断罪の瞳5《1》




◆ ◆ ◆


 雪は、夜半を過ぎてますます激しさを増していた。
それはゲルバに生まれた人間にしてみれば、既に慣れ切った日常の一景にすぎなかったが、それでも火の気もろくにない部屋で過ごす夜は辛い。
 隙間から雪が吹き込む家屋で冷え切った手足を擦り、寝床代わりの藁に潜って寒さをしのぐ大多数の住民は、既に春を迎えているであろう南のノイドアやドルヤへと思いを馳せ心の底から羨んだ。
ゲルバの春は、例えて言うなら非常に内気な深窓の御令嬢、である。焦がれに焦がれ、扉を開けて出て来てほしいと皆が熱烈に請い願っても、僅かに顔を覗かせたかと思えばすぐ引っ込んで逃げてしまう。人々はその度、春なお遠し、と肩を落とすのだ。
 しかし、いかに祖国の冬が他国に比べ長く厳しいにせよ、それは住民にとってまだ耐えられる範囲の内にあった。季節はいずれ変わるものであり、待てば必ず春は巡り来ると誰しも知っているのだから。
 耐え難いのは、終わりの見えない政治の冬である。年を重ねる毎に数が増え続ける餓死者、凍死者。重い税を課し厳しく取り立てながら、民の窮状には何ら手を打とうとしない各領主と国王。働き手を徴兵により奪われ、生活ができなくなって離散した多くの家族。 僅かな給金で雇われ、夜明けから深夜に至るまで鞭の音を背に働く労働者。同様の労働をしながら給金すら貰えない奴隷階級の人々。彼等に時代の春は見えなかった。その気配すら、感じられなかった。いつこの冬が終わるのか、果たして終わる日が来るのか、それすらも定かでない。
 現状を憂い改革を訴えていたファウラン公爵は、領民の間で人気が高く一部の貴族からも評価を得ていたが、そうした評判の良さが王の怒りを招き殺された、という流言が王都ではこのところ流れていた。家族も皆殺され、妖獣の餌にされたと耳にして、都の人々は死者の冥福と魂の安寧を祈りつつ、王への呪いの言葉を心の内で吐く。
 王子だった頃のオフェリスとイシェラの第五王女ソーシアナの縁談が破棄された理由を知る民はごく僅か、更にその後急遽決まった縁組みでプレドーラスから嫁いできた現王妃は、国民にまるで知られていなかった。正式な名すら、覚えている者は殆どいない。
 彼女は婚儀の翌年王女を一人産んでいるのだが、王が妖術師の少年を宮殿に住まわせてからは全く姿を見せなくなっていた。故に、人々は知らなかった。果たして自国の王妃と王女が、今現在も王宮で無事に暮らしているのか否かを。
 国王夫妻の一粒種である王女には、この先弟が生まれぬ限り課せられる義務がある。夫を迎え男児を出産せねばならぬという義務が。ゲルバでは、世継ぎは男児のみと定められていた。王女に王位継承権はない。
 つまり、この国が新たな王を得るのは、遥か先の話なのである。現体制が続く限りは。仮に王妃が今後運良く王子を産んだとしても、やはり先の事だった。
 ゲルバの民は、春を待ち焦がれていた。凍える冷気の中で、春を待ち望んでいた。季節の春も、もう一つの春も。


