断罪の瞳5《4》


 昔話が好きだった。
 教育係が語る、彼自身の過去を含んだ異なる世界の物語が。
 一年を通じて常に過ごしやすい気候に整えられた居住地域と、場所ごとに春夏秋と季節を分けられたいくつかの森。そして訓練の場となる移動する湖と荒野。
 そんな自分達の住む世界とは違う、制御できない気候と起伏に富んだ自然環境を持つという人間界の話を、教育係の青年が生きてきた世界の話を、ブラン・キオは毎日のようにおねだりして年月を過ごした。その人を失う最終試験の日まで。
「今はこんな力が使えるけど、僕はね元々は人間だったんだよ。キオ」
 最初にその事実を知らされたのは、誕生してから十年目の記念日の午後。自分達が出会った特別な日なんだからと、その日を勝手に祝日と決めた育ての親でもある青年は、屈託なく笑って告げた。かくれんぼに最適な、丈がやたら長い雑草の群生する庭に寝転び、夏の森と秋の森で摘んだ籠いっぱいの木苺や、黒すぐりの実を昼食代わりに食べながら。
 背丈がようやく教育係の腰の辺りへと達した幼いブラン・キオは、その言葉に嘘だぁと叫ぶ。
「だって、人間って僕らよりずっと寿命が短くて、生まれたかと思うとすぐ年老いて死んじゃう異なる界の生き物なんだよ。そう“候補生の為の基礎知識”にはっきり書いてあるじゃない。それでどうして僕の教育係になれるのさ? ありえないよ」
「そうだねぇ」
 己の言葉を真っ向から否定されたというのに、青年の態度は変わらない。
 ブラン・キオは、この教育係が怒ったり声を荒げたりする様が全く想像できなかった。そもそも怒りを感じる神経があるのかどうかも疑わしい。
 いつでもにこにこ、おっとり、ほわぁ。急いでせかせか進んでも、ゆっくりてくてく歩いても、辿り着く先は同じなんだよ、だから焦らずのんびり行こうね、という持論の持ち主は、普段同様ほんわかとした雰囲気を漂わせ、隣に寝そべっている。
「でも人間だったんだよ、信じられないだろうけど。その証拠に、僕だけが知っている話をしようか。僕の生まれた国の話。一年の半分以上が冬という、寒い国のお話だよ」
 本当は内緒にしておかなければいけない事らしいけど、キオにだったら話してもいいよね? だって知っててほしいもの。そう一方的に結論づけて、彼は語った。五月の中旬から七月の終わりまでが春、八月の初旬が初夏で僅かに中旬のみが夏、下旬から九月の終わりまでが秋、十月から五月の初旬までが冬という四季を持つ国の歴史や文化、そこに暮らす人々の生活を。
 肌を刺すような冷たい風や、雪に関する概念を、ブラン・キオは持たなかった。そんなものは感じる機会も見る機会もないのだから当然である。故に彼の教育係は、話しながら額に手を当てて直接イメージを頭の中に送り込む方法を取った。
 冷たい空気の中、眼に白く映る己の息。冬の始まりを告げるかの如く、チラチラと舞い落ちる雪。閉め切った部屋の中にさえ粉雪を積もらせる激しい吹雪。屋根から落ちた雪の重みで家が揺れる雪解けの頃。
 元人間の教育係は語る。厳しい冬の最中、人々が春をどんなに待ち望んでいたか、やがて訪れた花の季節をどれ程喜んで迎えたかを。大地を耕し、種を蒔き、夜明けから日暮れまで殆ど休まず汗と泥にまみれ働く民の姿を。
 短い夏は、その短さ故に貴重な季節で、うち三日間は神への祈りを捧げる祭りが行われたという。日頃は働きづめで身なりに構わない人々も、この時ばかりは年に一度の贅沢と晴れ着を身に付け、ご馳走を作り祝うのだと。
 青年の送り込んでくるイメージと生き生きとした語り口は、狭い世界しか知らないブラン・キオを夢中にさせた。
「僕、本物の雪をこの眼で見たいな」
 彼は願いを口にする。自分の吐く息が白く見える様を体験したい。雪が屋根から落ちる音も直に聞いてみたいなぁ、と。
 もちろんそれは一人で、ではない。
「それはいずれ叶うと思うよ。キオは優秀な子だから、大きくなったら簡単に界を越えて行き来できる。そしたら僕の故郷を探してごらん。見つけられるよ、必ず。これだけその国についての情報を得たんだから」
「うん。それじゃ約束。一緒に行こうね」
「一緒に?」
「そうだよ。一人で行ったってつまんないもん。ねっ、一緒に行こう」
