかったくせに!」
 女官は相槌を打つ。
「ええ、私が覚えている限りでは、お誕生日の集まりにも一度もお見えになりませんでした。尤も、来たところで丁重にお帰り願ったでしょうけど」
「あら、どうして?」
 問われた女官は、ニコリともせず生真面目な顔で言う。
「清純な魂を持つ可愛い王女様に、若い男を寝室に連れ込むような変態の菌が付着したら困りますから」
 エルセレナは困惑の表情を浮かべた。確かに愛娘リスティアナは純で可愛い。緋色の髪だけは父親譲りだが、残りの部分は幸い全て母方似である。つまり、母親であるエルセレナよりも、その母に良く似た面差しと性格なのだ。それは同時に、失った妹姫リゼラにも似ている事になる。
 だからその点については、女官の評価に文句はない。しかしその後の台詞には、少々偏見が感じられた。故に、エルセレナは注意を促すべきだと判断する。
「……ノエラ」
「はい、何でしょう」
「あの最低最悪糞虫男を世間の同性愛者と一緒くたにしては、まっとうな同性愛者が気の毒というものよ。ちゃんとその前に脳味噌が働きを放棄してる人とか、権力を嵩にきて他人を苛める事しかできないろくでなしとか枕詞を付けなくては、変態にも悪いわね」
「………」
 今度困惑の表情を浮かべたのは、女官の方であった。
「あの、姫様。それって果たして枕詞と言うのでしょうか……」
「言わない?」
「私に聞かれましても……」
「ああ、そうね。あのイシェラから来た腐れ王妃が、嫁いで子を産むだけの道具には教育なんて無用と教師を全員解雇したりしなければ、私ももう少し利口になっていたでしょうに」
 自嘲気味に笑う主の姿に、女官は慌てて叫ぶ。
「そんな事! 姫様は充分利口でおられます」
「ありがとう、ノエラ。でも間違えないで。私はもう姫様ではないのよ」
「あ、……はい。失礼しました、エルセレナ様」
 それでも貴方様をこの国の王妃と呼ぶのは、少々心理的抵抗を感じます、と正直に語る女官にエルセレナは苦笑する。確かに自分も、あの馬鹿王オフェリスの妻と呼ばれるのは正直我慢がならない。
 ゲルバ王家のしきたりで、婚姻の署名を交わした当日臣下の前で夫婦の契りを交わすという儀式がなければ、二人の間に子供ができる事はなかったろう。それこそ、十年以上も前のあれが、オフェリスと寝台を共にした最初で最後の行為だったのである。
 結婚後ほんの数日で、二人はお互い口をききたくない、顔も見たくないと避け合うようになった。オフェリスはエルセレナを、己を不愉快にさせる事ばかり並べ立てる煩い女とけむたがり、エルセレナの方は、他人を自分より優れていると決して認めず、努力して肩を並べるのではなく相手を同じ場所まで引き摺り落として並ぼうとするオフェリスの姑息さを心底軽蔑して、生理的嫌悪感すら抱くようになっていた。
 実際彼女は、ゲルバの王宮で暮らしていた頃殆ど自室のある奥棟から出ようとしなかったのである。オフェリスと同じ空気を吸うと考えただけでも嫌、だったのだ。おかげでゲルバ国内では、民はおろか王宮に勤めている者すら大半は王妃エルセレナの顔を知らないという異常な事態になっている。
「どのみちこの国では、いくら正論を述べたところで女性の地位はプレドーラスより低いもの。王妃といったって単なる添え物でしかないわ。領主の館や各施設に飾られている肖像画も国王のみに限られてるし」
 肖像画、と聞いて女官は鼻を鳴らす。
「ああ、あの詐欺に等しい修正済みのあれですか」
「そう、詐欺としか言い様のない美化されたあれよ。あの絵を見て子供達が、これが自分達の国の王様だと思い込んで育ったら完璧詐欺よね。似てるのは髪と眼の色だけじゃないの」
