断罪の瞳6《2》



「ゲルバ国内が妙な事になっているって? これまでだって既に充分妙だったぞ。それ以上にか?」
 長い髪を大ざっぱな三つ編みに纏め、兵舎から持ち込まれた大量の繕い物を凄まじい勢いでこなしていたルーディックは、耳にした聞き捨てならない内容に針を動かしていた手を止めた。
「そっ、国境を境にして季節が見事に冬と春に分かれてる事より、更に妙な事態がゲルバ全土で進行中なんだとさ」
 室内に一つしかない椅子を占拠した赤毛のハンターは、深刻な内容とは裏腹の軽い口調で呟く。
「さっき戻ってきたザドゥが城塞守護職と話てんの小耳に挟んだんだがな。ほら、ここんとこ国境付近まで逃げてきて殺されたみたいな感じのゲルバ兵士の死体が多いって事、この前話したろ? 妖獣も前と違って頻繁に姿を眼にするし。その割に、何故か国境を越えて入ってこようとはしないって事もな」
 ああ、とルーディックは相槌を打つ。
「昨夜の場合は、運良く殺られる前に国境を越えた者が二名いて、見回りの部隊に無事発見、保護された訳だ。追っ手の妖獣達は数匹ほどいたらしいが、国境を越えた彼等に手を出そうとはしなかったらしい。見回りの兵士へ攻撃を仕掛ける事もなしだ。で、その二人だけど昨夜の時点では残念ながら、事情を聞くのは無理だったんだよな。理由はわかってるだろうけどさ」
「まぁな」
 国境を越えてきたその二人ならば、ルーディックも眼にしていた。呪術師見習いでも良いから手当てに協力して欲しいとザドゥに頼まれ、怪我人が運び込まれた先の民家を訪れた為に。
 救助されたうちの一人は、兵服に身を包んだ若い男性で全身血まみれ、意識不明の重体だった。確かにあれでは、城塞まで運び込む事はできなかったろう。取り合えず出血を止め傷口をふさぐ程度の事はしたが、それ以上の妖力を使う事は手控えた。助かる運命にある者なら、この程度の処置でも死からは逃れるだろうと考えて。
 もう一人は男の身内と思わしき女性だったが、負った傷自体はともかく、恐怖と衝撃に錯乱し興奮状態で叫び続けていた。あれでは事情説明など求めるだけ無駄というものである。故に、鎮静作用のあるお茶を飲ませて暫し眠ってもらう事にしたのだ。ほぼ適切な処置だった、とは思っている。
「明け方になって男の容体が峠を越し、意識も戻ったそうなんだ。それで今朝には二人とも質問に応じてくれたって話だけどな」
 ところがその内容がとんでもなかったんだとさ、とハンターは肩を竦める。
「だってなぁ、これが本当ならまじで大変だぜ。呪いで国ごと冬のまま閉じ込められたって噂どころじゃない。ゲルバの王都で政変発生、軍の若手将校が深夜王宮を襲撃し主立った貴族や大臣を片っ端から殺害、その後国王を寝室からかっ攫い逃走、今なお行方が知れず、なんてさ。加えて各地の妖獣部隊が突然造反、暴徒化したってんだからこりゃあやっかいだ」
 下手すりゃゲルバは一年と持たずに滅びちまううんじゃないか、とお先真っ暗な未来予想を口にした赤毛のハンターは、ようやく目の前の相手の奇行に気づく。
「ああ? 何やってんだよ、あんた。自分の指に針突き刺してどうするんだ?」
「え? あ……」
 我に返ったルーディックは、己の指に視線を向ける。長い針が深々と人差し指に刺さっているのを見て、つい後先考えずに引き抜いた。
「つっ……! 痛ぁ……」
「痛いに決まってるだろ、馬鹿。あー、血が床に滴っちまうぜ。勿体ねぇ」

 言うなり手を掴み、血がぷっくり盛り上がった指を口に含んだハンターに、ルーディックは絶句する。
「あの……、ハンター」
「んっ?」
「確か前に聞いた覚えがあるんだが、……血を吸いたいという欲求は消えたんじゃなかったのか?」
「消えたけど、妖魔の血が美味しいのと流れる血が勿体ないって感覚はそのまんまだぜ。んっとに勿体ない事するなぁ、あんた。あ、まーだ出てくる」
