断罪の瞳5《3》


「あ・な・た・という方はーっ!」
 カザレント次期大公、クオレル・トバス・カディラことライア・ラーグ・カディラは、その時憤怒に燃えていた。怒りで臓物が煮えくり返っていた。もしも水でいっぱいの鍋を頭に乗せたら、たちまち沸騰するのではないかと思われる程、激しく熱く憤っていた。
「プレドーラスへ行かれる前に、我がカザレントの臣下を全員心臓麻痺で死なせるおつもりですか? 大公。お答えいただきたい!」
 そう叫ぶクオレル自身、受けた衝撃の強さに拳の震えが止まらない。自分が余計な忠告をしたばかりに公妃はあんな行動を取ったのだ、という確信が彼女にはある。それ故、向けられた刃をわざと避けなかった大公にどうしようもなく腹が立った。相手が己を害するつもりでいると気づきながら、おとなしく待つとはいかなる事か。刺されるとわかっていたのなら、さっさと避ければ良いものを、と。
 が、そんな娘の怒りと嘆きも、大公ロドレフにとってはどこ吹く風だったらしい。ゆったりとした椅子に腰かけ、くつろいだ様子で侍医による治療を受けていた男は、苦笑しつつ言い訳を口にした。
「だから咄嗟に腹筋を引き締めて備えたろうが。どうせ刺したところで、あれの力では大した傷を負わせられまいと思ったしな。事実、先端がほんの少し刺さっただけだろう?」
「……大公」
 火に油を注ぐ発言だった。居合わせたばかりに聞くハメとなった初老の侍医は、天井を仰いで息を吐き、心の内で耳栓を用意する。今や怒髪天、なクオレルの顔に浮かんだ笑みは、憤怒の余りひくついていた。
「そういう理由でわざわざ刃物の鞘になろうとした訳ですか、貴方は。それも皆の見ている前で」
 ポキポキと指を鳴らし、銀の髪の次期大公は怪我の手当てが済んだ父親へと近づく。大公の前に跪いていた侍医は、障害物として強制排除される(つまり蹴り飛ばされる)より早く身を起こし、用具を抱えて部屋の隅に避難した。主君の衣装を整えていた侍女達も、慌ててこれに習う。かくて親子の間を遮るものはなくなった。
 クオレルが何をしようとしているか察知した大公は、困ったように首を傾ける。怪我人の身でこれ以上傷を増やしたくはないのだがと呟く彼に、美貌の元侍従は唇の端を吊り上げ毒づいた。
「ご冗談を。剣を手に体当たりをかけた我が母の刃すら甘んじて受け入れた貴方が、今更何をおっしゃいます。突き立てられた刃先に比べれば私の拳が与える衝撃など、蚊に刺された程度のものでしょう?」
 口調は平坦である。殆ど抑揚がない。しかも先程までと違って、クオレルの顔には感情が殆ど見られなかった。それが却って相手の抑圧した怒りを感じさせ、まずったなと大公は思う。これでは己が危機に陥った事を自覚しない訳にはいかない。
 されど、無駄な足掻きでもやらぬよりやった方がましというロドレフの信念は、対象が敵国であれ自身の娘であれ変わらなかった。胸の前で腕を組み、開き直って彼は言う。
「どうやら互いの見解が大幅に異なっているようだな、クオレル。女房の愚痴を聞くのは亭主の務めだが、成人した子供の癇癪を受け止める義務まではさすがに私も負いかねる。謹んで辞退したい」
「なるほど。確かに妻の愚痴を聞く優しい夫は、我がカザレント内にもいるでしょう。ですが刃物を持って突進してくる妻を抱きとめようとする馬鹿な夫は、世間広しと言えども貴方ぐらいなものと思いますね。そして夫に去られるくらいなら殺そう、と考える妻は多いかもしれませんが、これも自ら実行に移す人間となると稀でしょう。似たもの夫婦で誠にけっこうな事です」
「その似たもの夫婦の片割れだが、よもや手荒な扱いはしていないだろうな? たとえ気が触れていようと、あれは我が妻でお前の母だ」
