断罪の瞳3《5》


 ゲルバの都にある王宮に戻ると、ブラン・キオはルノゥの居所を通りすがりの侍女に尋ねた。例の事が行われた部屋からは移されたらしく、姿が見えない。王の怒りと妖術師への恐怖、この二つの板ばさみとなって立ち竦んだまま自失した侍女の思考を読み取り、少年の外見を持つ人ならぬ者は舌打ちする。
 彼女の意識は、ルノゥが宮殿内部ではなく妖獣達に明け渡された兵舎へと連れていかれた事を伝えてきたのだ。
(要するに、便器代わりに使用する時以外は妖獣の玩具って訳? 肉体の体質を強化しろとか、色々注文つけるとは思ったけど、そんなつもりでいたとはね。ホント、どこまでも悪趣味な奴)
 胸の内に、猛烈な不快感が沸き起こる。これまでオフェリスがどれだけ暴走しようと惨い行いをしようと、大して気にもしなかった、むしろ楽しんでいたキオにしてみれば、非常に珍しい心の動きであった。
(……これって変だな。何故あの人間が気にかかるんだろう?)
 理由がわからないだけに引っかかる。モヤモヤするものを抱えながらキオは兵舎に向かい、妖獣達から無理矢理ルノゥを引き離すと、玩具を奪われた彼等の抗議も無視して浴室へと移動した。そして、意識もはっきりしない、妖獣の体液まみれになった相手を広い浴槽の湯の中へ乱暴に放り込む。
「あのね君、今度こそ自害した方がいいよ。無理して生きてても意味ないから」
 浴槽の底へ沈んだルノゥは、湯の中で意識を取り戻しどうにか顔を浮上させた。それを見て、少年の姿をした妖術師は声をかける。
「意味がない……?」
ぼんやりとした眼差し、虚ろな声でルノゥは聞き返す。キオはその様子に眉をひそめつつ頷いた。

「君が守ろうとしていた存在はもういないから。国境で妖獣に喰われちゃったよ。王様が差し向けた妖獣じゃなく、あの辺に生息していた奴等にね。だから君はもう、無理して生き続ける必要はないの。楽になっていいんだよ」
 ルノゥの、決して良いとは言えなかった顔色が更に悪化し、瞳が凍りつく。
「必要ない……? ローレン……あの子が喰われたって……私は……」
 次にルノゥが発した言葉は、妖術師が予想もしなかったものであった。戻して下さい、そう言ったのである。
「ルノゥ?」
「自害はできません。楽に死ぬ資格など私にはないのです。このままおぞましい思いをしながら狂気の中で果てるのが、この身には相応しいでしょう」
「何言ってるの? 君、正気?」
 あきれ果てたキオは、浴槽からルノゥを引っ張り上げて問う。まさかとは思うけど、お湯の熱さにあたって気が変になっちゃったんじゃないよね、と。
 ルノゥは、力なく首を振り微笑した。
「正気ですよ、私は。……兄から託されたあの子を守れませんでした。楽に死んでは先に逝った兄に対し申し訳ができません」
「何を馬鹿な事言ってるのさ。さっきまであんな目にあわされてたじゃない。もう充分だと僕は思うよ。その前は妖獣に喰われたんだし、楽になる権利はあるってば」
 いいえ、とルノゥは眼を伏せる。誰が納得しても私が納得できません、と。この身を罰せねば気が済まない、そう主張するのである。
 ブラン・キオは天を仰いだ。こんな考え方をする人間は想像の範疇外である。
「あぁもう、わかったよ。本当の事を教える。君の大事な甥っ子は死んでない」
「え?」
「傷を負ってはいたけどね。妖獣に襲われたのは事実だから。でも死んではいないと思うよ。側にいた女の子が必死で守っていたし、その子が倒れた後は、国境周辺の見回りをしていたらしい兵士とカザレントに雇われたハンターが駆けつけて助けたから。たぶん今頃はカザレントのどこかで治療を受けてるんじゃないの?」
