断罪の瞳3《3》


「単刀直入に言う、呪術師殿。訪ねてきたお客人に是非とも会って話を聞き、その任務に協力してほしい。カザレントの民として、この城塞の責任者として、切にお願いする」
 いきなり部屋を訪れ用件を切り出したザドゥに、蜘蛛使いは絶句した。ルーディックに会いたい、会えない、肌に刻まれた模様を見られたくないと悶々としていたところへ押しかけて来てのこの台詞である。いったい何が起こったのかと、一瞬らしくもなく頭が真っ白になってしまった彼であった。
「あの……、私は会わないと先刻はっきり申し上げたはずですが」
 それでもどうにか気を取り直し、拒絶の言葉を口にしたのだが、ヤンデンベール城塞の責任者は引く気配を微塵も見せず、不敵な笑みを口許に浮かべている。
「会いたくないという事情に関しては、お客人の方から聞かされた。過去、任務の遂行に当たって彼の家族を巻き添えにし、死なせてしまったそうだな」
「!」
 驚愕に、蜘蛛使いは眼を見開く。
「……ルーディックがそう言ったのですか?」
 ザドゥは頷いた。
「ああ、そうした貴殿の事情については気の毒に思う。会いたくないという気持ちもわかる。だがな、呪術師殿。向こうはそうした恨みを抜きにして貴殿に協力を要請する為ここに来たのだ。それを会わずに帰れというのは酷ではないか? ルーディック殿とて好んで仇と会いたい訳ではなかろう。自分の妻子が殺される原因となった命令を出した相手に仕えたいとも思ってはいなかろうさ。だが、人質を取られた身で逆らう訳にはいくまい。貴殿も複雑な心境とは思うが、ここは一つ譲歩してもらえんだろうか」
「……人質?」
 蜘蛛使いは眉をひそめる。人質とは誰の事なのか。妖魔界でルーディックが好意を持っている相手と言えばせいぜいマーシアぐらいなものだが、まさか彼女ではあるまい。いくらあの王が破天荒な性格でも、お気に入りの女性に対してまで危害を加えるとは思えないし、それをルーディックが知っている以上、マーシアは人質になりえない。断じて。
 しかし、彼がそうした冷静な分析ができたのも、次のザドゥの台詞を聞くまでだった。
「確か身内に当たるとか言っていたが……、レアールという名前だったかな。呪術師殿は知ってるか?」
 血の気が、今度こそ完全に引いた。レアール? 消滅したのではなかったのか? 何故あれが人質になる?
「何故……」
 唇から辛うじて漏れたのは、その疑問符のみだった。隻眼のザドゥは首を傾げる。
「俺に聞かれても、残念ながら答えようがないな。それについては直接お客人と話すべきじゃないか?」
「………」
 蜘蛛使いは暫し沈黙する。確かにこれは直に話をするべき事柄らしかった。だが会うとなるとこの肌に刻まれた模様を見られてしまう。それは絶対に避けたい。となると残された方法は一つである。
「彼に目隠しをして、ついでに両手首を縛った上でなら会っても良いのですが。あ、どうせなら全身縛って運び込んでくれると嬉しいですね。抵抗できないように」
「……呪術師殿」
 思い切り眉を寄せ、低い声でザドゥが唸る。蜘蛛使いは肩を竦めた。
「冗談ですよ。本気にしないで下さい。ところでこの部屋の隣は空いてますか?」
「ん? ああ、使ってはいなかったな」
「なら、ルーディックの部屋として使わせて下さい。どうせ当分の間はここに居させるつもりなのでしょう?」
「それはそうだが、彼と会ってくれるのか?」
 蜘蛛使いは曖昧に笑う。
「……そのうち気が向いたら、ですね」
 隻眼のザドゥは納得できない表情だったが、ここは妥協するしかないと割り切ったらしい。こめかみを指先で押さえた後、承諾の意を伝えた。
「で、ルーディックは今どうしてます?」
 自分の意向が受け入れられて気分が良くなった蜘蛛使いは、配下の蜘蛛を放って妖魔界からの使者の様子を覗き見ようと考え、城塞責任者に尋ねてみた。軽い気持ちで質問したのだが、問われたザドゥは半眼になって溜め息をつき、嫌そうに背中を向ける。
