断罪の瞳4《1》


故郷はいらない 家族もいらない
心すら欲しない 私は、貴方だけでいい
それでもいてくださらないのなら
この手で貴方を殺しましょう
二度と誰にも奪われぬように……



 長い黒髪が、生き物のようにうねり狂っていた。犠牲者の肉体をいくつも、その先端に巻きつけて。
 兵士は、上司や同僚の死体が転がる惨劇の場から逃げる事も忘れて、のた打つ髪の中心に位置する人物を見つめていた。信じ難いものを見るように。
 彼がイシェラ国内のゲルバ領土となったこの地に配属されて来たのは、今から一ヶ月ほど前だった。到着後命じられた任務の一つは、妖獣の餌兼遊び道具として捕らえられてきたイシェラの住人(子供と違って食べ応えがあり、しかも妖獣が好む十代後半から二十代前半の男女)を逃がさぬよう監視する事であり、もう一つは彼等を地下の餌場へと投げ込む際の確認作業である。
 兵士にとって心躍る任務、とは言い難かったがともかく彼はそうした事情により、捕らわれた囚人全ての顔と姿を眼にしていた。けれどもその記憶の中に、こんな囚人の姿はなかったのである。長い黒髪、華奢な体つき。幼い印象を見る者に与える、童顔の青年などは。
 だとしたら、この囚人は彼がここに配属される以前に捕らわれ、投げ込まれていた事になる。そして一ヶ月以上生き延びていた事に。
 そんな馬鹿なと即座に否定できないのは、目の前の現実と囚人の持つ眼の色のせいであった。どこまでも赤い、まがまがしき血色の眼。人の眼には普通ありえない色彩。子供の頃祖母から聞かされた物語に登場する魔なるもの、人間を襲う悪しき霊が持つ眼の色。故にこれは人ではないのだと、兵士の脳は認識を下す。
 だったら納得できる、と彼は唾を飲みこんで思う。この囚人が今日まで妖獣に食い殺されなかった事も、玩具とされながら肉体が変化せず、元の姿を完全に保っている事も。今のこうした事態も。
 遊び場兼餌場である地下に降りた妖獣達は、いつもと異なり二時間が経過しても一匹も上がってこなかった。代わりに上がってきたのは、両の手首に縄の残骸を残し、あちこち引き裂かれ擦り切れた薄い布地の肌着のみを身に付けた若い囚人である。
 この地で一番新参の兵士は、その姿を見た時から魅入られ、動けなくなった。声すら出せなかった。剣を抜く事さえも忘れていた。結果として、彼は今もまだ生かされている。敵対行動を取らなかった為に髪の攻撃を受けず、捕らわれもせず。
 室内にいた同僚及び上司は、凶器と化した長い髪によって体を切断され、全員亡くなっていた。悲鳴に駆けつけ乗り込んだ兵士達も、同様の運命を辿った。他の者は皆、逃げたのだろう。今、ゲルバの兵士で建物内部に身を置きながら生きているのは彼一人だった。
「……てはくれないか」
「あ?」
 突然、人ならぬ者と判断した存在から呼びかけられ、彼の心臓は跳ね上がる。赤い眼をした魔物が、口を開いて人間の言葉を話すなどとは思ってもみなかった為に。
「……悪いけど、着替えの服を貸して貰えないか? この格好で外を歩いては多分まずいだろうし」
 意外な事に、魔物と思えた相手の声は人間そのもので、兵士の耳に心地好く響いた。それ故に、驚きで硬直していた兵士は言葉を取り戻す。
「外……はまずい。そんな擦り切れた肌着姿で歩き回ったら、即不審者として拘束だ。第一、寒さに凍えてしまうだろうが」
「寒いのか? 外は」
 小首を傾げ、赤い眼を持つ青年は問う。その仕草はどこかうさぎを連想させて、妙に可愛らしく兵士の眼に映った。
「中だとて寒いだろう、肌着一枚では。こちらの服装を見ればわかるはずだ」
 言いながら、一人生き延びたゲルバの兵士は相手の姿が先刻と異なる事実に気づいた。人ならぬ存在の証たる赤い眼が濡れ羽色の黒に変化し、遺体に巻き付いていた髪も今は腰にかかる程度の長さとなっている事に。
