断罪の瞳5《2》


 翌日、朝食を食べる間も惜しんでハンターからのリクエストである蜂蜜入り蒸しケーキと、ミルクプディングのデザートを作り上げた青年は、それらをお茶と共に盆に乗せ、食堂から戻っているはずの相手の部屋を訪れた。昨夜は教えてもらえなかった、質問への答えを聞く為に。
 ヤンデンベール城塞が一時預りの形を取った、ゲルバからの亡命者ローレン。妖獣ハンターという職を持っているアディスはともかく、あの少年の今後については門外漢のルーディックも面倒を見ている立場上、大いに気を揉んでいたのである。
 大公ロドレフは既に、厄介者でしかない名ばかりのイシェラ国王である舅を保護し、他国の引き渡し要求を断る為に自身を身代わりにしてまで守る姿勢を示している。
 だがその守護者たる大公がカザレントからいなくなる今、この上イシェラ王家の縁者が頼って行って良いものだろうか? 城内の人間は、果たしてこうした状況下で少年を快く迎えてくれるだろうか?
 これらの不安や疑問は、少しでも考える神経のある人間なら誰しも抱いて当然だった。 それ故、体調の回復を待って出発予定でいる彼等がカディラの都に到着し大公の居城を訪ねた際、好意的に受け入れてもらえるかどうかは、ルーディックにとって是非とも確認したい重要な懸念であったのだ。
 むろん、大公家の側には少年の受け入れを拒否する権限もある。だが、これについてはルーディックもさほど心配していなかった。常識ある人間なら、身内を頼り苦難の旅を乗り越え辿り着いた少年を門前払いするような真似はしないだろう。まして相手は家族を殺され戻る家もない十二の子供なのである。
 そんな思いを胸に、いざ返事を聞こうとした青年を制して、赤毛のハンターは問いかける。
「その後、ケアスから何か連絡は?」
 出ばなをくじかれた形のルーディックは、無意識に顔をしかめ首を振った。
「いいや、連絡はない。いくら呼びかけても反応なしだ」
「……そうか。俺の方も妖蜘蛛を使って呼びかけてみたが駄目だった。ま、こちらの世界に奴はいないってあんた言ってたもんな。連絡を取ろうにもできない状況にある可能性は大な訳だし、当分の間ケアス抜きで頑張るしかないか。大公の思い切った奇策のおかげでゲルバと休戦状態なのは、こうなるとありがたいな。あちこちに妖獣を送り込まれなくて済む」
 大してありがたくも思っていない口調で呟きながら、ヤンデンベール城塞に配属された妖獣ハンター・パピネスは、窓際の寝台に腰をおろして髪をほどき、手櫛で乱暴に梳き始める。どうも朝食前、慌てて束ねた髪の具合が気に入らなかったらしい。
「あ、ザドゥや城塞守護職のエルセイン子爵、それと兵士達には俺の方から偽の情報を伝えといたんで、一応口裏を合わせといてくれ。ケアスは自国の王から急を要する任務を命じられ、我々に断りを入れる暇もなくそちらへ向かったんだと言ってある。どの程度の期間の任務になるかはまだ不明で、あんたにだけは呪術師の特殊な連絡方法でそうした報告が後から入ったとしてあるからさ」
「……なるほど。奴の尻拭いをするのは正直不本意だが、取り合えず承知した。蜘蛛使いは突然行方不明になった訳ではなく、任務で姿を消したんだな」
「そういう事にしておこうぜ、この城塞にいる面々の心を平穏に保つ為にも。ところでゲルバから来たあの少年、いささか厄介な事情を抱えているようだな。昨日届いた都からの返信を読んだ限りじゃ」
「厄介な事情?」
 パピネスは重々しく頷く。
「ああ、実に厄介だ。ザドゥもまさか、ゲルバからの亡命者が仇の息子だなんて夢にも思いはしなかったろうしな」
 そう前置きした上で、ルーディックに対しハンターが放った台詞は強烈だった。強烈過ぎた。聞くなり、顔に似合わぬ素っ頓狂な声を上げてしまった程に。
「この国の現大公の異母弟の息子? あの少年がか?」
