断罪の瞳3《4》


 五年前に没したゲルバの前国王オフタルは、良き君主という評価を生前民からも臣下からも受けた事はなかった。前例のない事柄に着手するのを極端に恐れ、変革を好まず、現状が維持されればそれで良い、という男だったからである。
 現実には、その何もせぬ姿勢ゆえに貧困層は拡大し、人身売買は公然と行われ、寒さや飢えによる死者の数も増える一方だったのだが、オフタルはそうした事実を直視も認識もしなかった。民から寄せられた苦情や嘆願をまとめた役人の報告書は、単に紙の上に記された文句の羅列、各領地から提出される半年毎の人口変化はただの数字の羅列として脳内処理され、瞬間忘却の結果何の感慨も彼に与えなかったのである。
 自国の抱える問題を見ようとしないから、改善もなされない。政治の中心に居ながら、政務を怠る。これでは君主として敬う事などできないと、近臣が判断したのは当然の成り行きである。オフタル自身、それを許容し敢えて咎めなかった。
 もっとも彼がそうした態度を取ったのは、寛容というより怠惰、人心や政治への無関心からであったが。
 それでもオフタル亡き後、近臣達や各地の領主は思ったのだ。何もせぬ王でも、他人を積極的に害しないだけまだましだったのだ、と。
 ゲルバ前国王オフタルは、期せずして死後、民や臣下から慕われ、もっと生きていてほしかったと願われる事になる。その後を継いだ息子オフェリスの、他者に対する積極的な攻撃と、政治改悪によって。


 目覚めた直後、ルノゥことルノアード・ロー・ファウランは自分に何が起きたのか全くわからなかった。視界は真っ暗で頭が重く、体は酷くだるい。吐き気もする。
(そうだ、私はカザレントへ逃げるつもりで山越えをしようと……)
 そこを追っ手らしき妖獣に襲われた。二匹目を倒したところで力を使い果たした妖獣ハンターの少女。自分は甥であるローレンを逃がそうとして妖獣の牙を肩に受け、……喰われたはずだった。確かに喰われたのだ。
「ローレン?」
 その名を口にし呼んでみる。幸い眼と違って喉の機能は正常に作動していた。声は発せられた。が、答えはない。気配も感じない。自分を小犬のように慕ってくれた少年はここにはいない。逃げ延びたのか、それとも捕らわれたのか、どちらにせよ近くにいない事は確かであった。
(無事に逃げてくれたなら良いけれど……)
 ここがあの雪山ではない事を確認して、ルノゥは思う。背中に感じるのは凍った雪のザスザスした感触ではなく、滑らかに磨かれた床の固さと冷たさだった。そこから推測できるのは建物の内部、それもかなりの地位にある者の住む建物の中に自分はいる、という事だった。継ぎ目を感じさせない床の滑らかさは、大理石を使っている事を示している。そんな贅沢がゲルバで許されるのは、王家と公爵家くらいなものだった。

