断罪の瞳6《1》



 その日、城内で寝起きする人間数百名分の昼食の支度という嵐の時間が過ぎ去ったヤンデンベール城塞の炊事場は、賄い担当の兵士等が去った後もどうした事かやたらと賑やかだった。
 元は招かれざる客人にして押しかけ料理人、兼呪術師見習いのルーディックが城塞に居着いてからというもの、この時間帯は地下貯蔵庫の大半を占拠したままになっているりんごを処理する為の、お菓子作りタイムと決まっていた。然るに何故か、今日はいつもと異なりけたたましい声が、何度も厨房内に響き渡っている。
「やーっ、だめっ! 何でっ? どうしてあたしがやるとそっちと違って全然クリーム状にならないのっ! あたしに何か恨みでもあるって言うの? この卵ってば!」
 握った泡立て器を振り回し、床をドカドカ踏み鳴らしてそばかす顔の少女は喚く。そっちと違ってと指差された男は、卵白と砂糖を入れたはずの少女の前の容器を覗き込み、その惨状に溜め息をついた。
 もちろん、城塞の責任者は新たに厨房係を雇った訳ではない。そんな予算はどこにもない。癇癪を起こしている少女はアディス。ゲルバ出身の新米妖獣ハンターで、現在はここの居候である。
「……ハンターのお嬢さん」
 溶かしバターと卵黄、それに砂糖を合わせ掻き混ぜていたルーディックは、既に充分もったりとなったそれを一旦テーブルの上に置き、頭痛をこらえて語りかける。
「悪いが、言わせてもらえばクリーム状云々以前の問題だ。そもそも中身を掻き混ぜる度に周囲に吹っ飛ばし、器に殆ど残さないのではなりようもないと思えるが」
「そりゃ、あたしもそうは思うけど……」
 事実を指摘され、アディスはしょんぼりとうなだれる。そこへ、ルーディックは容赦なく追い打ちをかけた。
「すまんが、俺としてはこれ以上食材の無駄遣いはしたくない。気合いでお菓子ができるならともかく、今の手つきでは到底無理だ。諦めて部屋に戻ってくれないか」
「……!」
 アディスは唇を噛み、肩を震わせた。言葉はきついが、相手の言い分は尤もである。自分は菓子作りの場では何の役にも立たない。むしろ邪魔である。貴重な食材を無駄にし、床やテーブルを汚して余計な仕事を大量に増やしてるのだ。わかっている。わかってはいるが……。
「でもっ! ローレン食べてくれないじゃない。お兄さんがどんな美味しい料理やお菓子を作ったって、少しも食べてくれないじゃないのっ!」
 顔を上げた彼女は、眼の縁に涙を浮かべ叫ぶ。
「あたしが作らなきゃいけないのよ。あ、あたしの作った物なら、たぶんどんなにまずくたってローレンは食べてくれるわ。だってあの子はそういう子なんだもの!」
 頬を真っ赤に染めたアディスの主張に、そういう事か、とルーディックは納得し表情を曇らせる。

「嫌だルノゥ、ルノゥ! いやあぁぁーっ!」
 ローレン・ロー・ファウランが酷い悪夢に絶叫して、同じ階に眠る人間の半数近くを起こしてしまったのは今から三日前の夜だった。
 あれ以来、ゲルバからの亡命者である少年は言葉を発さず、食事も一切取らなくなっている。水だけは辛うじて飲むものの、はっきり言ってこれは緩慢な自殺行為であった。空腹でありながら自らの意志で食物を絶ち、弱った体を更に衰弱させているのである。
 ローレンのそうした奇行については、城塞内の誰もが理解に苦しみ首を傾げていた。しかし、ルーディックだけはその理由をほぼ把握していたのである。三日前の夜、少年が見た悪夢の残滓を妖力で垣間見たが為に。
 ゲルバの王宮に捕らわれていたローレンの叔父、ファウラン公爵の異母弟ルノゥ。少年にとっては血の繋がらない、けれどたった一人の残された家族と呼べる存在。
 ファウラン公爵の血縁者だ、というだけで国王に敵視され拷問を受け続けていたその人が、あの日遂に殺されてしまったのだ。それも、常軌を逸した残虐な方法で。