 ルノゥは安堵して肩の力を抜く。ではローレンは死なずに済んだのだ。無事ではないにしろ、生きて国境を越えてくれたのだ。彼は神に感謝し、祈りの言葉を唱えると情報をもたらしてくれた相手を見る。
「何故、死んだと嘘を?」
「う……」
 キオは顔を赤らめそっぽを向く。だってさ、と彼は呟いた。だってあの子供が死んでれば、君はこの境遇に耐えて生きる事はないじゃない? と。
「私の為……ですか?」
「そんなんじゃないよ。ただ今回はさすがに、オフェも悪趣味が過ぎるって思っちゃったの。それだけ。生きた人間相手にあーいう真似って、まともな精神の奴ならできないよ。違う?」
「……そうですね」
 ルノゥは微笑む。この妖術師が人ではない事はわかっていたが、先刻と違いさほど恐怖は感じなかった。彼は自分に危害を加えようとしていないし、けっこう全うな精神の持ち主らしい。その意味では、人間の方が余程残酷で狂っている。少なくともこの国では。
「では、そろそろ兵舎に戻して下さい。ローレンが生きているとわかった以上、私は自害する訳にはいきませんし、逃がすのも立場上まずいでしょう?」
「……うーっ」
 美貌の妖術師は子供のようにふくれっ面となり、唸った。だから生きてると知らせるのは嫌だったのに、と。気にしないで下さい、とルノゥは笑う。
「ああいう扱われ方には慣れていますから」
 もちろん、妖獣の相手は初めてですが、と言うルノゥの台詞に、ブラン・キオは眉を吊り上げる。
「なにそれ。何なんだよ、慣れてるって」
「……ですから、その通りの意味です」
「どーしてそうな訳? 母親が違うといっても君、一応公爵家の息子でしょ? それでなんでそーいう事に慣れちゃうのさ」
「貴族は、召し使いが産んだ子供を同じ人間と認めたりしませんから。たとえ父親が誰であろうと」
 ルノゥは僅かに苦い表情となり、眼を伏せ呟く。
「兄が留守の時は、よくごっこ遊びの狩りの獲物扱いされていました。私の身は、捕らえた者が自由にして良いという決まりで……。それが邸の客であれ、下男であれ、する事は同じでしたね」
「………」
「十七を過ぎた頃でしたか。予定より早く都から帰ってきた兄が遊びの真っ最中の現場を目撃しまして。その後は兄が手を回したのか雇い人は全て入れ替えられ、そうした遊びは行われなくなりました。でもそれまでは殆ど毎日行われていましたから、慣れているんです。……軽蔑しますか?」
 淡々と語るルノゥに、信じられない、といった眼差しをキオは向ける。
「軽蔑なんてしないよ、君の責任でもない事に。けど何でそんなに平然としてるの? 僕が言うのも何だけど、もっと怒ったり嘆いたりしていいんじゃない? それくらい酷い事されてたんだよ」
「……すみません」
「だからっ、謝る必要はないってば!」
 溜め息をついた妖術師は、ルノゥがずぶ濡れのままだった事を思い出し、手をかざしてその髪や肌を乾かした。どうせすぐ妖獣達によって汚される、と思うといささか腹が立ったが。
「僕はねぇ、正直な話最近のオフェにはうんざりしてるんだよ。ルノゥ」
 立ち上がる力もなく、膝を着いたままのルノゥの体を引き寄せ、キオは囁く。
「でもまだ完全に見限っちゃいないから、こうして側にいるけどね。たぶんちょっとしたきっかけがあれば即見捨てちゃうと思うんだよ。これ、内緒だけど」
「……はい」
 相手の意図がわからぬまま、ルノゥは相槌を打つ。
「もしそうなったら、その時は君の事連れ出すかもしれない。覚悟しといてね」
「え?」
「気に入ったんだよ。人間にしちゃ考え方が妙で面白いもん」
 少年の姿の妖術師は、無邪気に笑って軽く口づける。不意を突かれたルノゥが、己の身に何が起きたかを認識したのは、相手が離れた後だった。
「じゃ、仕方ないから兵舎に戻すけど、正気保てるって約束できる? 次に会う時まともに会話できなくなってたらやだからね、僕は」