(となると、ここはもしかして王宮?)
 そこまでルノゥが考えた時、不意にその存在は現れた。唐突に感じた気配、足音、衣擦れの音と声。
「なぁんだ、意識が戻ってたの? じゃあ眼の方も返してあげなきゃね」
 小鳥を思わせる、少年特有の高い声。どこか冷たさを秘めたその声音に、ルノゥは不安を覚え身を竦ませる。そして蘇った視界に映ったのは、人間ばなれした華やかな美貌を持つ少年の顔と、金箔に覆われ彫刻を施された壁と柱、華麗な装飾がなされた天井、そして正面の台座の上にある巨大な彫像。
 甲冑を身に纏った男が剣を手に、馬の背に跨っている。その足元には今にも蹄にかからんとしている縛られた捕虜達の、苦悶する姿があった。
 それが四代前の国王の戦勝を記念して造られた像である事に思い至ったルノゥは、ここが正真正銘王宮の一室であると確信する。だが、妖獣に喰い殺されたはずの自分が何故生きてここにいるのかは、まだ謎であった。
 そんなルノゥの思いを見透かしたように、少年にしか見えない人物が話しかける。
「確かファウラン公爵の異母弟だったよね。ルノゥって呼ばれてたっけ。僕の事、知ってる? 一度も王宮に来てないから知らないか。なに、その表情。あ、もしかして生きているのが不思議なの? まぁそうだよね。大変だったんだよ、手足を喰われた身体を修復するの。公爵と違って完全に死んではいなかったから何とかなったけどね。ホント、あの王様気紛れで困っちゃうよ」
 一気にそれだけ喋ると、少年は舌で唇を舐める。
「言っとくけど、王様は親切心で生命を助けた訳じゃないからね。わかる? きっとすぐ死んだ方がましって嘆くよ、君は」
「……そうでしょうね」
 一度は喰われて失った手足を動かそうと試みつつ、ルノゥは答える。己の意におとなしく従わぬ臣下を疎んじ妖獣に襲わせ、その家族までも皆殺しにしようとした男が自分に情けをかける訳はない。生かして捕らえろと命令を変更したのなら、そこにはそれだけの理由が、良からぬ目的があるはずだった。
「ふぅん、一応覚悟はできてるみたいだね。あぁ、その手足はあまり役に立たないよ。そちらの細胞から作り出したものだから一応神経は繋がってるし動くけど、日常活動に支障ないようには作っていないから。王様の意向でね。逃げられちゃ困るから、まともに立ったり歩いたりはできないようにしてあるんだ」
「………」
「さてと、気は進まないけど、そろそろ君が目覚めた事を伝えなきゃまずいかな。ねぇ、親切心から忠告しとくけど、王様がここに来る前に舌でも噛んで絶命してた方が救われるよ、ルノゥ。僕ならそうするね」
 力が全く入らない腕に苛立ちつつもようやく上体を起こしたルノゥは、言われた台詞に眉を寄せ少年を見つめる。この人物が誰であるかを薄々彼は察していたが、それでも念の為に問いかけた。
「そうおっしゃるほど陛下と親しくあられる貴方は、何者ですか?」
 振り向いた少年は一瞬ポカンとし、次いで身を折り笑った。こんな愉快な言は初めて聞いた、というように。
「母親が違うとはいえあの公爵の弟ならもうわかってると思うんだけど。それともわかってて聞いてるのかな? まぁ自己紹介はまだだったね。僕はキオだよ。ブラン・キオ。王様の妖術師さ、今はね」
 先の事はわからないけど、と呟いて少年としか見えぬ外見を持つ妖術師は姿を消す。現れた時同様、唐突に消え失せた相手にルノゥは慄然となる。
(あれは……人じゃない。人ではありえない)
 直感だった。あんな者を側に置き、寵愛しているという現国王オフェリスとはどういう人物なのか。全うな精神の持ち主でない事だけは、容易に想像できる。殺された兄にとっては従弟に、自分にとっても従兄に当たる存在だか、とても会いたいとは思えない。
 舌でも噛んで絶命していた方が救われる、と妖術師は言った。嘘ではなかろう。あの温厚で聡明な兄を毛嫌いし、己の意見に従わないからと殺させた男だ。どんな目にあわされるかわかったものではない。
 戦に妖獣を投入し生きた人間を餌に与える、こんな真似を続ければゲルバは非人道的な国と他国から非難を浴びる。たとえ戦に勝利し領土を広げたところで、いずれは孤立し苦境に立たされるだろう。兄は、会議の席でそのように主張したという。それだけで王は、妖獣に襲わせ喰い殺させたのだ。その上家族までも皆殺しと決め、実行に移した。
(逃げなければ)
 そう、ルノゥは考える。死のうとは思わなかった。少なくとも、我が身を盾にして逃がしたローレン、兄が自分に託してくれた子供の無事を確認するまでは。
 だが、現在の彼の手足は飾り物に等しく、移動は肩と顎を使っての前進しかできなかった。そして室内は広く、隣室までの距離は果てしなく遠く感じられた。
(逃げなければ)
 焦る心が繰り返し叫ぶ。不吉な足音が近づいてくる。
(逃げなければ、ここから!)
 そして、扉は開かれた。


