断罪の瞳3《1》


 褐色の手が、伸ばされていた。自分に向けてまっすぐに。
 来い、と呼びかける声がする。どこか懐かしさを感じさせる声が。
(……大きな手だなぁ)
 ぼんやりとそんな事を思いながら、彼はその手の先へ視線を向ける。腕、肘、二の腕、そして肩。そこまで見ただけでも、相手が大柄で筋肉質な逞しい男性であるとわかる。自分とはまるで違う、恵まれた肉体の持ち主。
 褐色の手が、僅かに近づく。呼びかけている相手が、自分の方へ足を踏み出したのだ。それだけの事が何だかとても嬉しくて、自由にならない身体をもがかせ、必死に腕を伸ばす。
 手を差し伸べている男の顔は見えなかったが、彼は相手が誰であるかわかっていた。その大きな手が、自分を決して裏切らないと知っていた。何が起きようと信じられる味方であると。
(この手を取れば)
 きっと幸福になれるはず。そう、理由もなく確信する。差し伸べられた手を掴めば、自分は幸福になれるのだ。誰に疎まれようと憎まれようと、この手の主だけは自分を認めてくれる。己の性格が歪まぬ限り共にある、と剣に誓ってくれたのだから。
(届かない? なんで……)
 伸ばした腕は、相手の手に届かない。しかも徐々に、鉛の如く重くなっていく。霧が周囲を包み、褐色の手が視界から消える。
(嫌だ、消えてしまう)
 いう事をきかぬ腕を、必死に彼は伸ばす。自分へと差し伸べられていた手を求めて。霧が、視界の全てを覆う。呼びかけていた声は、もう聞こえない。
(嫌だ……っ!)
 あの手を掴みたかった。自分をこの霧の中から抜け出させてくれる手を。あの手を取れば戻れる。自分が生きたいと望んだ世界へ戻れるのだ。
 霧が、黒い影となり、悪意に満ちた何かに変わる。
(何……?)
 強烈な圧迫感だった。頭蓋骨を砕かれたような痛みが走る。そしてゆっくりと、意識が浮上した。夢から、現実へと。


「………」
 目を覚ました彼は、心臓の鼓動をなだめる為に深く息を吸っては吐いた。幸い、顔だけは外気に触れている。それ以外は全てのしかかっている妖獣の下にあったが。
 夢で感じた圧迫感は、妖獣の下敷きにされているせいだった。丈は人間の倍近く、胴回りは三倍に匹敵する妖獣の重量は半端でない。
 肺に送り込まれた空気は、はっきり言って良いものではなかった。血臭や汚物による悪臭と、妖獣の放つ雄の臭い。更に地下の黴臭さが混じりあって、澱んでいる。
 耳を澄ませば、聞こえるのは妖獣の恍惚とした雄叫びや肉を咀嚼する音のみで、人の悲鳴や呻き、逃れようと足掻く音は全くしなかった。どうやら、今回も生き延びたのは自分一人らしい。
 最初にこの地下室で目覚めてから、どれほどの日々を過ごしたのか彼には定かでなかったが、天井の引き戸が開けられ捕らわれた人々が投げ込まれた回数は、既に十を軽く越えていた。
 地下に投げ込まれる人々は、殆どが十代から二十歳前後の若者だった。しかも男女を問わず衣服を剥がされ、肌着一枚の姿で両の腕を背後に回され縛られている。
 目覚めて程なく、彼はここがゲルバの占領下に置かれたイシェラの一地区であり、この地下室はゲルバの軍勢に同行している妖獣達の為の遊び場兼餌場であると知らされた。投げ落とされた時点ではまだ正気を保っていたイシェラの女性の説明と、目の前で見せつけられた光景によって。
 投げ込まれた際に首の骨を折るなどして亡くなった者達は皆、間を置かず降りてきた妖獣達の胃袋に収まった。死んで喰われた彼等はまだしも幸運だった、と言えるだろう。その後の悪夢は体験せずに済んだのだから。
 妖獣達の食欲が完全に満たされた後の地下室は、生き残っていた犠牲者達の悲鳴で溢れた。そして数時間後、満足し切った妖獣達が跳躍して地下室内部から去った時には、投げ込まれた人々の半数は体の一部をちぎられて死にかけ、残り半数も正気を失っていたのである。
 ゲルバの兵士は、妖獣の餌兼玩具として捕らえたイシェラの若者達を餓死させようとは思わなかったのだろう。日に一度は、水を詰めた何本かの瓶と残飯を放り込んだ鍋を籠に入れ、地下室の床まで降ろしてくれた。
 だが、食物を口にする気力が残っていたのは前からここにいた彼一人で、他の人々は立ち上がろうとさえしなかった。実際、人としての尊厳とか誇りとかを持っていたら、この食事には耐えられないだろう。残飯云々以前に、手を背中で縛られている為、犬猫のように顔を鍋に突っ込んで、舌ですくい上げ食べるしかないのである。水に至っては、瓶の先端を歯でくわえたまま身体を傾け、胸の上に瓶本体を乗せた状態でのけぞらねば飲む事はできなかった。
 そんな真似をしてでも生き延びよう、脱出の為の体力をつけようという根性は、イシェラの恵まれすぎた環境で育った若者達にはなかったのだ。妖獣は弱った獲物から先に食べていく。二日目には彼等の数は三分の一に減り、三日目が終わる頃には彼一人。そして四日目、新たな犠牲者が投げ込まれ、同じ事の繰り返しとなる。
 十数回目の今度も、生き延びたのは己一人。明日になれば、ゲルバの兵士は捕らえてきた者達を引き戸を開けて投げ込むだろう。妖獣達はいつものように即死した者をまず口にし、腹が膨れたところで遊びに移るのだ。
「………」
 上にのしかかった妖獣が重い。背後に回された腕の感覚はとうになくなってしまっている。彼は開けられたままの天井の引き戸に眼をやり、そっと溜め息をついた。縛られた両手が自由になり、あそこまで跳べる日は来るのだろうか、と。