「画家もいい迷惑です。己の審美眼を捩じ曲げてでも美男子に描かねばならないのですから。とはいえ、正直にありのまま描いては首が飛ぶのでしょうし、仕方ないですね」
 女二人は顔を合わせ、ハーッと嘆息を漏らした。ゲルバ国王に関する文句をこの主従が言い出したら切りがない。それ程までに、オフェリスの日頃の行いは目に余るものがあった。顔を合わさぬよう避けて引き篭もっていた奥棟まで、連日新たな悪評が届く程に。
 それでも、舅である前王が生きていた内はまだ良かったのだ。当時はとてもそう思えなかったが、今なら言える。あの頃は王宮にいても直接危害を加えられる事はなく、安心して子育てに専念できただけましだったのだと。
 エルセレナの立場が著しく悪化したのは、オフェリスが国王の地位に就いて、諌める者を片っ端から処刑、もしくは謹慎を言い渡し遠ざけるようになってからだ。
 そんな時換言できる者は、普通妻しかいない。少なくとも大臣達はそう考え、嫌がる彼女を無理矢理引っ張り出したのだ。そして、後の責任は一切取らなかった。
「そりゃあ私も一応妻だから、忠告に出向く義務はあると判断したわよ。少年にしか見えない外見の妖術師を雇い入れたのはともかく、伽の相手を命じて寝室に連れ込んだというのは一国の王として外聞が悪すぎるもの。だけどその返礼が臣下の前での鞭打ちと暗殺騒ぎ、加えてリスティアナ誘拐事件ではとても王宮にいられないわ。暗殺と誘拐は幸い未遂で済んだけど、全面的に私達母娘の味方だったオフタルお義父様もいない以上、庇ってくれる誰かなんてあそこでは期待するだけ無駄というものよね」
 結局二年前の一連の出来事の為に、ゲルバ王妃と王女及びプレドーラスから付き従ってきた面々は王宮を脱出したのである。そして彼女等母娘に好意を持つ僅かな護衛の兵に守られ辿り着いたのが、この王都を遠く離れた保養地の館であった。
 温泉があるというこの地には、前国王夫妻が若い頃何度か足を運んだと聞く。けれどオフェリスは硫黄の匂いと田舎の退屈な環境を嫌い、両親に連れられて来た子供の頃以降、ここを訪れる事はなかったらしい。
 見捨てられた形の館は荒れ果て埃と蜘蛛の巣に覆われて、王都を逃れた一行が到着した当時はとても王族の住めるような状態ではなかった。しかし、現在はまあまあ快適な住居となりつつある。
 何より周囲の住民に、前国王夫妻の事を記憶している者が多かったのが幸いした。彼等は自分達の生活を年々苦しくしている元凶であるにも関わらず、今なお王家に忠誠と敬愛の念を抱いていた。それ故、突然現われたエルセレナ一行を王家と縁続きの者と聞くや敬いの眼を向け、無償で掃除や修理をしてくれたのだ。
 内気で人見知りの激しいリスティアナも、二年が過ぎた今ではすっかり近所の子供達と仲良くなり、そり遊びや鬼ごっこの仲間に加えてもらったお返しに、読み書きや算数を教えている。特に物語や詩の朗読は王女の得意とするところで、子供達から人気があった。
 母娘の安全を脅かす存在の国王は、エルセレナが王宮から姿を消した事で満足したのか追っ手を差し向けようとはしなかった。この地に移ってからは、暗殺騒ぎが起こる事もなかった。
 プレドーラス出身のゲルバ王妃と彼女に仕える人々は、それなりに満足し質素だが平穏な日々を過ごしていたのである。そう、この日の夜までは。


 深夜の静寂が破られたのは、王妃と女官がそれぞれの寝室に引き上げ、寝台に身を横たえた直後だった。
「王妃様っ! 王妃エルセレナ様はこちらに御座しますか? 王都より急使として参りましたロトと申します。火急の件でお会いしとうございます。どうかお姿をお見せ下さいませっ!」