「んー……。どうも寒いとか暑いとか、わからなくなっているんだ。肌が鈍感になっているのかな。ええと、長袖の服に厚手の布地の上着、更にマントもこれだけ厚手の物って事は、もしかして季節は冬?」
 とことこと、無造作に近づき兵士の服に触れて、腕も脚もむきだしの囚人は尋ねる。
「……少なくとも春ではない。用意するものは着替えだけで良いのか。湯も使った方が良いと思えるが」
 何故こんな事を自分は言ってるのか、と疑問に思いつつゲルバの兵士は提案する。先程見せた殺戮が嘘のように、魔物だったはずの生き物はおとなしく傍らにいた。手を差し伸べ、守らずにいられない、そんな保護欲を無性に掻き立てる存在となって。
「ああ、お湯があるなら使わせてもらえるとありがたい。本当は一風呂浴びたいトコだけど、そんな暇はなさそうだし。それにしても、ゲルバの服はイシェラと違って簡素だな。兵服だからかもしれないけど、動きやすそうだ」
「別に兵服に限った事ではない。ゲルバでは、イシェラのように平素から華美に着飾る習慣はないからな」
 そこまで裕福ではないのだ、と言いかけて彼は口を閉ざす。ゲルバで着飾る事が許されるのは、ほんの一握りの特権階級の者達である。自分のような貧乏貴族の次男坊には縁がない。なにしろ明日の食事を家財を売り払う事なく口にできるか、という心配までせねばならなかったのだ。前王が亡くなって五年、生活は日を追う毎に苦しくなる一方である。 だからこそ、戦を契機に軍に志願したのだった。兄に子供ができた以上、自分が死んでも家の存続は約束される。働き具合によっては、仕送りも可能だろうと。
 だが現実は、戦場での手柄を大貴族の息子である上官に横取りされ、更に口封じ目的の左遷である。そして妖獣に他国人とはいえ生きた人間を餌として与えるという、うんざりするような任務を繰り返す日々。彼は、心底嫌気がさしていた。現在の王に、腐り切った社会体制に。
「ふぅん、……だからゲルバはイシェラを征服したかったのかな? 隣国なのに、自分達と違って贅沢三昧ができる裕福な国。おまけにそこの住民達は恵まれてる自覚もなく、より豊かになる事を欲するばかりだったから」
「!」
 囚人の呟きに、ゲルバの兵士は顔色を変える。幼さの残る顔が、正面から彼を見据えていた。哀れむでも同調するでもなく、ただ静かに。
「よそうか、踏み込んだ質問はなしだ。取り合えず欲しいのは体を拭く為のお湯と、行動に差し支えのない服、使いやすい剣を一振りかな。それと、一つ教えてほしい事がある」
 長い黒髪に華奢な体格の青年は、そう言って爪先立ち、ゲルバの兵士と眼を合わせ尋ねる。
「さっき妖獣達が話していた噂の真偽を確かめたい。カザレントの大公は、本当に自分が人質として赴くと各国の使者に提案したのか?」
 その言葉を耳にした瞬間、唯一生き延びたゲルバの兵士の脳裏に閃くものがあった。故郷にいた頃聞いた、カザレントの公子にまつわるいくつかの流言。血の大公と呼ばれる男の庶子は、長い黒髪と黒い眼の持ち主で、とても二十代には見えない華奢な体格をしている、という話だった。実は大公の種ではないらしい、などという下世話な風聞も聞いた事がある。中でも馬鹿馬鹿しいと思ったのは、暗殺に失敗して逃げた兵士達の流した、殺しても死なず素手で人の頭を砕き、しかも魔性のような赤い眼をしているという噂で……。
「………」
 笑い飛ばしたのだ。信じる事ができずに。
 だが現実に、彼は魔性の赤い眼を己の眼で見てしまっている。しかもその相手は、長い黒髪で華奢な体格で、どこから見ても二十代には見えない姿をしているのだ。
 ならば。
 ならば今ここにいる存在は!