「そっ。より正確に言えば、表向きは大公の長男となっていたユドルフ・ユーグ・カディラがイシェラの宮殿に滞在中、ゲルバの現国王の婚約者だったソーシアナ姫を暴行し孕ませた子供、ってことになるらしい。おかげで不幸な姫君は婚約破棄され、あわや両国は戦争突入の危機に陥ったとかでさ。結局調停に乗り出したファウラン公爵がお腹の子供ごと彼女を引き受けたそうだ。ま、話の出所が元イシェラ国王ヘイゲル閣下となると、信憑性は充分だな」
 淡々と爆弾発言をかました赤毛の妖獣ハンターは、すぐに興味の対象をテーブルの上へ並べられたデザートに移し、蒸しケーキの乗った皿から一切れ切り分けるや実に嬉しそうな表情ではむっと口にした。
「美味いっ。この味とふんわりした食感は最高だな」
 ニコニコとして次を切り分け手にするパピネスをよそに、大公家に関する情報を全く持たない部外者の青年は、訳がわからんといった様子で首を捻る。
「すまんがハンター、俺にもちゃんとわかるよう説明してもらいたい。何で大公の異母弟が、表向き大公の長男なんてややこしい事になっているんだ?」
「あー……、説明しなきゃいけないか? 爽やかな朝の空気に相応しき話題、とは言い難いぜ」
 おどけて話を逸らそうとする相手に、ルーディックはきつい眼をして詰め寄った。
「そうやって逃げられたのでは、俺には到底理解できん。これでは話が見えなくて困る」「そりゃそうだけど。あんたの言い分は良っくわかるけどさ、けど……んーっ」
 赤毛のハンターは唸り、寝癖のついた前髪を指で掻き乱す。クオレルを通じて大公家の内情に深く関わってしまった彼は、その恥部とも言える部分をまだ知らずにいる相手に詳しく話したくはなかった。まして説明を求めているのはケアスの同僚、妖魔界の住人なのである。人間界の恥をわざわざ伝えたい存在ではない。
 そんなパピネスの逡巡を見て取った青年は、それまでの厳しい表情を一変させ、哀しげに肩を落とした。
「……そうか。どうやら俺は、信用して話すには値しない者らしいな」
「!」
 弾かれたように顔を上げたハンターは、唇を噛みしめ立ち去ろうと背を向けたルーディックを目撃し、咄嗟に手を伸ばして逃がさぬよう二の腕を掴む。自分の態度が相手を傷つけたと知って、彼は焦り否定にかかった。そうではない、信用していない訳じゃない、違うんだと。
「別に責めているのではないぞ、ハンター。俺はどうせこちらの世界では部外者だ。話せなくても仕方がない」
「だからっ! 信用云々で喋るのをためらったんじゃないって。少しは落ち着いて話を聞けよっ!」
 掴まれた腕を振りほどこうとする相手の動きを止め、強引に椅子へと引っ張りながらパピネスは叫ぶ。掴んだ腕は、予想外に細かった。記憶にある、レアールが一番痩せていた頃を上回る程に。
 それでもやはりそれは男の腕で、跳ね退けようとする力に対抗する為パピネスは全力を出さねばならなかった。人間離れした握力、腕力を全開にして、辛うじて引き戻し押さえ込んだのである。
「……妖獣並みの腕力だな。ハンターというのは皆こうなのか?」
 息を吐き、諦めて椅子に腰を落ち着かせた青年は、掴まれていた二の腕を擦りながら問いかける。赤毛のハンターは苦い眼をして笑い、首を振った。
「俺のこの腕力は、妖獣の体液の影響だよ」
「なに……?」
 耳にした言葉にルーディックは眉を寄せ、訝しげに相手を見る。
「一度だけ妖獣から性的暴力を受けた女性は、中身はどうあれ表面的には変化しない。けれど続け様に妖獣の玩具にされた人間は、死なない限りやがて変化するんだ。自分を犯した妖獣の外見や力、性質までもそのままに受け継いで」
 実際、自分はイシェラの王宮で妖獣化した女性達の死体を大量に眼にしたと、ハンターは呟く。
「顔を除けば、殆ど妖獣としか思えない姿になっていた女性もいたよ。それでも人間としての意識や記憶はしっかり残っててさ。殺してほしいと訴えながら、その一方で死にたくない、助けてと哀願したそうだ。剣を構えた公子に対して」
「………」