 教育係の青年は、その時初めて困ったような、寂しげな表情を浮かべた。
「ごめん……、僕は行けないんだ」
 ブラン・キオはきょとんとして首を傾げる。何を言ってるの? と疑問をそのまま口にし尋ねると、元は人間だったという青年は己の額に指を当て、微かに苦笑して見せた。
「だってねぇ、僕は死んでほしいと望まれた存在なんだから、生きて戻ったらまずいじゃない」
「何、それ! 誰がそんなこと望んだのさ」
「義理の母と父と大臣達とその他大勢、かな。異母弟はたぶんそこまで望んでいなかったと思うけど……」
 そしてブラン・キオは知ったのだ。自分の教育係がかつては一国の跡継ぎとして生を受けた事実を。
 されどどういう事情で死を望まれたのか、どういった経緯でこちらの界へ来る事になったのかという件については、その後十年が過ぎるまで教えてもらえなかったのである。


 ……昔話が好きだった。教育係の青年が語る異なる世界の物語が。
 けれども一番好きだったのは、それを語る青年自身。ほわぁんとした雰囲気の、ちょっと頼りなげな元人間。姿がどこにも見えないと思えば、かくれんぼ遊びを一人勝手に始めている子供のような同居人。料理を失敗する度に森を歩き回り、籠いっぱいに木苺やぐみの実を摘んで帰ってくる家族。
 一人残って食卓に向かい、噛んでも噛んでも噛み切れないガチガチのパンと格闘していると、その人は扉の向こうからひょこっと顔を覗かせる。それから色鮮やかな、中身の詰まった籠をテーブルに置き、また失敗しちゃってごめんねと手を合わせ謝るのだ。
 まぁ、普通王子様は料理なんて作らないものだし、パン生地をこねたり焼いたりもしないだろうからと、ブラン・キオはあきらめ半分で相手を許す。
 すると許された青年は、「ありがとうっ、キオは最高に優しい良い子だねっ」と感動も顕に語尾を弾ませ勢い良く抱きついて、ブラン・キオを道連れに椅子ごとひっくり返るのだった。
 むろんその後、彼が米つきバッタの如く謝り続けたのは言うまでもない。
 そんな単純で可愛い性格の教育係は、いつだってブラン・キオの大切な宝物であった。 だからこそ、信じられなかった。彼を邪魔な存在として抹殺しようと企んだ人々がいたとは。濡れ衣の罪を着せ、狂人扱いして幽閉した国があったなどとは。
(でも、現実にこうして見つけてしまっちゃね)
 そう、ブラン・キオは独りごちる。
 ゲルバの国史に残された、ほんの数行分の記述。葬られた真実、残された虚偽。
 それで充分だった。国家の安定の為に犠牲となった青年の手で育てられたブラン・キオにしてみれば。彼を役に立たないと否定し殺そうとした国だから滅べばいいと憎悪を抱くにも、彼が生まれて愛した国だから守ってあげなきゃと固執するにも、充分だったのだ。


◇ ◇ ◇


 血の海と化した兵舎内部に、いくつもの足音が響く。衛兵を引き連れた先頭の男は、太り気味の体にやたらと飾りの付いた衣装を纏い、異臭の充満した建物内の空気に顔をしかめながら歩を進めていた。
 床のあちこちに転がる妖獣の亡骸を避けつつ奥へと踏み込んだ一団は、廊下の突き当たりでようやくこの騒ぎの張本人と遭遇する。先頭に立っていた男は、そこで初めて怒りを顕にし、壁にもたれ放心している相手へと憤怒の眼差しを向けた。
「これはいったい何の真似だ、キオ」
 華やかな美貌の少年は、夕闇の中ぼんやりとした視線をさまよわせ、己の近くに人がいる事に初めて気づいた。そこで彼は、ポツリと問いを口にする。
「ルノゥをどこへやったの? オフェ」
 ゲルバ国王オフェリスは、その台詞を聞くや大きく舌打ちした。
「何を今更。わかっていて仕出かしたのだろうが、これは」
「うん、まぁ妖獣達からだいたいのところはね。でも、やっぱり命じた本人の口から聞いておきたいんだ。一応のけじめとして」
 声を僅かに震わせ、ブラン・キオは呟く。そして男の答えも待たず喋り出した。溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すかのように。