 残滓を見ただけのルーディックですら、その晩は吐き気に悩まされまともに眠る事ができなかった。まして、全てを見たはずの少年が受けた衝撃となると、正直計り知れない。何より、殺されたのはローレンの保護者なのだ。彼を愛し守ってくれる、唯一の大人なはずの青年。
 だから、ルーディックは少年を責める気になれなかった。せっかく作った料理を一口も食べてもらえず返されても、それが少年の体にとって良くないとわかっていても、頑張って食べろとは言えなかった。
 けれど、ここまで彼に同行し面倒を見てきたアディスが、そんなローレンの様子を傍観していられる訳はなかったのだ。自分がお菓子を作って食べさせる、というのは彼女なりに知恵を絞り下した結論なのである。例えそちら方面の才能が、著しく欠如していたにせよ。
 ルーディックは吐息を漏らし、ややあって呟く。
「まず卵を二個、割って容器に入れる」
「え?」
「そこに牛乳を少々加え、掻き混ぜて溶く。クリーム状にする必要はないから、変に力を込めないように」
「あの……」
「粉と砂糖とふくらし粉は、俺が合わせて振っておこう。中央を窪ませておくから、そこに溶いた物を少しずつ流し込むといい。その間木べらで混ぜることを忘れずに」
 卵黄と卵白に分けて泡立てる事はなく、天火にかける必要もない、一番簡単で手軽なお菓子を作ろうと青年は提案する。
「見栄えは良くないが、手間は殆どかからない。多少失敗しても食べられる物ができる点は保証する。これが最後の機会だ。やるか?」
 アディスは顔を輝かせ、拳を握り大きく頷く。
「うんっ! ありがとう、お兄さん。あたし頑張るっ!」
 ルーディックは微笑し、りんごのマフィンと刻みりんごのケーキを作る傍ら、アディスのお菓子初挑戦を手伝った。結果、炊事場は香ばしくも焦げ臭い匂いと煙に包まれたが、ともあれパンケーキもどきな代物は出来上がり、ローレンの元へと運ばれたのである。
「……しかし、きつね色と言うよりあれは既に炭色だったような気が……」
 焼き上がったマフィンを天火から取り出し盛りつけながら、一人厨房に残ったルーディックは呟く。ローレン・ロー・ファウランが三日振りに口にするであろうそれで、腹を壊さない事を祈りつつ。
 新米妖獣ハンター・アディス。彼女にお菓子作りの才能は、……残念ながらとことんなかった。
 作り方を細かく指導し、天板に薄く油を引く作業までルーディクが代わりに済ませたのである。だのにそこまでお膳立てしてやってなお、出来上がったのはきつね色ならぬ炭色のパンケーキもどき、なのだ。
「まぁ、これまでお菓子なぞ作る余裕のない暮らしをしていたらしいから、無理もないと言えば言えるが……」
 それにしたってパンケーキぐらい、子供でも簡単に作れるお菓子だと今日までルーディックは信じていた。だが、アディスを見る限りその認識はどうやら改める必要がありそうである。
 煙った空気に咳き込み、彼は仕方がないと換気の為窓を開けに向かった。暖まった空気が逃げるのは惜しいが、それよりも肺が大事である。幸いな事に空は晴れ渡っていて、天候が崩れる気配はない。窓を開け放していても、名残り雪やみぞれが吹き込んでくる心配はなかった。
 春は間近と思わせる風を頬に受け、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むと、ルーディックは一伸びして作業に戻る。先に焼き上げ冷ましておいたケーキにナイフを入れ、全部を食べやすいサイズに切って大皿数枚に盛り付けると、弱火にかけていた大鍋をおろし、たっぷり作ったりんごの砂糖漬けを、棚に並んだ煮沸消毒済みの瓶の中へ手早く移し替えていく。
 倉庫に残っているりんごは、もはや殆どが傷んでると言って良かった。早急に使い切る為には、ジャムや砂糖漬けといった保存用に加工して、大量消費するしかない。
「へーえ、珍しく焦がしたかと思ったらそうじゃなかったんだ。それ、ちょっと味見してもいいか?」