 言葉を返しつつも、ハンターは血を舐め取る作業をやめない。ざらついた、生暖かい舌の感触に刺激され、喘ぎを漏らしかけたルーディックは慌てて口を手で覆う。
 性的な意味合いなど欠片もなく指を含み血を舐めているパピネスは、そうした相手の反応にとことん無頓着である。その事実が、ルーディックの神経を逆撫でした。
 いっそ蹴り飛ばして逃げてやろうか、この鈍感、と彼は心の内で考える。余りに小さな傷なのでうっかり忘れていたが、血などその気になればすぐに止められるのだ。行動に出たところで、何ら問題はないはずである。
だが、どうしてか実行に移す事はできなかった。指を相手の口から抜いて、手を振り払い逃げる。たかがその程度の事をするのが、何故かひどくためらわれた。してはいけないような気がしてならなかった。
 幸い、ルーディックの不安定な精神に感応し異界の魔が出現する事はなかった。それより前に、ハンターが舐めるのをやめ解放してくれたので。何をやってるんだかと、あきれた様子で顔を覗かせた男の存在故に。
「よう、ザドゥ。珍しいじゃん、あんたがこっちへ顔を出すとは。いいのか? 仕事ほっぽらかして」
 妙な現場を見られたという照れもなく、あっけらかんとパピネスは言う。ザドゥは苦笑し、室内へ足を踏み入れると後ろ手で扉を閉めた。
「立ち聞きした後にこちらへ向かったのを眼にしたんでな、もしかしたらと様子を見に来たんだが……。聞いた内容をお客人に話したのか?」
 ハンターは、当然と言いたげに唇の端を上げた。
「そしたらこいつってば間抜けにも、針を自分の指へ刺してやんの。いくらびっくりしたにせよ、馬鹿な真似してるぜ」
「ハンター、年長者相手にその言い草は良くないぞ」
「年上だろうが馬鹿は馬鹿だろ。繕い物してて指まで縫うなんざ、すっげぇ馬鹿だ」
 言い方は乱暴だが、心配しての台詞である事はその表情から窺えた。そこでザドゥはそれ以上の注意を控え、心底すまなそうな表情でルーディックへと向き直る。
「兵どもが揃いも揃って連日ご迷惑をおかけし申し訳ない、お客人。毎日料理とデザート作りをしてもらってるだけでも心苦しいのに、これに至っては……。繕い物ぐらいは自分でやれと、常々言い聞かせてあるのだが」
「なに、人には向き不向きがあるものだ。こっちが好きでやってる事だし、気にしないでくれ」
 生真面目に頭を下げ詫びる責任者に、微苦笑してルーディックは応える。とは言え、実のところ料理とデザート作りは好きでやってる事だが、繕い物はそうではない。
 自分でやれと言われた兵士達が途中で放棄し、ボタンが取れ、あるいは肩口の破れた衣服をそのまま着続けていたのは、積まれた繕い物の山を見れば一目瞭然だった。
 たまたま眼についた一人の兵士の、裂けた袖口を繕ってやったのが運の尽きだったな、とルーディックは自嘲する。話が兵から兵へと伝わった結果、今では連日こうした衣類が部屋へと持ち込まれるのだから。
 そうした心情を見抜いているのか、ザドゥはすまなそうな表情を崩さず、そちらの任務に支障をきたしては……と頻りにぼやいている。当事者の答えに、納得はしていないらしかった。それを無視して、ルーディックは気がかりな件を尋ねる。
「で、先程聞かされた話の内容は本当なのか? 責任者殿」
 訊かれて、ザドゥは眉を寄せる。
「判断材料に乏しいので、断言はできん。ただ、俺にはあの二人が揃って嘘を言ってるようには見えなかった」
「ならば信憑性はあるんだな?」
「勘だがな。事実かもしれんという気がする。実際に調べてみない事には、正直何とも言えんが」
「調べるつもりがあるのなら、俺を行かせてくれないか。己の任務と関連があるかも知れないし、その方が調査も報告も早い。わかるだろう? 俺は、空間を跳んでどこへでも移動できる。まぁ、何日か料理作りをさぼる事にはなるだろうが、その辺は勘弁してもらいたい」