「ルドレフさんは、……彼女達がもう人間に戻れないと知っていた公子はさ。腹の中の妖獣の子供ごと斬って歩くしかなかった、自分は何の救いも与えられなかったと嘆いていたよ。……惨い話だよな。一見妖獣でも、中身は人間の女性を斬らねばならなかったんだから。斬る方も、斬られる方もたまらないよな」
 瞬きすら忘れたルーディックは、パピネスの言葉を半ば茫然と聞いていた。彼の話している事象が真実ならば、過去の自分、人間だった時の己の肉体は妖魔界に運ばれた後、蜘蛛使いによって何らかの処置を施されていた事になる。
 何故なら、自分は変化しなかったのだから。人の身で受けた妖獣達の執拗な暴行、そのおぞましさに、恐怖に苦痛に耐えかねて正気を手放しながら、何の変化も影響も受けず人の姿を保っていたのだから。それを疑問に思う事すらせぬままに。
 そこまで考えた時、青年はある事実に気づいて赤い髪のハンターを凝視する。彼は自身の腕力を、妖獣の体液の影響だと言ったのだ。それが意味するところは一つしかない。
「ハンター……」
 ルーディックの眼差しに、パピネスは微苦笑で応える。大丈夫だ、心配するなと。
 思い出しても何の感慨もない、という心境には残念ながらまだ至ってなかったが、思い出したところで吐きはしない、耐えられる、という段階にはなっていた。だから、そういう仕打ちを己に対して行った蜘蛛使いの事も許せたのである。
「話の流れでもうわかってるとは思うけどさ。あんたが妖獣並みと評した俺の腕力はその……、妖獣相手に何日か玩具扱いされた過去があって……、それで……」
 声は、徐々に小さくなって途切れた。きまり悪そうに照れ笑いを浮かべたハンターは、修行が足りないなと頭を掻く。
「当時は俺も今と違って、ハンターとしての技量も経験もろくになかったからさ。一匹や二匹なら何とか倒せたんだが、さすがに七匹相手じゃ分が悪い。倒せなかったばかりか、逃げる事すらできずに捕まってやられちまった。……それでも死なずに済んだのは、普通の人間とは違うハンターの生命力のせいだろうな」
 けれど、悪夢はむしろ妖獣達から解放された後だった。そう、赤毛のハンターは語る。背丈が急激に伸びて、体に筋肉がつき、握力や腕力そして脚力が増し、やがて食の嗜好が変わる。何を食べても美味いと感じず、遂には相棒の血肉を口にしたいと願うようになって、床に押さえ込み噛み付いて血を啜ってしまったと。
「幸い、雇われた先で巻き込まれた事件により重傷を負った俺は、大量出血の結果怪我の功名でありがたくも妖獣化を免れた。相棒の血を吸いたいとかその肉を食べたいとかいう異常な欲求も消えて、肉体の成長も常識の範囲内な緩やかなものへと変わった。ただ、握力とかはどうしてだか人並みには戻ってくれなかったんだよなぁ」
 しみじみと呟いて、不運な体験をした妖獣ハンターは溜め息をつく。その声音に、己の不幸を強調し嘆く気配はまるでない。過去の出来事の一つを振り返り、それを語っているに過ぎなかった。
「まっ、俺に関する話はここまでにして、本題に入ろうか。ゲルバからの亡命者の受け入れについて、大公家から何と言ってきたか知りたいって事だったよな、確か」
「え? ……ああ、そうだ」
 思考の海に沈んでいたルーディックは、我に返って意識を浮上させ頷く。ハンターの話をきっかけとして、忘れかけていた妖獣等による凌辱の記憶を鮮明に思い出してしまった彼は、呼びかけによってその画像が中断された事に安堵し、ほっと息をついた。
(やれやれ、あれから既に六百年も過ぎているというのにな)
 自分はまだ、笑えない。このハンターのようには。
「あ、話の前にちょっといいかな? こっちを一切れだけ」
 デザートを前にしながら成り行きでおあずけ状態に置かれていたパピネスは、ルーディックに断りを入れるやまだ食べていなかったミルクプディングにナイフを入れ、小皿に取り分けて素早く平らげた。
 それは風味といい口当たりといい実に完璧な出来映えで、堪能したハンターは満足気に青年へと向き直る。うん、やっぱり両方ともあいつが作ったのと同じ味だな、と密かに思いつつ。