「……カザレント公子、ルドレフ・ルーグ・カディラ?」
 ためらいがちな問いかけに、返されたのは微かな笑みだった。ひどく曖昧で、どこか恥じ入るような。
「確かにそういう名前を持ってはいるけれど、今も公子と名乗る権利があるかどうかはわからないな」
「何故?」
「母親が誰であるかは間違いないけれど、父親に関してはどうもあやふやになってしまったから」
 ゲルバの兵士は、その言葉に眉を寄せる。
「噂で聞く限り、カザレントの大公は行方不明となった公子を己の息子だと臣下の前で明言し、無事戻る事を願って待ち続けているそうだ。だのに当の本人がそれを疑うのか?」
 黒髪の囚人は視線をそらし、苦笑を浮かべた。
「生きている死体で化け物の息子でも、戻ってきてほしいと思うだろうか? この肉体は既に死んでいて、成長は望めないのに」
「……死んでるだと?」
「わかるだろう? 私が普通じゃない事は」
 兵士は頷く。相手が人間の範疇に入らないのは確かであったから。しかし、一方で頷けない事もある。
「カザレントの公子。親というのは、腕の一本や二本失おうが子供に生きていてほしいと願う生き物だ。同様に、死んでいるのなら死体であっても、幽霊になっても良いから帰ってこいと願うだろう。だからさっきの質問は、俺にではなく大公自身に向けるべきだな」
「あの人の子ではないかもしれないのにか?」
「大公自身はそう思っていないだろう」
「私の存在がカザレントにとって不利益でも、邪魔と見なす者が国の中心にいても戻った方が良いと?」
「公子……?」
 思い詰めた口調で問われ、ゲルバの兵士は首を傾げた。それから、相手が自国の民に、それも大公の側近に暗殺されかけて姿を消したという噂を思い出し納得する。それが事実なら、戻るのをためらっても無理はないのだ。
「まあ、今すぐ今後の方針を決めろと言っても無理かもしれないが、ここに留まっていたらまずいのは確かだぞ」
 無意識に手を伸ばし、相手の頭を撫でながら兵士は意見を口にする。
「ぐずぐずしてたら逃げた連中の報告を受けて近辺の隊が押し寄せてくるだろうし、あんたの素姓がばれたらこれまた問題だ。カザレントの公子なぞゲルバにとっては抹殺対象もしくは利用価値のある人質でしかない。しかもこの惨状を見る限り、あんたはおとなしく捕まる気はなし、殺される訳もないから、修羅場は間違いないときてる。どっちもゲルバの人間としては避けたい事態だな。となれば一刻も早くずらかるに限る。来い」
 兵士は囚人の手首から拘束の縄の残骸を取り去ると、血の臭気がこもる部屋を出て足早に廊下を突き進む。
「急いでその体の汚れを拭き、着替えて逃げるが上策だ。たぶん上官の部屋には多少の金品があるだろうから、いくらかいただいて行くとしよう。そうだ、馬も調達した方が良いな」
「あの……それってもしかして、一緒に来てくれるという事か?」
 信じられない、といった顔で問いかける相手に、兵士は肩を竦めた。
「道案内と情報収集担当者は必要だろう? カザレントの公子。ここで俺が残っても、他が皆殺されてる以上良くて訊問、悪けりゃ拷問だ。一人だけ殺されずに済んだって事は敵と通じていたのかと、痛くもない腹を探られるだろう。そして人っていうのは、望む答えを聞かない限り満足しないものなのさ」
「怖くはないのか? 私はさっき見た通りの化け物だ。かつては人間だったにせよ、今は違う。生きてる死体であるだけでも、気味悪がられて当然なのに……」
「馬鹿馬鹿しい。父親が恋しくてベソをかいてる子供を、怖いとか気味悪いとか思えるものか」
 その答えに、黒髪の公子は赤面し絶句する。彼が次に口を開いたのは、顔や手足の汚れを荒っぽく拭かれ、着替えの服を渡された後だった。