「だから殺されかけてもお許しになると? 彼女が正気ではないから? はっ! ずいぶん都合の良い話ですね。責任を放棄しても罪を犯しても、病の身ゆえ責められる事がないとは。公妃のあれは、貴方に対する甘えです。それ以外の何物でもありません。ええ、正気でない事が免罪符になるなら、いっそ私も狂いたいですよ。何もかも投げ出してね!」
「クオレルっ!」
 ロドレフは椅子から腰を浮かした。今の台詞は、大公として到底聞き流せるものではない。国を背負う後継者が口にして良い内容ではなかった。その上二人きりの時に言ったならまだしも、室内には侍医もいれば侍女達もいる。彼等は一様に節度を守り聞こえなかった振りをしているが、それでも後々噂にならぬとは限らなかった。
「クオレル、話を戻そう。セーニャはどうした?」
 強引に話題の転換を図る大公の口調から、明確な非難の意を感じたクオレルは、己の失言に気づいて羞恥に頬を染める。覚悟の上で引き受けたはずの立場だった。自分は、全て承知の上で嫡子であると表明し義務と責任を負ったのである。
 公妃でありながら義務も果たさず、しかも精神の病だからと周囲の者から庇われ続ける実母に対し、腹が立つのは仕方がない。だが、羨んではいけなかった。楽になりたいと責務を投げ出すのは、敵前逃亡に等しかった。
「……公妃については、現在軟禁の上訊問を試みております。付き添っていた女官も、別室にて事情を聴取されているはずです。あくまで丁重に扱うよう命じてはおきましたが、ご心配でしたら後ほど訪ねてみられるが良いでしょう。ただ、当分あの御方を本来の居場所である奥棟に帰す事はできません。何と申しましても大公暗殺未遂の実行犯ですから」
「ふむ……」
 次期大公としての自覚を取り戻した娘の答えを聞いて、大公は安堵する。ややあって、彼は言った。
「手荒な真似はしていないのだな?」
「怪我をさせるようなやり方は許可しておりません」
 全員殴りたい気分でいるのは間違いないですけどね、とクオレルは内心思い、肩を竦める。
「ならば良い。あれの心情を思えばいささか気の毒だが、処置としてはそれで正しいだろう」
 ロドレフは疲れた様子で息を吐き、眼を閉じた。どうやら話は終わったらしいと、隅に控えていた侍医が退出を申し出る。侍女達もそれに習い、許可を受けるやしずしずと部屋から退出した。
 廊下へ出た彼女等は、緊張で強張っていた体から力を抜き、仕える主君とその跡継ぎの殴り合いを見なくて済んだ事実に胸を撫でおろして微笑み合う。この後にどんな事態が待ち受けているか、露ほども予見する事なく。
「……大公。先程の私の発言は軽率でした。己の不明を恥じ、お詫び致します」
 二人きりになったところで、クオレルは神妙に頭を下げ、謝罪を述べた。だが、それを耳にしたはずのロドレフは椅子の背もたれに背中を預けたまま、眼を閉じて何の反応も返さない。
「………」
 いくら元気そうに振る舞ったところで、連日の睡眠不足と超過労働に大公が疲れ切っていたのはクオレルも充分承知していた。お疲れで寝入ってしまわれたのか、と思いつつも許しを得たい一心で彼女は歩を進め父親の脇に立ち、その肩をそっと揺する。このまま自室へ下がったら、心の内に余計なしこりを残す事になると。
 そう、クオレルはこの時本当に軽く相手の肩を揺すっただけだった。だのに、大公の上体は背もたれから離れ、傾いてずり落ちたまま戻らない。
「大公?」
 それは、余りに不自然な体勢だった。普通ならすぐさま姿勢を直さねば我慢できぬような角度に曲がった体。ただならぬ事態を認識したクオレルは、急ぎ助け起こして相手の様子を窺った。
「大公、いったいどうし……っ!」
 ロドレフの額には汗がびっしりと浮かび、乱れた前髪が肌に貼り付いていた。唇は苦悶の声を漏らすまいときつく噛み締められ、小刻みに震えている。普通の状態でない事は、誰の眼にも明らかだった。
「まさか……」
 クオレルは呻く。まさか短剣の刃に遅効性の毒が塗ってあったのか? 公妃は、そこまで明確な殺意を持ってこの人を刺したと?
