断罪の瞳4《2》


「うわぁ! これっ、これ本当に食べていいんですか? 嘘っ、お金取らないの? あたし、こんな綺麗なお菓子見たことないっ。すっごぉい」
 寝台から身を起こし、夢現としか言い様のない眼差しでりんごと木苺のパイを見つめる怪我人の少女に、ルーディックは何とも言えぬ表情を浮かべる。自分の作った菓子を食べた後ならともかく、食べる前からこれほど感激してくれた相手は彼女が初めてだった。
(手の荒れようから見るに苦労して育った子だろうとは思ったが……これは想像以上かもしれんな)
 ケアスという妖魔の子の育成に関しては、間違いなく完全に失敗したと自信を持って言えるルーディックであったが、子育ては苦手でも子供という存在自体は嫌いでなかった。それが多難な人生を送ってきた子供で、それでも素直さを失っていないとなれば尚更である。
「そこまで喜んでもらえると、作り手としても嬉しい限りだな。ハンターのお嬢さん。体がどういう状態かわからなかったのでさっきはお粥を出したが、胃に負担がかからないようなら好きなだけ食べてくれ」
「え……」
 そばかす顔のハンターの少女は、美貌の青年から極上の笑みを向けられたのみならず優しく髪まで撫でられて、フォークを手にしたまま固まった。他者からの好意にも温もりにも慣れていない人間にとって、ルーディックのそれは強烈すぎたのである。
 しかし、ルーディック自身にそうした自覚や認識はない。妖魔としてもかなり級が上の美貌を持つ青年は、目の前の相手がどうして急に動きを止めたのか、何故体温を上昇させ真っ赤になっているのか理解できず、首を傾げるばかりであった。
「駄目だよ、お兄さん。そんなに顔を接近させちゃ。アディスは綺麗な男の人にはてんで免疫ないんだから」
「ローレンっ!」
 反対側の寝台に横たわっていた少年が、笑いながら声をかける。こちらはハンターの少女と違い、夕食のお粥を半分近く残していた。パイにもまだ、手を付けていない。
「免疫がない?」
「うん、僕はルノゥで慣れてるけどアディスはまだ全然駄目。だってルノゥとも顔を合わせる度に真っ赤になってたから。でもお兄さんてば、ルノゥに負けないくらい綺麗だね。あ、ルノゥって僕の叔父さんなんだよ。血はつながっていないけど」
「血のつながってないおじさん?」
「そう。ルノゥは父様の異母弟なの。そして父様の所へ母様が嫁いできた時には、もう母様のお腹に僕がいたから血はつながっていない。そうなるでしょ?」
「そう……なるな」
 同意を受けて、少年はニコッと笑う。だがその顔色は、良いとは言い難かった。
「確か傷はケアスが治したと聞いたが、食事をちゃんと取ってないって事は熱でもあるのか?」
 尋ねつつ、ルーディックは少年の額に手を当てる。確かに熱はあったが、空腹なはずの子供が食事を途中で投げ出す程のものではない。そもそもお粥を作って出したのは、相手の具合が悪い可能性を考慮しての事だった。これなら普通の食事と違って、胃が弱っていても食べられるだろうと。
「もしかして、空腹でも食べたくない程まずかったか? このお粥」
 味付けはそれなりに工夫したつもりだったが、病人食なぞこれまで作った事がなかったから、もしかしなくても本当にまずい物を作ってしまったのかもしれん、と真剣に悩み始めたルーディックを前に、慌てて少年は否定する。
「そんな事ないよ、美味しかった。ただ夢が……」
「夢?」
「うん、夢で……」
 次の瞬間、少年は顔色を変え上体を起こし、ぐっ、と喉から音を漏らして口をふさぐ。誰が見ても明らかに吐き気をこらえている仕草だった。赤面したまま黙々とパイを食べていた少女は、その様子に驚いて立ち上がりかける。
「ローレンっ?」
「おい、吐くのか? 少しこらえろ、外に出る!」
「んっ……」
 両手で口を押さえたまま前のめりになった少年の背中に手をかけ抱え上げると、ルーディックは咄嗟に窓を開け手摺を乗り越えて雪の積もった中庭へと飛び降りた。
「……お兄さんてばなんて無茶するの。二階だよ、あそこ。死ぬかと思った」