 提案を受けたザドゥは、一瞬虚を突かれた表情になる。どうやら今の今まで、相手の特殊能力を忘れ去っていたらしい。ルーディックは苦笑し、お願いする、と頭を下げた。
「俺も賛成だな。ゲルバの現状を調査しカディラの都へ報告する必要はあるが、妖獣が暴れているとわかっている地に普通の人間を送り込むのは無謀だ。その点この人なら問題はないぜ。自分の身は自分で守れるからな」
 後押しするハンターの言葉を聞いても、ザドゥは了承しなかった。渋い表情も変わらない。
「理屈ではそうだろう。だが、関連性があるかどうかもはっきりしていないのに、お客人にそういう危険な真似をさせるのは……」
「俺も同行する。相手が妖獣なら、危険には決して晒さないと誓う。それでどうだ?」
 隻眼のザドゥは、一瞬眉を吊り上げて赤毛のハンターを睨み、やがて苦笑を漏らした。
「もしかしなくても、最初からそのつもりでお客人に情報を流した訳だな? ハンター」
「決まってるだろ。利用できる人材は大いに利用すべきだぜ。本人もそれを希望してる事だし、この際話に乗っちまえよ。遠慮はいらないって」
 パピネスの言い分に、ザドゥは天井を仰ぎ嘆息した。
「……やむを得ん。同意しよう。確かにそれが一番確実な方法のようだ」
 ハンターとルーディックは視線を交わし、やったとばかりに手を打ち合う。その様を見つめるザドゥは、どうにも気が進まぬといった苦い顔だった。
 こうして妖獣ハンター・パピネスと、元は人間、現在は妖魔の肉体を持つルーディックの二名によるゲルバ潜入極秘調査活動は、ヤンデンベール城塞の実質上の責任者からすれば甚だ不本意な形で決定したのである。


 妖魔界でこの光景を眺めていた王は、こみ上げる笑いを抑える事ができなかった。
「……何とまぁ、この界にいた頃と違って生き生きとしているものだな。己の名を名乗り自分として行動するというのは、これ程までに意識を変化させ活力を与えるという事か。ふむ、人の精神とはなかなかに興味深い」
 笑いを収めた王が最後に映し出したのは、妖魔界時間で七ヶ月前に蜘蛛使いを閉じ込めた、例の鍾乳洞を思わせる空間であった。
 蜘蛛使いは、未だその場所にいた。
 四肢はもう岩に封じ込まれてはいない。自由に動ける状態になっている。けれども彼は焦燥にかられ唇をきつく噛みながらも、動こうとはしなかった。いつでも脱出できる力を持ちながら、脱出する事をためらっていた。
 原因は間違いなく、閉じ込めた際、王が放った台詞にあるのだろう。
 蜘蛛使いが脱出して先に向かった界が人間界であればレアールの魂を、妖魔界であればルーディックの魂を消滅させる、そう言い渡したのだ。どちらかを選べ、そなた次第で一方は死ぬのだ、と。ルーディックを知ったが故にそれまではなかった執着心を持つようになった存在に、レアールと生きたいが為に同族の心臓を喰らってまで能力と寿命を延ばした男に。選べと、選択を迫ったのだ。
 それでも異界の魔物を魂に封じていた頃の蜘蛛使いであれば、いかに執着心や愛情があろうと結局はどちらかを見捨て、脱出を図っていた事だろう。こんな風に自分を犠牲にする形で迷い続けたりはしなかったはずである。
 彼を閉じ込めた空間の時の流れは、妖魔界より極端に遅い。それでもいい加減飢えや乾きを覚えている頃だった。空気は湿気を含んでいるが、飲むべき水はない。食物もない。このまま居続ければ、いずれ衰弱し自力では脱出できなくなる可能性もある。
「それもまた困るな」
 王は首を傾げつつ呟く。少し度を超した意地悪はしたものの、別に蜘蛛使いを殺したい程憎んでいる訳ではなかったのだ。むしろ部下としては他の側近より遥かに親しみを感じている。彼が異界の魔物を解放し、王宮を半壊させた件も多くの死者を出した件も、王にとっては既にどうでも良い事柄になっていた。ただ、簡単に許してやっては面白くないと考えただけである。だからこそあんな脅しを口にしたのだが、ここまで相手が真剣に受け止め悩むとは計算外だった。