「!」
 間近で不意にかけられた声に、ルーディックはギクリとして振り返る。いつの間に近付いていたのか、赤毛の妖獣ハンターが背後に立ち、作業を覗き込んでいた。
「……おい?」
 相手が誰であるかを確認した途端、青年は道具も投げ出し逃げにかかる。そして開いた窓を背にするや、怯えを含んだ警戒心丸出しの眼差しを侵入者に向けた。その様子に、パピネスはあっけに取られ抗議の声を漏らす。何も人の顔を見るなり、そんな凶悪犯を前にしたような態度を取らなくたっていいじゃないか、と。
「似たようなものだろうが。この間俺の肋骨を遠慮なく折ってくれたのは、どこの誰だった?」
「あっちゃー……」
 指摘された事実に顔を顰めたハンターは、ポリポリと指で頬を掻く。
「やっぱり、あれが原因で俺を避けてた訳か。悪かったよ。ついうっかり腕に力を込めちまったもんだから……」
「ついうっかり、で骨をベキバキとやられた日にはたまらないっ! 痛みで呼吸が止まるかと思ったぞ」
 怒鳴られたパピネスは、あははと照れ笑いする。
「けど、肺に刺さらなかっただけましじゃないか? どうせケアスと同じで、骨折なぞすぐ治せるんだろうし」
「すぐに治せても、味わう痛みは人間と同じだっ!」
 憤り、ルーディックは叫ぶ。確かにすぐ治せはした。折れたと感じた次の瞬間には、意識を骨折部分に向け、治癒に取りかかっていた。痛みが消えるまでに、一分も必要としなかった。その事実が、己を人間ではないと知らしめ心を打ちのめす。
 だから余計許せなかった。それを自分に痛感させた相手に対し、腹が立ってならなかったのだ。
「その点は承知してるさ。感じる痛みは俺達と同じだって事はな。でもさ、それならこっちの痛みも少しは察してほしかったぜ。俺、ハンターだから普通の人間より治るの早い方なんだけど、それでもあんたに殴られた痕跡が消えるまではけっこうかかったもんな。あの日は痛みで飯も殆ど食えなかったしさ」
 ハンターの漏らす恨み言めいたぼやきに、ルーディックはむっとなって開き直る。
「言っておくが、仮に消えない痣をその顔に残したとしても俺は謝る気はないぞ。こちらもかなり痛い思いをしたんだからな。だいたい先に手を出したのはそっちだろうが。それも人を他の誰かと混同した挙句にだ。たとえ匂いが同じだろうが、お菓子の味や出来映えが同じだろうが知った事か。俺は俺だ。レアールじゃない」
「ああ、認める」
 あっさりと、パピネスは言う。これにはルーディックの方が拍子抜けした。
「認める?」
「そうだ。確かにあんたはレアールじゃない。何故なら俺の知ってるあいつは」
 言葉を切り、赤毛のハンターは微苦笑を浮かべる。
「レアールは、癇癪を起こした俺に蹴られ続けて内臓破裂を起こしても、一発も蹴り返そうとはしない奴だった。苦痛に呻く事はあっても文句は言わず、ひたすら我慢する大馬鹿だった。けど、あんたは違うだろ? 骨折させられるや俺を殴り飛ばし、目一杯罵倒して立ち去ったもんな。よくわかったよ、あんたはレアールじゃない。あいつとは全然違う、別人だ」
「ハンター」
「だのに、どうしてだろうな。俺には時々、あんたがあいつに重なって見えちまう。顔も性格も雰囲気も似ちゃいないってのに、ったく………何でだろうな」
 泣くのではないか、とルーディックは思った。この人間は泣くのではないかと。けれどパピネスは泣かなかった。代わりに、右の拳を彼の前に突き出す。
「ケアスに任務への協力を頼んでいたんだろう?」
 開いた手の内には、小さな深紅の蜘蛛がいた。
「任務遂行に有効と思われる情報をいくつか入手したので、あんたに報告したいそうだ。そういう訳で、こいつは預けとく。どうせ報告が済めば、勝手に俺の中へ戻るだろうからな。それじゃ、忙しいとこ邪魔して悪かった」
 己の肩へ妖蜘蛛を残し去ろうとした相手に、待ったとルーディックは声をかける。戸口手前で立ち止まったパピネスは、訝しげな表情で振り返った。