◇ ◇ ◇


「ローレンっ?」
 深夜、少年の悲鳴を聞いて妖獣ハンターの少女は寝台から跳ね起きる。
 命からがら祖国を脱出し敵国カザレントの城塞に身を寄せた二人は、離れる事を良しとせず救助されたその日から同室で過ごし、弱った体が回復するのを待っていた。
 ハンター故に根本的体質が一般人よりも丈夫にできているアディスの方は、保護された二日目にはほぼ完全な健康体に戻っていたが、カディラの都に送り届けるべき肝心要な同行者ローレンは、ごく普通の人間な為そう簡単には行かなかった。
 怪我による多量の失血、更に極度の食欲不振が続いている事もあって、少年の体はなかなか回復の兆しを見せない。頬は血の気を失ったまま、食事の際上体を起こすのすらひどく難儀な様子であった。
 その上、眠りにつけばこうしてうなされるのだ。睡眠中に泣き出したり、悲鳴を上げ腕を振り回すのもよくある事で、悪夢を見てるのは容易に想像がつくのだが、目覚めたローレンは謝るだけで、決して夢の内容を語ろうとはしない。この夜も、それは変わりなかった。
「あぁ、ごめんねアディス。今夜も起こしちゃったんだ。僕、すごくうるさくした? 何か変な事叫んだりしなかったかな……」
 ぐったりとして眼に涙を溜めながら、申し訳なさそうにローレンは呟く。アディスはそんな少年の様子に唇を噛んだ。
「病人がそーゆー配慮をするんじゃないの。謝ってばかりいたら余計に治りが遅くなるわよ。ほら、あの食事を運んで来てくれるちょっと変わったお兄さんだって言ってたじゃない。周囲にいちいち気を使っていたら治るものも治らない、病人や怪我人は傍若無人の我が侭をやらかしても、回復するまでの間は許されるんだって。貴方を見てると全くその通りだと思うわ、あたし」
 鼻息も荒く主張する少女に、涙ぐんでいた少年は思わず苦笑する。アディスのこういう性格って好きだなぁ、と。
「何を他人事みたいに笑ってるのよ。いい? あたしに対してまで遠慮とかしなくていいんだから、もっと偉そうにしてなさい」
「うん……。でもこの城塞の人達には迷惑かけっぱなしだね。体調が良くなったらすぐ都に向けて出発する予定だったのに、僕ときたらこんな情けない状態で寝たきりで、食事やら薬やらずっと無料提供してもらってるもの。何も返せやしないのにと思うと、親切にされればされるだけ居たたまれなくて……」
「あーもう、またそうやって気を使う! 駄目よ、ローレン。そんなだから貴方、いつまでたっても回復しないんだわ」
 舌打ちして叫ぶアディスを前に、ローレンはすまなそうに身を竦ませた。
「で、どんな夢を見たの?」
 少年の汗ばんだ額に手を当て、少女は問う。
「悪い夢を見たら、その内容を他人に話せばもう続きは見なくて済むと聞いた覚えがあるわ。うなされるの、毎日よね。ずっと続きを見てるのでしょ。どんな夢? ローレン」
「……ごめん」
 ローレンは口を閉ざす。言えば、確かに自分は楽になれるかもしれない。続きを見なくて済むかもしれない。けれど、その相手に彼女を選んではいけなかった。彼女にだけは、伝えられなかった。
 雇い主だった叔父のルノゥに対し、傍目にもはっきりわかる程の恋心を抱いていたアディスである。守り切れなかった事を今でも悔やみ自分を責めている彼女に、連日見る悪夢の内容を話す訳には行かなかった。夢の中でルノゥが受けている扱いは余りに惨い。しかもそれは、もしかしたらゲルバの王宮で現実に行われている事かもしれないのだ。
 少なくとも、この城塞にいる呪術師見習い兼料理人の、綺麗だけど妙な青年はそう言ったのだ。続け様に見る悪夢のせいで運ばれた料理の半分も食べられず、アディスが席を外した隙に泣きすがった自分へ。残酷なようだが坊や、俺の勘だとその夢は現実の可能性が多大にある、と。
 驚愕に絶句したローレンを気の毒そうに眺めながら、どこか人間離れした青年は言葉を続けた。
『夢の内容は俺にも見えた。……あれがもし現実なら、君の叔父さんは闘っている。君達を無事に逃がす為、妖獣にその身を食わせて時間稼ぎをした時と同様に』
『わかるか? 苛酷な状況に耐え、己のできる範囲で精一杯闘っているんだ、君を守ろうとして』
『あの人の努力を無駄にしてはならない。君はこの先、君にしかできない、君だけの闘いをする事になるだろう。だが逃げるな、立ち向かえ。そしていつか、君の大切な人を取り戻すんだ。自身の手で』
 そう、彼は主張したのだ。力強く、励ますように。