「四ヶ国代表を集めた例の会議に僕を出席させたのは、結論が出ないあの状況を打破する為だったとわかってる。だから、これに関しての文句はないんだ。でも、会議を終わらせて戻る段になったらいきなり新たな命令を追加したよね。イシェラ分割後、沈黙を守っているエフストルやキスランの動向を探ってこいって。本来それ専門の担当者がいるはずなのに、わざわざ僕に仕事を回して、今日まで王宮へ戻れないよう仕組んだよね」
 そこまで言って、美貌の妖術師は拳を壁に叩きつける。
「僕をここから遠ざけて、その間にルノゥを……彼をどうしたのさ? ……話してよ、オフェ」

 怒りを含んだ、悲痛な響きの声だった。留守中に大事な物を壊され捨てられた少年の、純粋な怒りに彩られた瞳に見つめられるのが嫌で、オフェリスはつと視線をそらす。
 心の内に、己の仕打ちをやましく思う部分があるのは確かであった。だが、そうした後ろ暗さを相手に感じる事自体に、国王オフェリスは苛立ちを覚える。己の下位に立つ者に対して、何故王たる自分がそんな感情を抱かねばならぬのか、と。
「いちいち説明する必要などあるか。あれは予が便器代わりと定めた者。留守の間に壊そうが処分しようが、そちに報告する義務はない」
「忘れないでほしいね。ルノゥの失われた手足を修復したのは僕だよ、オフェ。そう簡単には死なない体に変化させたのも僕だ」
 だから彼がどのような形で亡くなったか聞く権利はある、と言外にブラン・キオは主張する。オフェリスはむっとして眉を吊り上げ、腹立ち紛れに右脇にあった妖獣の頭部を踏みつけると、妖術師に向かって蹴り飛ばした。
「それが何だ? 元を正せばそちとて、流浪の身を予に拾われた者ではないか。多少不思議な力を操り、妖獣を従わせる術を知っていたとはいえ、卑しい身分には違いない。それがお情けで側に置かれた恩も忘れ、予の直属の部下として契約した妖獣達を殺害するなぞ言語道断。この現場を眼にした以上、断罪は免れぬ。しかと心得るが良い!」
 言い放つや、国王は指で背後の兵士達に合図を送る。警戒しながらもブラン・キオを取り囲んだ数人の衛兵は、少年が妖獣を皆殺しにした力を自分達に向けようとしない事に安心して、主君の命ずるまま逮捕拘束した。
「オフェ」
 後ろ手に縛られ連行される際、ブラン・キオは二年間付き従った男に向け、擦れ違い様囁いた。後悔するよ、オフェ。そう、ただ一言。
 北の国ゲルバの国王は、兵士に囲まれ引かれていく相手の言葉に鼻白み、内心の思いを振り払うように叫ぶ。
「その者は地下の最下層の牢につなげ! 良いか、二度と出られぬよう扉を塞ぎ、灯りも与えるな!」
 事実上の死刑宣告をした男は、不快気な表情で少年の姿の妖術師を見送った。この先、己にどのような運命が待ちうけているかなど知る由もなく。


 暗闇の底で、ブラン・キオは開けている必要もない眼を閉じる。
 体質を強化されていたとはいえ、ファウラン公爵の異母弟ルノアード・ロー・ファウランことルノゥは、置かれた苛酷な状況を思えば良く持った方だった。
 何より彼は、正気を完全に手放してはいなかったのだ。出発当日、挨拶しに部屋を訪ねた自分と言葉を交わしたその時まで。一日一度、日によっては三度も国王に口を便器として使われながら。
 寄せ集めたのは自分でも、自身の配下とはしなかった王直属の妖獣達による暴行や凌辱については、三日と続ける事を許さず脅しをかけやめさせた。しかしルノゥにとって精神的にも肉体的にも一番きつかったはずの便器扱いという行為を止めなかったのは、ひとえにブラン・キオの甘さである。
 見捨てると言いながら、きっちり見限る事ができぬままズルズルと惰性で付き合ってきた。いずれ離れると宣言しながら、それを延ばし延ばしにして今日まで来た。
 結果、ここを出て行く時は必ず連れ出すと密かに決めていた相手は、己の留守中殺害されてしまったのだ。それも自分が拷問の後うがいをさせたり、口の中がすっきりするお茶を用意し飲ませてやったりと世話を焼いたが為に。
 ルノゥに対してだけは、他の者を前にした場合と異なり親切な態度で接していた。それが王の不興を招いたと言う。特別な好意を彼に抱いている、その事実を周囲に隠さなかったが故になされた処刑。
 全部あんたのせいじゃないか。妖獣達は、そう言った。あんたが原因で、あの人間は殺されるはめになった。自分達は主の命令に従っただけだ。それのどこが悪い?