「あのお客人なら、服装が気候にそぐわないのでこの際兵士の服でも良かろうと着替えに兵舎まで連れていったんだが、そこで食料担当の者から地下貯蔵庫にしまってあるりんごについての相談を受けてしまってだな……」
「は?」
「貴殿も食した事はあるだろう? サラダとかデザートに付いてくるあの酸っぱい小さな奴だ」
 ああ、と蜘蛛使いは頷く。
「あの食いでがなくてやたらに酸っぱく、おまけに固くて形の悪い、生でも焼いても美味しくない果物ですか。あれが何か?」
 ザドゥはガックリと肩を下ろす。何もそこまで言わなくても、という表情だ。
「呪術師殿……、あれでもこの地方の人間にとっては大切な農産物なんだ。冬にかけての唯一の財源を我々の為に無償で提供してくれたのだから、その言い方は少し……その、何とかならんかな」
「好意でくれた物にしろ、不味いものは不味いですよ。それとも貴方はあれを美味しいとでも?」
「……いや、俺もあまり好きではないのだが」
 農家の方々に申し訳ない、と思いつつもザドゥは答える。実際、兵士の間でもあのりんごは不評だった。地元の人間すら、今年は出来が悪い、味が落ちているとぼやいている。 形が悪いのは昨年の天候不順や収穫前の雹の被害の為だが、どうやら領主は売り物にならないと判断した物ばかりを選び寄贈したようだった。
 無料で提供された物に文句を言ってはいけない。そう、ザドゥは自戒している。されど昨年の暮れ、その売り物にならないあちこちへこんだりんごが大量に届けられた時には、頭を抱えたくなったのも事実である。
 取り合えず、傷の付いている物とそうではなく単に形が悪いだけの物とに分類して保存したものの、りんごを使った料理など炊事に回された兵は知らない。お菓子を食べた事はあっても、作り方に関する知識はない。
 結局四等分に切った物を生で出すか、細かく刻んでサラダに使うか、さもなくば丸ごと天板に乗せて焼いた物を食卓に出すか、である。不味い物をろくに調理もせず出すのだから、当然それは不味いままであり、消費量は芳しくなかった。たまに村から奉仕にやってくる女達がパイやら甘煮やらを作ってくれるのだが、それでも減る量は多くなく、りんご専用の貯蔵庫はふさがったままだった。
「とにかく、その貯蔵していたりんごの一部が腐ってきているので、処分しても良いかと担当者から尋ねられたのだ。ところがそれを聞いたお客人が勿体ない、俺に任せろと傷んだりんごを炊事場に運ばせて……」
「はぁ……」
「喜々としてお菓子作りに精を出している。覚悟しよう、呪術師殿。今夜の夕食にはりんごを使ったお菓子がたっぷり出るはずだ。自分の作った物を口にするのが心配なら全種類目の前で毒味してやるとお客人は言ってるが、そういう問題ではない。あの量をどうやって処理するつもりなんだか……。それにしても見かけによらん人だな」
「まぁ……そうですね」
 それ以外に何と言って良いのか蜘蛛使いにはわからなかった。取り合えず、当初の予定通り蜘蛛を放ちその目を通してルーディックの様子を覗き見る。
 城塞内の炊事場が現実の光景の向こうに映った。小さな窓が一つしかない為、内部は昼間でも薄暗く壁は煤けている。換気も良いとは言い難い。そんな中で、着替えた大きめの兵服の裾を縛り袖を捲ったルーディックは、束ねた長い髪を揺らしながら忙しく動き回っている。
 ザドゥの表現は正しかった。蜘蛛の目を通して見る同僚の様子は、まさしく喜々としていた。りんごを輪切りにし砂糖をまぶす。衣で包んだりんごを油の煮立った鍋に放り込んではサッと揚げる。乱切りにしたりんごに砂糖を加えて炒め、小麦粉をふる。
 クルクルと、少しも休まずルーディックは動く。妖魔界では一度も見せなかった楽しげな顔で、山積みされた大量のりんごを捌くべく動く。蜘蛛の目を通して見ながら、蜘蛛使いは切なくなった。もう二度と見られないと思っていた笑顔を、今ルーディックは浮かべている。けれど、自分が覗いていると知ったら最後、あの笑顔は消えるだろう。
