断罪の瞳3《2》


「……私の昔の知り合いがここへ訪ねてきたと?」
 ヤンデンベール城塞内に与えられた部屋で、情報収集に向かわせた蜘蛛達の連絡を待ちながら平穏にして怠惰な午後のひとときを過ごしていた蜘蛛使いは、報告に来た少年兵の言葉に扉へ手をかけたまま眼を丸くした。知らせを持ってきた兵士は、恐縮した面持ちで頷きを返す。
「はい、先程正門の前に明らかにこの付近の者ではないと思われる方が現れまして。もしかしたらケアスと名乗っているかもしれないが、これこれこういう姿をした者がこちらの城にいないだろうか、と門番の兵士に尋ねたそうなんです。仮にいるとしたら何の用かと問いかけたところ、故郷の奥方から伝言を頼まれているので、できれば会って伝えたいと答えたそうですが」
「故郷の奥方ァ?」
「はい。……ご結婚なされていたのですか? 呪術師様は」
 蜘蛛使いは頭を抱える。奥方? 奥方ァ? それは何の冗談だっ! と。
「……様付けはやめてほしいですね。結婚……は、正式にしてはおりませんが、共に暮らしていた女性なら存在します、一応。ですが……」
 だからといってマーシアを奥方呼ばわりして良いものだろうか、と亜麻色の髪の妖魔はこめかみを押さえ考え込む。自分が戻らぬ以上、今では彼女があの邸の女主人となっているのは間違いない。しかし奥方……、奥方と呼ぶのは大いに語弊がある気がする。たとえもうじき己そっくりの子供が生まれるにせよ、それは自分が作った訳ではないのだし。
 そんな蜘蛛使いの苦悩する様を目にして、伝令の少年兵は困り果てた表情になった。
「それであの、皆どう対処したものかと。……お会いになられますか?」
 言う側も、言われた側も困惑の表情を浮かべている。報告に来た兵士にしてみれば、もしこれがゲルバの仕掛けた罠であった場合、何かあったら責任の取り様がない。自然、決断は相手任せなものとなった。
 一方蜘蛛使いの方は、妖魔界の王がこんなに早く自分を許す訳はないから、訪問者の伝言がそうした内容でないのは確かだろうと推測していた。奥方からの伝言、などというふざけた言葉を口にした事でもそれは明らかである。だが、ここを訪れた者が誰であれ伝言の内容が何であれ、現在離れてしまった二つの界を支障なく行き来できた以上、相手は自分と同等の妖力の持ち主である。同僚の誰かが命じられ、ここに来たと見てほぼ間違いないだろう。
 蜘蛛使いとしては相手が誰にせよ、王によって模様を全身に刻まれた今の己の姿を見られたくなかった。されど、会わねば聞けぬ伝言の内容には興味があったし、現在の妖魔界の情報、……正確にはレアールことルーディックとマーシアに関する情報、を得たい気持ちもあり、心境は恐ろしく複雑であった。会うべきか会わざるべきか、それが問題、なのである。
「取り合えず、知ってる相手かどうか面通しをして確認したらどうだ。会う会わないは、それから決めても遅くなかろう?」
 突然背後からかかった声に、少年兵は飛び上がる。ヤンデンベール城塞の実質上の責任者、褐色の肌の大柄な剣士、隻眼のザドゥがそこに立っていた。
「門番から話を聞いたので、勝手をしてすまんが覗き穴から相手を確認できる部屋に客人を通しておいた。呪術師殿としては余計な真似をと思われるかもしれんが、ここは国境の要という事で勘弁してもらおう。休戦状態でも用心に越した事はないんでな。案内するから来るといい。来訪者は見たところ、風変わりなかなりの別嬪さんだぞ」
 言うなり背を向け歩き出したザドゥに、蜘蛛使いは慌てて部屋の扉を閉め後を追う。対ゲルバ戦の指揮を任されている男は、ぐだぐだ悩む暇があったらまず行動すべし、という実にわかりやすい信条の持ち主であった。
「ハンターから聞いた話によると、呪術師殿は故郷で雇い主の不興を買い各地を放浪してこの地に辿り着いたという事だったが、前の雇い主が連れ戻しに来たという可能性はあるのか? だとしたら、少々厄介な問題になりそうだが」