「ザドゥが手紙で大公に報告したのは、ゲルバから亡命してきた子供を城塞で保護した旨と、その子がイシェラから公爵家へ嫁いだ王女の一人目の息子で、ローレン・ロー・ファウランという名である事。家族をゲルバの国王により皆殺しにされた彼は、ここカザレントで血縁者である祖父と共に暮らしたいと希望しているというこの三点だ」
 そこでパピネスは一旦言葉を切り、ルーディックに確認を取る。
「後の部分はあんたが聞き出した情報だけど、内容的に間違えて伝えた箇所とかはないよな?」
「ああ、大丈夫だ。合っている」
 実際には皆殺しでなく一人は生きている可能性もあるのだが、ルーディックはその情報をまだ誰にも伝えていなかった。少年の見る夢だけが根拠では、不確定要素が多く確証がなさ過ぎる。
「それで返事だけど、実は大公じゃなくクオレルさん……いやつまり、次期大公に認定されている人物から答えが返って来たんだ。どうも大公は、例の身代わりで他国へ赴く件が公になって以来多忙を極めているらしい。各地から届く手紙に目を通す暇なぞあったら、少しでも休息してもらいますというのが身近で見ているクオレルさんの言い分だった。そんな訳で、返事の内容は大公自身の考えとは多少異なるかもしれない。その点を承知の上で聞いてもらえるとありがたいな」
「………」
 ハンターと向かい合わせに座るルーディックは、心持ち表情を暗くした。ここまで相手の前置きが長いという事は、おそらく良い返事ではなかったのだろう。
 パピネスは懐から昨夜書き留めた手紙の写しを取り出し、必要な部分を抜き出して語った。
「この件に関して、クオレルさんは自分の一存では決めずに、主だった臣下を集め検討したそうだ。討議の末の結論は、敵国の人間になど来てほしくはないが、カディラの都まで来た場合追い返しはしない。来てしまったものは仕方がないので受け入れる。ただし、来るなら厄介者扱いされる事は覚悟の上で来るように、間違っても歓迎されるなどとは思うな、という事だ」
「………」
「また敵国出身という事で、たとえ子供であってもゲルバの間諜と見なす者もいる事を肝に銘じ、疑われるような素振りは決して見せぬよう常に注意しろ、とも言ってきている。もしも臣下からその様な訴えがあった際は、大公代理として監禁を命じねばならなくなると。もちろん、間諜でないかどうかは事前にこちらで調べ上げ、確認するようにとの厳命だ。白なら出発させても良いが、そうでなければただちに逮捕拘束しろとさ」
「……随分ときつい言い草だな」
 ルーディックは不快気に眉を寄せ呟く。会った事もないカザレントの次期大公に、彼はこの時僅かながら嫌悪感を抱いた。他に頼る者もいない子供に、厄介者扱いされるのを覚悟の上で来いという言い方は冷たい。間諜と見なされる素振りを見せたら監禁する、に至っては以てのほかだ。あの少年は好きで敵国に生まれた訳でも、カザレントへ厄介になりに来た訳でもないのにあんまりではないか。そうした憤りにかられ、青年はギリッと唇を噛む。
 一方、実際のクオレルこと、ライア・ラーグ・カディラの人となりを側で見てきたハンターは、こうした決定を下さねばならなかった彼女の立場も苦悩もわかるので、この返事を冷たいとは思わなかった。むしろ、次期大公として当然の対処であり命令であると納得していた。事程左様に、相手を知っているか否かで同じ文面から人が受ける印象、考え方は異なるのである。
「まぁ、タイミングが悪かったのは確かだな。大公が人質として一つの国ではなく各国間を回されると決定したのは、ゲルバの大臣の補佐として会議の席に後から参加した人物の進言によるものだったそうだから。そんな時によりにもよってゲルバからの亡命者、じゃ当たりがきつくもなるさ」
「大公の身柄が各国間で回される? そんな事になっているのか?」
 これにはルーディックも驚いた。人質を各国で回す取り決めなど、過去に溯っても聞いた事がない。ハンターは苦々しい表情を見せ、天井を仰いだ。