 とは言え、今更あれは冗談だったと前言を撤回するのはきまりが悪い。下手をすれば一生ねちねち文句を言われかねない。しかしこのまま衰弱死されても困る。それだけは絶対に避けたい。これらの問題をいかに回避し状況を打破すべきかと、王は思考を巡らせた。
「……蜘蛛使いには少し気の毒な気もするが、この際あの者を向かわせるとするか。結局は本人の意志を優先する事になる訳だし、特に問題はなかろう」
 数分後、結論を下した王は枠を消し去ると同時に小さな球体を指先に発生させる。微かに病的な光を放つ儚げな球体は、王の手に包まれた瞬間、その姿を変化させていく。長い黒髪、黒の長衣を身に纏った、長身の男の姿へと。



◇ ◇ ◇


 鼻先を、ほのかに甘い香りがくすぐった。
 蜘蛛使いは膝の間に埋めていた顔を上げ、見えない糸を周囲に放って匂いの元を探す。
 王が作り上げたこの空間には、自分以外の誰も存在しないはずであった。強引に何かが侵入した時のような気の乱れも、まるで感じられない。
 しかし、先程までは何の匂いも嗅ぎ取れなかった空気に、今は微かにせよ甘い香りが混じっている。疲労しきった脳が匂いがあると間違えて信号を送ってるとか、嗅覚がおかしくなったと考えるよりは、誰かがこの空間に入り込んだと見なす方が妥当であった。それも、空間が抵抗なく受け入れたところから察するに、王が認め差し向けた者と思われる。
 蜘蛛使いは溜め息をついた。そうでなくても喉の渇きと空腹で気がささくれ立っているのに、この上あの王の息がかかった者と御対面はしたくはない。
「………」
 糸が、侵入者を発見した。蜘蛛使いはその存在を見えない糸で捕縛し、己の元へと誘導する。王が送り込んだ者の相手などしたくはないのが本音だが、漂う甘い香りが気にかかる。それに放った糸は、侵入者が何かを腕に抱えている事、そこから水の気配がしている事も彼に伝えていた。
 もし侵入者が飲み物をここへ持ち込んだのなら、それは是非とも手に入れたい。そう、蜘蛛使いは願う。喉は、飲むべき水が存在しないと諦めていた先刻までと異なり、強く渇きを訴えていた。
(この際、どの同僚と顔を会わせるはめになっても我慢するとして、飲み物を渡してもらうのが先決ですね。おとなしく渡してくれればの話ですが)
 渡さぬようなら腕ずくでも、と物騒な決意を固め、蜘蛛使いは糸を強化し侵入者を引き寄せる。同じ空間に現れたとは言え、岩の陰の視界に映らぬ遙か奥辺りをうろついていたらしい相手が姿を見せるまでには、けっこう間があった。
 だが、その相手の姿を眼にした瞬間───。
「!」
 蜘蛛使いは、それまで無気力にうずくまっていたのが嘘のように勢いよく立ち上がり、不安定な足場をものともせず、鍾乳洞を模した空間の彼方に現れた相手目掛けて駆け出していた。
「レアールっ!」
 大きく両腕を広げ、疾走しながらその名を呼ぶ。二度と会う事は叶わないと、幾度か思わされた相手の名を。
 蜘蛛使いの糸に捕縛され、壺を抱えた状態で体の自由を奪われていた侵入者は、立ち止まる事も許されぬまま進まされ、突進してきた男の体当たりをまともに受けるはめとなった。
「……ケアス」
 多少、非難めいた響きがその声にこもっていたとしても、この場合仕方なかろう。共にひっくり返らなかったのが奇跡、としか言えぬ程の激しさで当たりを受けたのだから。
「王から差し入れに持って行くよう渡された果実水を、俺の髪や衣装に飲ませても意味はないと思うんだが」
 長い黒髪と黒い眼をした長身の妖魔は、髪の先から雫を垂らしつつ抗議する。濡れているのは衣装と髪だけではなかった。顔も下半分は、赤みを帯びた果実水を浴びている。