 さっきまで自分達がいた部屋の窓を眺め、少年はひきつった顔で抗議する。城塞の二階は、普通の民家の三階よりも高い位置にある。そこから子供とはいえ人間一人抱えて平気で飛び降りる神経は、理解できなかった。
「大した高さじゃない。現に無事着地した」
 少年の抗議をあっさり一蹴し、吐きたいならこの場でさっさと吐いてしまえ、雪で隠せばそれで済むから、とルーディックは促す。
「あのね、お兄さん。吐き気なんて今のショックですっかり吹っ飛んじゃったよ。第一、すぐにも吐くって状態じゃなかったもん、本当は」
「はぁ?」
「だから……、アディスの前で夢の内容話しちゃいけないって思ったの。アディスは僕の叔父さんに恋してたし、自分のせいでルノゥが死んだみたいに思ってるとこあるから」
「つまり?」
 少年はためらい、ややあってルーディックの耳に手を当て、小声で語り出した。
「変な夢だったの。変で、嫌な夢。ルノゥは僕等を逃がそうとして、山で妖獣に食べられ死んだはずなのに。夢の中では生きていて、敵に捕まってるの」
「敵?」
「敵なんだよ。……意見の合わない父様を殺して、残った家族も見せしめに皆殺しにするよう命じたゲルバの王様は。父様の従弟に当たる人だけど敵」
「!」
 少年の眼に、涙が浮かぶ。
「ルノゥ、そいつに捕まってるの。捕らわれて、すごく酷い事されてるの。お祖母様が振るった鞭よりずっと酷い事。ルノゥ、苦しくて辛くて泣いているのに、誰も助けてくれないの」
「………」
 すすり泣く相手の涙を拭い、頭を撫でてルーディックは問いかける。
「酷い事とは?」
 少年はかぶりを振って答えない。だが、ルーディックの脳裏にはその時、少年が夢で見た光景が鮮やかに映し出されていた。
 淡い灰色の髪、水色の眼をした優しげな顔立ちの貴公子然とした人物が、冑で顔を隠した兵士等に足首を掴まれ、床に背中をつけた状態で引きずられていく。諦めたように視線をさまよわせていたその人は、扉が近づくにつれ恐怖と嫌悪、苦痛の入り交じった表情を浮かべ、助けてと声には出さず願う。
 けれどもその身に救いの神は現れず、扉は開かれ、ゲルバの王は彼の人としての尊厳も何もかも奪うのだ。己の便器として扱う事によって。
「夢……なんだよね、ただの悪い夢。ルノゥはもう死んでいるんだもの。だから悪い夢を見ただけなんだ。でも、どうして僕こんな酷い夢を見るの? なんでこんな……」
 ルーディックは唇を噛み、少年の背中をさする。
「叔父さんは、亡くなられたんだろう?」
「うん……」
「なら、それは単なるたちの悪い夢だ。忘れてしまえ」
「ん……」
 頷いて、ローレンは目の前の相手にしがみつく。本能で彼は気づいていた。これは自分が甘えても許してくれる人なのだと。
「お粥、せっかく作ってくれたのに夢のせいで食べ切れなくてごめんなさい。こんなんじゃ駄目だってわかっていたんだけど、ちゃんと食べて体力つけて、強くならなきゃいけないってわかってるんだけど、でも……」
「ああ、いい。気にするな」
 忘れるんだ、と少年をなだめながら、ルーディックは眉を寄せる。脳裏に浮かんだ残酷な光景の最後に、拷問を受けていた青年が放った微かな思念。それが、あれをただの夢だと断じて終わりにする事を躊躇させた。
 ローレン、と彼は念じていたのである。ローレン、どうか生きて無事に、と。それはどう考えても、少年自身の内から湧いた思念ではない。自身が無事ここにある事を知っているローレンが、夢の中でわざわざ登場人物に我が身の無事を祈らせたりする必要性はないのだ。
(だとしたら、あの夢は単なる夢ではなく、現実に起きている事を無意識下で覗き見た事になる)
 腕の中で泣きじゃくっている少年は、何の力もない普通の子供に見えた。少なくとも現時点では。
(いや、即断は禁物だな。俺はまだ、この子に関してろくな情報を得ていない)
 とにかくここは情報収集の専門家たる蜘蛛使いの協力が必要だと結論づけて、ルーディックは舌打ちする。その肝心の蜘蛛使いは、城に戻った後いったいどこへ姿をくらましたのか、と。