 大人二人並ぶのがやっと、という狭い石造りの通路へ隠し扉から入ると同時に、ザドゥは問いかけた。蜘蛛使いは咄嗟に顔の筋肉を強張らせ、吹き出すのを堪える。赤毛のハンターはどうやら、彼の素姓をそのように語って追及されぬよう誤魔化したらしい。
「ああ、それはまずありえませんね。術の制御に失敗して雇い主の住居を半分吹き飛ばした者を、再度雇いたいと願う物好きはいないでしょう?」
「………」
 ヤンデンベール城塞の責任者は、耳にした台詞の内容に眼を白黒させ、それから気を取り直したように呟いた。
「まぁそれなら連れ戻される可能性はほぼない、という事でありがたい話だが。ところで呪術師殿、できればこの城は吹き飛ばさんでくれとお願いしておく」
「そうですね、善処しましょう。できる範囲で」
 当てにするにはかなり心許無い蜘蛛使いの返答に、何とも気まずい思いでザドゥは頭を掻く。笑いを堪え切れなくなった亜麻色の髪の妖魔は、歩きながら苦笑を漏らした。控えめとは言い難いその笑いは、覗き穴のある小部屋に着くまで全然止まらなかった。


「どうだ? 知ってる相手だろうか?」
 穴に眼を当て訪問者のいる部屋を覗いてすぐに、隣に立つザドゥが小声で問う。だが、蜘蛛使いは答えるどころではなかった。まさか、と思いつつ再度彼は眼を凝らす。しかし瞳に映る姿は変わらなかった。
 思わず喉から呻き声が漏れそうになる。王の嫌がらせにしても、これはずいぶんだと思えた。どうしてよりによってルーディックを選び伝達を命じたのか? 今の自分が会える訳もないと知っていながら!
 王宮を半壊させたあの日以来、会う事も叶わなかった相手は、前より線が細くなったように見えた。身に付けている衣装は、冬の気配が強いこの地にはそぐわない薄い布地で、風変わりとザドゥが称したのも頷けた。長い鮮血色の髪は、そのままでは悪目立ちすると考えたのか、茶色に染め変えられ束ねられている。そのせいか、容貌的に似たところなど全くないにも関わらず、不思議と記憶の内にある昔のルーディックと印象が重なった。
「……ルーディック」
 蜘蛛使いは無意識にその名を呟く。叶う事なら会いたかった。直に触れて、無事を確かめたかった。声を聞きたかった。けれど、この肌に模様を刻まれたままでは会えない。以前の自分を知る者の前に、今の姿で立つ勇気はなかった。他の誰よりも、ルーディックに見られる事が嫌だった。恥ずかしかった。

「知っている相手なのか? 呪術師殿」
 再び、ザドゥが問う。我に返った蜘蛛使いは、唇を噛みしめ背を向けた。
「……会えません」
「何?」
「間違いなく知り合いです。ですが会えませんっ!」
 小声でそれだけを告げると、蜘蛛使いは逃げるようにその場から走り去る。後に残されたザドゥは、訳もわからぬまま首を捻り、途方に暮れるしかなかった。


「………」
 組んだ手を、ほぐしてはまた組み直す。足を組み、はずしては逆に組んでみる。時間の流れは、嫌になるほど遅かった。ルーディックは溜め息を漏らし、大きく伸びをして椅子の背にもたれかかる。
 辛うじて城内に通されはしたものの、猜疑心の固まりといった表情の兵士六名に周囲を囲まれ、縄こそ掛けられていないが窓すらない牢の如き陰鬱な部屋で蝋燭の炎を前に待たされる事一時間。戦時下である事を思えば、この扱いも仕方がないと納得できる。できるが、気が滅入ってくるのはどうしようもない。
 そもそもここに赴いた目的自体、気が滅入るような事でしかないのだ。憂鬱な気分そのままに長すぎる前髪を指で乱し、ルーディックは次の展開を待った。
 妖魔界を追放された蜘蛛使いが、この城塞にいるのは間違いない。衣装の内に忍ばせた赤の守護石のピアス、一旦は返しながら、レアールだと思い込まれていた為に蜘蛛使いから再び預けられたそれを、彼は求める相手の探索機として利用した。諜報活動に関して全くの素人な自分が闇雲に動くよりは、血で作られた守護石が出所である肉体に反応する様を当てにした方が良かろう、と判断したのである。
