断罪の瞳4《3》


 カザレント国境に隣接する街ウィタリム。王国ドルヤ領内のこの街は、住人の八割がイシェラの人間で占められている。
 彼等は別に、この地へ引っ越してきた訳ではない。難民という立場でもない。元々ウィタリムは、王国イシェラの領土であったのだ。ほんの一年前までは。
 だが、彼等の矜持の拠り所であった祖国イシェラは今はない。
 大国イシェラ。決して国土を戦火で焼かぬ安住の地。貴族はもちろんの事、平民であっても大半が庭付きの家を持ち、ある程度の財を有していた豊かな国。宮廷での権力争いや策謀、役人や軍人の出世競争や出身校別による派閥争い等はあっても、日々は変わりなく平穏に過ぎていくものと誰もが信じていた一種の理想郷。
 されど現在、それは都合のいい幻想でしかなかった事をイシェラの人々は知っている。大国という奢りと油断がこの事態を招いた事実も。
 皆、あの頃は考えもしなかったのだ。自国に攻め入る国がある、などとは。イシェラのような大国に牙を向ける国なぞありえないと、根拠もなく思い込んでいた。大国だからこそその富を妬まれ、地続きの近隣諸国から狙われる可能性がある、という発想は当時の彼等にはなかった。戦を仕掛けられる側の立場に自分達が立たされる、とは誰一人思いもしなかったのだ。
 結果、イシェラは友好国であったはずの周辺六ヶ国により国を刻まれ、分断されてしまった。新たに決められた国境には柵が築かれ見張りが立ち、元イシェラの国民は同国人でありながらそれぞれ異なる国の者とされ、隔てられて行き来も許されない。そして彼等は入り込んできた支配国の人間達、以前は自国より格下と見下していた国の民へ従う事を余儀なくされている。それは、貴族も平民も変わりなかった。
「えっと、余分な財産っていうか生活必需品以外の物は全て没収でしょ。そして支払う税金はかつての三倍。加えてドルヤから来た役人や兵士の命令に逆らったら、問答無用で逮捕され本国に連行、奴隷の身分に落とされ強制労働させられるって話を耳にしたわ。本当かどうかは知らないけど。でも、それが本当だとしてもここはまだましな方じゃないかしら。こうして文句を口にしても、兵士が押し入ってくる訳じゃないんだから」
 ゲルバ出身の傭兵だと名乗った男の隣に裸体を横たえ、ウィタリムの盛り場の通りに面した酒場兼食堂に勤める娘は呟く。年の頃は見たところ十六かそこら。混乱の中で家族と離れ離れになったが、前はゲルバ占領下となった地域に住んでいた、という話だった。
 男を部屋へ誘ったのは、その地の情報を少しでも得たいが為だったのだろう。体を売る行為にはまるで慣れてない。怯えによる肩の震えは、行為を中断した今も全く治まっていなかった。
「あの……本当に良いのかしら?」
「何がだ?」
 問いかけに、男は顔を巡らす。蝋燭一つの乏しい明かりであっても、娘のすまなそうな表情は見て取れた。
「だってあたしから誘ったのに、途中でやめさせて……。こんなくだらないお喋り続けて時間をつぶして、それで代金貰っちゃうってのはいくらなんでも詐欺よねぇ」
 その声が、眼差しが、真実申し訳なく感じている相手の心情を吐露していて、男はたまらずに吹き出す。元より娘の誘いに乗る気なぞなかったのだ。ただ単にドルヤの占領後の政策と住民感情等を詳しく聞き出したくて客となった身としては、この状況は笑うしかない。
「あのっ! 何がそんなにおかしいのかしら」
 憮然としてふくれる娘に、男は必死で笑いを抑える。隣にいる相手は、顔の造り自体は悪くないが体は細く胸も腰も貧弱で触り甲斐がない。
 美食・飽食の国であったイシェラでは、すっきりと痩せた体を保っている事が美男美女の第一条件だったらしいが、慢性的食糧不足に悩むゲルバの場合、美男はともかく美女の基準はふっくらした頬とふくよかな胸にある。