「当初の段階では、自分が人質として訪れるからどこへ行くべきかはそちらで決めてくれと決定権を渡す事で、各国の結束に揺さぶりをかけようと大公は目論んだらしい。己の身柄をどの国が手にするかで敵国同士揉めてくれれば、その間カザレントは戦疲れした国民を休ませる事ができ、悪化した経済も一息つけると」
 ルーディックは何とも複雑な顔で顎を掻く。一国の頂点に立つ男が、またえらく危険な賭をしたものだと。しかし、狙いどころは悪くない。相手がその目論見に乗ってくれればの話だが。
「独断で捨て身の作戦を実行した訳か。自分を餌に他国の諍いを釣ろうとは、カザレントの現大公殿もなかなか大胆だな。だがまぁ、国民を少しでも守りたいと考えた上での作戦ならば、ある意味正しい行動だろう。それが逆手に取られなければな」
 青年の言葉に、パピネスは同意を示す。
「ああ、ともあれ最初はその目論見通りに事が運んだ訳だ。各国代表が出席した秘密会議は連日紛糾、同盟は破綻寸前で、戦を始めかねない状況になったそうだ」
 ところが、と赤毛のハンターはこめかみを押さえる。
「この分なら夏頃まで延々揉め続けるのではと思われた矢先、一人遅れて到着したゲルバの補佐官が、会議の席に着くなり提案したんだとさ。どこか一国に決めようとするから争いになる、それなら全部の国を順繰りに回せば良いではないかと」
 パピネスは苦笑いを浮かべ、大きく息を吐く。
「後はとんとん拍子で話が決まったらしい。恨みっこなしの籤引きで、一番目がプレドーラス、次がゲルバ。三番手はノイドアで最後がドルヤ。三ヶ月毎に大公の身柄を移動させるという事で、既にカディラの都へはプレドーラスからの使者が訪れ、近日中に迎えに来る旨を正式に伝えてきたと書いてあった。万事休す、ってとこだな。大公はカザレントから連れ出されてしまう。この件に関して、打つ手は何もない」
「……そうか」
 それならばきつい文面になるのも無理はなかろう、とルーディックは納得する。ゲルバの人間のせいで大公の策が失敗し生命を危険に晒すはめになった以上、その跡継ぎがゲルバからの亡命者に愛想良くなれるはずもない。なれたらそれは余程の博愛主義者か、あるいは逆に肉親への情が著しく欠落した欠陥人間である、としか思えなかった。
「で、問題はここから先の文面なんだ。クオレルさんは、ローレン・ロー・ファウランがイシェラ王家の血縁者及びゲルバの公爵家の息子としてカディラの城に来る限り、厄介者扱いは免れないと断言している。ただし、それを避ける手段が全くない訳ではないと」
「避けられる方法があるのか?」
「あると言えばある。でもなぁ、こいつはどうも……」
 パピネスは前髪をガシガシと掻き乱し、暫し口ごもる。それから、覚悟を決めたように喋り出した。
「イシェラ国王ヘイゲルが語った話によると、第五王女のソーシアナ姫がゲルバへ嫁ぐ際カザレント公子ユドルフ・カディラの子を身篭もっていたのはほぼ間違いないそうだ。亡命者がソーシアナ姫の最初の子であるなら、それはカディラ一族に連なるものであり、大公家の一員という事になる」
 わかりやすく説明する為、パピネスはルーディックの前に藁半紙を置いてペンを取り、カザレント側とイシェラ側の血縁図を書き示した。
 カザレント前大公ケベルスと正妃の間に生まれた嫡男が、現大公ロドレフ・ローグ・カディラ。
 そのロドレフと、イシェラの第四王女セーニャとの間に生まれた嫡子が、次期大公のクオレル。
 そしてもう一人、大公と今は亡き宰相ディアルの間に生まれた、現在行方知れずの公子ルドレフ。
 ここまでは特に問題なかった。ディアルの出自を故意に隠した点を除けば。
「ところが、前大公のスケベ心のせいでどうにもややこしくなるんだよな、関係が」
 ぼやきつつ、パピネスはなおもペンを走らせる。
 ケベルスとセーニャの間に生まれた私生児が、公子ユドルフ・ユーグ・カディラ。正真正銘前大公の息子であり、ロドレフの異母弟に当たるのだが、出産したのが当時まだ公子であったロドレフの妃であった為、表向きは現大公夫妻の長男となってしまったのだ。