 聞いた瞬間、ブラン・キオは激怒していた。突き付けられた真実は馬鹿馬鹿しくも情けなく、ただひたすら腹立たしい。
 くだらない嫉妬から抵抗する術さえ持たぬルノゥの殺害を命じた国王も、喜々として命令に従った妖獣達も、更にいつもの如く見て見ぬ振りを決め込んだ王宮内の連中も、皆が皆、許し難い大馬鹿である。
 けれど、何よりもまずそうした事が起こる可能性を見過ごし、安易に側を離れた自らの迂闊さが悔やまれた。許せなかった。ブラン・キオは激情に駆られ、己の腕に血が滲むまで爪を立てる。そして自身を思い切り罵倒した。感情の赴くまま、容赦なく。
 兵舎内にいた妖獣達が死んだのは、単なる余波、とばっちりである。オフェリスは誤解したようだが、殺そうと意識して殺した訳ではない。
 並外れた力を持つ妖魔の、暴走した感情という未知の嵐の直撃を受けて、妖獣達は耐え切れず壊れたのだ。持ち堪えるには、器である肉体の強度がほんの少し足りなかった。彼等は皆この世界で、人間の女性の腹を借り生まれた人の血を引く妖獣であったから。妖魔界生まれの、純粋な妖獣とは生命力や能力の点で若干劣るのだ。
 それでも妖獣は妖獣である。人間のひ弱な体を引き裂く事など容易い。
 王宮で、兵舎で何が行われたのか、ブラン・キオは今や正確に把握していた。妖獣達の脳に刻まれた記憶と、先刻会った国王オフェリスや、ここへ自分を連行してきた兵士達の意識の表層を読み取ったが為に。
 だが、妖力で覗いた記憶から知った事実は、ルノゥの身に加えられた拷問は、想像以上に惨かった。
『僕が帰ってくる日まで、正気を保ったままちゃんと生きているんだよ、ルノゥ。戻ってきた時まともに話ができなくなってたり、どこにもいなかったら嫌だからね、僕は』
 出がけにファウラン公爵の異母弟と交わした約束を、ブラン・キオは後悔していた。苦しかったら、どうしようもなく耐え難かったら、さっさと正気を手放してしまえと言うべきだったのだ。無理をしなくていいと。
 自分との約束に縛られたルノゥは、ギリギリまで正気を保ち続けた。舌を釘で打ち抜かれ、全身に針を刺されても。
 消毒と称して熱湯を浴びせられ、顔から皮膚が剥がれ落ちてもなお、正気のまま耐え生き延びようと努力していたのである。
「……恨めば良かったのに」
 ブラン・キオは闇の中呟く。
「助けようともしないでさ、こんな勝手な約束を押し付けた奴の事なんか、恨めばよかったのにね。ルノゥ」
 優しすぎて、それができない人はいるのだ。真の強さを持つが故に、他人を恨めない人間も。
 ルノアード・ロー・ファウランは、そういう種類の人物だった。かつて失った教育係同様に。彼もまた、自分を幽閉し殺そうとした人間達の事を恨んではいなかった。
 当時の状勢では仕方がなかったのだと、元人間の青年は言った。自国が危機に陥った時に、確実に力を貸してくれる国を得ようと考えた場合、母国を滅ぼされ後ろ楯を失った王妃や、その王妃が産んだ王子は排除すべき対象になると、理不尽な運命を受け入れ許していた。
「優しいんだよね、二人とも。僕の好きになる相手って、どうしてかな、いつも心が強くて優しい人ばかりだよね」
 頬を伝う涙を拭い、ブラン・キオは唇を噛む。
「でもね、残された方は、許されて恨まれもしない僕は、たまったもんじゃないんだよ。知ってるの? 憎まれた方がまだましって事があるって、二人とも知ってる? 知っててよっ! こうして置き去りにするくらいなら!」
 少年の姿の妖魔は叫び、嗚咽を漏らす。この闇の中に留まっているのは、地下牢から逃げずにいるのは、己に課した罰だった。一人逝ってしまったルノゥは、どんなに待ったところで自分を責めも、罰しもしてくれないのだから。
 ゲルバ国王オフェリスがどんなつまらない男かは、出会った当初からブラン・キオにもわかっていた。自分本位で気位ばかり高く、己より優れている存在を認めない、そんな欠陥人間だと。
 わかっていて側にいたのは、今日まで完全に見限る事ができなかったのは、彼の持つ声のせいだった。