「……ライア……」
 掠れた声が、彼女の本名を呼ぶ。すがるように伸ばされた手が、ぎこちない動きでクオレルの腕を掴んだ。
「……あれを、……セーニャを殺させるな……。頼んだぞ……、い……な」
「大公!」
 言葉は、それきり途切れ、苦しげな喘ぎに変わった。腕を掴んでいた指から力が抜け、ズルリと床に手が垂れ下がる。
 誰か、とクオレルは叫んでいた。異変に気づいた見張りの兵士が、何事かと室内に飛び込み目の前の光景に絶句する。
 誰か、誰か誰か誰かっ!
 クオレルは夢中で叫び続けた。それが何の助けにもならぬと知りながら。
(神様神様、失うのは嫌です。奪わないで下さいっ! まだ、今はまだ早すぎます。どうか……!)
 叫びは、一人クオレルの望みではなかった。カザレント全ての民の願いであった。見張りの兵士の一人が駆け出して、自室へ帰る途中の侍医を呼び戻す。残った兵士は騒ぎを大きくすまいと扉の前に立ち、出入りする者を選別・規制した。
 程なく、青ざめた兵士に引っ張られ息を切らした侍医が部屋へと戻ってくる。更に少し遅れて助手を務める侍女が数名、長い衣装の裾を翻しながら室内に入ったところで扉は閉ざされた。
 この時入室した侍女達の中に、先程はいなかった長い黒髪の女性が一人含まれていた。しかし、見張りの兵士はそれに気づかず、同僚の侍女達もその見知らぬ存在を不審に思わなかった。侍医もまた、同様である。
 新たに加わった黒髪の侍女は、呼吸すら辛そうな大公の姿をひとめ見るなり舌打ちし、意を決してクオレルへと歩み寄った。
「クオレル様、このような場合ですので僭越ですが申し上げます。どうか大公様を寝台へと移させて下さいませ。このままでは私共も、何もできませぬ故」
「あ……」
 呼びかけられ、我に返ったクオレルはしがみついていた相手の体から腕をはずす。意識のない大公の体は、二名の兵士によってただちに奥の間の寝台へと運ばれた。
 侍医が脈を取り、衣服の前をはだけて心音を確かめる。顔色はひどく悪いが、肌に斑文等の異常は表れていない。初老の医師はどうやらその方面の毒物ではないようだと見当をつけ、手足の反応を調べる。それから瞼を開き瞳孔の状態を調べると、唇をこじあけ口内の様子をチェックした。
「どんな具合だ? 毒物の特定は可能か?」
 落ち着けと自らを叱咤し、ある程度気を静めてから枕許に立ったクオレルは、隣の医師に問いかける。侍医は、白髪交じりの頭を振って芳しくありませんなと答えた。
「先程まで何の異常も見られなかった点から、遅効性の毒が使われたのはまず間違いないでしょうが、どのような毒物が使われたかとなると……、今の所見で特定するのは正直困難です」
 侍医が話している間も、侍女達は大公の汗を拭き、水を飲ませようと試みている。毒物が特定できなければ、解毒用の薬を飲ませる事はできない。その毒物に適合しない薬を与えた場合、却って患者の症状を悪化させるという事を、彼女達は皆学んでいた。
 だからせめて水を飲ませ、少しでも毒を薄めてその苦痛を和らげようと侍女達は必死になる。しかし、意識のない大公は口へと注がれる水を飲もうとしない。用意された水は口からこぼれ、虚しく顎や胸元を濡らすだけだった。
「腹痛や下痢、嘔吐等の症状は見受けられませんから、これらの症状を起こす毒草の類いは除外できます。しかし意識の混濁、心筋運動の障害、加えて手足の麻痺という症状を見る限り、何種類かの毒物を混ぜ合わせた可能性もありますな。むろん、イシェラにしか生息しない植物から抽出した、特殊な毒であれば話は別ですが」
「……毒草が使われたと言うのだな? 蛇や蜥蜴の類いが持つ毒ではなく」
 確認の声に、侍医は頷く。この症状は紛れもなく、植物性の毒によるものと思われますと。
「ならば、毒の種類についてはヘイゲル殿にお聞きするのが一番早かろう。公妃はおそらく、それが何の毒か知りもせず使ったのだろうしな」
 その可能性は大です、と侍医に同意され、クオレルはただちに元イシェラ国王の部屋へと向かった。こちらもセーニャ妃の大公暗殺未遂の時点から兵が乗り込み、監視と訊問を行っている。もしかしたら、既に毒の事も聞き出しているかもしれないと、僅かな希望を胸に銀の髪の次期大公は、血のつながった母方の祖父である老人の元へ急いだ。


「……何と言われました?」
 クオレルは、茫然として聞き返す。向き合うヘイゲルは、心痛の余り今にも絶息しそうな面持ちであった。