「だからさっさと死んだ方がましって言ったのに。僕はちゃんと忠告したよ、ルノゥ」
 捕らわれた囚人の、血の気の失せた顔を眺めながらブラン・キオはクスクスと笑う。死んだらローレンとかいう甥を代わりに連れてくる、とオフェリスに言われ自害すらできなくなった青年の膝の前には、悪臭を放つ異様な物体が転がっていた。
 それは、激しい殴打により一部が窪んだ人の髑髏である。しかも普通の状態に置かれた髑髏ではない。表面が人糞に覆われ、尿で濡れた代物である。
 ルノゥの異母兄であるファウラン公爵は、妖獣によって散々殴られ、生きたまま喰われた上に、死後も頭部を王の携帯用便器として使われたのであった。
 死者をそこまで辱めなくても良いではありませんか、というルノゥの抗議は一笑にふされ、顧みられる事はなかった。それどころか、オフェリスは言う。死んだ者はこの扱いに対し何も文句を言わぬから面白くない、だから今後は、奴と同じ血を引くその方に代わってもらおうか、と。
「なに、安心するがよい。口を便器代わりに使われたところで死にはせぬとも。予は我が妖術師に命じ、その方の身体を変化させた。そうだな、キオ」
 視線を向けられ、ブラン・キオは唇の端を上げる。
「ご要望通り、大抵の毒素は中和させる体質に変えてあげたよ、オフェ。だからそう簡単には死なないと思う。でも窒息死する可能性はあるから、量は加減しないとね。そっちの方までは僕も責任取れないから」
「心得ておこう」
 舌なめずりしながら、ゲルバの現国王は答える。そして蒼白な面持ちのルノゥ、自身の新しい生きた携帯用便器となる者の髪を掴み、顔を上げさせた。
「兄に似ず、綺麗な顔をしている。その顔が汚物にまみれる様はさぞ見物だろうて」
 悪趣味だなぁ、という眼でキオはオフェリスを見る。出会った頃は、性格に問題はあってもまだ肉体はそれなりに鍛えられていた。顔もまぁ、そこそこだった。しかしそれも、ここ一年余りの乱れた生活でかなり衰えが見え始めている。
 余分な脂肪がついた顔と体、不健康な肌の色。まるで歩く溺死体みたいだよねー、と少年の外見をした妖術師は容赦のない評価を下す。
 幸い、最近は二年前のように同衾を求められる事がないから放置していたが、もし以前同様関係を求められた日には迷わず抹殺処分するだろう。ブラン・キオにとってオフェリスはその程度の存在であった。国王という地位にあり利用価値があるから側にいる。命令も退屈しのぎに一応聞いてはやる。けれどいつでも切り離せる、そんなものでしかない。
 オフェリス自身はキオを己に従属する者と見なしているが、当のキオにそうした感覚はなかった。そもそも人間如きの臣下に納まる気など、最初からないのである。
(脆くて弱くて自分が見えてなくて、権力なんて当てにならぬものに執着するどーしようもない奴等だし)
 そんな輩が多いんだよね、と彼は見做していた。そうした連中を振り回すのも、人間達の欲が絡んだ戦に妖獣を投入し加わるのもそれなりに楽しかったが、いい加減飽きてきた感もある。それでもまだここに居るのは、他に行くあても帰る場所もないせいだ。
(だってもう彼はいないんだから)
 かつて自分の家だった館、そこには今、顔も知らない誰かが住んでいるはずだった。そして自分を待っている存在はいない。
(戻ったって仕方ないよね)
 唯一執着し守りたいと願っていた相手は、自分を庇って目の前で殺された。あれ以来、ブラン・キオにとって世界は全く意味のないものになっている。
 最初は、己の力不足が彼を死なせたのだという思いもあって、強くなろうと努力した。能力を高めるべく頑張った。けれど、ある日急にそれらが虚しく感じられたのだ。どんなに強くなったところで、もう自分に守るべき者はいないと気づいた為に。
(ここは彼を必要ないと否定した世界。彼がいない世界)
 だったら壊れちゃうといいさ、とキオは呟く。自然に壊れないのなら、僕が滅ぼしてあげるよ、と。
「!」
 漂った臭気にブラン・キオは振り向き、そして眼を逸らした。兵士達に押さえ込まれたファウラン公爵の異母弟が、口をオフェリスに初使用されている。誰も、その行為を咎めはしない。止めもしない。皆、我が身が可愛いのだ。
(普段は善人面してるくせに人間ってば)
 心底嫌気がさして、キオはその場から移動した。よく同族相手にあんな真似ができる、おまけにそれを見物できるね、と。
(そりゃ僕だって同族の心臓抉り出して食べたけどさ、あれは強くなるって目的の為だったんだし、便器代わりに口を使うよりは遥かにましだと思うよ、うん)
 そうして彼は、自分が手足を修復する際眼にした青年の体を思い出す。人為的に作り替えられた肉体を。
 あれは、生まれつきでは決してなかった。残された傷跡がそれを物語っている。五体満足で生まれてきたのに、成長段階で無理矢理不具にされたのだ。
 ルノアード・ロー・ファウランは男であって男でない。少なくとも、男性としての機能を持ってはいない。子孫も残せない。ファウラン公爵家の血は間違いなくこれで絶えた事になる。
 誰がそのような真似をしたかも、キオには想像がついた。ファウラン公爵の生母は、夫が自分以外の女に産ませた子の人権など認める気はなかったのだろう。むろん、その子を不具者に変え死ぬまで独身を強いる事にも、何ら罪の意識を感じなかったに違いない。
(だのにあの人間、自分の不幸なんか少しも考えず血も繋がらない子供の心配ばっかりしてるんだから。どうかしてるよ、絶対)
 その為に、自害すら思い止まっている。生きたまま便器代わりに使われると知らされてなお。
 カザレントとの国境に向かっているローレンの様子を見てみようか、とブラン・キオが思ったのは、そうしたルノゥの境遇への同情からだったかもしれない。イシェラの王女が産んだ甥っ子が亡くなってしまえば、あの不運な青年は死ぬ自由を与えられ、生き地獄から逃れる事ができるのだから。