 ゲルバで生まれ育った男にしてみれば、娘の体型は女としての魅力に乏しく、その気になるのはむずかしかった。しかし、それを馬鹿正直に伝えれば余計怒りを買うのは目に見えている。
「悪かった。でもな、無理して相手をしてもらったところでこちらも楽しくないって。それよりはこうしてお喋りを聞いてる方が面白くていい。あんたがもう喋りたくない、というなら話は別だが」
「そんな事ないわ! 喋ってていいなら一晩中でも喜んで喋るわよ、あたし。でも……、あの、良かったらゲルバの事も聞かせてくれる? できればゲルバの占領下に置かれた地域の事とか知りたいのだけど……」
 男は頷き、性的な欲望を感じさせぬ動きで娘の髪を撫でてやる。安心した娘は、誘導されるままそれとは気づかずに喋り出した。カザレントから流れてきた噂や、店で聞いた客達の会話の断片から得た情報、そしてドルヤの兵士達の最近の動向などを。
「カザレントの大公がプレドーラスの王都に?」
 その話題が娘の口から漏れた時、男はそれまでになく強い反応を示した。宿で待っている同行者の今後の行動へ、深く関わる問題であった為に。
「ええ、確かそんな事を言ってたわ。どこか一国へ、って決めるのは揉めて無理だったらしくて、結局最初はプレドーラスに、次はゲルバって言ったかしら。とにかく三ヶ月毎に国を移動してもらうとかで、ドルヤの順番は最後に決まったからまず来られないだろうって」
「……来られないとはどういう意味だ?」
 娘は首を傾げる。
「んー……、たぶんそれまで生きてはいないって考えてるんじゃないかしら。だってそもそもこの国、つまりイシェラの事だけど、ここを一部でなくそっくり自分達の物にしたいと思って各国は動いているのでしょ? だったら手に入れた人質を有効に使わない訳はないじゃない」
 それはそうだろう、と男は舌打ちする。卑怯も卑劣もない。権力者とは、己の利益の為ならそうした事が平然とできるのだ。そして政治の駆け引きは、表はどうあれ裏では手段を選ばないものである。
「カディラの都に保護されてる陛下や、留守を守ってるカザレントの大臣達を脅して揺さぶるつもりなら、相手が大公だろうと腕の一本や二本は平気で切り落として送りつけるんじゃない? それくらいはやると思うわよ」
「……確かにな」
 男は頷き拳を固める。だが、プレドーラスの連中にそれをやってもらっては困るのだ。もしもそんな事になったら、あの童顔の同行者は泣くだろう。嘆くだろう。それは嫌だった。
 しかし、現実問題として今自分達に何ができるのかと言うと、何もできないと認めるしかない。ゲルバの脱走兵アラモス・ロー・セラは、宿に残してきたルドレフを思い溜め息をついた。


 ルドレフ・ルーグ・カディラは縁の汚れたグラスを前に、酔っ払いの怒鳴り声やはた迷惑なけたたましい笑いが飛び交う喧噪の中へポツンと身を置いていた。
 グラスの中の液体は、最初に口をつけた時以来減っていない。値段が安いから注文した品だったが、中身はその値より遥かに劣るものだった。空気に触れて品質が落ちた古酒に安酒を混ぜた事がはっきりわかる味で、全部飲んだら悪酔い間違いなしである。何が何でもとにかく酔えればそれで良い、という人間向けの酒だった。
 この街まで彼に同行したゲルバ出身の兵士アラモスは、頼むから立場を自覚しておとなしく宿にいてくれよ、と懇願めいた忠告をして情報収集に出かけたのだが、その言葉にルドレフが従えたのは辺りが暗くなるまでだった。
 二人でいる時は大丈夫なのだが、一人になると宰相ディアルの息子は途端に現実を現実として認識する事が著しく困難になる。これは己が見ている夢で、本当の自分は今も妖獣の餌場である地下室に閉じ込められているのではないか、と。
 あるいはそれさえもまた夢で、実際にはカザレントのあの廃屋でイシェラからの刺客により生命を絶たれたのが真実では? 生きたいという願望から、都合のいい長い夢を見ているだけだとしたら?