 ロドレフを刺した剣に塗られていた毒は、イシェラの王宮の庭園内の一角、関係者以外の立ち入りを厳しく禁じた塔の内部で、密かに栽培されていた植物の茎から抽出した物であると特定された。
 その植物は、いくつかの毒草をかけ合わせた結果、偶然できた新しい品種であるとヘイゲルは説明する。
「あれは、葉も茎も根も花びらに至るまで、それぞれ違う毒素を持った毒の固まりじゃった。だが、種だけは逆にそれら全ての毒性を無に帰す成分を含んでいると、当時の担当官から聞いた覚えがある」
 ならばその種さえ手に入ったら大公は助かるのか、とクオレルは勢い込む。ここカディラからイシェラの王都までは遠く、おまけに現在は敵国の支配下にある事を思うと前途の多難は容易に想像できたが、かかっているのが大公の生命である以上、四の五の言ってる暇はなかった。
 即刻何名かの適任者を選出し、その植物の種を持ち帰るよう命じねばと言い出した彼女に、高齢の元イシェラ国王は絶望の眼差しを向ける。
 公妃が大公を刺したという知らせを受けて以来、ヘイゲルはずっと後悔の念に苛まれていた。愛娘セーニャに渡した護身用の短剣。その刃の両面に精製された毒液を塗りつけたのは、過去の自分である。使い手が剣の扱いも知らぬセーニャでは、相手に掠り傷を負わせるくらいが関の山だろうからと。
 あわよくば夫であるロドレフの暗殺を、と願わなかった訳ではない。しかし、それはあくまでも昔の話だった。
 それなのに、長年鞘から抜かれる事のなかった短剣の刃は、今になって抜かれたのだ。かつての暗殺の対象から大事な娘婿に変わった相手、現在の自分達の庇護者に対し振るわれるという最悪の形で。それも年月を経た為に毒の成分そのものが変質した状態で、である。
 ヘイゲルが知る限り、その植物の毒は決して遅効性ではなかったのだ。どの部分を使おうと。それ故、訊問に来た兵士の口から大公は刺されたが生きておられると聞いて、あの毒が無害化したのかと儚くも虫の良い希望を抱いたのである。
 まさか刺されてから一時間近く経過して症状が表れるとは、予想もしていなかった。しかも現在のところ、重体だが死には至っていないと言う。成分に何らかの変化が生じているのは間違いなかった。
 そうなると今度は、種が解毒剤として効くかどうかはなはだ怪しくなってくる。いや、仮に効くとしても、その前に重大な問題があった。種とは、花が咲いた後にできる物である。然るに、肝心の当該植物が花をつける季節は春ではないのだ。
 元イシェラ国王は、側に控えていた同国人の従者に念の為尋ねてみる。
「あの毒花が咲くのは、秋の中頃だったかのう、エフトス。儂はそのように記憶しておるのじゃが」
「え?」
 その言葉に反応したのは、質問されたエフトスよりクオレルの方が先だった。
「何と言われました……?」
 今となってはヘイゲルに残されたただ一人の部下であるエフトスは、カザレント次期大公の動揺に気づかぬ振りで主へと声を返す。
「違いありません、陛下。私もそう記憶しております」
 己の記憶の正しさに、ヘイゲルは顔を歪め溜め息を漏らす。違っていてくれたら良かったものを、と。
「聞いての通りじゃよ、後継者殿。種ができるのは秋の終わりから冬にかけてじゃ。今その植物を取ってきたとしても、何の役にも立たぬ」
 クオレルは絶句し息を呑む。それでも、どうにか気を取り直して彼女は言った。
「それでしたら、保存してある種を持ち出せば良いのではないですか? そんな危険な毒草を栽培していたのなら、当然解毒剤を作る為の種も何粒か常備しておいたでしょうし」 元イシェラ国王は首を振る。
「……冬を越した種からは皆、解毒成分が失われておった。実験の結果わかった事じゃがな」
 どういう実験が行われたかは、問うまでもない。使われた人間は、全員助からなかったのだ。
「……嘘でしょう……?」
 認めたくなくて、クオレルは呟く。そんなはずはない。解毒剤が作れないなんてそんなはずは、と。
「すまぬ」
 だが、現実にヘイゲルは詫びている。毛布を握りしめた、皺だらけの痩せた拳を大きく震わせ、総白髪の頭を深々と下げて。
「すまぬ、……今更詫び様もない事じゃが、儂には謝る事しかできぬ。どうか、責めは儂だけに。セーニャの事は許してやってくれ。あれは知らなかったのだ。あの短剣の刃に毒が塗ってあったなどとは」
 クオレルの視界が急速に揺らいだ。傾いた体を必死の努力で立て直すと、彼女は扉へと向かう。大公の様子を見に戻るべく。けれど、その足取りは水中を歩いているかのようにおぼつかなく、虚ろな視線は夢遊病者と大差なかった。
(解毒用の種ができるのは秋の終わり……?)