 外見は少しも似ていない。内面に至っては雲泥の差である。けれども声は、声だけは懐かしい彼の人と同じだったのだ。あの教育係の青年と。
 キオ、とオフェリスから話しかけられると、妖魔の少年はどうしても一瞬幸せな気分になるのを止められなかった。眼さえ閉じていれば、錯覚できたから。過去の一番幸福だった時代に戻り、大好きな教育係に呼ばれている、そんな夢を見る事ができたから。
 もちろん、同じなのは声だけだった。口にする内容は、自分の教育係なら絶対言わないような事ばかりである。
 ブラン・キオはその都度現実に引き戻され失望し、それでも彼の声に執着した。だからオフェリスの命令や行動に、面と向かっての反対はしないできたのである。それが暴走行為だと思っても、口にして言う事はなかった。人間ではない自分には所詮関係ない、と狡く傍観を決め込んで。
 第一、本来それを口にすべき人々が沈黙し、或いはへつらい媚びているのを見ると、言う気も萎えてしまったのである。陰では言いたい放題悪口を並べ、あの王では駄目だなどと囁きあっているのを見聞きしたが為に。
「もしかしたら僕は、ほんの少し君に同情していたのかもしれないね、オフェ」
 そう、ブラン・キオは呟く。
 けれど惰性の付き合いに支払った代償は、あまりにも大きすぎた。
 同じ声にこだわった挙句、同じ強さ、同じ性質を持った人間の方を失ってしまったのだから。
「……せめてもうちょっと楽に死なせてあげても良かったろうに。そしたら僕も、考えたのにね」
 味方もなく王宮に残されたルノゥは、皮膚の殆どを剥ぎ取られた上、用具に挟まれ手足の骨を砕かれた。更に指を一本一本順ぐりに切り落とされた後、髪も引き抜かれてしまったのである。
 そんな状態の彼を、オフェリスは妖獣達に引き渡し命じたのだ。皆で一口ずつ喰えと。できるだけ長く生かして苦しめる為、胸と頭部は後回しにさせて。そうしたオフェリスの思惑通り、ルノゥは暫くの間生きていた。頭と胸部だけが残った状態になっても、虫の息とはいえまだ生きていた。幸い、本当に幸いな事にその時はもう正気でなかったけれど。 ブラン・キオは唇を噛み締め、心の内でルノゥに詫びる。
(ごめんね、ルノゥ。僕がオフェの要望に応えて君の体質を強化させたから、いたずらに苦痛を長引かせてしまった。それがなければもっと早く楽になれたのにね。……ねぇ、痛かった? うん、間違いなく痛かったよね。すごく苦しかったよね。救えなくてごめん、何もできないまま死なせてごめんね……)
 だからせめて、同程度の苦痛はオフェリスにもしっかり味わってもらわねば。そう、少年の姿の妖魔は決断し、計画を練り始める。だってそうでもしなきゃ、世の中不公平すぎるじゃないかと。
 王宮最下層の地下牢に放り込まれ、蝋燭の明かり一つ貰えず扉を塗り固められようと、ブラン・キオは孤独や退屈を覚える暇がなかった。なにしろ今の彼には考える事、すべき事がたくさんあったのだから。



 テーブルの脚を掴んだまま硬直していた手が、ゆっくりとそこから離れ床の上をさまよう。異界の魔物はそれを見て、己が先程まで嬲っていた相手の意識が戻った事を知った。
「………」
 幾度か瞬きを繰り返したルーディックは、首を傾げ魔物の姿に気づき、思い切り不機嫌な表情を浮かべのろのろと身を起こす。魔物の相手をさせられた後の体は、失神から覚めても普段通りには動いてくれなかった。
「やる事を済ませばさっさと消える奴が、何で今日はまだここにいる? この上まだ俺に用があるのか?」
 不愉快さを隠そうともしないルーディックの詰問に、気分を害するでもなく異界の魔物は応じた。聞きたい事があったからだと。
『何故最後まで寝台で相手をしない?』
「は?」
『お前はいつも、途中で寝台から移動し続きをさせた。てっきり床でやるのが好きなのだと思っていたが、あの蜘蛛使いの相手をする時はずっと寝台の上だった。床でやるのはご免だとも言っていた。だのにどうしてわざわざ場所を変える? 理解できん』