 そうした思いに拍車をかけるような幻覚にも、彼はしばしば襲われていた。痛みを訴える関節、だるい体。熱に悩まされ、寝たきりの状態だった自分。薬を求めラガキスが出かけた後に押し入ってきた、イシェラに雇われた七人の刺客。季節は、確か冬だった。外は小雪が舞っていて、窓から吹き込む風は冷たく、切り裂かれた利き腕は血に染まり、立っているのも苦しくて……。
 倒れた自分に、幾度も剣は突き立てられた。絶え間ない苦痛、流れていく血。視界が急激に狭まり、暗くなったのを覚えている。そして心臓を貫かれた。間違いなく殺されたはずだった。
 ならば、ザドゥと出会った自分は誰だったのだろう。大公に手を握りしめられ、「私の息子だ」と人々に紹介されたのは?
 闘技場でザドゥと剣を合わせたのは、イシェラの王都を妖獣の手から奪還しに向かったのは、ユドルフ・ユーグ・カディラの亡霊を倒すべくザドゥに同行した自分は何者だったのか。全て願望が見せた夢か。
(違うっ! 違う違う、そうじゃない!)
 夢ではない。夢であるはずがない。拳を握り、ルドレフは心の内で叫ぶ。生きている己を確認し、自身の思考を否定する。自分は妖魔に借り物の生を与えられたのだ。肉体の殆どを失った妖魔の魂を、体が元通り再生するまで内包する代わりに生き返らせてもらったのだ。たとえそれによって成長が止まり、人外の存在へと変化したにせよ生きている。それだけは確かだった。
 けれども一人部屋に取り残されていると、振り払ったはずの負の思考と幻覚は再び彼に忍び寄る。自分の弱さ、不安がそれらを招いているのだとわかっていても、ルドレフは逃れられなかった。堂々巡りで終わりのない不毛な精神の戦いは、彼が一人でいる間延々と続いた。
 結局、宿の部屋でパンとスープのみの簡単な夕食を済ませたルドレフは、耐え切れず外出し近くの酒場に飛び込み、仕切り板と向かい合わせの人目につかない席に着いた。それから、真夜中と言っていいこの時刻に至るまで、廃棄処分寸前の軋む椅子に腰掛けアラモスの気配が近づいてくるのを待っている。
 むろん、己が迂闊に姿を晒してはいけない存在である、という意識はルドレフにもあった。今は名ばかりとなったイシェラ国王ヘイゲルが、自分が行方不明となった知らせを受けた直後、次のイシェラ国王として正式に指名し、その証拠となる誓約書も作成して大公へ渡したという情報をアラモスに聞かされてからは。
 そういう事情では生存を知られたら最後、イシェラを手中にせんと躍起になってる各国が血眼になって己を捜し、抹殺を企てるのは目に見えている。
 だから、一応出歩く際も用心はしたのだ。幸いこの店は、グラスや店内の汚れを目立たなくする為かそれとも節約の為なのか、明かりが極端に控えめで暗く隣のテーブルの客の顔も良くわからない。酒の不味さには閉口するが、誰もいない部屋にいたくはなく、かといって下手に他人の注目を浴びる訳にもいかぬルドレフにとっては、誠に都合のいい場所だった。他人の話し声が常に聞こえていれば、幻覚症状は起きないし思考も不毛な方向へ走りはしない。
 予定では真っ直ぐカザレントを、カディラの都を目指すはずだったんだよな、とグラスを揺らしぼんやりと彼は思う。それが変更を余儀なくされたのは、ゲルバ支配下のイシェラが人目を避ける逃避行にはとことん向かなかったせいである。
 あの地の住民の殆どは、軍属の妖獣の働きに対する報酬として捕らわれる事を恐れ、外出もろくにせず家の中で息を殺していた。昼間でも、通りを歩いているのはゲルバの兵士と隊に所属する妖獣ばかりである。
 住民が誰一人歩いていない村や街。そんな場所を馬に乗って駆け抜けたのでは目立って当然だった。たちまち怪しまれ、兵士や妖獣に追われて逃げ回り、やむなく二人は最短距離を進んでカザレントに入国する事を断念したのである。
 馬を放し、針葉樹の森に身を隠しながら進み、国境を示すべく築かれた柵を夜闇に乗じて乗り越えプレドーラス領土となったイシェラの地に足を踏み入れたのは、臭気に満ちた地下室を脱出してから五日目の事だった。