「……あ……、はい」
 努力しましょう、と生真面目にルノゥは答える。約束を成立させると、ブラン・キオは青年の体を兵舎内部に移動させた。返す前に一度くらい味見しとけば良かったかな、と思いつつ。
「ま、いっか。どうせ機会は何度でもありそうだし。会う口実が必要なら、あのローレンとかいう子の様子をカザレントまで見に行けばいいんだから」
 あっさり思考を切り換えた彼は、用のなくなった浴室から姿を消す。壁の向こうで気配を窺っていた者達は、それに気づくや慌てて入室し湯の入れ替えに動いたが、そんな細かい事はキオにはどうでも良かった。王専用の浴室に、妖獣の体液まみれの者を連れ込んだからどうだっていうのさ、が彼の言い分である。そもそもルノゥがそのように汚れる原因を作ったのは、他でもないオフェリスなのだから。


 王が寵愛する妖術師は、どうも人外の者らしい。そうした噂は、王宮内及び都に蔓延していた。けれども、その正体や本質を見抜いている者は、残念ながら一人もいなかったのである。




 大公の提案した策によって、ゲルバも一時休戦を受け入れたという伝令を都から受けた翌日より、カザレントとの契約下にある妖獣ハンター・パピネスはその情報が事実か否か確認すべく城塞を離れ、国境を巡回中の警備兵の護衛役兼任の偵察を行っていた。
 妖獣達が真実国境から撤退したか、去った振りをして近隣の村や森に潜んでいないか、気配でそれを確認できるのはハンターたる彼のみであったが為に。
 間違いなくゲルバの妖獣部隊は国境周辺から撤退していると確認し、城塞へ戻ろうとしていた矢先の事だった。主を持たぬ野性の妖獣に襲われていた、少女と少年を保護したのは。
「……まずいな」
 有り合わせの薬で応急処置をしながら、赤毛の妖獣ハンターは深刻な呟きを漏らす。ひとめで駆け出しのハンターとわかる薄い色のマントを身に付けている少女の方は良い。緊張の糸が切れて気を失ってはいるが、負った怪我自体は生命に関わる程酷くはなかった。彼女がハンターである事を考えれば、その体質からいって体力の回復と共に、傷も容易く治るだろう。
 だが、もう一人の少年の方はそう簡単にはいかなかった。ただの人間な上に、傷そのものがかなり深い。おそらく内臓まで達しているだろう。それでなくても衰弱気味の、体力もない幼い体である。大量出血と内臓の破損は致命的だった。
「ハンター、この子供はもう……」
 同行した兵士の一人が、気の毒そうに怪我人を見おろしながら語尾を濁す。戦場で幾度か仲間の死を目にしてきた者である。負傷者が死神の手に捕らわれたか否かを見極める眼は持っていた。もう助からない、と言外に伝える兵士から、パピネスは眼を逸らし唇を噛む。
 人間の医者では助けられないだろう。何より、自分達が城塞に戻る前に間違いなくこの少年は息絶える。となれば、残る方法は一つだった。頼る相手が素直に協力してくれるかどうかは、正直大いに疑問だったが。
「……ケアス、聞こえるか?」
 いったん握りしめた拳を開くと、そこには小さな深紅の妖蜘蛛が浮かんでいた。己の体内に妖蜘蛛を飼うなど御免だと、パピネス自身は必死で拒否したのだが、妖魔である蜘蛛使いはその方が便利だからと勝手に埋め込んでしまったのだ。念じればいつでもどこでも呼び出せますよ、いざという時の連絡役に使いなさい、と言いながら。
 当事者の意思を全く無視したやり方だったが、取り合えず直通の通信回路が確保されている、というのはこうした状況下においてありがたかった。どう考えても、瀕死の少年には妖魔の持つ治癒能力が必要である。助けられる生命なら、誰にすがろうとどんな手段を使おうと助けたい。そう、パピネスは思う。たとえそれが、不愉快な条件と引き換えであろうとも。