 ハンターと共に城塞の門をくぐったところまでは確認している。されどその後の足取りが全く掴めない。部屋に戻った様子もない。どうにも妙だった。自分に嫌味を言われるのが嫌で隠れてるにしても、気配を完全に絶ってしまうなど能力差を考えれば不可能なはずである。他者の気配の追跡といった、周囲に被害を及ぼさない力であればルーディックは遠慮なく使えるし、妖力が相手を上回っている以上、いくら蜘蛛使いが己の気を隠そうとしたところで感知できない訳はないのだ。
 だのに、未だ見つける事ができない。
(……不本意だが、また奴の守護石を使うとするか。その方が確実だし手間も省ける)
 窓へと跳躍し、部屋へ戻って少年を寝台に寝かせると、後でまた来ると約束してルーディックは再び外へと飛び降りる。それから、誰にも邪魔されぬよう円塔の天辺に移動すると、肌が痛む程の冷気を身に受けながら守護石を取り出し、持ち主の居場所を探った。反応は、あるはずだった。同じ血の持ち主がいる方向を、守護石は示すはずだった。この地へ辿り着くまで導いたように。
 だが……。
「……反応がない?」
 そんな馬鹿な、とルーディックは再度命じる。お前の血の主の元へ導けと。しかし、結果は同じであった。
「この界にはいないというのか……?」
 守護石を以てしても探索が叶わないというなら、そうとしか考えられない。そしてそれが事実ならば、蜘蛛使いは自分の意志で行方をくらました訳ではないのだ。
 確信があった。自己の都合で姿を消すのなら、その前に必ずあの男は一言伝えて行くはずだと。
『大した自信だ。そこまで奴に惚れられていると思っているのか?』
「!」
 前触れもなく現れた異界の魔は、背後からルーディックを抱え込み、笑いを含んだ声で問う。けれどもその声音には、明らかな怒りがあった。嫉妬という名の情念が、極彩色で彩られた全身から噴き出している。
 己の腰に匹敵する太さの腕で押さえ込まれた形のルーディックは、手にしていた守護石を落とさぬよう慌てて拳を握りしめたが、身動きができたのはそこまでだった。極彩色の霧が手と足を包んだかと思うと固体化し、完全に動きを封じ込む。脱力したルーディックは、ウンザリした吐息を漏らすと文句を口にした。
「いきなり出現して拘束とそのただれた台詞はなかろう、腐れ外道。貴様の脳味噌が腐っていようと俺の知った事ではないが、そういう低俗な質問はされたくない」
『……嫌味の一つも言いたくなる。お前は、奴を恨んでいる割にはやたら態度が甘い。どういうつもりだ? あの模様を肌から消してやったのみならず、その後も二度三度と求めに応じるとは』
「応じて悪いか? あれは取り引きだ。仕事の一部と思えば別に何て事はない」
『仕事で寝るのか、仇とも!』
「……なんでそこで怒る? 痛い思いをするのも気色悪さに耐えるのも俺だぞ。お前は関係ないだろう」
『関係ある! 言ったはずだ、お前が自分以外の者に手を出されるのは我慢ならん』
「おいおい……」
 俺は貴様の女房じゃないんだが、とかつて人間だった妖魔はぼやく。意思の疎通がなされぬ言葉のやりとりに、この調子じゃ今夜は徹夜で相手をするはめになるなと覚悟を決めたルーディックは、いかにしてこの場を切り抜けるべきか思考を巡らせ、異界の魔へと語りかける。
「あのな。説明してもわからんかもしれないが、一応言っておく。蜘蛛使いは確かに俺の仇だし恨んでもいるが、使っている身体はケアスのものなんだ。幼児の頃から俺が育てた相手の肉体を持って奴は存在している。その点を忘れるな。相互理解の為にも」
『だから?』
 それがどうしたと、異界の魔は先を促す。だから、とルーディックは苦笑し、ややあって唇を噛んだ。
「百年も側にいて育てた相手に何の愛着も持たない者がいると思うか? そんな事は不可能だ。ケアスの顔で奴が嘆く。すると俺は手を差し伸べずにはいられない。ケアスの声で奴が話しかけてくる。中身は違うとわかっていても、俺は会話をしたくなる。ケアスの姿で、奴が側にいる。笑いかけ、優しい気で包み込む。……俺は、それを嬉しいと感じるしこのまま側にいてほしいと願ってしまう。あの姿で、あの声で、求められたら拒めない。嫌だと突き放せないんだ……」