 自業自得だとわかっていても、やるせなさは残った。国境周辺の偵察の為に現在城塞を留守にしている赤毛のハンターは、ただ一度の謝罪で己の過去の行いを許したが、相手がルーディックの場合それでは済まない。済む訳がない。
 単にその肉体へ暴行を加えただけではないのだ。凌辱しただけでもない。妻を妖獣に犯させた。目の前で妻子を喰い殺させた。しかもそれらの光景を無理矢理見せつけながら、貴方のせいですよと囁いたのだ。貴方が従わないから貴方の妻と子は、村人達は殺されるのだと。
 そして百年後に再度味わせた悪夢。自分が育てた妖魔の肉体を目の前で乗っ取られる、というのはどのような精神的苦痛を人にもたらすのだろう。更に育てた相手の姿をした仇によって攻撃され、幾度も死の縁をさまよう程の拷問をその身に受けた挙句、さんざん嬲られ正気を失い迎えた死。それを記憶している彼は、自分をそのような目にあわせた存在に対し、どういう感情を抱くだろうか。
 謝って許されるものではなかった。己がルーディックの立場だったら、これだけの事をされた上で謝られた日には、その相手をぶち殺したくなるだろう。謝って済むような軽い罪か、と。
 ザドゥが部屋を去った後も、蜘蛛使いは炊事場のルーディックの姿を眺め続け、椅子に腰をおろし物思いに沈んだ。クルクルと、クルクルとルーディックは働く。人間であった頃のように楽しげに。手伝い兼見張りの兵士達にも笑いかけ、テキパキと指示しては休みなく動き。
 と、不意に彼は足を止め視線を向ける。自分に、否、正確には自分の眼の代わりを務める蜘蛛に対して。
 気づかれたか、と蜘蛛使いは緊張する。ルーディックの顔から笑みが消え、僅かに眉が寄った。ほんの数秒、静止して蜘蛛へと注ぐ視線。蜘蛛は動けなかった。蜘蛛使いも、同様に動けなかった。己が蜘蛛を通し見つめられている気がして。
 そして唐突に、配下の蜘蛛は室内に戻される。明らかにルーディックが跳ばしたのだ。蜘蛛使いの手に乗った小さな蜘蛛は、その身に直接送り込まれた声を主に伝える。覗き見は感心しないぞ、蜘蛛使い、と。


 夕食に添えられた様々なりんごの菓子は、どれもヤンデンベール城塞の兵士達から絶品の評価を受け、たちまちのうちになくなった。その事実は、現在の姿を見られぬようルーディックが食堂から去ったら食事に行こうと決めて、常より遅い時間帯を選び部屋を出た蜘蛛使いを脱力させ、暫しテーブルに突っ伏させる。
 彼は彼なりに、食べるのを楽しみにしていたのだ。菓子とはいえ、ルーディックの手作りなのだから。個人的に作ってくれる可能性など皆無である以上、これが最初で最後の機会かもしれなかったのである。だのに全て食べられてしまって、一個も残っていないと言うのだ。
「もう少し早く来て下されば、ゼリーぐらいなら残っていたかもしれないんですが……」
 後片付けの為食堂に残っていた兵士が、申し訳なさそうに呟きながら空になった皿を重ねていく。りんごの蒸しパンが乗っていた皿、タルトが乗っていた皿、プディングが乗っていた皿にパイが乗っていた皿。
 それらを一口も食する事ができなかった蜘蛛使いは、一気に食欲が失せてスープだけを胃に流し込むと食堂を後にした。
(あんなに楽しそうに作っていたのに……)
 味の方もさぞかし良かったに違いない。でなければ一個も残らず食べられてしまう訳がない。だいたいマーシアとて言っていたではないか。自分の料理の腕は教育係のラディーヌ仕込みだけど、正直な話、ラディーヌよりはルーディックの方が料理上手だった、と。 それを食べ損ねてしまったのか、と思うとガックリと肩が下がる。未練たらたらで歩いていた蜘蛛使いは、注意力がかなり散漫になっていた。そのせいだったのだろう。焼き菓子の甘い香りに気づくのが遅れたのは。
 部屋のある棟の廊下に足を踏み入れたところで、亜麻色の髪の妖魔は歩みを止める。壁に備えつけられた燭台の揺れる明かりに照らされて、部屋の扉前に立つ人影が見えた。束ねた長い髪、閉じた瞼、腕に抱えた大きな盆の上には、いくつかの菓子が乗っていた。