(でもお兄さん、いったい今の僕に何ができるの?)
 夢の中で一度、ゲルバ国王オフェリスは排泄物まみれにしたルノゥの顔を靴底で踏みつけ言っていた。死んだ方がましな気分だろう? だが貴様が自害したら、次は逃げた甥を捕まえてきて代わりに使うぞ、覚えておけ、と。
 その言葉を忘れられぬ為、悪夢を見る度ローレンは考え込んでしまう。叔父があの状況に耐えて生きているのは、死んだら自分が代わりにされると思っているせいなのだ。ならば自分さえこの世からいなくなれば、彼が無理して生きる理由はなくなる。もうあんな酷い目に合わずとも済むではないかと。
 ローレン・ロー・ファウランは、正直なところ大好きな叔父の為なら死んだって良かったのだ。死を怖いと思う感情はあるが、それでルノゥがあの拷問から解放されるなら構わないと思っていた。もしそうしろと叔父に言われたならば、彼は喜んで生命を投げ出しただろう。
 然るに問題は、捕らわれ拷問を受けているルノゥが自分の無事を祈り、生きていてほしいと強く願っている点である。命を捨てても守りたいと思った相手が自ら死を選んだとなったら、果たして叔父は心安らかでいられるだろうか? 生きようが死のうが、自分は結局彼を苦しめるだけの存在ではないのか?
 ローレンは拳を握りしめ、涙を拭う。彼は己が力の無い弱い子供にすぎない事を自覚していた。誰を守る事もできず、何の役にも立たない、それが現在の自分だと。
 だから今は、夢の内容をアディスに伝えない事が、一人耐えて踏んばる事が、幼い彼にできる精一杯の努力であり、闘いだった。相手が必ず悲しむとわかっている事柄を、わざわざ喋る必要はない。だんまりを続ける事によって誤解されるはめになろうが嫌われようが、伝える気にはならなかった。
「ごめんアディス。……言えないんだ、ごめんね」
 アディスは溜め息をつき肩を落とす。それから、徐にローレンの手を握りしめ問いかけた。
「ねぇローレン。あたしって、そんなに信用できない? 貴方の夢の内容を聞いたって、笑い飛ばしたり他人に言いふらして回ったりはしないんだけど」
 真剣な口調で迫られたローレンは、慌てて首を振る。
「もちろんアディスがそんな真似しない事はわかってるよ。信用してないなんて事は絶対にない。ただその、女の子にはちょっと言えないような悪夢だから……」
「え?」
 思わぬ方向に話を持って行かれ戸惑ったアディスに対し、ローレンはここぞとばかり芝居っ気たっぷりに呟く。
「だから、アディスに話すとしたらどのくらい伏せ字にすれば良いのかわからないんだ。そんな赤面ものの内容なんだけど……無理にでも聞きたい? 僕、言うの恥ずかしいよ。熱がすっごく上がりそうだもん」
「え、……えーと」
 ハンターとはいえアディスも年頃の少女である。赤面ものの内容だと少年から強調されては、敢えて話すよう迫るのもためらわれた。
 彼女の躊躇を見て取って、駄目押しにローレンは言う。
「アディス、それでも訊くの? 僕のこと苛めたい?」
 降参、とアディスは両手を上げた。
「わかったわ。もう話せとは言わない。その代わり、いつまでもそんなスケベな悪夢に悩まされてちゃ駄目よ」
「えっ? スケベ?」
「あら、だってそーゆー内容なんでしょ?」
「う……、うん。……そだね。そうだけど……」
 赤面し、指を絡ませながらごにょごにょとローレンは呟く。いくらなんでもスケベって言い方はちょっと……。何かやだなぁ、そりゃ自分から振った嘘だけど、うーんうーん、うにゃうにゃうにゃ……。
「さっ、そうとわかったら寝なおすわ。ローレンも今度はぐっすり眠るのよ。明日こそは食事を全部平らげてもらうんだから」
 立ち上がり、天井に向け腕をんーっと伸ばすと、軽い調子でアディスは言った。頷き、ローレンは眼を閉じる。
「……おやすみなさい、アディス」
 少年の漏らした小さな呟きに、テーブルの上へ置いた燭台の火を消し自分のベッドに戻ろうとしていた少女は、足を止めて振り返る。
「おやすみなさい、ローレン。今度は良い夢をね」
 二人のいる部屋は深夜という事もあって火の気もなく冷え切っていたが、どこかポカポカした気分でアディスは布団へともぐり込んだ。先程眼にしたローレンの、困り果て赤面した表情を思い出すと、どうにも笑いが止まらない。
(今夜はあたしも、ルノゥを守れなかった時の夢を見なくて済みそうだわね)
 ハンターの少女は微笑みを浮かべ、己の体を抱きしめるようにして眠りについた。