 プレドーラス支配下のイシェラの住民は、ゲルバ占領地の住民と異なり妖獣に与える餌として軍に狩られる心配がないせいか、その大半は以前と変わらず頻繁に外出し、日々の営みを普通に繰り返していた。兵士の巡回の数や監視の眼も、ゲルバよりはずっと少なく緩い。買い出しや仕事に向かう人々の中へ紛れての移動は容易で、遠回りでもこちらを通り抜ける事を選んで正解だったなとルドレフに思わせた。
 そうして時間をかけながらも、カザレントに戻るべく着実に前進していた最中である。その話を耳にしたのは。
 最初にアラモスが仕入れてきたのは、表向き流産したと発表されていたカザレント大公ロドレフとイシェラ王女セーニャ妃の子が実は生きていて、大公付きの侍従クオレルこそがその嫡子本人であったと公表され、正式に御披露目されたという噂だった。
 次に関連する噂を聞いたのは、再度国境を破りドルヤ支配下の領地に潜入した直後である。それは、各国に次期大公としてクオレルの名を知らせる通達が届き、現大公が留守の間はこの嫡子がカザレントの政務を担当する、即ち事実上新たな大公として就任する事が決定した、という風聞だった。
 こうした噂を口にしているのがイシェラの人々よりもむしろ征服者側の役人や兵士達であったが為に、信憑性は増した。ルドレフは、噂がほぼ事実であると判断せざるを得なかった。それ故、彼は密かに思う。カザレントに戻っても、カディラの都へは行かれない。大公に会う事はできない、と。
『貴方が都に戻れば、間違いなく起きなくていいはずの争い事が起こります』
 イシェラの森で彼にそう告げたのは、嫡子であると今は判明しているクオレルだった。 正直なところ、内乱を起こしてまでも自分を跡継ぎに、と望み求める者がカザレントにいるのか、そこまで己に価値があるのかルドレフには今一つ理解できなかった。宰相ディアルの息子である自分をカザレントの人々がどの様に評価しているか、知る術が現在の彼にはない。
 わかっているのは、次期大公と定められた人間が自分の帰還をあの当時望んでいなかったという事実である。男装の侍従は、大公と正妃の血を受け継いだ美貌の公女は、祖国を二つに裂き混乱させるやっかいな存在として己を見なし、死んだ事にして行方を眩ましてくれと願っていた。それは確かだった。
『貴方が消えてくれればそれだけで、カザレントは一つの大きな災厄から逃れられるのです』
 当時と違い、現在のカザレントは災厄の真っ只中にある。それでも自分は新たな災厄の火種となるだろうか? ルドレフはその点を疑問に思ったが、もし彼女が恐れていた様に自分が都人からそれなりに人気を得ているとしたら、カディラへ行く事は無用な騒ぎを起こす元になる。
 カザレントは、大公ロドレフという支柱によって支えられていた国だった。その支柱を他国に奪われる事態になってぐらついている時に、更に人心をぐらつかせる必要はどこにもない。少なくとも人々がクオレルを認め国内が安定するまで、カディラの都に戻ってはいけないのだと、ルドレフは己に言い聞かせた。
 アラモスには心配されたが、別にルドレフは噂を聞いて衝撃を受けたりはしなかった。彼にしてみれば人々を騒がせている風聞の全容は、前々から察していた事柄が単に世間一般へ公表されただけに過ぎない。
 初めから、わかりきっていた事だった。大公にちゃんとした血筋の跡継ぎが存在する事は。そうでなければ、首を捻らねばならぬ事柄が多すぎる。
 名目上嫡子となっている性格破綻者のユドルフを、自分が亡くなれば大公の座に就いてしまうはずの男を生かしたままイシェラに渡して平気でいられたのは何故か? ディアルとの間にできた息子を、誕生の際のゴタゴタがあったにせよ長らく放置し積極的に捜そうとしなかったのも、常識的に考えれば妙な話だった。
 全ては正真正銘の嫡子が安全圏にいて、無事育っていたからこそ取りえた行動。知っていた。気づいていた。だから姿を消すつもりでいたのだ。するべき事を全部終えたら身分も国も捨てようと決意して。
 それでも、許されるのならもう一度会いたいと、会って話をして約束を果たしたいと、ただそれだけをあの時自分は願ったのだ。それは、許されない望みであったろうか? 正式な夫婦でもない、父を同じくする血の繋がった男女の間に生まれた祝福されざる子供には、過ぎた願いなのだろうか?