「蜘蛛使い」
 立ち止まり近づこうとしない彼に、待っていた同僚は目を閉じたまま顔を向け、呼びかける。
「レアールでないとわかった以上、二度と俺の顔なぞ見たくはない、と言うなら仕方がないが、そうではなくあの王の悪さが原因で避けているなら、こうして目を閉じているから取り合えず部屋に入れてくれないか。模様を肌に刻まれた件は王から聞かされて知っているが、それでもお前は見られたくないだろうからな。俺なりに気を使ってみたんだが、駄目か?」
「……ルーディック」
 その声に誘われたように、蜘蛛使いの足が動く。一歩、また一歩と。気配を感じてか、ルーディックの口許に笑みが浮かんだ。
「俺に会いたくなくて、食堂に来なかったんだろう?」
 気配が更に近づくと、菓子の乗った盆を彼は蜘蛛使いの方へ差し出す。
「思ったより好評だったんで、お前が来る前になくなるかもしれないとこれだけは確保しておいた。もしもこれらを食べてなくてまだ胃に余裕があるなら、今から平らげてくれ。せっかく作ったんだ。捨てたくはない」
 盆を受け取った蜘蛛使いは、扉を開けルーディックを室内に招き入れながら戸惑いがちに問う。私が食べても良いのですかと。かつて人間だった男は、その質問に呆れたような声を返した。
「蜘蛛使い、言わせてもらえば仇に自分の作ったお菓子を目の前で食べられるよりも、頑張って作った物を食べてもらえず捨てられる方が、よっぽど不愉快だぞ」
「……言われてみればそうですね」
 蜘蛛使いは頷き、テーブルに置いた盆の上から試しにドーナツ状の焼き菓子を一つ摘んで食べてみる。ふっくらとした柔らかな衣の感触、芯のカリッとした歯ごたえと適度な甘み、香ばしさ。原料の不味さを知ってるだけに、それは信じられない美味しさだった。たまらず二個目を口にする。今度のも、同じく美味かった。三個目に手を出したところで、ルーディックの存在を思い出した蜘蛛使いはハッと視線を向ける。
 人間の魂を持つ同僚は、律儀に約束を守り目を閉じたまま微笑んで立っていた。
「どうやらお気に召したようだな。次はりんごのゼリーも試してみてくれないか? 夏向けの菓子だから皆なかなか手を出してくれなかったが、食べた兵からは割と好評だった」 そう勧められた蜘蛛使いは、ドーナツ状の菓子を皿に戻してゼリーを一匙すくい口にした。プルンとした感触のゼりーは、絶妙の甘酸っぱさを口内に残し喉を通過する。先程の焼き菓子よりも、彼の好みに合う味だった。蜘蛛使いは夢中でそれを平らげ、器を空にしてからようやくルーディックを椅子に腰かけさせた。相手を立たせたままだ、という事すら食べてる間は思い出せなかったのである。
「美味しかったか?」
 答えを確信した、確認の為の問いに蜘蛛使いは躊躇なく頷き、相手が目を閉じている事に気づいて言葉で応じる。最高に美味しいですよ、と。
 高揚した気分で、これなら毎日でも食べたいですねと言いかけた彼は、ルーディックの次の台詞で急速に心を冷やされた。
「果物を使ったゼリーは、ケアスのお気に入りだったんだ。中に入ってる魂が別でも、食べ物の好みは変わらないようだな。安心した」
「………」
 楽しげに語る相手の様子に、蜘蛛使いの感情が沸騰する。あぁそうか、この菓子は私ではなくケアスに食べてもらいたかったのか、と。
「私の為に持ってきてくれた、という訳ではなかったようですね。まんまと騙されましたよ、ルーディック」
 言うなり、蜘蛛使いはテーブルを蹴り倒す。盆の上に乗っていた菓子は床に飛び散り砕け、あるいは転がった。
「蜘蛛使い?」
 物音にギョッとしてルーディックは眼を開き、何が起きたのか確認しようと床に視線を向けた。だがその眼を開いたという事実が、より蜘蛛使いを逆上させる。
「眼を……開けましたね」
「え?」
「閉じていると約束したはずなのに……!」
「……蜘蛛使い」