 それまで大公の生命が持ち堪える訳はなかった。どう考えても無理である。あの症状では、持ってせいぜいあと数日と思われた。
(それでどうしろと言うのです? この状況で、いったい私に何をどうしろと!)
 それでも、父の傍らでただ泣き崩れている事は許されない。大公代理として今後の為に策を練り、迎えに来るはずのプレドーラスの使者への対処や、城内の者への対応等を検討せねばならなかった。自分は次の大公となる存在で、誰も責務の肩代わりなどしてくれはしないのだから。
(けれどそれでは……)
 廊下の柱に寄りかかり、クオレルは重苦しい気分で息を吐く。
(私はいつ泣けばいいのでしょうね……? 教えてくれませんか、大公。いつ私は、私自身に戻れるのです?)
 ふと脳裏に浮かんだのは、赤い髪の青年がくれた言葉だった。今は城塞ヤンデンベールで己の任務を果たしているだろう妖獣ハンター。自分の秘密を早くに知りながら、言いふらす事もなく密かに庇ってくれていた相手。
『ピンと張った糸ってのは、ちょっとした衝撃で切れやすいもんだよな。少々たるんでるくらいの方が長持ちするんじゃないか? 糸も、人間もさ』
 そんな話を二人でしたのは、いつだったろう。己が大公の嫡子と知らされて、間もない頃の事であったか。
『何か今のクオレルさん見てるとさ、限界まで引っ張った状態の糸を連想するんだ。そんなにギリギリまで頑張ったら、衝撃を与えなくてもいずれ切れちまう気がするけどな』
 聞いた途端、平手を振るっていた。当時はそれが、自分に対する侮辱の言葉としか思えなかったのだ。
 たるんでるくらいの方が長持ちする。その台詞は、知ったばかりの自身の出自と立場に悩み、イシェラの森で消えた公子ルドレフに対し取った態度を悔いて葛藤に陥っていた己を、揶揄したものとしか聞こえなかった。それ程まで、心にゆとりがなかったのだ。
『ごめん』
 ぶたれた相手は、突然の暴力に驚きながら怒りもせず謝り、苦笑した。
『一度もそーゆー立場に立った事がない奴の言うべき事じゃないか。俺、学がないから適当な言葉も思い浮かばないしな。でもさ』
 軽く肩を竦めて、赤毛のハンターは呟いたのだ。
『自分を殺すぐらいだったら、いっぺん全部投げ出しちまった方がいい。本当に辛かったら、どうしようもなく辛かったら、逃げ出せばいいんだ。大した事じゃないさ。命を捨てる事に比べれば』
 思い出した言葉に、クオレルは苦笑する。彼は、もし側にいたら今も同じ台詞を言うだろうか。全部投げ出して逃げればいい、大した事じゃない、と。
「自分にはそんな事、許しはしないくせに……」
(己がその立場だったら、絶対逃げやしないでしょう?)