『………』
「ああ、さっきのお前の台詞は訂正させてもらうぞ。俺は、自分が蜘蛛使いに惚れられてるとは考えていない。あれが想う相手も、守りたい相手もレアールであって俺ではないからな。俺は単なる身代わりでしかない。ただ、奴は俺の任務に協力すると約束した。約束した以上は勝手に姿を消したりしないと信じている。それだけだ」
 そこまで語ると、ルーディックは眼を閉じた。それから、小声で魔物へと囁きかける。嘆願するような、どこかやるせない口調で。
「……拘束を解いてくれないか、お願いだ」
 唯一自由な髪が、サワサワと動いて極彩色の魔物の巨体を撫でていく。
「お前が求めれば、俺は逆らえない。自分が支配されている事も死ぬまで逃れられない事もわかっている。もう抗いはしない。だから、今は少し時間をくれ。まだ今日中にやらねばならない事がある。それを済ませたら好きにしていいから……、頼む。離してくれ」
 それきり沈黙して、ルーディックは魔物の出方を待つ。願いを聞き入れ解放してくれるか、それともいつもの行動に出るか。
 後者を選択されたとしても、逃れる術はない事を彼は知っていた。そうなったら、諦めてこの場で身体を提供するより他にない。
 行為そのものについては、性的接触に快楽を求める妖魔の本質の影響もあってか以前程激しい嫌悪感はなく、恐怖も感じなくなっていた。しかし、辛くないと言えば嘘になる。 人間だった頃に周囲から植え付けられた禁忌の意識は、今もルーディックの心に深く根づいていた。積極的に楽しもう、という気には到底なれない。まして相手は人ですらないのだ。
 異界の魔の、固体化した指が頬に触れる。暫し撫で回された後、顎を持ち上げられ唇をふさがれた。
「んっ……く」
 首の痛みと息苦しさに、声が漏れる。身体が、ずぶずぶと魔物の内に沈み込んでいく。全身を覆う肉の圧迫感と絶え間ない刺激に願いは却下されたらしいと思いかけた頃、唐突に拘束が解かれ、円塔の天辺から宙へとルーディックは放り出されていた。
「……あの変態魔物! 人を殺す気か」
 かすむ意識を叱咤してどうにか無事雪面に着地すると、しゃがみこみ元人間の妖魔はぼやく。それから一息ついて立ち上がろうとした途端、足を取られ姿勢を崩し仰向けにひっくり返った。
『望み通り離してやったのに、変態魔物呼ばわりはずいぶんだ。気にいらん』
 力ずくでひっくり返した犯人が、ブーツの足首部分を掴んだまま文句を言う。
「……だからってこれはないだろう。第一、離すにしてもわざわざ空中へ放る必要性があるか? あの高さから地面に激突したら、潰れたトマトの出来上がりだぞ」
 雪の上に横たわったまま、ルーディックは苦情を言う。弄ばれたのはほんの数分だったが、肉体の訴える疲労感は蜘蛛使いを相手にした時の比ではない。
『無事に着地した奴がそれを言っても説得力はない』
 異界の魔は、ルーディックの苦情をまともに受け止めなかった。冗談扱いしていると明らかにわかる口調に、青年の苛立ちはつのる。
「タイミング的にはギリギリだった。貴様の相手はひどく疲れるから、意識を保っているのがきつい。そんな状態で放り出されたら、地面に叩き付けられても不思議ではないと思うが違うか?」
『それはない』
 即座に、そしてきっぱりと、異界の魔物は断言する。
『お前を潰れたトマトにする気はない。地面に激突なぞさせない。お前に回避する力がないと判断したら、その時点で落下を止める。絶対に壊しはしない。約束する』
「はん、これがレアールの戻る器だからか?」
 乱れた髪に指を絡ませ、皮肉を込めてルーディックは尋ねる。どうせそんなところだろうと予測して。だが、返ってきた答えはそれと異なるものだった。
『お前の魂が存在する場所だからだ』
(え……?)
 聞き返すより早く、異界の魔は気配を消した。上体を起こしたルーディックは、髪についた雪を払い落としながら考える。あの言葉は、いったいどういう意味だったのかと。
(俺の魂が存在する場所だから壊さない……?)