「……この場合、やっぱり感謝の意を表明するのが妥当なんだろうな。かなり無茶だとは思うけど。それで、我が協力者となってくれるゲルバの兵士殿のお名前は教えてもらえるだろうか。私はルドレフ・ルーグ・カディラだ。できれば公子ではなく、名前で呼んでもらいたい」
 手早く身なりを整えた相手に見つめられ、ゲルバの兵士は微笑し頷く。
「承知した。俺の名はアラモス。アラモス・ロー・セラ。ゲルバの貧乏貴族の次男坊で、今年二十一になる」
「二十一ぃ?」
「何だ? そうは見えないか」
「いや、その……大人っぽくて落ち着いてるから、てっきりもっと年長かと……」
「ゲルバの人間なら、この年であれば落ち着いていて当然だぞ。子供の一人二人いてもおかしくない年齢だ」
「子供の一人二人……?」
「ああ、ゲルバでは十三歳で成人と見なされるからな。皆、主に十代の中頃で結婚するから二十歳になる頃には子の親だ。もっとも俺の場合は、六年前の婚約解消以来相手に恵まれなくて独身だが。で、カザレントの公子殿はいくつだ? 外見より実年齢が高いとは聞いてるが」
「うーっ……」
 ルドレフは唸り、ソッポを向く。自分より年上に見える年下の男の前で、本来の年齢を口にするのはかなり心理的抵抗があった。
「……たぶん、記憶に間違いがなければ今年で二十五歳なはずだけど……」
「二十五だとぉ?」
 アラモスは仰天して叫ぶ。
「本当か、それは。ゲルバの感覚で見れば、どう見ても十五かそこらにしか見えんが」
「仕方ないだろう? 成長期に栄養不足でちゃんと育てなかったんだ、この体は」
 体だけでなく顔立ちも少年めいているんだが、と思いつつアラモスは呟く。
「俺も成長期に充分な栄養を摂取した覚えはないぞ。それでもこの体格だが」
 カザレントの公子は、自分より遥かに上背も横幅もある男を見上げ溜め息を漏らす。
「だーかーらー、ゲルバの人間とはそもそも基本的体質が異なるんだ! 一緒にしないでくれ」
「なるほど、国によって住む人間の体質は異なるのか。これは詳しく調べる価値がありそうだな」
 漫才同然の会話を交わしつつも逃亡の準備を着々と進めていたアラモスは、仕上げに引き出した馬の一頭へルドレフを乗せると、自身も別な馬に飛び乗り鞭を繰れる。
「取り合えずカザレントとの国境を目指すぞ。行き先はそこで構わんか?」
「異論はない!」
 並走する馬の背から、風に負けじと声を張り上げルドレフが答える。その騎乗姿が様になってるのを確認したアラモスは、安心して己の馬の速度を上げた。



◆ ◆ ◆


 ゲルバとの国境を睨む位置に建設されたヤンデンベール城塞の、北翼の塔内にある礼拝堂の中で、名ばかりの城塞守護職エルセイン子爵は一人たたずみ、蝋燭の炎に照らされた翼を持つ神の像を見つめていた。
 その聖なる祈りの対象は、乙女の如き優しげな顔立ちの若者で、慈愛に満ちた微笑みを面に浮かべている。けれどもその右手には戦の象徴たる剣が握られ、左手には学問の象徴たる書物が開かれた状態で置かれていた。
 それはどちらも神ではなく、人間の世界に属する物である。台座には、この像を彫り上げた人物の言葉が刻まれていた。“人、知恵なくしては生きるに値せず”“力なくして戦に臨むべからず”と。
 どういう思いを込めて、造り手はこの言葉を残したのか。後にそれを見るであろう者達に対して。
 エルセイン子爵は溜め息を漏らし、手にしていた書状をのろのろと持ち上げる。
 書状の差出人は、カディラの都在住のラガキスなる老人だった。元は大公の城で衛士を務めていた男で、行方不明の公子の従者であり、赤子の彼を成人まで守り育てた人物である。
 そして封筒の表に記された名は、エルセイン子爵のものではなかった。ヤンデンベール城塞の実質上の責任者、平民出身の剣士ザドゥが書状の本来の受取人なのである。