 けれど言ってほしい。そう、切にクオレルは願う。たるんだ糸になりたい、現在の自分はあの頃より更にきつく張った糸になってしまっている、と。これ以上引っ張られたら耐えられない、切れる寸前の細い糸に。


 鬱々とした気分でクオレルが大公の伏している寝室へ足を踏み入れると、そこは一種異様な緊張を孕んだ空間と化していた。侍医も、大公を介抱せんと群がっていた侍女達も、寝台から少し離れた位置で立ち竦んでいる。
 そんな中、一人の侍女だけが大公の側にいた。周囲の誤解を招きかねない程、接近した状態で。何故なら、彼女の手はそれぞれ大公の胸の両脇に置かれ、ほっそりとした腰は寝台の上にあったのだから。
 だが、寝室の空気が凍りついていたのは、そのせいばかりではない。さっきまで意識もなく瞼を閉じていた大公の眼が、今は見開かれていた。苦しげな様子は変わらないが、意識がはっきりしているのは間違いない。そしてその瞳は、目の前にいる黒髪の侍女だけをじっと見つめている。視線のみで相手を捕らえ離さない、そんな激しさを持って。
 何があった? と小声でクオレルは近くにいた侍医に問いかける。
「……侍女達が、大公に水を飲ませようと何度か試みたものの上手くいきませんで……。埒があかないと思ったのか、あの者がいきなり口移しで飲ませる方法を取ったところ、三度目で意識を取り戻された大公が……その、理由はわかりかねますがつまり……」
「大公が何だと?」
 侍医は口ごもり、一拍おいて答える。
「……亡くなられた宰相の名を呼ばれたのです。あの侍女の顔を見て」
「!」
 クオレルは顔色を変えて黒髪の侍女を見つめる。長めの前髪を乱し、微動だもせず大公と見合っている相手を。
「……ディアル」
 掠れた声が大公の唇から漏れ、間近で見つめ合う侍女を呼ぶ。本人の名前ではなく、亡き宰相の名で。
「………」
 侍女は何も言わない。大公も、次の台詞はなかなか出てこないようだった。何度も唇を開いては閉じ、苦悶の表情で眉を寄せ、荒い呼吸を繰り返している。
「……二度目の奇跡を……望んでも良いか……?」
 ようやく口にされたのは、そんな言葉だった。二度目の奇跡? とクオレルは首を傾げる。何の事かわからなかったのは、他の面々も同様らしい。ただ、大公に見つめられている侍女だけは、その意味するところを正確に把握したようだった。顎が動き、はっきりとした頷きを返す。そして彼女は口許に笑みを浮かべた。
 大丈夫、心配しないで。大公に向けた囁きは、そう告げていた。少なくともクオレルには、そのように聞き取れた。
 ロドレフは瞬きを止め、相手の姿を眼に焼きつけるが如く凝視して、それから安心したように微笑し瞼を閉じる。意識は、再び失われたらしかった。
 その直後から、黒髪の侍女の顔に浮かんでいた笑みは消え、面は暗くなる。泣き出したいのを必死で堪えている、そんな表情だった。
「どこへ行かれるのです?」
 ゆっくりと立ち上がりその場を去ろうとした相手を、とおせんぼの形で遮るとクオレルは言う。何とも複雑な心境で相手を見つめながら。

「ここを出てどこへ行かれるおつもりです? 兄上」
 ビクリと黒髪の侍女が反応する。室内にいた人間達は、今度こそ完全に固まって息を呑んだ。
「ルドレフ公子でしょう? 別れた日と違って今日はまた、ずいぶんと可愛らしいお姿ですが」
 言ってる最中に笑いがこみ上げ、たまらずクオレルは吹き出した。この状況でまだ笑う事ができる自分を、心のどこかであきれながら。
 可愛らしいと評され肩を落とした黒髪の侍女、否、変装したルドレフ・ルーグ・カディラは、拗ねた眼差しを自分より背の高い異母妹へ向け、深々と息を吐いた。ばれてしまったか、と。
「ルドレフ公子……? 本当に?」
 硬直の解けた侍医が、歩み出て呟きを漏らす。視線をそちらへ転じたルドレフは、微苦笑を浮かべ肩を竦めた。
「すまないがこの格好については、できれば口外無用をお願いしたい。了解していただけるだろうか? 特にラガキスの耳には入らないよう、留意してもらえるとありがたいのだが。驚愕の余り卒倒などされては私としても申し訳ないし、敬老の精神にも反していると思うので」