「忙しいところを邪魔して悪かったと認めながら、手伝いもせず立ち去っては困るな。ハンター」
 美貌の青年は言うなり、唖然として突っ立っている赤毛の妖獣ハンターへ空瓶と杓子を押しつける。
「そろそろ昼の訓練を終えた連中が、腹が空いたと喚いて食堂に押しかけてくる頃だ。俺は出来上がった菓子を運ぶ。そう言う訳で、代わりに瓶詰作業をやっといてくれ。長く外気に触れては保存用にならんからな」
「おい、ちょっと待てよ。何で俺がんな事やらにゃ……」
 思わぬ用事を言いつけられ、焦って抗議するハンターに、ルーディックは悪魔の笑顔できっぱり告げる。
「ここに来たのが運の尽き。立ってる者は親でも使えだ」
「………★」
 パピネスは絶句し、脱力した。次いで吹き出し、瓶と杓子を手にしたまま身を折って笑う。
「たまんねぇな、もう。ホント、あんたっていい性格してるぜ。レアールの身内だなんて信じられねぇ」
「別に信じてくれなくても、俺は一向に構わんが」
「それそれ、そーゆー対応の仕方があいつとまるっきり違うんだよなぁ」
 赤毛のハンターの言葉に、美貌の青年は憮然となった。
「当然だ。その男と俺は完全に別者だからな」
 強調され、初めて相手の意図を悟ったパピネスは、笑みを消して真顔になる。そのまま暫しルーディックを見つめると、彼は頭を振って肩を竦め、呟いた。
「……了解。今後、俺はあんたを決してレアールと混同したりしない。約束する」
「では、俺もそちらの顔を見るなり逃げるのはやめにしよう。ただし、また骨を折ってくれるような行動に出た場合は保証の限りでないと宣言しておく」
 その言葉に、ハンターは信用ないなぁとぼやき、もう折ったりしないってと笑顔で請け合う。されど、その声音に反省の色は微塵もない。どこまで本気か怪しいものだな、と密かに嘆息するルーディックに、心の平穏は訪れなかった。



◇ ◇ ◇



 その次元には、様々な界が存在した。
 界の中には自然発生したものもあれば、一人の創造主によって人為的に造り出されたものもある。
 それらの界は、川の流れに従い泳ぐ魚の如く空間を漂いながら、時に接近し、時に離れ各々存在を保っていた。
 そうした界の中でも稀に、偶然接触した後隣接状態を維持し双方の行き来を可能とするものがある。妖魔界と人間界は、まさしくそれであった。
 最も、己の意思で自由に行き来ができるのは、あくまでも妖魔界の住民(それも能力がある程度高い者)に限られていたが。
 しかし、八百年に渡って隣合わせに存在し、過ぎ行く時をほぼ共有していたこの二つの界は、現在徐々に遠ざかり、それぞれ異なる時間の流れに身を置くようになっていた。
 接触した当初、互いの界が隣接した状態でも安定を保つよう力を加え、強引に歪みを消した妖魔界では、反動により人間界が離れ始めたその時から各地で異変が生じ、王宮へ報告が寄せられていた。
 例えば地震による地割れ、自然発火による森林の火事、または湖の枯渇と移動。それに伴う周辺住民の被害といったものが。
 一方の人間界も、界が離れた影響が皆無という訳ではない。同様の災害は規模こそ違えど発生しているはずだった。尤も、妖魔界と異なり隣接した段階で安定させる為強引に歪みを消すなどという真似はしていないので、被害はそう大きなものではないだろう。
 人間界の場合は妖魔界と異なり、一つの情報が伝わるまでにそれなりの時間を要する。それ故、災害現場近くに住んでいた人間以外は特に騒ぎ立ててはいないものと思われた。
 ましてそれらの災害の原因が、隣接していた界が離れた影響によるものと考える人間はいないだろう、というのが妖魔界の王の見解である。そもそも人間界の住人は極一部の例外を除けば、自分達の暮らしている世界以外の存在を知らぬのだから。
「……で、人間界へ赴いたあの者からその後何か連絡はございましたか? 王」