「今すぐここに来てくれ。お前の助けが必要だ、頼む」
 近くにいる兵士達に蜘蛛の存在を悟られぬよう、凍えた手に息を吹きかける振りをしてパピネスは囁く。
「呪術師殿がっ!」
 突然空中に現れた亜麻色の巻毛の呪術師の姿を見て、偵察隊の兵士等がどよめきの声を上げる。肌から例の模様がきれいさっぱり消え失せた蜘蛛使いは、ハンターの呼びかけから僅か数秒後に現場へ到着した。
「ケアス」
 自分に向けられた眼差しの、常ならぬ険しさから相手の機嫌が目一杯悪い事を知り、こりゃもしかしなくてもまずかったかな、とパピネスは苦笑を浮かべる。
「……えっと、悪かったな。急に呼び出したりして。向こうで何か、緊急の事態でもあったのか?」
 蜘蛛使いは腕を組み、ふーっと思わせぶりな息を吐いて首を振った。
「いいえ、別に。ですが極上の料理を前にして、いざ食さんとしたところに呼び出しというのは極めて遺憾です。できれば無視したかったですね」
「はぁん、そりゃ申し訳ない」
 蜘蛛使いの言う極上の料理が、文字通り料理を意味しているのかそれとも誰かに対する比喩であるのかは謎だったが、パピネスは肩を軽く竦めただけでその件にケリをつけた。
「すまない事をしたとは思う。だがこちらははっきり言って食事どころじゃない状況だ。文句は帰ってから聞く、という事で勘弁してもらいたい」
「……で、用件は何です?」
 赤毛のハンターは、己のマントで包んだ瀕死の少年へ視線を向ける。
「妖獣に襲われた子供だ。見ての通り死にかけている」
「そのようですね。それで?」
「ケアスさ、前に出血と寒さで死にかけていた俺を助けてくれたよな。あれを、この子にもやってくれないか」
 蜘蛛使いは半眼で横たわる少年を眺め、脱力した様子でパピネスへと顔を向けた。
「ハンターの坊や、勘違いしてもらっては困ります。私は便利屋でも、慈善家でもありませんよ」
「ああ、知っている」
「あれは、己の生命を削って他人に与える行為です。死なせたくないと思った相手にならともかく、何で見ず知らずの者にまで自分の生命を分けなきゃいけないんですか、この私が」
「命を削った?」
「そうですよ」
 思いがけぬ言を聞いて、赤毛のハンターは頭を掻いた。
「悪いな。そいつは知らなかった」
「悪いと思うなら戯言はやめてくれますか。私とて命に限りはあるんですよ、ハンター」
「でもさぁ、限りはあっても俺よりずっと長いよな?」
「ハンターっ!」
 本気で腹を立てかけた蜘蛛使いに、パピネスは真剣な表情を向け告げる。
「俺は、最初から無理を承知で頼んでるんだ。ケアス」
「………」
「可能なら、他人に頼らず自分でやっている。だが、この体の持つ力は人間相手には向かないからな。助けるつもりが逆に死なせてしまう」
「それは貴方のせいじゃありませんよ」
「……そうかな」
 パピネスは僅かに眼を伏せ、首を傾げた。己の体が内包している特殊能力故に、愛しあい触れた少女をどのように死なせたかを思えば、自分のせいじゃない、己に罪はない、とはとても言い切れなかった。
 いっそ、前世で犯した罪の報いを今生で受けているのだ、これはお前の背負う罰だ、とか言われた方がまだましなんだがなぁ、というのがパピネスの本音である。そうした負の感情を、おそらく殆ど理解しないであろう相手に伝える気はなかったが。
「ケアス。重ねて頼む。この子を助けてやってくれ。無償で、とは言わない。使った分の生気は後で俺から取り戻せ。あんたなら大丈夫なはずだ」
「……良いのですか?」
 信じ難いといった口調で問われ、パピネスは苦笑する。確かに、生気を取り戻す為にいかなる方法を取るかを思えば、蜘蛛使いが疑いを持つのも当然だった。