 実際、それは正しかった。人間界に移動して三日目にはこの地に辿り着いたのだから。 蜘蛛使いは確実にここにいる。問題は、揉め事を起こさずすんなり会えるかどうか、であった。なにしろルーディックはこの城で蜘蛛使いがどのような立場にあるか、どういう役割を担った存在であるかを全く知らないまま、調べもせず訪れたのである。
 常識で考えればそれこそ情報収集必須の事柄であるはずだが、ルーディックにしてみればあの王の嫌がらせとしか思えぬ命令に従いここへ来ただけでもはや譲歩の限界、この上調査だの情報集めだのといった骨折りなぞやっていられるか、という怒りがあった。何せ妖魔界の王は、彼に命令はしたものの必要な資料や情報は一切与えなかったのである。肝心の仕事のやり方さえ、教えてはくれなかったのだ。
『そなたは私などに頼らなくて良いほど能力的に秀でているのだから、何もこちらからわざわざ情報なぞ提供せずとも、立派に任務を遂行してくれるだろう?』
 会議の席での王の台詞は、異界の魔物の件をルーディックが隠していた事に対するあからさまな嫌味であったが、そのように皆の前で断言されたのでは、敢えて助力を請う気にもなれなかった。
 人質を取られていない状況で二人きりの時に切り出された話なら、俺は部下じゃないから命令を聞く義務もない、と突っ撥ねる事もできただろうが、現実に人質(も同然)を取られ、しかも正式な会議の場で命じられたのではそれを言う訳にもいかない。周囲の側近達の視線も、ルーディックにそうした言動を許さなかった。
 異性であるマーシアへの王の特別扱いについては寛容な態度を取る彼等も、同性であるルーディックに対してははっきりと憎悪や妬みを向けていた。過去に出来損ないと見下していた相手、という思いもあるのだろうが王から特別扱いを(どんな形であれ)されている彼は、同僚の側近達にとって仲間とは絶対に見なせない存在だったのである。
 仲間でもない者を己の立場を悪くしてまで庇ったり、王を相手に回して弁護してくれる妖魔などいない。いるとしたらそれは、皮肉にも仇である蜘蛛使いのみだったのだと痛感して、ルーディックはウンザリする。
 今でも憎いかと問われれば即答はしかねるが、恨みは確実にあった。己の運命を一方的に、暴力で変えた男である。遊びで人の腹部を切り裂き、引きずり出した内臓を口に突っ込んでくれた最低野郎である。そんな男を、不慣れな任務とはいえ頼りにせねばならぬ我が身が情けなくて、自嘲の笑みを彼は漏らす。
 嫌がらせ好きの王に、事情も知らず嫉妬ばかりを向ける同僚。異界の魔物と共有状態にある肉体。連日好き勝手に弄ばれて、今や行為に慣らされ嫌悪も恐怖も感じなくなった精神。どれを取っても、溜め息ものだった。
(いっその事、さっさと死ねれば楽なんだがな)
 ぼんやりと、ルーディックはそんな事を考える。だが自分の体でもないものを、勝手に殺す訳にはいかない。この体を殺せば蜘蛛使いに対する最高の復讐になるとわかっていても、やる訳にはいかなかった。
 今の妖力では完全に死ぬ為には、炎に包まれ肉体を焼き尽くして消滅させるか、あるいは異空間に身を投じて、自己の意識が途切れた瞬間その空間を崩壊させ肉体を潰してしまうしかない。実行を試みるには、どちらも躊躇せずにいられない、かなり苦しい方法である。
 加えて、それを実行してしまったら肉体の本来の持ち主であるレアールは、戻るべき器を失う。いくら自我もろくにない厄介者とは言え、そんな形で消滅させては哀れだし、己の解放の為に他者を犠牲にしても良いと考えるまで、自己を堕落させるのも嫌であった。 自分の魂が離れれば死んでしまうとわかっている肉体を、本来の持ち主に相談もなく放り出す訳にはいかない、と思う程度の理性は現在のルーディックにも残っていた。しかしならばどうするのか、どうしたいのかと考えだせば、心は迷宮に放り込まれたまま取り残される。答えは出ない。出せないのだ。