 急激に心が揺らいだ。まさか、とルーディックは否定する。破壊を生きる目的とし、他人の苦しむ様を何よりの悦楽としている魔物が、本気で人に好意を抱くなどありえない、と。レアールに対し多少の執着を持ったのは、相手が言葉一つで思いのまま操れる存在であったからだろう。そして自分は、屈辱を与え痛めつけて遊ぶ為の道具なはずだった。それ以外の物になりえるはずはない。
『……そうかしら』
 唐突に、マーシアの台詞が脳裏に浮かんだ。妖魔界を発つ前に会った時の、産み月間近な彼女の言葉。
『ねぇ、考えてみてちょうだい、ルーディック。どうして貴方が教え子のケアスと仇である彼を混同したのか。ケアスだと思い込んでしまったのか。姿形や声が同じなだけでは、絶対に間違えたりしなかったでしょう?』
『今の彼は、用済みのロシェールの体を妖蜘蛛に処理させようとした頃とは精神の有り様が異なってると思うの。私には彼が、ケアスの名を背負って、ケアスとして生きようとしているように見えるの。償おうとしてくれているのがわかるの。……そうは言っても、私がケアスと呼んだ相手ではない事にまだ多少のこだわりはあったから、名前で呼んであげられはしなかったけれど』
『忘れないで、ルーディック。教育係はね、私達にとっては最後まで教育係なのよ。常に先を歩んで手を差し伸べる、導くものであってほしいの。立ち止まったり、後戻りはしてほしくない。勝手なお願いではあるけれど、そうあってほしいのよ。だから……』
 見捨てないで、導いてあげて。心は生きている限り変わるものだから。それが正しき道へ向くか向かないかは、本人の努力はもちろんだけど側にいる者の対応次第でもあるのだから。そう、お願いされたのだ。あの日。
「……心は生きている限り変わるもの、か」
 ルーディックは顔にかかった髪を指で払い、軽く息を吐く。確かに蜘蛛使いの性格は変化している。それは認めよう。だがあの異界の魔物に対し同様の変化を求めて良いものだろうか? 本当に変化を望めるのか?
「前向きな姿勢は結構だが、俺次第で奴が良い方向に変わるかも、という見解はどえらい負担だな、マーシア嬢。許されるなら全力で逃げたいぞ」
 されど肉体を共有してる以上、たとえそれが無駄な努力であっても自分自身の為に試みねばならないのだろう、とルーディックは己に言い聞かせ立ち上がる。なんのかんの言ったところで、この悲運な元人間の姿勢はマーシア同様ひたすら前向きであった。


◆ ◆ ◆


 減点無限大の失態……かもしれませんね、というのが不意に現れ文句を言って姿を消した同僚を妖獣ハンターや兵士等と共に見送った蜘蛛使いの率直な思いであった。
 良い奴だよな、と赤毛のハンターから褒められ肩に頬を寄せられて、その言葉と仕草が純粋に好意からのものであると感じた嬉しさに、ついうっかり髪に指を埋めてしまったのだ。それが揉め事の元になるとも知らず。
 ともあれ、そうした現場をルーディックに目撃された以上、二股をかけたと見なされたところで申し開きのしようもない。
 妖魔界の王によって刻まれた肌の模様、消えないはずのそれがルーディックと一晩過ごした後に跡形もなく消えた理由を、当事者である蜘蛛使いは知りたかった。そうなる事を予期していたとしか思えぬ台詞を、行為の前に彼がほのめかした点も心に引っかかっていた。
 それ故に暇さえあれば付き纏い、質問攻めにしたのだが、ルーディックの方はのらりくらりとかわすばかりでまともに話を聞こうとしない。埒があかぬ事に苛立った蜘蛛使いは二度も実力行使に出たのだが、それでも答えは得られず落ち込むはめになっていた。
 抵抗すれば喜ばせるだけ、もしくは行為が長引くだけと悟っているのか、ルーディックは一応おとなしく付き合った。付き合ってはくれたが、事が終わるや立ち上がり冷ややかな視線を向け、おもむろに笑みを浮かべて嫌味をボソリ、である。「お前、よっぽど俺に嫌ってほしいらしいな」と。
 それが最初の実力行使の後の台詞だった。二度目の時は更に身も蓋もない。なにしろ乱れた髪を手櫛で梳きつつ一言、「下手くそ」……であったのだから。