 北部地域の災害調査を担当していた側近は、調査結果を報告し終えた後、何故か唐突にこの話題を振ってきた。
 機械的に積まれた書類へ署名する作業を続けていた王は、それまで側近の報告を聞いているのかいないのかわからぬ態度を取り続けていた。が、一応耳を傾けていた証拠に言葉を返す。
「連絡は特に受けていないが、あれとそなたの任務に何か関係があるとでも?」
 正面に立つ側近は一瞬ひくりと口許を歪ませ、それから感情の波をひた隠し微笑する。
「私の担当した件とは関係ありませんが……、ずいぶんとあの者に対してはお優しいのですね。例の命令を受けた日から、かれこれ九ヶ月も経過しているのですよ? それで未だに何の連絡もよこさないなど、任務放棄に等しいではありませんか」
「ほぉう?」
 今度は王が、あきれた声音で応じる。
「そなた、この度の界が離れた影響は自然災害のみに限定して現れていると思っているのか?」
 好意的な笑みを浮かべてはいるが、眼差しはとことん冷たい。王が抱いた負の感情を読み取った青年は、それが己に向けられていると知って慌てて否定の言葉を探す。
 そんなつもりでこの話題を口にした訳ではなかった。王の顰蹙を買うのは、試験も受けずに特例で側近に選ばれたあの男、蜘蛛使いケアスの助けがなければとっくに死んでいたはずの出来損ないの妖魔、レアールでなければいけない。少なくとも、彼はそう信じていた。
「いえ、もちろんそのような事はございません。上級妖魔程度の能力では人間界への行き来ができなくなった件は、私も耳にしておりますし」
「その通りだ。界が離れた事によってこれまでと違い、上級妖魔は人間界へ立ち入れなくなった。むろん、界が離れる前に人間界に出かけた上級妖魔は皆、戻れず途方に暮れているだろうが」
 そこで言葉を切った王は、署名済みの書類を脇に押しやり、側近へと向き直る。
「ところで、界が離れた影響が真っ先に現れたのは何だと思う?」
「一番先に影響を受けたもの、ですか」
 青年は首を傾げる。遠ざかり、上級妖魔の能力では行き来ができなくなった二つの界。離れた反動で起きる災害。これらとは別に、一番先に影響を受けたもの……?
「さて……、困りました。私にはこれといって思い浮かぶものがございません、王」
「なるほど。そなたは確か側近候補として我が宮殿に伺候する事四百年、側近になってからも二百年程の若手なはずだが、脳の方はどうも早々と老化した模様だな」
 あからさまに侮辱され、側近の青年の顔に朱が走る。それでも自制心が働いたのか、己の仕える相手へ怒りに任せて反論するような真似はしなかった。
 そうした相手の抑制と我慢の姿勢が、王にとっては溜め息の種となる。最初から怒らせる目的で放った言葉であった。怒ってくれねば空回りである。
 これが蜘蛛使いかルーディックであれば、背筋がゾクゾクするようなきつい台詞で間違いなく逆襲してくるはずなのに、と妖魔界の王は心の内でぼやく。だが、その二人は二人とも今ここにいない。自分がそのように手配したのだから仕方がなかった。
「わからぬのなら言うとしよう。答えは“時間”だ。それまでほぼ同じ速度で流れていた時が、真っ先に影響を受け変化した」
「時間……ですか」
「そうだ。そこで話を戻すが、確かにそなたが言う通り、こちらの世界ではあれが命令を受け人間界に赴いてから九ヶ月になる。しかしだな」
 王は台詞を一旦区切り、ニンマリと顔を崩す。
「七ヶ月前、少しだけ人間界を訪問した際に蜘蛛使いと再会したのだが、あちらではどうも半月余りしか経過していなかったらしいのだよ」
「何ですって? 半月余り?」
「そう、蜘蛛使いをこの界から追放処分にして、あの時点で半年が過ぎていたのに、久し振りと挨拶したら半月ちょっとしか経っていないと言われたのだ。私もさすがに少々驚いた」
 同様に、と王は言葉を続ける。