◇ ◇ ◇



 それは追っ手ではなく、単に餌を求めて人里へ下りようとしていた、野性の妖獣達だった。だから、出会ってしまったのは不運としか言い様がない。
 ゲルバは既に、国境近くへ配備していた妖獣部隊を撤収させていた。カザレントの大公の提案に応じる意思があると示す為に。食料も底を尽き、追っ手が接近するのを恐れてろくに休息も取らず歩き続けるという、大人でもきつい強行軍。空腹と疲労でフラフラになりながらどうにか山越えを終えたアディスとローレンが、その直後妖獣と遭遇したのは、本当に不幸な偶然だったのだ。
「……アディス」
 徐々に遅れ出したローレンが、力尽きて膝をつく。
「ごめん、アディス。置いてって。もう走れない」
「ローレンっ!」
 他の妖獣の気配がないか探りながら先を走っていたアディスは、その声に慌てて振り向き駆け戻る。
「馬鹿言ってないで立ちなさいっ! あたしはハンターよ。守るべき相手を置き去りにして逃げるとでも思ってるの? さぁ、立ってっ! ここまで来たんだからあと少し頑張るのよ、約束でしょ?」
「アディス」
 青ざめたローレンは、苦しげな顔に笑みを浮かべ首を振る。
「ごめん。やっぱり足手まといになっちゃった」
「何を言って……」
 アディスの言葉はそこで途切れる。彼女が護衛を任された少年、ローレン・ロー・ファウランの背中にいつの間にか生えていた物。黒ずんだ緑色の、厚い粒状の皮膚。一列に鋭い刺が並んだ妖獣の腕。それ自体で一つの生き物のような腕は、持ち主の体を離れ獲物の背を直撃し、衣服も皮膚も突き破って爪を肉にめり込ませたのだ。
「ローレンっ!」
 アディスは口を押さえ、たまらず悲鳴を上げる。少年の背中に取りついた妖獣の腕はプルプルと震え、更に内へと沈み込んでいく。ローレンの体は傾き、口からゴポリと血が吹き出した。
「いやぁ! ローレンっ、しっかりしてっ! 死んじゃ駄目よ、お願い、しっかりしてぇ……」
そのまま、声は嗚咽に変わった。自分を抱きしめるアディスのぬくもりを感じながら、霞む目でローレンは近づいてくる妖獣達を見る。
「ア……ディ……」
 逃げて、と伝えたかった。けれどそれはもはや、声にならなかった。ローレンの視界は急速に暗くなり、意識はそこで途絶えた。