「で、やっかいな事にこいつは単なるスケベの父親より遥かにたちが悪かった。成長し領地を与えられるとそこで様々な問題を起こし、裁きを拒んでイシェラの王宮に逃げ込んだ後は長逗留の贅沢三昧。更に結婚を間近に控えていた、実母の腹違いの妹である年下の叔母を襲って孕ませるという悪さを仕出かし、結果誕生したのがあの少年という訳だ」
 藁半紙には血縁関係図が記されていく。イシェラ国王ヘイゲルと前の正妃との間に生まれた、今はそれぞれプレドーラス、ドルヤ、ノイドアの王妃となっている三人の王女。
 ヘイゲルと、愛妾の間に生まれた第四王女セーニャ。
 そして後添えの正妃がもうけた一男一女。王子ブラウとその姉、第五王女ソーシアナ。「このブラウって王子は、生きてりゃイシェラの正当な跡継ぎだった。人あたりが良く真面目で、騎士道精神に溢れた正義感の強い人物、ってのが俺が耳にした風評だな。けっこう国民からも慕われていたらしい。そんな人間の眼から見れば、ユドルフのような傍若無人で勝手気侭、義務は放棄しながら権利の方は当然の如く要求する男は、さぞかし許し難く映ったろうさ」
 苦い口調でハンターは語り、ブラウの名の上に線を引く。残念ながらこの人は、ユドルフに背後から斬りつけられ亡くなったそうだ、と説明を付け足して。
「この王子さえ生きてたら、イシェラは今も大国イシェラのまま地図に残っていたかもしれないんだが……。国というのは、滅びる時はずいぶんとあっけないな。ほんの二年前までは、イシェラが無くなるなんざ誰も思いはしなかったのに」
 儚いよなぁ、人が築き上げてきたものも国の歴史も、と己の書いた血縁図を眺めながらパピネスは言う。ルーディックは無言だった。
「とにかく、ユドルフの息子だという出自を明らかにさえすれば、ローレン・ロー・ファウランは現在行方不明のルドレフ公子に次いで、カザレントの第三公位継承者となりえる存在な訳だ。単なる厄介者の居候の身でいるか、いざという時必要な人間として大公家の一員に加わるか、どちらを選択するかきっちり決めた上で来いとクオレルさんは言ってきている。もちろん、どちらを選ぼうと短所や長所は同程度の割合であるんだが。……どうする?」
「………」
 どうすると言われても、即答できる内容ではない。何よりこれは自身の問題ではない。その点はパピネスもわかっていて、絶句するルーディックに返事を求めはしなかった。
「実を言うと今、ザドゥがあの二人の部屋を訪ねてこの件を伝えているはずなんだ。俺は現在大公と契約しているとはいえ、出身がどこの国かわからない流れ者のハンターだし、あんたはあの子供に懐かれているが他国の者だ。ザドゥは、これはカザレントの民である自分の役目だと言っていた。どう考えても楽しい役目じゃないけどな。お前の本当の父親は婚約者のいる娘を、それも血の繋がった叔母を乱暴するようなろくでなしだった、って事を子供相手に言わなきゃならないんだからさ」
 ハンターは肩を竦め、カップに茶を注ぐ。
「親の犯した罪はその親のみに責任がある、子には何ら関係ないとザドゥは言ってたが、あの子供がユドルフの息子である事実を受け入れ大公家の一員に加えられた場合、カザレント国民の心証は最悪だろう。それくらい、ユドルフ・カディラの悪名は高い。ザドゥにしても、家族を目の前でユドルフに殺された過去があるだけに、内心複雑だろうな」
 妹は生きながら切り刻まれ、父親は袋叩きの末炎の中へ投げ込まれて焼かれ、母親は凌辱された後に剣で突かれて肥溜めの底に沈められたという話だった。殺された家族の誰一人、人としての尊厳を守られた者はいない。そのような死に方をせねばならぬ行いなど、何一つしていなかったにも関わらずである。だが、同様の目に合わされた人間の数は多いのだろう。そうした身内を持つ者達も少なくはあるまい、とハンターは思う。
「母親が肥溜めに放り込まれる際、追いかけて止めようとしたザドゥは、まだ子供だったのにユドルフによって斬り付けられ、それが元で片目を失明した。傷は、今も顔に残ってるだろ? 額から頬にかけて跡がこう」