 声音は、先程までの女の声ではなく、聞き覚えのある男のものだった。クオレルは、懐かしさにくすぐったい思いを覚えつつ歩を進める。
「それは私も是非お願いしたいところだな。カザレントの公子は女装癖があるとか、女物の衣装が良く似合うなどといった不名誉な噂が流れた場合、他人事では済ませられない訳だし」
「……似合うは余計だと思いますけど。次期大公殿」
 下げた肩を更に落として、侍女の衣装を着用したルドレフは赤面し呻く。クオレルはそんな異母兄に手を伸ばすと、不意に引き寄せ強く抱きしめた。
「えっ? あのっ、次期殿? 何を……」
 驚いて眼を丸くしている相手の髪に指を埋め、男装の公女は告げる。万感の思いを込めて。
「よく……生きて戻ってきてくれました」
「………」
「私は……ずっと謝りたくて。貴方に申し訳ない、……すまないと……」
 回した腕に力がこもる。突然の抱擁に戸惑いの表情を隠せないルドレフは、それでも背中に回された異母妹の腕を振りほどこうとはしなかった。ややあって、彼はためらいがちに口を開く。
「イシェラの森で戻るなと言われたのに、結局こうして来てしまいましたが……お咎めはなしですか? 次期大公殿」
「戻らないおつもりでいられたとおっしゃる?」
「そうした方がいいのかな、とは思っていました。私の存在は、この城ではあまり歓迎されたものではありませんでしたし」
 訥々と語る相手の言葉に、過去を振り返ったクオレルは苦い表情となり、銀の髪を揺らして首を振る。
「謝罪の機会を与えてくださらぬ気でおられたのなら、それは間違いです。兄上」
 きっぱりと、彼女は言い切る。
「貴方は大公が認めた我が異母兄。誰が何と言おうとここに留まる権利があります。いえ留まる義務があるのです。カザレントの為に」
「留まる義務? 権利ではなく?」
「そうです。それとも貴方はこの非常時に、私一人を残して去られるおつもりですか?」 だとしたら、公子の立場にある者として極めて怠慢です、と責められルドレフは考え込む。
「……では、私の存在が混乱の元にならないのでしたら、もう少しここに居るとしましょう。せめて大公がこの身を母と間違える事なく、ルドレフ・カディラと認識して呼んでくれる日までは」
 侍女姿の公子は、そう言って寝台に横たわるロドレフへと視線を向ける。今は小康状態を保っているものの意識はなく、毒の効果がいつどう出るかわからない病床の父の姿を。
「よろしいでしょう」
 クオレルは承諾し、侍医達に大公の身を一旦任せると、今後についての相談と称して黒髪の異母兄を隣室へ連れ込んだ。
「ああ、話の前に着替えを用意した方がよろしいですか? その格好のままでいては、いつ誰に見られないとも限りませんし」
「そうですね、できればお願いしたいところです。忍び込む為の手段とは言え、女物の衣装というのはどうもフワフワして頼りなくて……。おまけにいつ裾を踏みつけ転ぶかと、歩いていても不安でたまらなかったですし」
「その点は同感です。ですが、衣装自体は実に良くお似合いですよ。そんな実用第一の質素な物でなく、リボンやレースといった飾りの付いた衣装ならもっと可愛かったでしょうね。色も淡いピンクとか水色とかの方が似合いそうですし。何でしたら一着作って贈りましょうか?」
 言われたルドレフは、その場でテーブルに顔面を打ちつけ突っ伏す。
「……次期大公殿、そういう冗談はできれば勘弁してほしいのですが。いくら童顔で成長しないと言っても、私は一応これで成人男子な訳ですし。……あのぉ、笑い事ではないんですけど……」
 そうぼやかれても、クオレルの笑いは止まらない。異母兄がこんな個性の持ち主であって良かったと、彼女はこの時心底実感していた。ルドレフ・カディラでなかったら、現在の自分を笑わせる事など不可能だろう。
 そしてこの存在を断じて離すまい、と彼女は固く決意する。
 次期大公クオレルこと本名ライア・ラーグ・カディラはこの日、政務という重荷の半分を肩代わりしてくれる人材を、間違いなく得たのだった。



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