 届けようとしていた兵士の手から強引に書状を取り上げ口止めしたのは、子供じみた嫉妬による馬鹿げた行動としか言えなかった。都に住む者までが守護職の己を無視して直接あの男と交渉しようとするのか、と自身の資質や技量のなさも無視し憤慨してしまったのである。
 それが愚かな行為であり、誤った見解だと気づいたのは、開封して中身を読んでしまった後の事であった。冷静に考えればわかったはずである。差出人は公子の従者、そしてザドゥは以前その公子の護衛役として側にいたのだ。個人的に面識のある近しい者が、私的な書状を相手に送ったに過ぎないのである。無視したとかしないとかいう問題ではない。自分は、この二人の間柄に関与していないのだから。
 そう、察して当然だった。だのに怒りに任せて開封してしまったのである。おまけに書状の内容たるや、知らぬ振りして処分して良いものではなかった。事実なら、膝を交えて相談せねばならぬ重大事である。カザレントの国民の一人として、ヤンデンベールの城主として。
 大公のある提案によって、冬になっても戦闘を止めなかったゲルバも休戦に応じ、国境から見張りの兵を残して部隊を(妖獣も含め)引き上げる事になった、という話は聞いていた。しかしどのような提案を大公がしたのかは、全く耳に入ってこなかったのである。 書状に書かれていた内容が事実であれば、情報が漏れてこないのも無理はなかった。これが知れ渡ったら、全国民の精神は恐慌状態に陥るだろう。あの大公が人質として他国に赴く? カザレントからいなくなる? そんな事は耐えられなかった。断じてさせてはならなかった。
 どんな苦しい状況に立たされても、大公が存在する限り自分達は負けはしないと、何の根拠もなくそう信じてきた。現実に、四方の国を敵に回して今日まで持ちこたえてきた。それは全て、大公という支柱が都に存在したからこそである。
 揺るぎなく、自信に満ちて、檄を飛ばしてくれたから圧倒的に不利な状況の中で戦えたのだ。勝てる見込みのない戦の、激戦区の守護職に就いても良いと、生命を投げ出しても良いと思える程に気を高揚させた。エルセイン子爵にとって、大公ロドレフ・ローグ・カディラはカザレントという国そのものだった。誰も代わりになれぬ、国の柱だった。そしてそれはおそらく、カザレントに住む殆どの民にしても同感だろう。その血を引いているというだけでは駄目だった。彼の代わりにはなれぬのだ。
「御城主様?」
 祭壇前の蝋燭を替えに来た少年兵が、礼拝堂内の人影に気づいて声を上げる。夜の礼拝堂の空気は冷え切って、肌に痛い程であった。そんな場所で一人、エルセイン子爵はたたずんでいたのである。
「し、失礼しました。おいでとは知らず……。あの、火をご用意しましょうか?」
 慌てて暖炉へと向かう、自分より幼い兵士を見つめエルセイン子爵は首を振る。
「いや、薪を無駄にする必要はない。もう出るところだ。……お前達の隊長は部屋に居るのか?」
「あ、はい。ザドゥ隊長でしたら自室で先程戻られたハンターから調査報告を聞いているはずです。呼び出されますか?」
 頷きかけた子爵は手の内の書状を見おろし気を変える。
「いいや、こちらから出向こう。ハンターが戻っているなら、いくつか新しい情報も得られるだろうし。最も……だがな」
 情報を得たところで、自分には何もできないと自嘲しつつエルセイン子爵は礼拝堂を後にした。見送った兵士は、その背中に向けて深々と礼をする。
 十代の子爵が名ばかりの城塞守護職となり、ヤンデンベールの城主としてこの地に留まっているのは、いざという時責任者として殺される責務を負っているからだという事を、彼は知っていた。いや、彼のみではなく城塞にいる全ての兵士が承知していた。彼等を統率する隊長がそれを繰り返し口にした為に。