 パピネスは、指でザドゥの顔に刻まれた傷の位置をなぞるように示す。ルーディックはやりきれない表情で眼を伏せた。褐色の肌をしたヤンデンベール城塞の責任者は、いつも大らかな笑顔を異邦の客人である自分に向けてくれる。その明るい表情から、憤怒と憎悪に塗り潰された過去を想像する事はできなかった。
「さて、これであらかた情報は伝えた訳だけど、まだ聞きたい事とかあるか?」
「いや……。もういい、ハンター。時間を取らせてすまなかった。感謝する」
「そっか。ならこれは処分していいな」
 血縁関係を書き記した藁半紙を掴み、手の内でクシャクシャに丸めると、パピネスはそれを暖炉の火にくべる。紙は、たちまちのうちに燃えて小さな黒い固まりと化した。
「あ、蒸しケーキとか余分に作ってあるだろ? 話が済んだ頃を見計らって、あの二人に差し入れてやってくれるかな。少しでも元気づけてやりたいからさ」
「ああ、そうさせてもらおう」
 ルーディックは頷き、立ち上がる。話は済んだと扉へ向かいかけた彼に、赤毛のハンターはつと手を伸ばし、肩を掴んで引き止めた。

「ハンター?」
 不審に思い振り返った青年へ、パピネスは皮肉な笑みを浮かべて体を寄せる。互いの肩がぶつかる寸前まで接近したところで、徐に彼は囁いた。
「知ってるか? あんたの側近くに寄った事のある兵士達が、皆何て言ってるか」
 唐突な台詞に、ルーディックははてと首を傾げる。ハンターが何のつもりでこんな事を言い出したのか、彼にはまるでわからなかった。
「答えはこうだ。全員口を揃えてこう言ってる。微かだが、男とは思えない甘い香りがしたと。ただし皆、それはあんたがしょっちゅうお菓子作りをしているせいだと、果実や使用した香料の匂いが髪や衣服に染みついたんだと思っているらしい」
 けど違うよな、と相手の束ねた髪を一房掴み、パピネスは言う。
「あいにく、ハンターの嗅覚は普通の人間より鋭くできている。そして一度嗅いだ匂いを間違える事はない。あんたのそれは、移り香なんかじゃないさ。その体から発している体臭だ。とても男の体臭とは思えない香りだが、ありえない事じゃない。昔俺の傍らにいた相棒も、熟した果実みたいな甘酸っぱい体臭の持ち主だったからな。冬場は良く湯たんぽ代わりに使ったから覚えている。あいつの体からはいつも、ずっと嗅いでいたいような心地好い匂いがしたよ。女の白粉や香水の匂いが移った時以外は常に」
 そこで聞きたい事がある、とハンターは切り出す。どうしてあんたから、その相棒と同じ匂いがするんだろうな、と。
「……!」
 ルーディックの顔から血の気が引く。彼は、己の匂いを意識した事などこれまでなかった。まして姿が変化する以前のレアールと同じ香りを放っているなど、考えもしなかったのである。
「他にもあるぜ。お菓子なんてのは、いくら同じ材料を使い同じ手順で作っても、作った人間によって出来上がりは異なるもんだ。むろん味もな。だのにあんたが作ったこの二つは、レアールが俺に作ってくれたのと全く同じ出来映え、同じ味だ。これはどういう事かな?」
「………」
 パピネスは口許に笑みを浮かべたまま、顔を近づける。だが、その眼は少しも笑っていない。
「話してもらおうか。あんたは何者だ?」
「……俺は」
 ルーディックは言葉に詰まる。硬直した体は彫像と化して、己の意思に従わなかった。赤毛の妖獣ハンターの脅しを含んだ笑顔が迫り、息が頬を掠めていく。掴まれた肩は、鈍い痛みを訴え始めていた。
「あんたは誰だ?」
 問いかけの言葉が、心に突き刺さる。身を強張らせた青年の体をきつく締め上げ、パピネスは訊く。
「あんたは、誰だ」
 耳を打つ声は厳しく、誤魔化しを許さなかった。骨が軋む程強く抱き締められた身は、呼吸もままならない。
「俺は……」
 言葉は、途切れた。



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