「ああ、すまなかったな」
 少しもすまないとは感じていない口調で蜘蛛使いは謝罪し、相手の頬へと唇を寄せた。そのまま、滑らせる様にして肌の表面を濡らした果実水を吸い上げる。
「おい、ケアス」
 黒髪の妖魔は、身を強張らせ狼狽した声音で呼びかけた。体の自由を奪った糸は、まだ外されていない。故に、彼は抵抗もできなかった。
 顎を伝う水滴を舌が舐め取る。うなじを指先が撫でていく。有無を言わせぬ相手の行動に、捕縛された男は溜め息をついた。
「……確かにあの王は果実水を入れた壺だけ持たせて、飲む為の器は渡してくれなかったが……。こんな飲み方は普通しないと思うぞ」
「それもそうだな」
 蜘蛛使いは同意し、一旦身を離す。そして糸の一部を回収すると、レアールの両手に自由を与えた。
「ならばその手に容器の代わりを務めてもらうとしよう。いいな?」
「おいっ……!」
 良くない、と抗議をするより早く、蜘蛛使いは壺を取り上げ再度相手の手を拘束する。今度は両手を器状に合わせた形で。
「しかし、いつ見ても相変わらずの荒れた手だな。豆は潰れてるしあかぎれはあるし、およそ妖魔らしくない」
 目の前の手へ壺の底に残っていた中身を注ごうとした蜘蛛使いは、ふとその掌を覗き込み呟きを漏らす。言われた黒髪の妖魔は、苦笑して肩を竦めた。
「王の話では、妖魔らしい優美な手にする事も可能なんだそうだが……、俺がこの姿でいた時の手はこうだったと記憶しているからな。どうもそれに引き摺られてしまうらしい」
「記憶してるからこうだと?」
 レアールは頷く。
「この身体が本来のそれでない事はわかるだろう、ケアス。これは言わば幽体みたいなものだ。俺の魂がこの姿でいる事を望み、形成している。ここにいる間だけ、実体の如く見せられる偽りの体なんだ。出ればまた器を持たない、ただの魂の欠片に戻る」
「ずっとそのままではいられないのか? こうして独立している事は……」
 問いかけに、幽体に過ぎぬ男は首を振った。
「俺の本当の体の事は知ってるな? 王に呼び出されたルーディックが仕方なく動かしているあの肉体を。本来、俺はあの中にあるべきものなんだ。今は王の妖力で守られているから、こうして離れても意識を保ち存在していられるが、それがなければ遠からず消滅する」
「………」
蜘蛛使いは唇を噛む。その前へ、器状に合わされたレアールの両手が差し出された。
「残った果実水、飲んでしまわないのか? もう喉が渇いていないのなら別に良いだろうが」
「ああ……。いや、まだ渇いてはいる」
 思い出したように呟いて、蜘蛛使いは壺を持ち直す。
「この手、やっぱり少しは妖魔らしいものに変化させた方が良いか。これを器に飲むのはちょっと……、俺でも躊躇しそうな気がする」
 潰れた豆だらけの、あかぎれでひびが入った手に注いだ飲み物を口にするのは嫌じゃないかと、レアールは訊く。蜘蛛使いは答える代わりに屈み込み、その掌へ軽く唇を押し当てて相手を黙らせた。
「お前の手はこれだ。昔からこれだった。私の知っているお前の手のままでいい」
「………」
 その言葉と行動に、黒髪の妖魔ははにかんだ微笑を見せる。
「どうした?」
「いや、……そういう風に自分を認めてもらえるのは嬉しいものだなと思ったんだ。それだけだ、ケアス」
 蜘蛛使いはああ、と納得する。そうした感情は彼にも理解できた。さっきからケアスと呼ばれる度、密かに喜びを噛み締めていたが故に。
 妖魔界の王は彼をケアスの名で呼ばない。彼が本物のケアスでない事を知っているマーシアも、呼んではくれなかった。ルーディックの場合、人前では任務と割り切り一応その名で呼んでくれるのだが、本音では呼びたくないと思っているのが見え見えである。過去を振り返ればそれも当然であるが、蜘蛛使いとしては少々辛い。