 門前から届く掠れた悲痛な声に、エルセレナは飛び起きる。門番の兵士が相手を制止して、小競り合いになってるらしかった。興奮した馬の嘶きが、男と兵士の声に交じって聞こえる。冬物の厚手のガウンを羽織って部屋を出ると、この騒ぎで同様に起こされたらしいノエラが、既に着替えて燭台を手に立っていた。
「エルセレナ様。いかに緊急の場合であろうと、女性が夜着姿で殿方の前に立つのははしたない事です」
 第一そのお姿で外に出ては凍えてしまいますよ、という女官の言葉にエルセレナは全面降伏し、おとなしく着替えに戻る。燭台を手にした女官は当然のように後に従い、主の着替えを手伝った。
 もちろん二人はその間、門前の騒ぎを徒に放置していた訳ではない。騒ぎに気付いて指示を仰ぎにきた兵士に、相手の所持品を検査し武器になりそうな物は取り上げてから応接室に通すよう、伝えた上での身仕度だった。
「あの声とロトという名前には覚えがあるから、身元は確認せずとも大丈夫と思うけど……。お義父様の元侍従が、忘れ去られた王妃に今更何の用かしらね」
 ブラシで髪を梳いていた女官は、エルセレナの漏らした呟きに形の良い眉を寄せる。
「急使とか火急の件とか申してましたから、慶事の知らせでないのは確かでしょう」
「慶事ねえ、今のこの国に慶事なんて転がってやしないのは知ってるわ。あぁでも……」
 エルセレナは口元を綻ばせ、小声で囁く。もしあの馬鹿夫が亡くなった知らせなら、表向きはともかく私達にとっては充分慶事だわ、と。女官も同意し、そうである事を祈りましょう、と笑った。
 むろん二人は、本気でそれを願った訳ではない。願っていた訳ではないが、支度を整えた後対面した前国王の侍従ロトがもたらした情報は限りなくそれに近く、そして余計なおまけがいくつも付いていた。付き過ぎていた、と言って良い。
 将校等によって襲撃を受けた王宮、大臣の地位にある者や主立った貴族の殺害、連れ去られ行方不明となった国王、それまで命令に従っていた妖獣達の突然の造反、そして異常に長引く冬、下手をすれば戦になりかねないプレドーラスからの抗議の書簡、扉を塞がれ絶対出られないはずの牢から忽然と姿を消した妖術師、等々々……。
「……ちょっと待ってちょうだい」
 非常事態を前に眠気もすっかり失せたエルセレナは、耳にした内容に頭痛を覚え、たまらず男の語りを遮った。
「情報を一旦整理させてもらうわ。まず軍の将校達が深夜王宮を襲撃した、これが事の発端なの?」
 そろそろ初老の域に達しようとしている前国王の侍従は、王妃の問いかけに顔を歪め首を振る。
「いえ、……私も聞いた話でしかないので確証は持てないのですが、生き延びた兵士によると、王がファウラン公爵の異母弟を拷問にかけ、死に至らしめた事がそもそもの原因ではないかと……」
「どういうこと?」
 元侍従は、溜め息と共に説明した。国王オフェリスが己の政策に異を唱えるファウラン公爵を目障りに思い、妖獣を使って暗殺したという噂は認めたくないが事実であると。しかもそれだけでは気が済まず、領地に暮らす家族も皆殺しにしようと企て妖獣を差し向けたのだと。
 のみならず、カザレントへ亡命しようとしていた公爵の異母弟を捕らえ、日々その身に拷問を加えて楽しんでいた事や、一時期は伽の相手までさせていた妖術師が、拷問の対象とされている青年に好意を持ち、手当てや食事の世話を進んで行なったが為に国王の不興を買ったという話を。
「妖術師が命じられた任務の為王宮を留守にしていた間に、ファウラン公爵の異母弟は殺されたそうなのですが、その事実を帰ってから知った妖術師は王に詰問したらしく……、怒った王は彼を逮捕し地下牢に繋いで扉も塞ぎ、生き埋めも同然の目にあわせたとか聞きました。一連の騒動の発端はこれにあると思われます」