「おい、聞こえているか?」
 声を大にした兵士の呼びかけに、ルーディックの袋小路にはまった思惟は中断される。視線を向けると、何故か自分を見ながら顔を赤らめている兵士達がいて、その内の一人が部屋の外へ出るよう合図を送っていた。どうやら、別室に移される事になったらしい。
 案内される部屋の様子次第で、置かれた状況の判断ができるはずだった。ルーディックは素直に立ち上がり、ぎこちなく歩き出した兵士の後ろに従った。その背後にもう一名、見張りの兵が付く。前後を兵士に挟まれた形で進むルーディックは、彼等の息が不自然に荒い理由が全くわからなかった。
「さっきから妙に息が荒いが……、お前達どこか具合でも悪いのか?」
 問いかけると、前を進んでいた兵士はあからさまにうろたえ、身を強張らせる。その緊張度は気の毒なほどであった。
「べ……別に我々は具合など悪くはない! それより貴様……」
「何だ?」
「その破廉恥な衣装は何とかならんのかっ! 脚がもろ見えだっ」
「ああ、これか」
 言われて、ルーディックはようやく気づく。彼の着ている衣装は上はともかく下は、男の衣装という観点から見るとまともとは言い難かった。ただでさえヒラヒラした薄手の布地で作られているのに、くるぶし付近から腰近くまで、思い切り派手に引き裂かれているのである。
 昨夜から今朝にかけ異界の魔物の執拗な悪ふざけに付き合わされていた彼は、疲労に耐えかね仮眠を取った後コロリと忘れていたが、行為の最中に邪魔だと裂かれた衣装はそのままで、繕っていなかったのだ。
 これでは脚を組む度、そして歩く度、膝下のみならず太股まで人目に晒していた事になる。兵士達が一様に顔を赤らめていたのも、無理のない話であった。
 側近級の妖魔の脚は、人間の成人男子のごつい脚とは違う。その爪先から腰にかけての優美なライン、肌の艶かしさたるや、高級娼婦顔負けであった。
 もっとも当の美脚の持ち主であるルーディックに、そうした自覚は欠片もなかったが。
「申し訳ない。着替えがなかったもので裂けた衣装のまま出向いてしまった。見苦しいものを見せつけて済まないが、今は勘弁してもらえないだろうか」
「いやその、見苦しくはないがとにかく心臓に悪い。貴様はその……あー、何というか妙に……」
「俺が妙?」
「いや、何でもないっ!」
 それきり、前を歩く兵士は彼の問いかけを無視して足早に進む。ルーディックは暫く兵士の奇妙な言動に首を傾げていたが、やがて肩を竦め考えるのをやめにした。
 兵士達にとっては気の毒な事に、人間であった頃の意識をそのまま持ちながら、妖魔という存在になってしまった彼は、己の容姿や醸し出す雰囲気が他人の眼にどう映るか、どのような作用を及ぼすかを、全く理解していなかったのである。


 明かり取りの小さな窓が所々にあるだけの狭い階段を上り、一人ずつしか通り抜けができぬ窮屈な通路を潜り抜け、その先にある扉を開けると、そこは何人もの兵士が忙しなく行き交う広い回廊となっていた。案内役を交代した兵士に導かれ更に歩く事数分、先程までの待遇が嘘のような装飾のなされた美麗な客間へと、招かれざる客人のルーディックは通された。
 そこには既に入室して彼を待っていた人物がいたが、面会を希望した相手である蜘蛛使いその人ではなかった。短い金髪と金茶色の眼、逞しい体躯と褐色の肌をした精悍な顔立ちの、額から右頬にかけて刻まれた傷がやたらと印象的な隻眼の剣士である。
 その男は、ルーディックの姿を眼にするとおもむろに立ち上がって会釈した。それからにこやかに椅子にかけるよう勧め、自身も座り直す。一連の動作に作為的なものは感じられなかった。ルーディックは取り合えず相手を信用してかかる事に決め、向かい側の椅子に腰をおろす。
「お初にお目にかかる。お客人」