 だからこそ、自分をケアスと見なして名を呼ぶパピネスの存在がありがたかった。同様に、現在は王からほぼ事情を聞かされてるはずのレアールが、それでも己をケアスと認識し、名前を呼んでくれる事実が無性に嬉しい。喉の渇きがこれほどひどくなければ、今すぐ抱きしめて接吻の雨を降らせたいほど愛しかった。
 壺に残っていた果実水を、長い黒髪の妖魔の手中に注ぐ。
 荒れた手は、言わば相手の勲章だった。傷つけられ虐げられながらそれでも耐えて生き抜いてきた者の、長年の苦労を刻み込んだ証の手。
 出会って、最初にその顔立ちを眼にした時から、ルーディックに似てると思いちょっかいをかけた。長らく、ルーディックの身代わりとして扱っていた存在ではある。
 けれど今は違っていた。蜘蛛使いは認識を改めていた。ルーディックはルーディックであり、レアールはレアールであると。誰の身代わりでもなかった。どちらも大事で、どちらも欲しかった。二度と失いたくはなかった。
 掌の中の果実水を、こぼさぬようにそっと飲む。象牙色の肌をした黒い眼の妖魔は、穏やかな笑みを浮かべ容器代わりの手をおとなしく差し出している。甘酸っぱい果実水が喉を潤すと同時に、心の渇きも癒していく。
 求めていた相手が傍にいた。全ての記憶を取り戻しながら憎しみを向けるでもなく、昔のままの姿と態度で。
 糸を、己の内に回収する。相手の体を捕縛から解放する。されど男が動くより早く、蜘蛛使いはその髪に指を埋め、抱き寄せて唇を重ねていた。
「触れたい」
 拒絶の言葉を口にされる前に、彼は男の耳へ囁きかける。

「お前に触れたい」
「ケアス」
「欲しい。……駄目か?」
 これは幽体みたいなものだと言ったろう、とレアールはぼやく。どうしてそんなに物好きなんだ、と。
「こうして触れられるのに、できないと言うのか?」
「いや、できなくはないだろうが……。そうじゃなくて、お前はその気でも俺の意思はどうなる?」
「嫌なのか?」
 自分が強く求めている以上、拒絶は絶対有り得ないと頭から決め付けて、蜘蛛使いは尋ねる。黒髪の妖魔はこめかみを押さえた。嫌じゃないとでも思っているのか、互いの性別を忘れ去っているんじゃないだろうな、と。
「そんな事は大した問題じゃないだろう。そもそも妖魔は普通、好きになった相手の性別になどこだわったりはしないものだ」
 気にするお前の方がおかしいと言い切られ、レアールは脱力して息を吐く。
「……あのなケアス、どうしてもって言うなら応じないでもないが、ルーディックと呼ぶのはなしだぞ。お前は大抵、そう呼ぶからな。まぁ、無意識なんだろうが」
「ルーディックと呼んだ? 私がか?」
「お前以外の誰が呼ぶんだ? だから、無意識の事なんだろうとわかってはいる。ただ、少しばかりやりきれない気分になるから、今回はそいつはなしにしてくれ」
 蜘蛛使いはさすがに反省し、神妙な顔になる。確かに無意識で呼んだのだろうが、気乗りしない相手へ強引にやっておきながら他者の名を呼ぶなど、殺されても文句は言えない所業であった。
「悪かった。今後は呼ばない」
「別に、今だけ呼ばなければ俺はそれで良いんだが」
「そうはいくか。私は真実反省したんだ。今後は決してルーディックの名を呼んだりしないと約束する」
 相手の本気を見て取って、黒髪の妖魔は苦笑し両手を広げ、受け入れの合図を送る。ならいいぞ、と。過去はどうあれ、今回の行為は間違いなく合意の上だった。


 後に、蜘蛛使いは何度となくこの時のやりとりを思い出し、後悔の念に苛まれる事となる。どうしてもっとレアールの言葉の意味を深く考えなかったのか、今だけ呼ばなければそれで良いと言った相手の真意を、何故自分は見抜けなかったのかと。


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