 茫然と、ルーディックは蜘蛛使いを見つめる。顔に首に手に、その肌に刻まれた、らくがきのような模様。約束は破られた、見られたくなかった姿は見られてしまった。ならば自分も、妖魔界で誓った言葉を守る必要性などありはしない。そう、蜘蛛使いは結論を下す。己の惨めさを誤魔化す為に。
 貴方が嫌がる間は抱いたりしませんよ? そんな約束は無効である。ルーディックは眼を開いたのだから。この姿を見てしまったのだから。
「蜘蛛使い!」
 無言で、配下の蜘蛛の中でも中型のものを蜘蛛使いは放つ。察して逃れようとしたルーディックの動きは、足元の菓子を踏むのをためらった為に一瞬遅く、妖魔の蜘蛛の糸は彼を捕らえ、獲物として引き倒した。
 中型の妖蜘蛛達は、標的の体に取り付くや全身に散らばって、大量の糸を吐き出し巻き付かせその自由を奪う。腕が、足が、眼が、白い糸で覆われていく。糸を吐き続けた彼等は、獲物が動けなくなったと知るや口を開き、かぶりついては生気を吸い取った。
 亜麻色の髪の妖魔はそうした光景を見下ろしながら、糸でグルグル巻きにされた相手が充分弱ったと見なすや蹴りを入れ、仰向けにし体の一部のみ糸から解放すると、外気に触れさせた。
 糸の牢獄から自由になった鼻と口が、苦しげな呼吸を繰り返す。生気を吸われ弱った体は、起こった事態に対処しようという素振りをまるで見せない。
 蜘蛛使いは口許を歪め、糸を操作して獲物の体勢を変えると、その足首を掴んだ。
「貴方が悪いんですからね、ルーディック」
「なん……」
「貴方が悪いんです。私は貴方の育てたケアスじゃありませんが、今は私だけが世界でただ一人のケアスです。それを即刻認めてもらいたいですね。おまけに貴方は目を開いた。閉じていると約束して部屋に入ったにも関わらず」
「それはお前がテーブルを倒して菓子を床に落としたりしたからじゃないか。あの場合仕方ないだろう。不可抗力だ、蜘蛛使い」
 もっともな反論、ではあった。ルーディックにしてみれば、当然の台詞である。が、それに対する同僚の返礼は、力任せに見舞う拳、だった。
「がっ……」
 頬がへこみ、折れた数本の歯が血と共に喉へと流れ込む。ルーディックは激しく咳き込み、歯の欠片と血を石造りの床へ吐き出した。
「そっちが約束を破った以上、私も守ったりはしませんよ。それともう一つ、私は蜘蛛使いの名称で呼ばれるのははっきり言って嫌いです。王は、器をコロコロ変える私に名前など意味がないと考えてるようですが、同僚である貴方にはちゃんと名前で呼んでもらいたいですね。現在使っている肉体の名前で」
「そんな無理を……ぐっ!」
 ルーディックの声が途切れる。糸で視界を奪われ、四肢を拘束された状態の彼は、蜘蛛使いの攻撃を予期する事も避ける事もできなかった。まして妖力を使うのではなく直接口に指を突っ込んで喉の奥まで埋める、といった類いの攻撃は想像もしなかったのである。 もちろん、妖力を全開にすれば対抗できる。生気を奪われたといっても、完全にではない。器の持つ力を全て放出すれば、倒す事さえ可能であった。その点は、彼もわかっている。だが実行に移した場合、周囲に被害を及ぼさないという保証はない。そしてもう一つの残された手段も、ルーディックとしては使いたくなかった。何故なら蜘蛛使いが器としているのは、彼が育てたケアスの肉体なのである。
「……反撃しないのですか?」
 苦しさに顎をのけぞらせ、背中をひくつかせている同僚に、蜘蛛使いは問いかける。
「これから私は、貴方が一番嫌がる事をしようとしてるんですよ、ルーディック。それとも、ケアスの体が相手なら構いませんかね」
 赤く腫れた頬に唇を這わせ、亜麻色の髪の妖魔は呟いた。妖蜘蛛による生気の吸収は犠牲者から根こそぎ気力を奪ったのか、ルーディックは自力で腫れや折られた歯を治そうとしない。そんな彼に代わり、蜘蛛使いは傷を癒しにかかった。むろん、遊びの方も忘れない。指先は腫れた頬だけでなく、体のあちこちをさまよい移動し、拘束の糸を緩めては滑り込んで肌を刺激する。
(やめろ、駄目だっ!)