「あの者も人間界に滞在している以上、あちらの時間で時を過ごしている。こちらで既に九ヶ月が経過しているとは、夢にも思っていなかろう。当事者にとってはせいぜい一ヶ月程度しか過ぎていない可能性がある以上、報告がなされないからといって、怠慢だと決めつける訳にはいかないと思うのだが?」
 何より、報告の為あれがこちらへ戻った場合、その間も人間界の時がこれまでと同じくゆっくり流れる保証はどこにもないのだし、と王は言う。
「それに、一つの任務を遂行するのに一ヶ月もかかってはいけないとか、途中で報告する義務なぞ設けたならば、そなたを始めとして各地の災害調査に赴いた側近や側近候補は、全員処罰対象に該当するぞ。途中経過を律儀に報告してきたものは皆無に近いし、この界で起きた事件にも関わらず、調査結果を報告しに来るまでに一ヶ月以上と時間がかかりすぎだ。そう責めねばならぬ事になる。違うか?」
「いえ……はい。おっしゃる通りであります」
 側近の青年は己の考えなさを恥じてうなだれる。言われてみれば尤もな話であった。調査においては、詳しく正確に調べようとすればするほど、時間がかかるものである。だからといって迅速に済ませようと急ぐ余り、調査がおざなりになったのでは本末転倒もいいところで、とても王に報告などできはしない。妖魔界の王は、部下のそうした手抜きを容認する男ではなかった。
「わかれば良い。ああ、それとあれは私に連絡自体はよこしていないが、人間界に行って帰れなくなり悪さをしていた上級妖魔なら、これまでに二名発見し強制送還してきたぞ。その者達の罪状を連ねた報告書と、証拠となる妖獣の頭部のおまけ付きでな」
 脳に残っている記憶を見ろ、という事だろうなと笑顔満開で王は言う。側近の青年は、は? と口を開いたまま硬直した。耳にした台詞が事実であるならば、自分達が出来損ないと見なしていた相手は、一切情報を与えられず右も左も分からぬ状態で人間界に行かされながら、任務を順調にこなしている事になる。
「つまるところ、不慣れであってもあれは我が側近として任務をそれなりに遂行している訳だ。わかったらそなたも他者の仕事の進行状況なぞ気にせず、己の任務と向き合う事だな」
 上機嫌で語る王の言葉に、青年ははてと首を傾げる。
「あの……、お言葉を返すようですが、私の任務は本日で終了したのでは……?」
 戸惑いつつ、彼は訊く。王は眼を見開き、わざとらしい溜め息でそれに応えた。
「私はそなたに北部の災害現場における様子と、被害の度合いの調査を命じたはずだが」
「はい。ですからそれに関しましては、先程調査結果を報告して……」
 側近の返答を、王は手振りで強引に中断させる。
「命じられた事だけすればそれで勤まる、側近とはその程度の存在か?」
「あっ……!」
 青年は顔色を変える。王が部下達にどのような働きを求めていたのか、今度こそ彼は理解した。
 調査を命じられたからといって、それを鵜呑みにし調査のみ行えば良いという訳ではなかったのだ。その程度の働きなら、上級妖魔で事足りる。わざわざ側近や側近候補を現場へ向かわせたのは、調査と並行して災害にあった地域の自然を修復し、元通りに住民が暮らせる環境を整える為だったのだ、と。
「申し訳ありませんでした。ただちに現場へ戻り、やり残した仕事に着手致します」
「うむ。頼んだぞ」
 一礼し背を向けた相手に激励の声をかけ、ヒラヒラと手を振って王は部下を見送った。内心、何だって私がここまで懇切丁寧に教育指導してやらねばならんのかなー、と思いつつ。
「言わずとも先読みして行動する蜘蛛使いの働きに慣れすぎていたのがまずかったな。問題は起こすが仕事も倍こなす、そんな者を基準にしては、他の側近が気の毒か」
 とは言え、一旦上で慣れたレベルを今更下げて、設定し直す気にはなれない。自己学習能力のない側近では、何の為側近候補生の期間があるのか、個別に教育係が付いて指導するのかわからなかった。