 エルセレナは天井を仰いで嘆息した。いったいあの男は何を考えていたのか。妖獣を自在に操る力を持つ妖術師相手にそのような真似をして、本気で無事に済むとでも思っていたのかと。
「……将校等の起こした乱が、件の妖術師の仕組んだものかどうかはわかりません。しかし国境の向こうは春なのにゲルバだけが冬のまま取り残されている事と、各地で起きている妖獣達の造反は、間違いなくかの妖術師の呪いによるものだと思われます」
 そこまで言って、元侍従は堪えかねたように目から涙を溢れさせた。
「妖獣部隊を駐屯させていた地域の被害も目に余るものがありますが、王都の混乱はそれ以上です。国王もいなければ大臣もいない、将軍も士官も一人もいない、いいえ、現役の女官や侍従すら皆殺されて残っていないのです。そんな状態で外交やら苦情や誓願の処理やら軍への指示など出し様がありません。しかも我々は、貴方様が王宮を出られた事も、どこへ行かれたかも知りませんでした。この一ケ月というもの、我等は血眼で王と貴方様を捜して……何度も何度も見つからぬと諦めかけて……一時はもう本気で駄目かと……」
 嗚咽を漏らし、前国王の侍従はその場に土下座する。
「お願い致します、王妃様! 勝手な事を申しているのは百も承知の上ですがどうか、どうか王宮にお戻り下さいませっ! 貴方様の身が現王により暗殺の危険に晒されていた事も知らず、王宮を去った事すら知らずにいながらこの様な願いを口にするのは許されぬ事とわかっています。わかってはおりますがどうか……! この国を、ゲルバをお救い下さいませっ!」
「………」
 エルセレナは視線をさまよわせ、両の手をきつく組み合わせる。やるべき事はわかっていた。今、自分が立たねばならぬ事も。ただ、彼女にはどうしても腑に落ちない点があった。
 確かに今年は冬が長く居座りすぎていると村の住民同様己も不審に感じていたが、元侍従がもたらした情報は皆今日初めて耳にするものばかりである。王都の政変や妖獣部隊の造反といった類の大事件であれば、当然噂となってこの地にも流れてきて良いはずであった。にも関わらず、そんな噂を付近の住民が囁きあっていた事は一度もない。いくら辺鄙な田舎とはいえ、これはどう考えても妙だった。
 気になる事は、もう一つある。王宮内にいて生き残った者は、誰も自分の行方を知らなかったはずである。ロト自身、知らなかったとはっきり言っている。ならば何故、確信を持って彼はこの館に来たのか。
 いくら王都が混乱しているにせよ、普通そこにいるかどうかも確認せぬ内に急使を走らせたりはせぬだろう。門前で王妃様と呼び叫ぶ行為も、確実にいると思っていなければ実行できはしない。
 その辺りの疑問をエルセレナが尋ねると、前国王の侍従は苦悩の表情で答えた。例の地下牢から姿を消した妖術師が、数日前唐突に王宮に現われ我々に告げた為です、と。
「貴方様とリスティアナ王女がこちらの保養地の館にいるから、ゲルバをこのまま滅ぼしたくないのなら急いで迎えに行くと良いと……。それから、結界を張っているので妖獣は入り込めないが、外部情報も全部遮断されているから、現在の状況はまるでわかっていないものと考えた方が良い、とも申しておりました」
「妖術師が?」
「はい。幻かとも思いましたが、私以外の者も何人かその姿を見、声を聞いております。それ故、急使として私がこの地まで馳せ参じた次第で……」
 エルセレナは眉を寄せる。それが事実なら、件の妖術師の行動はひどく矛盾している。自身が呪いをかけゲルバ全土を冬のままにし、妖獣を暴れさせ国中混乱に陥れながら、何故一方では救いの手を差し伸べようとするのか。本気でゲルバを滅ぼしたいのなら、自分と王女である娘は真っ先に殺すべき対象となる。だのに何故、その障害物となる存在を妖獣の襲撃から守ったのか?