 親しげな口調で、まず剣士が声を発した。
「正式な位はないが、一応この城塞の守りを任されているザドゥと言う者だ。お客人の名前は、ルーディックで良いのかな?」
 言われて、ルーディックは不審気に眉を寄せ、相手の男をまじまじと見つめる。
「……確かに俺はそういう名前だが、ここに来て名乗った覚えは一度もない」
 ああ失礼、とザドゥという名の剣士は笑う。
「先程勝手ながら呪術師殿、もとい、ケアス殿に頼んで面通しをし知り合いか否か確認してもらったのだ。その際、名前を知ったのでな」
「呪術師……」
 ルーディックはなるほどと頷いて軽く手を打つ。実に上手い身分詐称であった。妖魔の力をある程度使いながら疑われる事なく人間界に存在しようとするならば、その職業は絶好の隠れ蓑であろう。多少の不思議は呪術師だから、で済まされる。
「奴は会ってくれないのか? 俺を確認したと言うのなら、ここにいるんだろう?」
「まあ……それがちょっと問題で」
 責任者の男は、少し困った様子で顎に手を当てる。
「正直、訊いて良いものかどうかわからぬのだが……、過去に彼は何か貴殿との間で揉め事でも起こしたのだろうか? 会うのを極端に怖れて避けるような何かを」
「会うのを避ける……? ああ」
 そういう事か、とルーディックは苦笑を口許に浮かべた。自分ができれば会いたくないと思っていたように、蜘蛛使いの方でもそう感じていたらしい。どうやら相手は敵前逃亡を決め込んだらしかった。むべなるかな、である。
「そう、確かにあったな。奴がこちらの顔を見て逃げ出したくなるような、猛烈にまずい一件が」
「ほう、それはまた穏やかではないが、いったいどのような?」
 特に気のない様子で、ザドゥという名の剣士は尋ねてくる。責任者である彼が呪術師ケアスの事を語る時、悪意のようなものは声音に全く含まれていない。ならば事の成り行きは不明だが、蜘蛛使いは役に立つ存在としてこの城の人々から好意的に迎え入れられたのだろう。そうである以上、彼の印象を極端に悪くするような事実をありのまま口にするのは慎むべきだった。
 事実をそのまま伝える事は蜘蛛使いのみならず、自分の立場も危うくする。ルーディックは思考を巡らし、事実とそう遠くない、けれども聞く側が蜘蛛使いを悪党とは受け取らない内容を語った。
「昔の話になるが、ケアスはある任務を遂行しようとして結果的に俺の妻と子を死なせ、故郷の村を焼いた。会いたくないと言うのはそのせいだろう。俺に憎まれてる事は、当人も充分自覚しているからな」
「………」
 褐色の肌の剣士は眉を寄せ、暫し沈黙した後に呟いた。
「なるほど、それでか。知り合いです、ですが会えませんと呪術師殿が言ったのは」
 気の毒に、と思っているのがありありとわかる口調だった。実情を知っている被害者当人にしてみれば、とてもじゃないが蜘蛛使いを気の毒とは思えない。思えはしないのだが表面上は相手に合わせ、ルーディックは同意を示す。
「しかしそうなると、無理に貴殿と彼を会わせるのも何だな。と言って郷里の奥方からの伝言を伝えにわざわざここまで来てくれたものを会わせぬというのも酷な話だし、貴殿には貴殿の立場や都合がある訳で、他人を介して伝えるのではやっぱりまずかろうし……」
 困り果てた様子で眉間に皺を寄せ、真剣に悩む剣士を前にルーディックはたまらず笑いを漏らした。善意の固まりのような人だな、と思う。かつての知り合いの予期せぬ訪問に動揺してるであろう蜘蛛使いの感情を思いやると同時に、初対面の招かれざる客である自分の気持ちをも気遣ってくれている。妖魔界においては示される事のなかった、その気配りが嬉しかった。嬉しかったが、現実を直視すると喜んでばかりもいられない。