「……あのな、腐れ外道」
 何で今更そんな事を訊く、とルーディックはぼやく。
『思い出したからだ。思い出したら気になる。何故だ?』
「……見てわからんのか、これが」
 乱れた髪を指でより乱しながら、青年は視線を石造りの床に向ける。正確には、床の表面を濡らした液体に。
『お前の血だな。それがどうした?』
 ルーディックは大きく唸り、床を足で踏み鳴らす。
「寝台でやったらシーツが汚れるからに決まってるだろうがっ! 床なら拭えばそれで済むが、シーツではそうもいかない。貴様は毎晩俺に人目を忍んで深夜の洗濯をしろと言うのか?」
『だから、それがわからん』
 異界の魔物は言い返す。
『どうしてそんなに血が流れる? 説明しろ。蜘蛛使い相手の時は、一度も出血などしなかったはずだ』
 その言い草に、ルーディックは赤面し眼を吊り上げたが、相手が冗談ではなく本当にわからなくて訊いているらしい、と気づくやガックリと肩を落とす。何でこんな単純な理由がわからないんだ? こいつは、と。
「蜘蛛使いが相手の時は、怒らせない限り俺は出血しなくて済む。だから寝台の上でもいいが、貴様が相手では絶対、必ず出血する。それも大量出血だ。汚すとわかっていて寝台でやる訳にはいかない。それ故移動して床でやる。これが答えだ。わかったらさっさと失せろ」
『わからん。何故そんな違いが起こる? やってる事は同じなはずだ』
 異界の魔物は食い下がる。事実、魔物は少しも事情を理解していなかった。
「……いい加減にしろ、この腐れ外道」
 忍耐が限界に近づきつつあるルーディックは、吐き出すように呟く。
「貴様のせいで俺の腹具合は最悪なんだっ! この場で排泄されたくなかったらとっとと姿を消せ! 貴様がそうして姿を曝してたら、トイレにも行けんだろうがっ!」
『………』
 さすがに異界の魔物も、それはまずいと思ったらしい。すぐさまおとなしくルーディックの内に消えた。しかし、問いかけだけは忘れない。
『どうして出血する?』
「……あのな」
 ルーディックはよろけ、脱力する。自分に奇妙な執着を見せる蜘蛛使いをお子様な奴だと思っていたが、この魔物は更にそれを上回っていた。能力と精神のバランスが全く取れていない。
「貴様は俺や蜘蛛使いの体格と、さっきまで自分が取っていた姿の大きさを比較した事があるか? 毎回人の股関節を脱臼させ筋肉組織を破壊しまくってる奴が、そーゆー馬鹿げた質問をしてくれると情けなさに目眩がするぞ。あれで出血しない人間がいたら見てみたいものだ」
 言いながらさっさと夜着を身に付け、部屋の外へ出ようとした青年に、異界の魔物はポツリと告げる。
『お前の体は人間ではないだろう』
「……! ああ、そうとも。人間はこんなに早く回復したりはしないからな。俺は人じゃない、今は」
 腐れ外道、変態魔物、ろくでなし! と心の内で罵倒の言葉を並べ、ルーディックは小走りに深夜の廊下を進む。口実ではなく、本気で腸が限界を訴えていた。
「おい、腐れ外道」
 生理的欲求を処理し部屋に戻ったところで、妖魔の肉体を器とする元人間の青年は、同居の魔物に呼びかけた。
『……その呼び方は気に入らん。やめろ』
 呼びかけに応えた異界の魔物は、当然の事ながら不機嫌である。まあ、腐れ外道呼ばわりされてにこやかでいられる者は、そういないだろう。
「貴様が俺にする仕打ちを思えば、腐れ外道の呼称に文句は言えんだろうが、まぁいい。名前を教えろ」
『名前?』
「そうだ。腐れ外道と呼ばれたくないのなら、教えてくれ。今後はその名で呼ぶ」
『名前……』
 魔物は戸惑い、沈黙する。名を聞かれた事など、これまでなかったが為に。誰も、自分を名で呼ぼうとはしなかったのだ。力と破壊を欲する事はあっても。
『名前……名前は……』
 迷ったあげく、異界の魔物は言う。お前が付けろ、と。



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