「あまり考えたくはないけど、私如きの働きでは大した救いにもならないから、生かしておいたところで支障はない、というつもり……だったら嫌だわね」
 自嘲気味に呟き、エルセレナは頭を上げる。戻らねばならなかった。二年前逃げたあの場所、捨ててきた王都に。王妃として、王家の一員に生まれた者の義務を遂行せねばならなかった。
「わかりました。時間が惜しいので、詳しくは道中説明していただくとしましょう。ただちに必要な物を揃え出発します。ノエラ、よろしく頼むわね」
「はい、エルセレナ様。早急に用意致します」
 糧食や馬車の手配、着替え等の荷造りをすべく、女官はすぐさま行動に移った。前国王の侍従は、床に跪いたまま感謝の言葉を繰り返している。過度に期待されても困るのだけど、と苦笑気味のゲルバ王妃は呟いたが、その声は感激に咽び泣く男の耳には届かなかった。



◇ ◇ ◇


 頭を胸にもたせかけたまま眠っていた相手が、離れようとして身を捩らせ動く。自身も眠りに落ちかけていた蜘蛛使いは、その気配に気付いて急激に覚醒し、立ち上がろうとした相手を捉え、引き戻した。
「ケアス」
 困惑した声が、耳を掠める。泣きたくなる程懐かしい声が、名前を呼ぶ。
「駄目だ。まだ動くな、側にいろ」
 命令口調で告げてから、亜麻色の髪の妖魔は苦笑した。どうしてなのか、レアールに対してだけはこういう喋り方になる。意識して使い分けている訳でもないのにだ。
 そう言えば、本物のケアスはこういう喋り方をしていたなと唐突に彼は思い出す。親しく付き合っていた者とは、確かこうした口調で言葉を交わしていたと。
(そうか)
 蜘蛛使いは納得する。たぶん自分は、レアールに対してだけ本当にケアスとなるのだ。何故そうなるのかはわからないが、レアールの前では無意識に本物のケアスとして振る舞えるのだと。
「ケアス、俺はこの格好でいるのはもう嫌だ。だからいい加減離せ。ちゃんと服を着させてくれ」
 眠気が去って羞恥心が甦ったのか、顔を赤らめながら黒髪の妖魔は文句を口にする。彼が身に付けていた黒の長衣は、現在辛うじて手首に引っ掛かってるだけ、といった有り様だった。
「だいたい昔からそうだが、お前は根性が悪すぎるぞ。こっちだけ脱がせておいて、自分は最初から最後まで着たままってのは狡すぎる」
「おや」
 蜘蛛使いはニンマリ笑ってレアールに戯れかかった。
「何だ、私を脱がせたかったのなら素直にそう言えば良かったのに。ほら、今からでも遅くはないぞ。脱がせてみろ、協力するから」
「ケアスっ!」
 ろくでもない申し出に、レアールは赤面し怒鳴る。
「俺はそういう事を要求してるんじゃない。誰が男の裸なんか見たいものか」
「見たくないのか?」
「見たい訳ないだろう」
「変だな。私はお前のなら見たいんだが」
「……ケアス……」
 レアールは頭を抱え、脱力して息を吐く。どうして自分達はこうも思考が噛み合わないのかと。
 それでもどうにか執拗な抱擁から逃れ衣装をまともに着なおすと、再び彼は蜘蛛使いの隣に横たわり、眼差しを向ける。その物言いたげな視線が気になって、蜘蛛使いは自分から問いかけた。
「どうした?」
「……その、お前に聞くのは筋が違うと思うんだが、他に聞ける相手もいないし……」
 躊躇し、散々迷ったあげく、黒髪の妖魔は口にする。パピネスと人間界で会わなかったか、と。
 何を悩んでいるのかと思ったらそんな事か、と蜘蛛使いは微苦笑する。たかがそれだけの事を聞くのに、何でそこまで躊躇うのかと思いながら。
「会ったぞ。見てみるか?」