 子爵が来たばかりの頃、貴族出身であるが故の優越意識を色濃く漂わせていた彼に、大半の兵士は反感を覚えた。実戦にも出ないお坊ちゃまのくせに何だ、あの偉そうな態度はと。が、そんな彼等を諫めたのが子爵から一番きつく当たられていたザドゥだったのである。
 平民出身の自分達を見下した面があろうと、多少態度が悪かろうと、責任と義務を放棄せず立ち向かおうとしている者には尊敬の念を向けるべきだと隊長は主張した。
 例えば戦に敗れたら、下っぱの兵士である自分達は生きる事だけを考えて逃げても良いのである。上官であるザドゥはそう、彼等に教えた。生き抜け、無駄に死ぬな、勝てなければ逃げろと。
 だが、上に立つ者はそうはいかないのだとも彼は言う。責任者は、負けるとわかっていてもそこに踏み止どまり、立ち向かわねばならない。背中を向ける事は許されない。逃げる権利が与えられるのは最後の最後なのだ。他の兵士が、住民が皆逃げ延びた後でなら、逃げても良い。尤も、その頃には全ての退路が断たれているだろうから、逃げられる可能性はほぼないが。
 そんな重い責務を負っている者を軽々しく非難するな、彼は諸君等が生き延びる為の贄となる覚悟でここに来たのだと、褐色の肌の上官は言った。子爵から敵視されているその人が、敬意を払い部下として振る舞った。その姿を常に見せられていては、他の者もそれに倣うより他になかったのである。
 されど今、深々と身を折って若き城塞守護職を見送った兵士の胸には、偽りなき敬意があった。この城においてはエルセイン子爵だけが、皆と交われない異質な存在である。後から合流したハンターや、その同行者の呪術師よりも馴染めず孤立しているのだ。己が貴族の血を引いている、ただその一点にこだわりすがっているが故に。
 それでも、たった一人の孤独に耐えて、いつか来るかもしれない殺される日を待ちこの城塞に留まり続けている彼は、間違いなく尊敬に値するのだと少年兵は思う。
「けど、どうせなら役にも立たない貴族って身分のこだわりを捨てて、気楽に話せる友人を作れば良いのになぁ、あの方も」
 そうすれば、生きる事をもっとずっと楽しめるだろうに。蝋燭を取り替えた兵士は、そう呟いて神の像に背を向け、扉を閉めて礼拝堂から立ち去った。


「あれ? 蜘蛛使い……もとい、ケアスはここにも来ていないのか。どこへ行ったんだ、あいつは。見かけなかったか? 責任者殿。ハンターも」
 入室許可を与える間もなく室内に入り込んだ青年は、料理の乗った盆を手にしたまま中をぐるりと見回して首を傾げた。突然の侵入者に話を中断させられた形のザドゥとパピネスは、悪気ない相手の様子と制止できずに通してしまった見張りの兵士の狼狽ぶりに苦笑を浮かべる。
「ここへは一度も顔を見せなかったな。今の時間だと食堂ではないのか?」
「そっちへ来ないから、ここに来ているのかと思ったんだ。まぁ、取り合えず食堂に来る暇もないご多忙な貴殿等の今日の夕食はここへ置いておく。情報を整理して今後の方針を話し合うのも結構だが、料理人としては冷めないうちに食べてほしいぞ。冷えても美味しい料理というのは種類が限られてるからな」
 肩を竦めて料理の皿を盆からテーブルに移すと、自称呪術師見習いにして押しかけ料理人、のルーディックは嫌味を交えぼやく。並外れて整った顔は、不機嫌な表情であっても充分見惚れる程に綺麗だった。
「特にこの魚と玉葱と茸の包み焼きは、舌が焼ける程熱いうちに食べると美味い。りんごとさつまいもの重ね焼きは冷めてもまずくならないが、俺は熱々のうちに食べる方が好きだ。体も温まるしな。あ、ポットの中身はりんごのお茶だ。さっぱりした味に仕上げてあるから、もうちょい甘味が欲しかったらそこの壺に入っている蜂蜜を加えてくれ」
 赤毛の妖獣ハンターは、皿を指差し説明する青年の横顔をぼんやり眺め不思議に思う。どこも似たところがないこの男を、どうして自分はあの時レアールと間違えたりしたのだろう? と。