 言われた側の蜘蛛使いにしてみれば、氷の刃で心臓めった刺しに等しい台詞であった。そんな容赦のない言葉をぶつけられ、それでもめげずに気を取り直して三度目の挑戦を試みた今日、パピネスからの応じない訳にはいかない呼び出しをくらったのである。
 実際、間は悪かった。最高に悪かった。妖蜘蛛を強引に、半ば強制的に埋め込んだ事も忘れてハンターを呪った程、呼び出しは最悪のタイミングであった。
 何故なら、今日のルーディックは押し倒された後、根負けしたように腕の中で苦笑したのである。答えなかったら半日付き合わせますからね、という脅しにそれは困るなと言いながら、嫌そうな素振りを見せなかったのだ。行為に応じ、一方で質問にも答えようとしてくれていたのである。
 なのに、いざ肝心の答えを聞く段になって突然の呼び出しを受け、移動せざるを得なかった。嘆かわしさに、蜘蛛使いは溜め息を漏らす。
 むろん、パピネスの方には緊急に彼を呼び出さねばならない立派な理由があった。文句の付け様もない正当な理由があったのだが、それでも呼び出された側としては恨めしく思わずにいられなかったのである。
 されど、そうした事実の一つ一つを嘆く一方で、蜘蛛使いは二股をかけたとルーディックに責められた事を心密かに喜んでもいた。
 関心がない存在が何をしようと誰といようと、気にする者は普通いない。気にするのならそれは、関心を持っている証拠である。それも悪い意味でない関心だ。
 憎悪や敵愾心だけを感じている相手なら、自分にちょっかいをかけながら他の誰かと仲よくしたところで、軽蔑と無視で終わりだろう。わざわざ文句を言いに出向きはしない。 信じられない話だが、気配を追って移動し姿を見せ文句を口にした時点で、ルーディックは単なる同僚以上の情を彼に対し抱いていると証明したも同然だった。本人がそれを自覚してるか否かは別として。
(まぁ、これは言わないでおくべきでしょうね)
 うっかりこの点を指摘しようものなら、表面上はともかく相手が激怒憤慨するのは目に見えている。下手をすれば自分用のお菓子を作る際、シロップの代わりに生姜と唐辛子のスープを、クリームの代わりに練り辛子を入れかねない。そんな恐ろしい事態は断固願い下げである。蜘蛛使いは自分だけのささやかな楽しみとして、この件を胸に秘めておく事に決めた。
 そうして赤毛のハンターや、交代で担がれ運ばれた怪我人の少年少女二人と兵士達に続いて城塞の門をくぐった直後である。強大な力が己を取り込み、無理矢理異空間へ引き込もうとしているのを感じたのは。
 空間転移の術で先に戻っているはずのルーディックに、自分の配下の妖蜘蛛まで与えたパピネスの事をどう説明するべきか、などと悩みつつ歩いていたせいもあって、蜘蛛使いが門を通り抜けたのは列の一番最後であった。
 だが、異変に誰も気づかなかったのはその為ではないだろう。一緒に門をくぐったはずの存在がふいに気配を消せば、兵士はともかくハンターは絶対気づくはずだった。それが全く気づかなかったのは、彼や蜘蛛使いを遥かに上回る力の持ち主が術を使ったからとしか考えられない。そしてそれ程の能力の持ち主と言えば、心当たりは二つの世界を通しても一名しかいなかった。
「このように拘束されての対面は私の趣味ではありませんがね、王。どうやら暫くお会いせぬ間に一段と悪趣味に拍車がかかったようで」

 鍾乳洞を思わせるひんやりとした空間に捕らわれ、四肢を岩の内部に封じ込まれた状態の蜘蛛使いはぼやく。
「やれやれ、久方振りで会うというのに第一声がそれとは、いささか愛想が無さ過ぎではないか?」
 苦笑混じりの声を返した妖魔界の王は、本体ではない。半透明な幻の姿を宙へ浮かび上がらせ、明らかにこの状況を楽しんでいるとわかる顔で追放した部下を見おろす。その幻影に、亜麻色の髪の妖魔は皮肉な眼差しを向けた。
「影だけ送り込んで言う台詞ではありませんね。第一、久し振りと言う程でもないでしょう。貴方が私を人間界へ放逐してから、まだ半月余りしか経過しておりませんよ。お忘れかもしれませんが」
「半月余り? 人間界ではまだその程度しか過ぎていないのか?」
 心底意外そうな王の表情に、蜘蛛使いは眉を寄せた。
「……どういう意味です?」
「いや、確かにそういう可能性もあったな。驚く必要はなかったか」