「見せてくれるのか?」
 弾む声音で喜びを素直に示す相手に、蜘蛛使いは笑いながら口づけ記憶にある赤毛のハンターの姿を送り込んだ。発育不良だった少年時代とは違う、それなりに鍛えられた体に成長したパピネスの映像を。テーブルに山と盛られた料理を平然と平らげ、大量の妖獣を倒し、屈託なく自分に話しかけてくる青年の声と姿を、蜘蛛使いは見せてやった。レアールの脳裏に直接送り込む形で。
「私を許すと言うんだ。あのハンターは」
 何も言えずにいる相手を抱きしめ、蜘蛛使いは囁く。
「我ながら酷い真似をしたと今は実感してるんだが、……許すと言った。私がお前を好きだったと知ってるから許せると、許してやると言われた。人間は……本当に成長するのが早いな。気が付いたら、向こうの方が先に大人になっていた」
「……そうか……」
 確かにそうだな、とレアールは呟く。人間の成長は早い、そして自分は置いていかれてしまう、と。
「レアール?」
 黒髪の妖魔は微笑して蜘蛛使いから離れ、立ち上がると同時に手の内にある何かを握り潰した。
 瞬間、妖魔界の王が作り上げた空間に衝撃が走る。圧縮された空気に包まれ、蜘蛛使いはその場から弾き飛ばされた。何が起きたのか、彼にはわからなかった。わからぬまま、己の意志を完全に無視された形でレアールから遠ざけられていた。
「王に合図を送った。もうじき、この空間は消滅する」
「なっ……!」
 崩れていく空間の地表に、一人残った男は笑う。
「大丈夫だ。お前は巻き込まれたりしないから。消滅と同時に転移させられる事になっている。王は、大事な側近であるお前を死なせたくはないそうだ」

「冗談じゃないっ! 勝手な事をほざくなと伝えてやれ。それより何をボンヤリ突っ立っているんだ、レアール。さっさと逃げろっ! そこは危険だ」
 黒髪の妖魔は、静かに首を振った。
「言っただろう。俺のこの姿は、ここでしか保たれない。俺は、俺が記憶している俺のまま逝きたいんだ。ケアス」
「なに……」
 蜘蛛使いは絶句する。ひび割れ崩れていく足場を移動しながら、消滅間近の空間に残った相手は言葉を続けた。果実水を注ぐ前に唇を寄せられた掌を見つめつつ。
「一応、感謝はしておこう。最後の記憶としては悪くない。本当に……悪くはなかった。ただ俺は……」
 天井から落下してきた岩が、肩を直撃し骨を砕く。レアールはうずくまり、それ以上移動する事はなかった。
「俺は、お前の為には生きられないんだ。ケアス」
 そして自分の為にも生きられない、と彼は言う。
「少し……ああ、少しじゃないな。かなり疲れて……、疲れすぎてしまって、生きたいという本能が欠落してしまったらしい。今の俺には、生きる気力がまるでない」
 そういう奴に、無理に生きろと望むのは酷だぞと黒髪の妖魔は苦笑する。
「そうだな……、もしも本来の環境で育っていたら、こんな風に死にたがりはしなかったのかな……。けれど俺は、普通の妖魔として生まれなかったし育たなかった」
 空間が悲鳴を上げる。縦に、横に、激しく軋む。蜘蛛使いはたまらず叫び、手を相手に向け伸ばそうとする。決して届かないとわかっている手を。
 呼ぶ声が聞こえたのか、レアールは顔を向ける。砕けた岩の破片を受け、片側が血まみれになった顔を。言葉は、なおも紡がれていた。だがそれは、轟音の中音声として届かなかった。落下してきた岩が、彼の姿を視界から消し去る。空間は、その瞬間消滅した。


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