「……うーむ」
 どうしたものかな、と一人暗い廊下に突っ立っていた青年は唸る。その両手には、まだ温かみが残る大きめのカップの把手がそれぞれ握られていた。
 もはや夜の恒例行事となった異界の魔物の戯れのせいで、横になりながら眠らせてもらえない状態に置かれていた青年は、少年の悲鳴を聞くや行為を強引に中断させた。
 それから、おそらく寒い思いをしているであろう二人の為に厨房でミルクを温め、急いで部屋の前へと来たのである。されど漏れ聞こえた話の内容から、声をかけるタイミングを掴めず迷っているうちに、当の二人は明かりを消してさっさと就寝してしまったのだ。 眠った子を無理に起こしてまで冷めかけのミルクを飲ませる必要はない。そうは思う。しかし、自分が飲んで処理するには多少心理的抵抗があった。子供に飲ませるつもりで、蜂蜜を数滴垂らし特別に甘くしたミルクである。大人が喜んで飲める物ではない。しかもそれがたっぷり二杯分もあるのだ。
「おい腐れ外道、貴様これを飲む気あるか?」
 青年の問いかけに対し、異界の魔物はあきれ果てた口調で声を返す。
『それをどうやって飲めと?』
「……だよなぁ。ま、ちょっと言ってみただけだ」
 妖魔の体に人間の魂というややこしい事情を持つ青年は、肩を竦めて苦笑した。同じ肉体を共有している魔物はこの器から出て交わる際、大きさはともかく一応人に似た形をとる事が多いのだが、元々は霧状の化け物である。行為をより楽しむ為に口や舌らしき部分を作り出しはするが、本来そんな器官は持っていないのだ。
「俺が飲むにしても、この量はちと遠慮したいな。腹を下す可能性には目をつぶるとしてもだ、蜂蜜の余計な甘味をどう我慢するべきか……」
 ぶつぶつと呟きながら自室へ向かいかけた青年は、不意に立ち止まり唇の端を上げる。寝ている者を起こして飲ませるのはまずい。それは間違いない。だが起きている連中に飲ませるなら別に構わないではないか。
 ただし、起きていても夜勤で見張りに立っている、あるいは巡回中といった兵士は除外せねばならない。下手に尿意を催され、任務放棄となっては大変だからである。
 然るに、この城塞内には彼にとって非常に都合の良い人物が二人いた。実質上の責任者ザドゥと、その相談役となっている妖獣ハンターのパピネス。彼等ならば、まだきっと起きているに違いなかった。
 特に今夜の場合、国境を越えてきた亡命者の件を交えて綴った書簡への返信が夕刻カディラの都から届いたのだから、それを挟んで意見を交わし合っているに違いなかった。あの二人の性格なら、納得がいくまでとことん話し合い今後の対応を検討するはずである。
「そうだ、彼等に押しつけるのが一番良いな。どちらも丈夫で頑健で、間違っても腹を下すような事はなさそうだし」
 問題は大人の飲み物にあるまじきミルクの甘さにあったはずなのだが、そうした事実はこの時青年の頭からすこんと抜け落ちていた。否、故意に忘れたのかもしれない。
『………』
 同じ肉体の内にある魔物は、青年の呟きを聞いた瞬間低く唸り、その後沈黙した。自分が飲みたくないものを他人に押しつけるのか、こいつは? とは思ったのだが、それを言ったところで相手が考え直すはずはない。ならば言うだけ無駄である。
 取り合えず魔物としては、青年がとっととこの用件を片付けて部屋に戻ってくれればそれで良かった。戻れば、子供の悲鳴によって不本意にも中断させられた行為の続きに移れるのだから。
 異界の魔物がしぶしぶながらも青年の頼みを聞き入れ、お楽しみを途中でやめたのは、一旦交わした約束を相手が勝手に破る事はない、という確信があったからである。
 妖魔レアールの体を現在の器としているルーディックは、後で付き合うと口にしたならそれがどんなに苦痛と屈辱を伴う行為であっても回避しようとはしなかった。約束を反故にした事は過去一度もない。それこそ、極度の接触恐怖症だった最初の頃から今に至るまで一度も、である。
 言葉というものを日頃あまり信用していない魔物も、ルーディックが自分と交わした約束だけは信じて良いと思っていた。信頼を抱くには充分な、積み重ねがそこにはある。
彼は自分を欺かない。約束を翻す事もない。彼は違うのだ、己が滅ぼした世界の住人とは。
「おい……?」
 黙って歩いていたルーディックが、首を傾げ問いかけてくる。
「何か妙にさっきから胸の辺りでくすぐったいものを感じるんだが……、お前もしかして笑っているのか?」
 さすがに同じ体で何ヶ月も過ごすと、感情の波動もけっこう伝わるようになるらしい。無自覚なまま笑い出していた異界の魔物は、そう判断して意識を引っ込める。
 廊下の角を曲がると、青年が目指した部屋は目の前だった。閉められた扉からは、中にいる人間が起きている事を示す明かりが漏れている。予想通りだな、と笑みを浮かべた青年は、両手をふさいでいるカップの把手をしっかり握り直し、徐に足で扉をノックしたのだった。

 ……そして仕事熱心な男達は、深夜まで議論を続けていたばっかりに冷めた蜂蜜入りのミルクというありがたくない差し入れを貰い、その場で飲み干すよう押しかけ料理人の客人から強制されてしまったのである。
 彼等の胃腸が常人より遥かに丈夫であったのは、不幸中の幸いと言える……かもしれない。



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