 怒りに燃え、身の内から出て暴れようとする異界の魔物を、ルーディックは必死で抑え込む。頼むから出ないでくれ、今は眠っていてほしい、と。
(俺を守ろうとしてなのはわかる! だが出ないでくれ。これから起こる事が嫌なら、ケリが付くまで意識を遮断してほしい。頼む)
 何故だ、と異界の魔は怒鳴る。自分以外の者が手を出すのを黙って見逃すなど冗談じゃない、と。
(わかっている。しかしこれもあの王の仕組んだ罠であり、どうあっても通過しなければならない事の一つだ。レアールを取り戻したいなら今は眼をつぶれ。放っておいてくれ。お前の相手は後でちゃんとするから、だから頼む)
『………』
 憤慨に唸りながら、それでも異界の魔物は気配を消した。ホッとしたルーディックは、蜘蛛使いへの対応に専念すべく意識を傾ける。
「苦しい、ですか?」
 揶揄するように、屈み込んだ蜘蛛使いが囁きかける。
「ああ、苦しそうですねぇ。でもこの程度で気を失ったら嫌ですよ。暫くは私を楽しませていただきましょうか。本当に久しぶりな事ですし」
 蠢く指の感触に身を震わせ、唇を噛んだルーディックはようやくの思いで問いかける。
「……お前、そんなに俺が嫌いなのか……」
「嫌い? 何の事です?」
「嫌いなんだろう? 人間だった頃にされた事といい、今のこの扱いといい。レアールだと思い込んでいた時はこんな真似をしなかったのに、中身が俺とわかったら即こうして暴力と嫌がらせだ。これで嫌われてないと思えるほど、俺の神経は太くない」
 糸で視界をふさがれたまま、ルーディックは抗議する。
「嫌ってるのは良くわかったが、これはあんまりじゃないか。そんなに俺の存在が嫌ならさっさとこの身体から追い出して消滅させればいいんだ。その上で、あの王が気を変えてレアールの魂を返してくれる日まで、抜け殻の身体を保護していればいい。その方がまだましだ。こんな生殺し状態よりは」
 蜘蛛使いは言われた台詞の内容に首を傾げ、捕らえている相手の耳元に唇を寄せた。
「……王が気を変えてレアールの魂を返すとは、どういう意味です? ルーディック」
「言葉通りの意味だ。あの性格ひねまがりは、自分が呼びかけた時レアールの魂が反応しなかったから消滅したと判断したんだ。ところがどっこい、レアールの壊れた魂は、俺がこの身体を動かしていたせいで活性化したらしい。元には戻らないまでも、自我は芽生えつつあったそうだ。もっともこれは聞いた話で、俺は全然知らないがな。なにしろレアールの意識ときたら微弱で、俺が気を失ってる時たまに浮上する程度だから」
「それで表に現れたレアールの自我と対面した者があるという事は……、ルーディック、貴方は気絶した訳ですね。他者の目の前で」
 皮肉な口調で暗に責められ、ルーディックはムッとなる。いったい誰のせいだと思っているんだ、と。
「仕方ないだろうが。俺は、お前に昔された行為のせいで極度の接触恐怖症になったんだぞ。そんな俺がどんなに意識を保とうと頑張ったところで、脳がこれ以上は無理と判断したら現実から強制的に遮断される。これは、俺にはどうしようもない」
「つまり、妖魔界で誰かに抱かれたという事ですか。誰です? その相手は」
「今はレアールの話をしているんじゃなかったか? 俺が誰に何をされようと、お前には関係ないだろう」