(しかも実際には、父親でないかもしれないのに……)
 近日中にカディラの都に近付かねば、約束を果たす機会はないも同然だった。もたもたしていれば、どこかの国が迎えを寄越し大公を連れ去ってしまうだろう。けれど誰にも知られぬように都へ入るのは難しい。まして見咎められずに城内へ忍び込む、というのは至難の業である。ルドレフ・ルーグ・カディラの顔と姿は、まだ忘れ去られてはいないだろうから。
(こんな時は、あの妖魔の魂が応えてくれないってのが不便に思えるな)
 以前呼びかけた時は、一瞬で自分を行きたい場所へ移動させてくれた存在。その存在が今は内部に感じられなかった。一度ははずしたはずの守護石のピアスが両の耳に戻り、死体の自分が心臓も動き体温もある以上、まだあの妖魔の魂が内にあるのは確かなのだが、それを裏づける手応えがない。
(もしかして、絶体絶命の非常時にしか力を貸してくれないつもりでいるのかな? それは納得できる話だし、自分としても常に頼る気はないけれど……)
 でも今はあの力が必要なのに、とルドレフは唇を噛み締め思う。せめて自分の頼みに応じ、母親に関する情報や過去を調べ色々教えてくれた亜麻色の巻毛の妖魔がここにいてくれたら、と。会った頃は肉体を持たない幻のような存在だったが、それでもケアスと名乗り力を示し、己の内に魂を入れた妖魔の体を元通り修復しようとしていた青年。彼がいてくれたら、この事態を打破する為の協力を要請できたかもしれないのだ。
 そんな事をうだうだ考え落ち込んで、ハァ……と切なく溜め息を漏らした時である。いきなり気配もなく背後に現れた誰かに両肩を掴まれ、耳元で囁かれたのは。
「こんな似合わない場所で何をしてるのかな? 宰相の息子ともあろう者が」
 聞き覚えのある涼やかな声に、ルドレフは一瞬まさかと思い、恐る恐る首を巡らす。被ったフードから、夜目にも鮮やかな亜麻色の髪がこぼれて覗いた。紫の眼が彼を映し、懐かしそうに和む。
「お久し振り。元気だったか? 頑張り屋の坊や」
 囁く声は、記憶の相手と一致した。
「……貴方ですか? 本当に?」
「おや、本当にはないだろう。気になってわざわざこちらの界へ様子を見に来たというのに」
 人外の美貌の青年は、帰ろかなと呟いて背を向ける。カザレントの公子は立ち上がり、この懐かしい相手の外套の袖をがっちり掴んで引き止めた。カディラの都へ帰還せずとも大公との再会が叶うかもしれない、そんな期待に胸を高鳴らせつつ。
「駄目です、帰しません」
 きっぱり告げられ、フードでその目立つ外見を隠した妖魔はあきれ顔で振り返る。
「帰しませんって……。強気だね、お前」
「せっかく来たんだから、少しはこちらと付き合って下さい。元よりそのおつもりなのでしょう? 貴方は優しい方だから」
 信頼を匂わせるルドレフの台詞に、人外の存在は苦笑し、けれど悪い気はしなかったらしく向き直って、ゆっくり顔を近づけた。
「悩みの相談に乗ってほしいのかな? 我が守護石を付けてる坊やは」
「……相談事はありますけど、坊やと呼ぶのはやめてくれませんか? 私は一応二十五歳なんですし……」
「本当に一応だ。赤ちゃんみたいなつるつるお肌して」
「この肌は生まれつきの体質ですっ!」
 頬を指でつままれ、ルドレフは赤面して喚く。妖魔の青年は笑い、外套に彼を包んでその場から姿を消した。
 酔った客が、トイレの帰りにルドレフのいた席に座り残されていたグラスを取る。店内の者は誰も、先程まで他者がそこに座っていた事を思い出しはしなかった。



◆ ◆ ◆



 公国暦四九八年四月下旬。日陰にあった冬の名残りの雪も消え、大地のあちらこちらで花がほころび始めたカザレントの首都カディラの住民は、皆が皆季節に似合わぬ凍てついた表情で押し黙り、この世の終わりの如く暗い雰囲気を漂わせていた。