 この城塞の人間にとっては、通りすがりの異邦人たる自分より、呪術師ケアスの方が大切なのだ。となれば、会わせてもらえる可能性はかなり低い。強引に会おうとすれば騒ぎになるのは目に見えてるし、会えるまで帰らないとここに居座り粘る気力も根性もない。 さてどうしたものか、とルーディックが途方に暮れた時、我慢の限界、といった口調でその声は頭に直接語りかけてきた。
『騒ぎを怖れるなど馬鹿げてる。要はここの連中の記憶をちょいといじれば済む事だ。お前なら簡単にできるだろう。何をそう悩む? さっさとやってしまえば良い』
 怒鳴っているのと大差ない呼びかけに、ルーディックは頭痛を覚える。たちの悪い酔っぱらいに掴まり絡まれてる気分だった。つまり、理路整然と説明しようが反論しようが埒が明かない相手、なのである。同じ妖魔の肉体に同居しているこの異界の魔物は。
『だいたい普通の人間みたいに門の前まで来て、面会の許可を求めるのがそもそも間違ってる。お前の妖力ならあの男の前に直接移動もできたろうに』
(おい、ここは人間界だぞ。そうそう妖魔の力を使う訳にはいかない。誰かに見られたらどうする? 俺は目撃者を殺して歩くのは御免だ)
 無駄と思いつつ、心の内でルーディックは反論する。
『だから記憶をいじれと言ってる。それくらい朝飯前だろう』
(あいにく俺の妖力は、いやレアールの妖力と言うべきかもしれんが、そいつは未知数な上、まるで制御が効かないのが現状だ。妖力の発動を抑制する環を両手首にはめたおかげで、不快に感じただけの相手を無意識に殺す事はなくなったが、それでも不安は残る。自分がここに来た記憶を抜き取るつもりでかけた術が、彼等を廃人にしないとも限らない。俺は、そういうのは嫌なんだ)
『だったらどうする? このまま奴に会えずじまいで引き下がるのか? それじゃあの陰険大魔王は、レアールを返してくれんだろうが』
(腐れ外道の変態魔物に陰険大魔王呼ばわりされれば、あの王もさぞ満足だろうな。とにかく、少し黙っていてくれ。何とか会う方法を考えて……)
 投げやりに言葉を返したルーディックの脳裏に、不意に閃くものがあった。蜘蛛使いが絶対に会わずにいられなくなる方法、あの妖魔の最大の弱点となる存在。
(レアール……。そうか、こいつを使う手もあったな。となると奴を釣る一番効果的な言葉は……)
「お客人?」
 褐色の肌の剣士が身を乗り出すようにして声をかける。けだるげな雰囲気にそぐわない表情を見せて笑ったかと思うと、突然黙り込み周囲を遮断した様子で考えに没頭した相手に、戸惑った挙句の呼びかけだった。
「お客人、どうかなされたのか?」
 再度の呼びかけに、ルーディックは反応を返す。
「ケアスの奥方からの伝言は、留守を守って待っているから子供がだっこできる年齢のうちに絶対戻ってきてね、貴方が考えてくれた名前を付けておくから、というものだった。会う事が叶わぬのなら、これを伝えてほしい」
 伝言の内容を伝えられ虚を突かれた男に対し、縋るような眼差しを向けてルーディックは言う。
「もう一つ、俺自身の伝言になるがこれも伝えてもらえるだろうか。……王に人質を取られた。任務を成功させなければ、レアールが殺されてしまう。是非とも協力を要請したいと、彼に伝えてくれ。頼む」
 深々と頭を下げたルーディックに、ヤンデンベール城塞の責任者はそれまでとは一転した厳しい眼を向ける。なにしろ伝言の内容が内容だった。頼むと言われてもおいそれと引き受けられるものではない。
「王というのは、呪術師殿の前の雇い主の事か?」
「……そうだ」
「つまりお客人が妻子を失う元凶となった人物だな。だのに、今はその配下で働いてるのか?」
 ルーディックは顔を強張らせ、ややあって微苦笑を浮かべる。
「……そういう事になる。人質を取られては逆らえん」
「人質となったレアールという人物との関係は?」
「俺にとってはまあ、残された最後の身内に当たる。ケアスにとっては、唯一気を許せる友のような存在、というところか。あれが殺された場合、受ける衝撃の度合いはたぶん俺よりもケアスの方が大きいだろう」