 一人納得して頷く相手に、動きを封じられ詰め寄る事もできない男は舌打ちする。
「自分だけわかってないで説明して下さい、王。その程度しか過ぎていないとはどういう意味ですか」
「ああ、つまり」
 妖魔界の王の姿を映した幻影は、スイと動いて蜘蛛使いの目の前に移動する。
「私が王宮に帰還した時、そなたは言ったろう。新参の側近に留守を任せて二ヶ月も仕事をさぼるとはどういう了見かと。しかし誓って言うが、私自身は五日ほど職務を離れ人間界を観察して回ったつもりだったのだよ。蜘蛛使い」
「五日……?」
「そう、ところが戻った妖魔界では二ヶ月が過ぎていた。この意味はわかるな? 同様にそなたを追放してから私の方では既に半年近く経過している。その証拠に身重だったマーシアは出産を済ませ、子育てに入っているぞ。久方振りと挨拶したところで何の不思議もなかろう」
 一瞬、蜘蛛使いは硬直する。二つの界の距離が離れて、時の流れの速度が異なるものになった点は理解していたつもりだった。それにしても五日間こちらで過ごしただけが妖魔界では二ヶ月だったり、半月余りの時の経過があちらでは半年近く、というのは予想を超えるズレ具合である。
 思わぬところで留守を守っている同僚マーシアの出産の事実までを知らされ、戸惑いを深くする側近に実体なき王は笑いかけた。
「ここでの時間の流れは、果たしてどちらの界に近いだろうな、蜘蛛使い。そなたはどう思う?」
「……私に尋ねられても、お答えはしかねます。貴方が造り出した場である以上、正しい答えを知るのも貴方のみでしょうし」
「そうつれない態度を取らずとも良かろうに。あんまり変わりがなくて、嬉しくなってしまうではないか」
「冷たくされて嬉しいと感じるとは、どうやら悪趣味のみならず変態の度合いも磨きがかかったようですね、王。その性格が他の同僚にばれない事を祈ってますよ」
 追放した部下の辛辣な台詞に暫しあっけに取られた王は、次いで爆笑し透けた手で蜘蛛使いの頬を叩く真似をした。そしてそれはすぐ、撫でる仕草に変わる。
「さても見事に消えたものだな、私が刻んだ肌の模様は。まさかそなたのせいで災難に見舞われたあの男が、こう素直に命令に従うとは思わなんだが」
 その言葉に、不愉快だという表情で横を向いていた蜘蛛使いは反応する。
「私のせいで災難に見舞われたとは、六百年前教育係に選出する際条件に合わぬからと家族や村人を殺した件ですか。それとも五百年前の、教え子の体を乗っ取り嬲り殺した件でしょうか、王」
 まさか、と王は首を振る。
「誰もそんな昔の事を引っ張り出して当て擦りはしない。私が言っているのはほんの数ヶ月前の一件だ。そなた、レアールと信じていた相手の中身がルーディックと知って、激情に任せ封じていた魔物を解放したであろう?」
「……ええ、確かに」
 唇を噛んで、蜘蛛使いは頷く。極彩色の霧に取り込まれ死んでいった同僚や上級妖魔達と、半壊した王宮。あの時の己の激流のような感情は、容易く忘れられるものではない。そして破壊を止めようと立ち向かい、魔物を封じ込んで倒れたルーディックの姿も。
「実はな、蜘蛛使い。異界の魔物はあの時封じ込まれた訳ではなかったのだよ」
「え?」
「自分を封じようとした相手に腹を立て、自らその体内に飛び込んで内部から破壊しようと企んだ、というのが真相だ。ところがそなたの魂に封じ込まれていた年月の長さ故か、例の魔物は相当影響を受けていたらしくてな。あれを一瞬で殺すより、嬲って遊ぶ方が面白いと方針を変更したらしい。どうもここ暫くの間は連日苛めていたようだ。だから、そなたの相手をした時も前のような拒絶反応はなかったであろう? 慣らされた、というところだな」
「あの異界の魔物がルーディックの内に入り込んで、しかも接触恐怖症だった彼が慣れるまで弄んだと? おまけに貴方はそれを知りながら放置していた訳ですか!」
「何とかしてくれ、とは頼まれなかったのでな」
「王っ!」
 わなわなと身を震わせながら、蜘蛛使いは冷静にならねばと自身に言い聞かせる。まだ訊かねばならぬ事があったはずだった。命令に従うとは思わなかった、と王が言うその命令内容はいかなるものであったのか?