「いいえ、気になります」
 きっぱり言い切られ、ルーディックは溜め息をつく。
「ああ、この体がレアールのものだからか。確かにそれでは気にするなと言っても無理だろうが、……俺がケアスの好物を食べさせたと知って怒ったお前がそう主張するのは、すこぶる身勝手じゃないか? どう考えてもこの件はお互い様だ。俺はお前の姿にケアスを見るし、お前は俺とレアールを重ねレアールであれと要求する。そして意にそぐわない行動をすれば即これだ」
 ルーディックはそこで一旦唇を閉ざし、微苦笑を浮かべる。
「残念だったな、蜘蛛使い。王がこの肉体から取り出した魂が俺の方であれば、ここにこうしていたのはお前が待ち望んでいた正真正銘のレアールだったはずなのに。あの王ときたら、わざわざ本来の器の主を選んで取り出し、人質代わりにするんだからな。返してほしいなら命令に従えだと。自分に頼ってこない奴は苛めて楽しむと言うんだから際めつけの悪趣味だ。あんな男の側近を長年務めていたんじゃ、お前の性格が悪くなっても無理はない」
「ご理解いただけてどうも。ところで、先刻の台詞の内容から察するに、貴方は私から嫌われていると思ってるようですが……」
「思ってるも何も、それが真実だろう? 現にこんな目にあわされてる」
 返答を聞いた蜘蛛使いは頭痛を覚え、どう説明すべきか暫し悩んだ。
「ルーディック、誤解されてるようですから言いますが、私は貴方をレアールと同じくらいに好きですよ。貴方が人間だった時から」
 拘束されたままのルーディックは、耳にした台詞に絶句する。次いで、あきれ果てつつ言葉を返した。冗談はよせ、と。
「本当です。もっとも、その事実に気づいたのは貴方を死なせてからでしたが」

「……蜘蛛使い、俺は人間だった頃にお前が何と言ったか覚えているぞ。人間風情が幸福そうに笑っているのは気に入りません、二度と笑えないようにしてあげましょう、……そう言ったな? そして言葉通りお前は実行した。俺の家族、俺の故郷、俺が育てた妖魔、全て奪って最後に俺を嬲り殺した。それで実は好きでした、と今更言われたところで信じられると思うか? 馬鹿げてる」
「ですが……困りましたね。本気で好きなんです」
「なるほど、好きな相手をとっつかまえて自由を奪って半殺しにして楽しむのが妖魔流の愛情表現か」
 ルーディックはギリッと唇を噛む。
「ふざけるなっ! そんなものは千歩譲っても愛とは呼べない。自己愛の固まりの幼児が思い通りになる人形を相手に、勝手に動かし遊ぶ行為とどこが違う?」
「ルーディック」
「お前は最初から俺の意志など認めなかった。対等の相手とも見なしてくれなかった。常に見下して、従えようとするばかりだった。それでなお、自分に好意を抱いてくれと要求するのか? それが妖魔の愛し方だと言うのか? だったら妖魔は、誰一人本当の意味での恋愛感情など持ち合わせていない事になる。お前のそれは愛なんかじゃない。ただの支配欲と独占欲だ。それ以外の何物でもない!」
「ルーディックっ!」
 続けようとした文句は、不意に遮られた。仇である妖魔の唇によって。噛みつく事も叶わぬ程強く重なったそれから逃れようともがいていると、唐突に糸がはずされていく。視界をふさいでいた糸も、身体を拘束していた糸も。
(……蜘蛛使い……?)