 その言葉に、隻眼の剣士は唸る。
「それを承知で彼に協力を要請するのか? 殆ど脅しだ!」
「仕方がない。俺はこうした任務には素人同然の不慣れだし、それに……」
 ルーディックは顔にかかった前髪を払い溜め息をつく。
「それにケアスと違って、俺はまだ上手く術を使いこなせないんだ。潜在能力はケアスより上だと王から太鼓判を押されているが、自分で思うように操れないのでは意味がない。俺の力は、例えて言うなら葱を刻もうとしている相手に包丁ではなく斧を手渡すようなものだ。もしくは縫い糸を切るのに大剣を振り回すような。そんな馬鹿な真似は普通、誰もしないだろう」
 だが、ケアスの協力なく任務を遂行した場合は、確実にそういう馬鹿な真似をするはめになるだろう、とルーディックは語る。
 ヤンデンベール城塞の責任者は、この半ば脅迫とも取れる台詞に苦虫を噛み潰したような顔となり、髪をガシガシと掻き乱して質問の方向を変えた。
「先刻からどうも引っかかってならんのだが……、お客人はどこの国の出だ? そこの住民は、もしかして潜在的に呪術関連の能力を持った人間が多いのか? 俺は呪術師の存在などこの年になるまで噂でしか聞いた事がなかったが、それでも今この城にいる彼の能力が桁外れに強い事はわかる。そしてお客人自身も呪術師としての能力を持っているとなると……、役目を度外視しても大いに気になる。貴殿等の国がどこにあるのか、そこの王が何を考え貴殿をここへ遣わしたのかがな」
「もっと率直に言えば、そんな危険な能力を持った連中が自分達の国にやってきて悪さを仕出かさないか、その点が不安でならない、って事じゃないか?」
「……それもある」
 むっつりとして頷く相手に、ルーディックは猫のように眼を細め笑う。そうして彼は、この愛国心と責任感を隠そうともしない男に向け、とんでもない事を告げたのである。
「ケアスの故郷の住民に関して言えば、皆生まれつき呪術の才能を持っているな。むろん強い者とそうでない者との差は大きいが。国の位置や名前を教える事は残念ながらできぬが、多分知っても意味がないだろう。遥か彼方の地図にない国だ。存在すら未だ知られていない」
 褐色の肌の剣士は息を呑む。住民全員が呪術の才能を持っている国など、あって良いものではなかった。おまけにそんな物騒な連中の住む国が存在すら知られていないという。これでは気がついたら喉元に刃物を突きつけられていた、という状態になってもおかしくなかった。遥か彼方の遠い国、と説明されたところで安心できるものではない。第一、その言葉を信用して良いものか否かもわからないのである。
 隻眼のザドゥはこの地の守護を任された者として、考え考え疑問を口にした。
「だが呪術師殿は、それにお客人もここに来たという事は、そんなに遠方の国でないのではないか? 地図にも載っていない、存在すら知られていない国という説明は納得しかねるぞ。少なくとも地続きでない限り、そう簡単に他国を訪ねる事は……」
「貴殿の知る呪術師は、いきなり姿を消したり、いるはずのない場所に突然現れたりはしなかったか?」
 相手の台詞を遮って発言したルーディックは、言葉に詰まった剣士の表情を見て、蜘蛛使いがそれらを彼の目の前でやって見せた事があると確信した。
「我々は、と言っても一部の能力の高い者に限られるが、一瞬で空間を跳ぶ術を身に付けている。その気になれば一日で何ヶ国も移動できる。距離は問題にならない。地続きである必要もない。俺は国を出てから三日でこの地に辿り着いた。ケアスの気配を探りながらだ。初めから行き先をこの国に定めていれば、たぶん一分とかからず移動できたろう。そういう事だ」
 ヤンデンベール城塞の責任者は、ルーディックの台詞が終わると同時に血相を変えて椅子から立ち上がった。手は、今にも剣の柄にかかろうとしている。ルーディックは座ったまま、ぼんやりとそうした男の様子を眺めていた。何の危機感も恐れもなく。