「それで、いったいルーディックに何を命じたのです」
 怒りを堪えて問う蜘蛛使いに対し、実体ではない妖魔界の王は軽く肩を竦めて見せた。「別に大した事ではない。模様が消える前にそなた達が何をしたか考えれば、おおよその見当はつくであろう?」
「………」
「私はちょっとした嫌がらせをあれにしただけだ、蜘蛛使い。本来妖魔の術で刻んだ模様は、かけた者にしか消せはしない。もしくはその妖魔より能力が上回る者でなければな。あの男の能力はずば抜けて高いが、それでも私には及ばない。だが私は特別に、あれが模様を消せる条件を付加した上でそなたに術をかけたのだよ」
 その条件とは、と蜘蛛使いは敢えて訊かなかった。嫌がらせ云々という言葉と、皮肉な笑みを浮かべた顔から薄々察しはついたので。
「私は、あの男が同意の上で抱かれた場合のみ、術を解除できるようにしておいたのだ。むろんその事に関してはしっかり伝えたとも。とは言え、必ず消すよう命じはしたがよもや本当に従うとは正直思わなかったぞ。いっそこの場で死ねと命じられた方がましだと、言い捨てて去った時の怒りの気の凄まじさを思うとな」
 気の毒に、それでも現実に自分の育てた相手の肉体があんな模様で彩られている様を眼にしては、到底放置できなかったらしい、と王は笑う。
「仇に同意の上で抱かれても良いと、耐える決意をする程にな。実にけなげな行動だ。そんなにも候補生のケアスは弱点となるか。ならばこの先、意のままにするも可能だな」
「王っ!」
 我慢できずに蜘蛛使いは叫ぶ。とても素面で聞いてはいられなかった。過去の自分の行状と、現在の王の行動は似すぎていて、嫌悪のあまり寒気がする。己も確かに以前、このように卑劣だったのだ。間違いなく同様の行いをしていたのだ。自分が気に入った相手を意のままに、と望み実行したのだ。向こうの意思など省みもせず。
「……っ!」
 拘束が、よりきつくなる。手足の骨が軋む感覚に、蜘蛛使いは歯を食いしばった。
「手足を封じた岩は、そなたが本気で自由になりたいと望み続ければ、いずれ溶けて消える。安心すると良い。ただ、ここから脱出できた時、妖魔界もしくは人間界でどの程度日が過ぎているかはわからない。ルーディックの任務への協力とマーシアのお願い、この二つのどちらへも応じられるかは謎だな。それともう一つ、伝えておくとっておきの情報がある」
 実体ではない王は笑い、感情をたっぷり込めて蜘蛛使いへと囁く。
「覚えておくと良い。そなたがここから脱出してどちらの界へ先に向かうか、それによって生死を左右される存在がいる事を」
「!」
「レアールの魂の件はルーディックから聞かされているであろう? そなたがここを出て向かった先が人間界であった場合、見捨てたものと判断して私は彼を消滅させる。もちろん逆もまた然りだ。妖魔界へ先に来た場合は、レアールを選んだと見なしてルーディックの魂の方を消滅させよう。選択権はそなたにあるぞ、蜘蛛使い」
「お……」
 王、と呼びかける事さえできなかった。蜘蛛使いは絶句し、恐慌状態に陥る。
 選ぶ? 私が何を? レアールとルーディック、そのどちらかが消滅する? 私の行動次第で勝手に決まる、そんな選択をしろと?
「さて、どちらを選ぶ? 正気とは言い難いが、決してそなたを嫌いも憎みもしない相手か、そなたに妻子を殺され己の人としての生も本来の姿も奪われた相手か? それともどちらも選ばず、生涯ここに幽閉される方が良いか、蜘蛛使い。誰にも知られぬまま、この閉ざされた空間で寿命が尽きるまで過ごす、という選択肢もある事はある。あくまでどちらも殺したくないとなれば、そうするしかないな」
「……何故……」
 辛うじて、蜘蛛使いは心に湧いた疑問を投げかける。衝撃に閉じる事すらままならない唇から声を発して。
「何故?」
 実体の姿を映しただけの王は、手をヒラヒラと振り苦笑した。
「そんなわかりきった事を、今更どうしてそなたが訊くのだ? 知っているはずではないか、蜘蛛使い。自分の気に入った相手を嬲って弄ぶのは最高に楽しい退屈しのぎであると私に実証して見せたのは、他でもないそなたであろう?」
「……!」
 蜘蛛使いの口から、声にならない叫びが漏れる。その様を眺めた王は、スッと彼から遠ざかった。
「そろそろ本体に戻らねばならぬらしい。残念だが、これ以上の長居は無理なようだ。では、そなたがどちらを選ぶか妖魔界で楽しみに待つとしよう。恨み言を言いたければ、まずはここを脱出し選択する事だ。ああ、真剣に願わぬ限り岩は決して溶けぬからな」
 一方的にそう告げると、王の幻は消え失せた。鍾乳洞の様相を呈した異空間に、拘束された状態のまま蜘蛛使いは一人取り残される。叫びは、虚ろにこだまするだけで誰の耳にも届かなかった。

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