 唇が離れ、ルーディックの瞳は相手の姿を映す。肌に模様を刻まれた蜘蛛使いの顔が、間近にあった。紫の眼は泣く寸前のように潤み、じっと彼を凝視している。
「……この思いは支配欲ですか? ルーディック」
「………」
「貴方に触れたいと願うのも、貴方の笑顔や好意が自分に向けられる事はない、その事実に耐えられないのも、全て子供じみた支配欲と独占欲ですか?」
 絞り出すような声が問う。ルーディックは答えない。蜘蛛使いは息を吐き、泣いているような顔で笑った。
「……困りましたね。どうしたら良いんでしょう? それでも私は貴方に触れたい。貴方の側に居たいのです」
 そう告げて首筋に顔を埋めた相手に、ルーディックは諸手を上げ白旗を振りたい気分になる。この存在を、外見に騙され大人と見なしてはいけないのだ。生きてきた年月の長さと精神年齢が、必ずしも一致するとは限らない。敵は妖力が強く身体が大きいだけの、とんでもなくやっかいなお子様だったのである。
 お子様だから、自分の遊びがどんな結果を生むかなど考えない。玩んでいた相手が物言わぬ骸となってから初めて後悔し、けれど性懲りもなく同じ事を繰り返す。そういう生き物なのである。それが妖魔にとってのあるべき姿なのだ。気に入られた方はそれこそいい迷惑であるが。
 昆虫を捕まえて籠に入れ、それだけで満足し放置して、動かなくなってからどうしてだろうと首を傾げる幼児と変わらない者に、罪の意識なぞ求めるだけ無駄であろう。怒ったところで意味もない。恨み言を口にするのも阿呆らしい。ルーディックは溜め息をつき、自由になった手を蜘蛛使いの背中に回した。
「……ルーディック?」
 背中に触れた手の感触に驚き顔を上げた相手に、元人間だった妖魔は告げる。
「蜘蛛使い、俺に触れたいなら条件がある」
「え?」
「まず第一に場所替えだ。ここでやられたら背中を痛めるし冷えてたまらん。お前は床でやってもいいのかもしれんが、俺は断固として寝台に移る事を要求する」
「…………」
 固まってしまった蜘蛛使いの様子には委細構わず、ルーディックは台詞を続ける。
「第二に、俺があのいけずな王から命じられた任務への協力を約束してもらおうか。これは取引だ、蜘蛛使い。俺はお前の望みに応じて身体を提供する。その代わり、お前には妖力を提供してもらおう。ああ、それと」
 チラリと視線を床に散らばった菓子へ向け、ルーディックは呟く。
「今後お前に俺の作った菓子はやらんぞ。せっかく持ってきたのに、こうして捨てられるんじゃ哀しいからな」
「!」
 蜘蛛使いはガバッと跳ね起き、急いで自分が床に落とした菓子を拾い集める。そして信じられない事に、なんとそれらをまとめて口に突っ込み食べ始めたのだ。これにはルーディックも驚愕し、飛び起きて止めにかかる。
「おい、何やってるんだ! 床に落ちた物なんか食べたら腹を壊すぞ、汚いだろうが」
(構いません、壊しても)
 口の中がいっぱいで声を出せない蜘蛛使いは、ルーディックの脳へ直接答えを返す。
「蜘蛛使い! よせ、埃が付いてる! 口にするなっ」
(責任とって全部食べたら、また作ってくれるでしょう? ルーディック)
「おい……」
(……作ってくれた菓子を、城塞の兵士だけじゃなく私が食べても良いと、全部食べたらそう許可してくれるでしょう、違いますか)
「………」
 ルーディックは絶句し、肩を落とした。ここまでこいつはお子様だったのか、と。あんな嫌味を本気にとって、過剰反応する程に。目眩を感じ、額を押さえた彼は、ややあって蜘蛛使いの肩に手をかけた。
「食べるな、もういいから残りは蜘蛛にでも処理させろ」
(ですがそれでは……)
「どうせりんごは貯蔵庫にまだいっぱいある。そのうち作ってやるからそれ以上食うな。……他にやる事があるだろう、お前は。それともやめにするか? 俺はそれでもいいが」
 蜘蛛使いは我に返って首を振る。ルーディックはニッと唇の端を上げた。
「取引成立だな、蜘蛛使い。条件は先に言った二つだ。厳守しろよ。否ならおあずけだ」
 言うなり寝台へ向かったルーディックは、靴を脱ぎかけたところで振り返り告げる。
「ああ、一つ言い忘れていたがお前、明日になったら水鏡でも何でも良いから、自分の姿を映して見ろ」
「……それは何の謎かけです? ルーディック」
 蜘蛛使いは首を傾げ歩み寄り、寝台に腰かけた相手の顔を覗き込む。ルーディックは問いには答えず、微笑した。明日になればわかるさ、と。

 翌朝、一人寝台の上で目覚めた蜘蛛使いは言われた通りに鏡を覗き、暫し己が姿を凝視する。鏡に映る肌のどこにも、王に刻まれたあの模様は残っていなかった……。

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