『何故逃げない?』
 殺気に反応して、異界の魔物が内から呼びかけてくる。
(……斬られないからだ)
 心の中でルーディックは答える。正面に立つ相手が、理性を総動員して剣を抜くまいと堪えているのは明白だった。得体の知れない外の国から来た、常識外れの能力を持つ者を前にして。普通の人間ならまず間違いなく悲鳴を上げ、切りつけていたに違いない内容を聞かされてなお、声も出さず、感情に従わず。
「……斬らないのか?」
 淡々とした口調で、彼は問いかける。
「俺は斬られても当然な事を口にした自覚があるんだが。こんな存在は国を守る立場にある人間としちゃ、とても生かしておけないだろう?」
「………」
 隻眼のザドゥは、溜め息をついて拳を握りしめる。
「たとえこちらが斬ろうと動いたところで、お客人は剣など届かぬ場所に移動できたはずだ。ならば抜くだけ無駄というものではないかな」
「それはわからないぞ。不意打ちなら移動し損ねて斬られたかもしれない」
 剣士の顔を、苦笑がよぎった。
「今は不意打ちなぞできる状況ではなかったが」
「それもそうだな。正面からで、しかも剣を手にするのをためらっていた。……どうしてだ? こんな不気味な存在は斬っておくに限ると思うんだが。少なくとも俺が貴殿だったら、殺しておかなければ安心できないぞ」
「殺しても安心できはしないだろう? 正体不明の知られざる国の、能力未知数の人間相手では。それにまぁ」
 どっかと腰を落ち着け、褐色の肌の剣士は呟く。
「お客人からは、こちらに対する害意がまるで感じられなかった。理解を越えた能力を貴殿が持っているにせよ、自分に害を為した訳でもない、無防備に座っている人間を斬るなど、剣士のやって良い事ではない。そんな振る舞いをしたら、俺は自分を許せない」
「………」
 今度はルーディックが沈黙する番であった。ややあって、彼は頭を下げ感謝の言葉を述べる。心底ありがたいという思いがあった。この城塞の責任者がこういう人物であって良かったと、巡り合わせを嬉しく感じていた。
「お礼と言っては何だが、貴殿には特別に王が命じた内容を打ち明けるとしよう。命令を漏らした事がばれたらどういう目に合わされるかわからないが、この際だ。構わん」
「……お客人」
 良いのか? と狼狽する相手にルーディックはいいんだ、と笑う。
「実際、俺がここへ来るまでに耳にした僅かな噂だけでも、この国があの命令内容に全く無関係とは思えぬ事だしな」
 そうして彼は隻眼のザドゥの耳に唇を寄せ、小声で命じられた内容とそれに付属する事柄を暴露した。城塞責任者の顔は囁かれた情報の重大さに強張り、その眼差しは見る者を残らず威圧する程に厳しさを増していく。
「……真実か?」
 聞き終えた直後、彼は問いかけた。疑問ではなく確認の意味で。ルーディックは頷く。
「ケアスに会わせてもらえるか?」
「……手配しよう。今すぐは無理だろうが、説得する。人質に取られたお客人の身内の名は、レアールと言うのだな?」
「そうだ」
 偶然だな、と剣士は笑う。
「カザレントを代々治めてきたカディラ一族の始祖の名も、レアールだった。銀の髪の男装の美女で、王族の最後の一人を守り人外の力を奮ったと記録されている」
 案外、と彼は言った。
「案外大公家の御先祖様は、お客人の国の出だったのかもしれんな」
 そうかもな、とルーディックは相槌を打つ。自分の軽口が半分は真実を言い当てている事を、隻眼の剣士は知らない。そしてルーディックも、その辺の事情を知らなかった。カディラ一族の始祖たる女性が、本来なら教育係として彼の現在の器である妖魔を育て、百年共に暮らす任務に付いていたはずな事を。蜘蛛使いの個人的思惑が絡んだ妨害によってそれがならなかった事実を、彼は全く知らなかったのである。

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