 プレドーラスからの使者が、大公を連れ去る目的で近日中に訪れるとなればそれも道理である。自国の最高権力者が、他国に奪われるのだ。これで心穏やかに過ごせる民はいない。しかも連れ出された後の大公の身の安全の保証は、はっきり言ってどこにもないのである。
 一方で大公の居城はと言えば、プレドーラスからの連絡を受けて以来上を下への大騒ぎであった。迎えが到着した時に備え、大公を荘厳に送り出す為の準備に走り回る臣下や、留守中の細々とした取り決めに関する文書の発行と照合に悩める文官。更に仕事の引き継ぎの承認や、細かい指示を今のうちに聞いておこうと押し掛ける人々でごった返していたからである。当事者の大公など、眠る暇もろくにないありさまだった。
 そんな騒ぎの中にあって、公妃セーニャが暮らす奥棟だけは忘れられたように静かだった。だが、いつもと全く変わりない訳ではない。
 常の如く落ち着いて振る舞っている女官は、それでも眼の赤さを隠し切れなかったし、泣き腫らした顔をした侍女は、勤務中でも堪え切れなくなると隅に行ってまたひとしきり涙にくれた。大公ロドレフは、イシェラ出身の彼女達からも充分慕われ、敬愛されていたのである。
 数日前から微熱が続き、大事を取って横になっているセーニャ妃がこの騒ぎの原因を理解していない事も、彼女等の嘆きを深くした。大公は、彼女と彼女の父を他国に渡さぬ為にその身を犠牲にすると決意したのである。だのに、守られる側であるセーニャ妃はそれを認識できないのだ。
 何もわからぬまま唯一頼りとする夫と引き離され、二度と会えなくなるかもしれぬとは何と哀れな、と公妃に仕える者達はハンカチで目頭を押さえ鼻をすする。
 そして今後、大公が訪れぬ理由をこの不幸な女主人に問われた時、自分達はいったいどう説明すれば良いのだろうかと途方に暮れるのだった。プレドーラスから正式な迎えの期日の連絡を受けて四日目。現在も彼女達は、それについての答えを出せずにいる。
 そんな希望のない嘆きに浸っていた最中である。春の花を両の腕いっぱいに抱えた訪問者が姿を見せたのは。
「まぁっ! クオレル様」
 扉を開けた侍女は、仄かに薫る甘い香りと視界に映った大量の花、そしてそれを手にした人物の美貌に現状を忘れ歓声を上げる。セーニャ妃の眠る寝室から退出した女官アモーラは、静寂を裂く侍女の大声に眉をひそめたものの、視線を向けた先にいる人物が誰であるか気づくと、慌てて歩み寄り膝を折った。
「これはクオレル様、いらしていたとは露知らず御無礼を致しました」
 クオレル様、と呼びかける時アモーラの声は若干低くなる。その名で相手を呼ぶ事に多少の心理的抵抗があるからだろう。
 セーニャ妃の出産に立ち会った彼女は、目の前にいる大公の跡継ぎの実際の性別と、ライア・ラーグ・カディラなる本名を持っている事を知っている。同時にアモーラは、侍従として仕えていた頃のクオレルの言動に不快を感じ憤慨した事が少なくなく、この次期大公に対し決して良い印象を抱いていなかった。
 一方、相手に好意を持っていないのはクオレルの方も同様である。彼女はアモーラが自分の育ての母に当たる元同僚のナンフェラを、どれだけ悪し様に罵ったか忘れてはいなかった。一連の行動が大公の指示で行った事と知る由もなかった過去の見解は仕方がないにしても、その後事実を知らされながら前言の撤回もせず詫びもしない、というのは我慢がならない。誤解を誤解だったと認めてくれぬのが許せなかった。