 側近の地位に就いた、それだけで安心され居座られては困るのである。
 されど振り返ってみれば、側近に任命された後もなお緊張を保ち、自身の能力の向上を図った者はほんの僅かしかいない。
「それも蜘蛛使いを除けば、意志に反して側近にされた者ばかりか。マーシア然り、ルーディック然り。これはどうも……制度そのものを見直す時期かもしれぬな」
一頻り苦笑し、王は指で宙に文様を描く。見えない文様は、数秒後には眼に映る銀の枠となり、異界の風景とつながった。


 最初に枠内に映ったのは、人間界の一つの国。公国カザレントの首都カディラ、己の分身がいる大公の居城の一室であった。
 枠の中の映像は、暫し天井だの窓だの寄木細工のテーブルだのを脈絡なく映した後、天蓋付きの幅広な寝台に横たわる男性の姿へ焦点を定めていく。
 男性は、そうした豪華な寝台を使う事ができる身分にある者にしては珍しく、頭髪の手入れがろくにできない労働階級の人間並に髪を短く切っていた。その短めな糖蜜色の髪が窓から吹き込む風を受け、頬や額にかかっては揺れる。
 蜘蛛使いの姿を写し取った分身は、少し迷った末に室内にいたもう一人と共同で窓を全部閉めにかかった。空気を入れ換えるつもりで開けたのだが、高所で受ける春の風は少々勢いが強すぎる。届けられた見舞いの花さえ、大半は花弁が散らされて芯と茎のみになっていた。
 寝台に伏す男性は、外見だけで判断するなら三十代後半あたりに見えた。けれども王の分身は、この人物の実年齢が五十近い事を知っている。今年で二十四になる跡継ぎがいる事も。
 分身ともう一人が見つめている相手は、寝台の上でピクとも動かない。その胸は上下せず、耳の後ろへ指をあてがっても、脈を感じる事はできなかった。光を宿した琥珀色の眼は、閉じた瞼に覆われたままである。
 それは、正直言って死体にしか見えなかった。胸に耳を当てても心臓の音は聞こえず、肺も呼吸活動をしている様子はない。しかし、その肉体には体温があった。
 男性は、カザレント大公ロドレフ・ローグ・カディラは生きていた。未知の毒に冒され死体同然となりながらも生きていた。ただ、今の彼の体内時間の進行は他者と大きく異なる。他人の数日が彼の身体にとっての一分では、脈が測れなくても心音が聞こえなくても当然と言えよう。
 大公の肉体にそのような処置を施したのは王の分身、すなわち王と意思を同じくする者である。放っておけば、確実に死んでいたはずの相手だった。死なぬよう術をかけるのは越権行為であり、人間界への干渉にあたる。されどそれもこの際やむを得ない。そう、王は判断したのである。
 イシェラの国王を庇護していた大公が現状で急死した場合、事はカザレント一国の問題では済まない。イシェラ全土の支配を求める国々の争いは、周辺諸国に飛び火し大陸全土を戦火に巻き込みかねなかった。
 それが歴史の自然な流れであり、回避できない必然ならば無視もできる。だがそもそもの発端は、人間界に遊びに来ていた妖魔が考えなしにイシェラの王都を乗っ取った件にあり、その後のごたごたも人間達だけに責任がある訳ではなく、戻れなくなった妖魔が居場所を得る為に起こした行動の絡んだ結果とあっては、傍観者でいられない。
 知らずにいたのならともかく、知ってしまったからには妖魔界の王として、これを放置する訳にはいかなかった。このまま大公を死なせては、歴史に及ぼす影響が大きすぎる。
 そうなってからでは軌道の修正も難しい。それくらいなら、最初から手を貸して生かしておいた方がまだましというものである。
 それでも当人の寿命が尽きているのなら、妖魔界の王であっても助ける事は不可能だった。が、幸いロドレフ・ローグ・カディラの寿命にはまだ充分に余裕があった。消えるはずもない生命の火が無理矢理消されようとしているのなら、救うのは簡単である。