「許す。背に腹は代えられない」
「ハンターの坊や。念の為に言っておきますが、私は生き血も生肉も嫌いですからね。報酬の支払い方法を間違えないで下さいよ」
「わかってる! そういう事をいちいち確認するな。見ろ、兵士達が目を丸くしてるぞ」
 言われて顔を上げれば、確かに自分達を遠巻きに見ている兵士等の表情は、尋常ではなかった。蜘蛛使いは肩を竦めて、瀕死の少年の治療に取りかかる。パピネスはそれを眺めて、ホッと息をついた。が、次の瞬間には城塞に戻ってからの自身の運命を思い、しゃがんで頭を抱え込む。
 切り出したのがこちらからである以上、反故にもできない。しかし、昔体験した事があるとはいえ、男相手に体を提供するというのはどうにも複雑な気分である。
(けど肌の模様が顔や手から消えているって事は、ケアスの奴もう追放処分が解けているのかもしれないし、それでも呼び出しにすぐ応じて来てくれた件から察するに、俺の留守中勝手に向こうへ戻らず城塞に留まってくれていた訳だから……、やっぱそれなりに誠意は示さなきゃまずいよな、人として)
 どうにか自分を納得させ、覚悟を決めて立ち上がると、パピネスは治療を受けている少年の様子を見ようとして蜘蛛使いの傍らに寄る。
 先刻まで確かに死神に捉われかけていた怪我人は、傷口を完全にふさがれて頬に赤みが差し、呼吸も安定していた。意識はまだ戻らないが、この分ならいずれ気がつくだろう。 これなら大丈夫、死ぬことはないと安心したハンターは、感謝の念を込めて少年を治癒させた妖魔の肩に手をかける。
「あんた、何だかんだ言っても根本的に良い奴だよな。ケアス」
「お世辞を言っても約束をなしにはしませんよ」
「わかってるって」
 お世辞じゃないんだけどなぁ、と多少困惑した声でパピネスは呟く。だって普通妖魔は人間がいくら頼んだところで、言う事を聞いてくれたりしないだろ? と。
 己の持つ特殊能力を利用し力を得るにしても、わざわざその為に頼み事を聞いてやる必要などまるでない。強引に力づくで奪えば済む話だった。しかし、隣にいる蜘蛛使いはそれをしない。文句を言いながらも、結局はこちらの頼みを聞き入れて、死にかけていた少年を助けてくれたのだ。
(今なら、レアールがこいつを憎みも嫌いもしなかった理由がわかる気がするな)
 多分に自分勝手で我侭なお子様ではあるが、根っ子の部分は優しくできてるのだ。それを気紛れに発動させる困ったちゃんな点は問題だったが。
 苦笑し肩に頬を寄せたパピネスに、満更でもない表情で蜘蛛使いは手を伸ばし髪へと指を埋める。空から声が降ってきたのは、その時だった。
「なるほど。途中でいきなり消えたと思ったらこういう事か、蜘蛛使い」
「ルーディック!」
 反射的に空を見上げた蜘蛛使いは、そこに浮かんでいた人物を眼にしてうわわっ、と慌てふためく。茶に染められた長い髪、自分の手で乱したそれが、束ねられもせず風に揺れている。衣装の方だけは、辛うじて人前に出ても支障がない程度に直されていたが。
「俺は取り引きを持ちかけはしたが、度々要求されるのも二股かけられるのも御免だ」
 雪面に足をおろすと、蜘蛛使いをはっしと見据え、唇の端を上げてルーディックは断言する。呪術師同様、突然空中に現れた見知らぬ存在を前に、国境を警備する兵士達は訳もわからず絶句し、硬直して立ち竦む。そしてパピネスは……。
 パピネス一人は、異なる行動を取っていた。
「レアール」
 凍りついたような眼差しでルーディックを見つめ、赤毛のハンターはその名を呼ぶ。失ったはずの相棒の名前、現在ルーディックが器としている者の、容姿が変化する以前の名を。

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