 ナンフェラは、クオレルにとって懐かしく大切な女性である。自分を大公の跡継ぎではなく、我が子と同じ一人の子供として見守り育んでくれた母であり、その風変わりな個性を認め尊重し慈しんでくれた家族であった。
 そんなナンフェラを裏切り者呼ばわりし、悪しき存在として罵倒する人間に、好意的感情など持ち様もない。公妃付きの筆頭女官と仲違いするのは良くないとわかっていても、どうにもならなかった。
 とは言え、クオレルも己の公的立場はわきまえている。人前であからさまに嫌悪を示すような愚かな真似はしなかった。
 そしてアモーラの方はと言えば、根本的にセーニャ妃大事、血筋第一主義、の人間である。いかにクオレル個人を嫌っていても、相手がヘイゲルの孫でセーニャ妃と大公ロドレフの間に生まれた正真正銘の嫡子である以上、反感を堪えて敬わねばならない、という思いはあった。
 かくして両者の対立は、どうにか表面化する事なく今日まで続いているのである。
「先触れもなく訪ねてきてすまない。公妃の体調が思わしくないと耳にしたので、大公に代わり見舞いに来た。と言っても、この花は大公からの贈り物だが。公妃が好きだった花を、今の季節に手に入る分だけでもと買い集めたらしい。届けに来た花屋が入手に難儀したとこぼしていたそうだ」
「それはありがたい贈り物ですこと。早速飾らせていただくとしましょう。それにしても大公はお優しい方ですわ。公妃様のお好きな花をちゃんと覚えていらっしゃるんですものねぇ」
 傍らで控えていた侍女に花を生けるよう指示すると、アモーラはクオレルに向き直り、この以前は大公に仕える侍従として存在していた相手を見つめ、僅かなためらいの後に尋ねた。
「それで、大公ご自身はこちらへお見えになられませんのでしょうか? お忙しい身である事は充分承知致しておりますが、できれば公妃様の為にお時間を少しでも割いて下さるよう、クオレル様からも進言願います。出立前に一言なりと、お言葉をかけていただきたく……」
「それは……」
 細い銀の髪を揺らし、クオレルは軽く眉を寄せる。現在の大公がどれほどきつい超過労働をこなしているか、勤務経験の長いアモーラにわからぬはずはない。要するに、わかっていて願い出ているのだ、この女官は。名目上の、としか言い様がないカザレント公妃、イシェラの第四王女セーニャの為に。
「大公がこちらへ出向くというのは、はっきり言って不可能だ。理由はわかっていると思うが」
 すげなく却下され、アモーラは表情を強張らせる。確かに無理な願いを口にした自覚は彼女にもあった。だがそれにしても、もう少しぐらい迷う振りをしてくれても良いではないか。そんな不満が、心の奥から湧き上がる。実の母親に対し余りにも冷淡な、と。
 しかし、クオレルの台詞はそれで終わりではなかった。
「大公の方から会いに来るのは無理だが……、公妃にお会いできるか?」
「は?」
 虚を突かれ、アモーラは柄にもない反応を示す。
「母上にお会いできるかと聞いている。熟睡されているのなら話しかけても無駄だろうが……、浅い眠りなら少し起きてもらうとしよう」
 クオレルの弁に、アモーラは眉を吊り上げた。とんでもない話である。眠っている病人を強引に起こそうとは。されど、猛然たる抗議を受けた当人は、至って平然とした面持ちで言葉を返した。
「大公が会いに来られぬ以上、公妃自身が大公の元へ赴かねば対面の機会は得られない。待っているだけでは駄目と伝えるだけだ。今のままでは大公も、心残りを胸に城を去らねばならぬ事になる。そんなあの人を見るのは……私は御免だ」
「………」
 アモーラの怒りは、その言を聞いて急激に萎えた。クオレルはクオレルなりに、両者を会わせたいと考え苦心しているのである。