 しかし、王の分身は本体である王よりも用心深く行動し、安易に大公を回復させたりはしなかった。するのははっきり言って容易い。だが、人間にはそんな事はできないのである。できてしまったらそれはもう人間ではなく、神か魔物のどちらかであった。
 然るに人間界へ分身を置いてから知った事だが、こちらの界の住人はどうしてか、紅い眼で妖力を使う者だけを妖魔として認識していた。すなわち、紅い眼に変化さえしなければ、いくら不思議な力を使ってもそれは修行等によって取得した能力と見なされ、正体がばれる心配は無いようなのである。
 おそらく過去この世界にやってきた妖魔の中でも、能力の高い妖魔は正体がばれぬよう振る舞ったか、あるいはばれても記憶を抜いて後に余計な禍根を残さぬようにしたのだろう。
 反対に、妖力の足りない妖魔は感情が昂ったり力を使おうとする度、人ならぬ眼の色に変化した上、目撃者全員の記憶を抜く力も皆殺しにする力もなかった為に、後々まで人々の噂の種となり、紅い眼をした者は人間ではなく災いを及ぼす妖魔、という考えを定着させてしまったものと思われた。
 八百年に渡る思い込みを訂正するのは難しい。おまけにこの勘違いは、人間界で行動する分身やルーディックにとってひどく都合の良いものである。わざわざ本当の事を教えてやる必要性は感じなかった。
 それでも念の為、王の分身は余りに桁外れな能力は人前で見せようとしなかった。異なる界への過干渉はいけない、と自制していたせいもある。故に大公への処置は、肉体の時の流れを緩やかなものに変え毒が全身に回らぬようにし、僅かな生気を送り込む程度で済ませていた。解毒剤となる種が手に入る季節まで生かしておく、ただそれだけを目的として。
 一方で大公の後継者は、この己にとっても痛手な事態を最大限に利用し、人心の掌握と外交戦略に努めていた。
 まずは大公が公妃に刺され、しかもその短剣にはイシェラ国王ヘイゲルの手で過去に毒が塗られていた事実をわざと国の内外に流布し、命は取り留めたものの意識が戻らぬ大公の病状を大げさに言い立てて、気の病の公妃や国を失ったヘイゲルへの同情を一掃させ、カザレントの国民が憎悪を募らせるよう煽動した。
 そうやって充分に噂を流し情報を操作した上で、ゲルバ支配下の元イシェラ地域を通り抜ける事ができず、予定より大幅に遅れて到着したプレドーラスの一行を沈痛な面持ちで城内に迎え入れたのである。
 道中さんざん噂を聞かされ続けた彼等の不安を更に煽ったクオレルは、侍医立ち合いの元で死者同然の大公と対面させ、引き渡しても意味がない事を全員に強く印象づけた。その上で、困惑する一行の代表者に話を持ちかける。こうなった以上、申し訳ないが当方としては大公をお渡しする訳にはいかない。そこで最初の条件通り、イシェラ国王ヘイゲルと公妃セーニャを引き渡そうと思うのだが、いかがなものだろうかと。
「ここへ来るまでに耳にされたでしょうが、今回の一件で両者に対する国民感情は悪化の一途を辿ってましてね。このまま城内に置いてはいつ何が起こるかわからない状況なのですよ。むろん警護の者は付けておりますが」
 正直なところ、私としても積極的に庇いたい心境ではありませんしね、と溜め息交じりに語る大公代理の言葉を受けて、プレドーラスの使者は急ぎ本国へ問い合わせの書簡をしたため、用意してきた鳩を放った。連れて戻るのが大公でなく、イシェラ国王とその娘でも構わないかどうかを問うべく。
 現在彼等は大公の居城に滞在し、本国からの返信を待っている。いずれ、二名の捕虜を連れてこの国から去るのはほぼ間違いなかった。


 計算ずくで旨く立ち回るものだな、あの人間、と王は映像を消し微笑する。この様子ならカザレントが滅ぶ心配は当分なさそうだった。
 次に彼が枠内に映し出したのは、同じカザレント内でも遥か北に位置するヤンデンベールの城塞である。任務を命じられたルーディックの、現在の居場所だった。



─ Next ─