 彼の知るレアールは、嫌われる事を恐れて意見の衝突を避け、余計なまでの気を配ったあげく一緒にいる者を無用につけあがらせてしまう男だった。何があっても何をされても己が悪いと思い込み、常に自分の意志より他人の意志を尊重して引いてしまう、損な性分の。けれど、今目の前にいる相手は違う。
 他者を見る眼差しの強さ、放たれる気の輝き。あのケアスを、自分の言葉に従って当然と見なした傲慢な物言い。レアールならば死んでも持ちえない強気。
 いったい何故、これほどに異なる存在をあの時はレアールだと感じたのか、レアールに見えたのか……。パピネスは心底悩まずにいられなかった。自覚がなくても、自分はそこまで失った相棒を求めていたのかと思うと赤面したくなる。
 もちろん、レアールと間違われた当の本人の反応たるやひどかった。はぁ? と口をひん曲げて思いっきり嫌そうな声を上げ、徐に近寄って正面から顔を覗き込み、お前は乱視か、いや、絶対に乱視だなと断言したのである。そうでなければこの俺が、あんな自我崩壊した厄介者の憶病な馬鹿野郎に見えるはずがない、と。
 彼がレアールの身内に当たる者で、現在妖魔界の王によりレアールを人質に取られた形な為、不本意な命令に従わねばならぬ立場に置かれている、といった事情はケアスこと蜘蛛使いから城塞への帰還途中知らされた。
 そういう事情なら厄介者扱いはやむを得ないにせよ、自我崩壊だの憶病だの馬鹿野郎だのと身内から酷評されるレアールの奴って……、と頭を抱えたくなったのも事実である。 蜘蛛使いの説明によると、二人は互いに顔を合わせた事もなかったし、つい最近まで身内だとは己も含めて誰も知らなかったという。
 落ちこぼれ扱いを受けていたレアールが身内と知って、妖魔界の王の側近であるルーディックが不愉快になったのは仕方がなかろう。しかもそれが人質に取られた為にやりたくもない任務を押しつけられ、おまけにザドゥの話を聞いた限り、妻子の仇に当たるケアスと協力せねばならなくなったと言うのだから尚更である。その点は、パピネスとしても気の毒と思わずにいられなかった。
(それでも、この人には申し訳ないけれど、自我を失ったにせよあいつは生き延びていてくれたのか。あの炎の中で生命を終わりにしなかったんだ)
 レアールが生きている。その事実が、素直に嬉しかった。死んでいないのなら、会えない場所に居ようが異なる界にあろうが構わないと思える。生きているのなら、いつかは伝えられるだろう。お前に生きていてほしいと願う存在がここにいる、と。
 妖魔だろうが何だろうが、一緒に過ごした時間は自分にとって宝石だったと、共にいて幸福だったと伝えてやりたかった。お前が大人の振りをしていたおかげで子供でいられたと、感謝の言葉を贈りたかった。
 だから負けるな、とパピネスは念じる。自我を失っているのなら、必ず取り戻し生き抜いて幸せになれよと。
 たとえ己が亡くなった後でも、この思いがレアールに届けばそれで良かった。今のパピネスは、多くを望まなかった。
 もう一度レアールが相棒として隣にいる事、までは希望しなかった。その権利を、自分は放棄したのである。妖魔と呼んで暴力を振るった、数年前のあの時点で。
 わかっていた。だからそこまでは望まない。ただ無事を、そしてその寿命を全うし生きる事を、幸せになる事を願うのみである。その為にも、身内であるルーディックにはレアールを見捨ててほしくなかった。それを自分が頼むのはまずかろうと思いつつも。