 押しかけてきた人々への応対と、出立の準備や雑用に追われている大公が時間を割いて奥棟へ足を運ぶのはまず無理だった。ならばセーニャ妃の方から会いに行かねばならぬのは自明の理である。帰らぬ可能性が高い夫に対する、妻としての最後の務めとも思えた。「どうぞ。お入り下さいまし」
 寝室の扉を開き、アモーラはクオレルを招き入れる。胎児の段階で死を望まれ、その存在すら認められていなかった娘は、この日ようやく母親との対面を果たしたのだった。


「……私の短剣……どこにいったのかしら」
 ほんの数分語りかけただけでクオレルが退出すると、上体を起こし乱れた髪をシーツの上に散らしたセーニャ妃は、まだ眠っているような口調でぼんやりと呟いた。
「え?」
 アモーラに聞き返され、公妃は目眩を覚えたように額を押さえる。
「短剣があったわ……。イシェラを発つ際にお父様がくださった……護身用の綺麗な剣。御守りにって渡されたの……。あれはどこにいったのかしら……」
 ああ、と思い出してアモーラは笑顔になる。
「そうそう、あの剣でしたら覚えておりますとも。ずっと前になりますが、小箱に詰めたまましまい込んだ記憶がございますわ。ですが、あれをどうなされるので?」
 セーニャ妃はふっ……と微笑を見せる。それから、少女のような仕草で髪に指を絡め、両の手を組んだ。
「ロドレフ様にお渡しするの……。遠くへ行かれるのでしょう……? そう言ってたわ、今の人……。ああ、私の子……だったかしら? おかしいわね……殺したはずなのにどうして生きてるの……? ああ違うわ、だから……あの短剣、……私の代わりに……お渡しするのよ」
 たどたどしく言葉を紡ぐセーニャ妃の、視点の定まらぬ眼に不意に浮かんだ涙の粒は、たちまちのうちに大きくなって血の気の失せた白い頬を流れ落ちていった。慌てて駆け寄ったアモーラに、長らく現実世界から離れていた公妃は訴える。
「……会いたい……、会いたいわ、ロドレフ様……!」
 泣き濡れすがりつく公妃に、アモーラは必死で呼びかけた。幼子にするように背中を撫でながら。
「ええ! ええ、もちろんですとも。お会いになれますよ、姫様。なんで会えないものですか。姫様は大公の奥方なんですから。誰にも遠慮する必要はございません。会いに行きましょう、あの短剣をお渡しに」
 繰り返し背を撫で、アモーラは囁く。小鳥の如く震える相手へと。
「御髪を整えて、顔を拭いてお化粧を済ませ、着替えて参りましょうね。さぁ涙を拭いて下さいまし、姫様。どうせお会いになるなら、大公に一番綺麗な姿をお見せになるとよろしいですわ」
「綺麗……な? そう……ね、そうだわ……」
 心の病を抱えたカザレント公妃は、ニッコリ微笑む。
「覚えていてもらうわ……。最後に……私の一番綺麗な姿。……ロドレフ様にお見せするの……」


 イシェラで造られカザレントに持ち込まれた女性用の美麗な短剣は、その日初めて鞘から抜かれ白い刃を朱に染めた。
 執務室にいた誰もが信じられぬ出来事に生ける彫像と化した中、一人セーニャは動く。軽やかに、そして楽し気に。
 夫の眼には、自分が映っていた。ドレスを着用し、髪を結い上げた自分が。ただ自分だけが。

 やがて、ゆっくりとロドレフの上体が傾いた時、公妃は夫を受け止めるべく、ほっそりとした両腕を広げ待つ。
 彼女の顔には、笑みがあった。おそらくは初めて浮かべる、満足し切った女の笑みが。 遠く、悲鳴が聞こえた。引きつった、女性の悲鳴。
 それがここまで自分に付き添ってきた女官アモーラの声であることを、セーニャは既に認識できなかった……。

『断罪の瞳』4巻・了



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