「あーららら。なーんか別に食べられなくてもほっとけばこのまま死にそうだよね、あのローレンって子。放っておこうかなぁ。関わると面倒そうだし」
 姿と気配を消した状態で、空中からこの惨劇を眺めていたブラン・キオはのんびりと呟く。地上で何が行われていようと、彼にとってはしょせん他人事だった。自分と異なる種族の見知らぬ子供が妖獣の餌にされたところで、何の痛みも感じない。
 彼はただ、傍観するのみだった。ろくに力もないとわかる妖獣ハンターの少女が、飢えた妖獣に囲まれながら虚しい抵抗を試みる様を。


 呼吸をするのも苦しかった。脱力感が、全身に広がっていく。体力が尽きようとしているのを感じ、アディスはギリッと唇を噛んだ。まだ倒れる訳にはいかない、と。
(あたしはそりゃ、駆け出しの妖獣ハンターで大した力もないけど)
 既に一度、雇い主のルノゥを本人の命令とはいえ見捨て逃げた。そうしなければローレンを守る事ができないからと、ルノゥを見殺しにした。けれど今、そうした犠牲を払ってまで守ろうとした相手の生命は、儚く消えようとしている。
(ここで自分だけ生き延びたいなんて思わない。二度も守れないまま逃げたりはしない)
 あんな後味の悪い思いは、後悔の念に苛まれるのはもう御免だった。ハンターとしての能力が低いのは、力に目覚めたばかりだから仕方がない。経験が足りないのも妖獣に対する知識の無さも、今はやむを得ない。けれど卑怯者にはなりたくなかった。
 自分はハンターなのだ。妖獣ハンターの任務は、雇い主である人間を守る事。それが叶わぬ場合は、妖獣を一匹でも多く倒す事が責務となる。たとえそれが命と引き換えであっても。
(負けたくない、あたしは負けたくないっ。やられっぱなしで終わりになんか、断じてするもんかっ!)
 周囲を囲んだ妖獣は、自分達の優位を悟ってアディスをからかうような動きを見せる。ローレンの背中に刺さっていた腕は、いつの間にか持ち主の妖獣の元へ返り何事もなかったように肘と繋がっていた。
 その気になればこの妖獣は、いつでも取り外し自由な腕を使い、獲物であるアディスを襲わせるだろう。ローレンへそうしたように。
(神様、力を)
 爪が、頬を裂く。鋭い牙が、肩に掛かった。
(力を! こいつらの一匹でも倒せる力をあたしに。それが叶わぬのならせめて、せめてローレンだけでも助けてっ。お願い、死なせないでっ!)
 最後の気力を振り絞り放った力は、肩に食いついていた牙を引き抜かせ、数歩妖獣を後退させた。が、そこまでだった。アディスはガクリと膝をつき、ローレンの傍らに倒れ伏す。体力が残っていない状態で、限界を超えた力を放出したのだ。もはや彼女は、指一本すら自力では動かせなかった。


「ローレン……」
 呼びかけても、仰向けに伏した少年は反応しない。凍った雪の上に投げ出された手は動かず、手袋と袖口の間で僅かにのぞく皮膚は、血の気を失い変色しつつあった。
「………」
 アディスの眼に、くやし涙が浮かぶ。どうして自分は今大人ではないのか、と。体力も力もない己が情けなくて、許せなかった。努力をしても何にもならない現実。それをこんな形で見せつけられ、思い知らされた事実が我慢ならない。だったら自分は、何の為にハンターの素質を持って生まれてきたのか。
(誰か……)
 心の内で、彼女は叫ぶ。声はもう出なかった。
(誰か聞いて、あたしの声を聞いて!)
(この悔しさを、憤りを誰か受け取って。忘れないで!)
(こいつらを倒して。仇を討って!)
 妖獣の吐く息が肌を掠めた。喰われる、とアディスは眼をつむる。ふと、最後に見たルノゥの姿が脳裏に浮かんだ。あの人と同じ痛みを味わって死ぬんだわ、と思うと少しだけ心は慰められた。ほんの少し、ではあったが。

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