「それじゃまぁ、部外者はお邪魔だろうから退散する。ただし料理の方は残さず食べてくれ。空になった皿を見るのが俺にとっての楽しみだからな。ああ、もしお腹に余裕があったらりんごと木苺のパイも作ってあるから遠慮なく言ってくれ。切って持ってくるから」 長い髪を無造作に束ねた青年は、先程より少し機嫌の直った表情で城塞責任者であるザドゥに語りかけ、軽くお辞儀をして扉へ向かった。その背中に、パピネスは声をかける。
「良かったら、国境から連れてきた例の怪我人二人へ先にそいつを持ってってやってくれないか? 子供のお菓子好きはたぶんどこの国でも変わらないだろう」
 振り返った青年は、僅かに思案する顔になり赤毛のハンターへ問いかけた。
「パイを運ぶだけで良いのか? ハンター」
 さすがに頭の回転が速いな、とパピネスは笑う。
「できればゲルバから子供二人で逃げてきた理由や、あちらの国の内情及び行く当てがあっての亡命か等も聞き出してもらえるとありがたい。地続きの隣国だ。貴族なら親戚の婚家があってもおかしくない。任せていいよな? ケアスが言ってた。子供の相手は得意な奴だと」
「……なるほど。正攻法では太刀打ちできないと知ってからめ手で来たか、あの野郎は。嫌がらせにしてもずいぶんだ。俺が子育てに失敗したのを承知で、そーゆー事を言ったとはな」
 やはり見つけ次第一発ぶん殴ってやらねばならん、と物騒な台詞を吐きながら、美貌の青年はあっけに取られた様子のパピネスに視線を向ける。
「取り合えずパイは運ぼう。ついでに聞き出せるようなら話は聞いておく。だが、期待はしないでくれ。俺はそういう事にはおそらく向いてないと思う」
「そう……なのか?」
「ああ、子供の相手が得意なのは、きっとレアールの方だろう。わざとでないのなら、混同して言ったのだな」
「混同……? 何でケアスが?」
 投げかけられた疑問に、ルーディックは微苦笑で答えた。
「あんたが俺をレアールと間違えたのと同じ理由じゃないか?」
「……錯覚した?」
「そうだ」
「………」
 扉を開いたせいだろう。男の長い髪が風に少し揺れた。そしてパピネスの鼻腔をくすぐったのは、懐かしい相手を思い出させる微かな香りである。熟した果実のような甘い、男のものとは思えない体臭。相棒と添い寝する度嗅いだ、忘れえぬ芳香。
 まさか、と反射的にハンターは立ち上がっていた。そんな自分へ向けられたのは、立ち去ろうとする相手のどこか寂しげな眼差し。
「レ……」
 レアールと、また口にしかけてパピネスは唇を閉じる。
 錯覚なのか? 本当に? 確かに見かけは全然似ちゃいない、雰囲気も違う、性格も異なる。けれど、身内だからって全く同じ香りを発するなんて事があるのか?
 その疑問に、答える者はない。
「御城主?」
 ハンターの胸に拭えぬ疑惑と動揺を残して去ったルーディックと入れ違いに入ってきたのは、名ばかりの城塞守護職エルセイン子爵である。常になく思い詰めた様子の彼は、同席しているパピネスの姿を見て一瞬ためらったものの、服の内から開封済みの手紙を取り出し無言でザドゥへ手渡した。
「これは……」
 書かれた宛名が自分を指していると知って、ザドゥは子爵を見る。
「……先に開封して読んでしまった。申し訳ない」
 震える声で応じた子爵は、実質上の責任者から目をそらし、恥じ入るように唇を噛む。
「言い訳のしようもないが、とにかく中の文面に目を通してほしい。その上で、どうすべきか意見を聞きたい。私にはもう、どうしていいかわからないのだ」
 椅子に座り込み、両手で顔を覆った相手の言葉に、当惑してザドゥとパピネスは視線を交わす。いったい何事が起きたのか、と。
「わかっているのはただ一つ。私は、現大公を失いたくない。絶対に失いたくない、それだけだ。だが、どうすればそれができる? 教えてくれ、私にはわからない。どうすれば……」
 泣き濡れた眼で問われ、ザドゥは問題の書状を封筒から出して読み始める。その表情は次第に険悪なものへと変化していった……。

次へ