◇ ◇ ◇


「……王」
 突然空を裂いて現れた予期せぬ来客の姿に、マーシアの少女めいた顔が曇る。同行していた半魔のミルファは緊張の余り身を強張らせ、猫のような耳と尻尾をピンと立てたのみならず、毛を逆立たせていた。
「こんにちは、愛しのマーシア。お散歩の途中かな?」
 何百種類もの花々で埋めつくされた庭園の石畳の上に笑って降り立った美貌の男を前にして、淡いラベンダー色の髪を垂らした女妖魔はしらじらとした眼差しを向ける。それから、膨らんだ腹部を庇うように腕を回し手を重ねると、頭の中に浮かんだ台詞の中で最も当たり障りのないものを選び、口にした。
「……そんなくだらない冗談をおっしゃりに、仕事を放り出して来たんですの? お暇な方ですこと」
 妖魔界最強の能力者にして創造主に対しこんな口をきく存在は、魂が人である紅の髪の側近を除けば彼女だけ、であろう。それが許されるのも、おそらく彼女ともう一名のみなはずだった。現在は。
「それほどくだらなくはないと思うが、用件は別にある。レア……いや、あれはここを訪ねてきたかな?」
 親指で顎を掻きながらの王の言葉に、マーシアは一瞬眉尻を上げ、次いで背後のミルファへと屈み込み、耳に口を寄せ頼み事をした。
「ごめんなさいミルファ。悪いけど、先に邸に戻ってお茶の支度をしてくれないかしら」
「え? でもマーシア様、今日のお茶の当番は……」
 半魔は契約を交わした妖魔の主の元で雑事を担当するが、蜘蛛使いの邸のように半魔の数が多いと、仕事が与えられない者も出てしまう。それ故、当番制の仕事がいくつか用意されていた。お茶当番も、その一つである。
 家事全般を得意とする半魔達も、各々味の好みは異なる。よって毎日のお茶は当番に当たった半魔次第で葉の種類が変わり、出される菓子も別物となるのだった。
 今日の当番のリマーンの定番は、香りの強い葉を使った濃いめのお茶と、歯ごたえのある固めの焼き菓子だ。ミルファが出すミルクいっぱいのお茶や、果物をたっぷり乗せた柔らかめのタルトとは違う。
 幼い顔立ちの半魔の困惑を見て取って、微苦笑を浮かべマーシアは囁く。
「そうね。リマーンにはこう言ってくれるかしら? 私とお客様はリマーンのお茶と焼き菓子をいただきたがっているけれど、お腹の子供はミルファのお茶とお菓子を欲しがってるの、って。あら、でもこれじゃ私が太ってしまいそうね」
 笑うマーシアにつられて微笑んだミルファは、安心したように会釈してひょこひょこと邸へ戻っていった。その後ろ姿が見えなくなったところで、今や蜘蛛使いの邸の主と化した女妖魔は王に向き合う。
「早速ですけど、どこか座って休める場所で話をしませんこと? さすがにこのお腹で長時間立ち続けるのは、足がむくんで辛いんですのよ、王」
「いや、そう長引かせるつもりはないのだが……そんなに辛いものなのか?」
 まじまじと膨らんだ腹部に注目した王に対し、マーシアはこっくりと頷く。
「自分のお腹に他人を一人、常にくっつけた状態で行動する事を考えれば、この辛さはわかっていただけると思いますけれど? もう背中も腰も重みに耐えかねて、骨が悲鳴を上げてますの。自分が望んで得た生命でなければ、とっくに消えてもらってるでしょうね。なにしろ今では、朝自力で体を起こす事すら難しいんですもの」
「なるほど」
 納得した王はひょいと彼女を抱き上げ、そのまま庭を歩いて移動する。
「お、王?」
 焦ったマーシアの顔を覗き込み、王はにこやかに笑いかけた。
「それだけの重みがこの細い両足にかかっていては、歩くのも辛かろう?」
「そ、……それはそうですけど、運動不足もまずいんですのよ。だから散歩してましたのに。きゃっ、ちょっと王、どさくさまぎれに腰を撫でないで下さいなっ!」
 抗議と同時に頬をひっぱたかれ、王は苦笑する。それでも、彼女を地面におろそうとはしなかった。
「では帰りには歩いてもらうとしよう。この程度の役得は見逃してほしいものだな、マーシア。これでもずいぶんと自制しているのだから」
「私の知ったことではありません」
 つんとそっぽを向かれ、王は僅かに苦い表情を見せた。
「貴方はいつだって、充分に好き勝手をなさってますわ。ケアスの身を楯に私を脅し、強引に側近の地位へ就けた事を始めとして、その後の行動のどこに自制があったとおっしゃいますの? いいえ、それ以前の行動にしたところで……」
 マーシアは唇を噛み、王を睨む。
「私は貴方と蜘蛛使いのせいで、ロシェールに死なれてしまいましたわ。貴方と蜘蛛使いによって、幼馴染みの大好きだったケアスを奪われましたわ。そして貴方は更にケアスの姿も名も奪い、この世界から追放しました。それから、私に居場所を提供してくれた蜘蛛使いを邸に帰す事なく、別れの言葉を言う余裕すら与えず異界へ放逐なされましたわね。これだけの事をしながら何を自制なさってると?」
 叫んで、マーシアはハッとしたように腹部を庇う。
「この子……、この子を消さずにいた事が貴方の自制ですの? 先に言っておきますわ。この子を消すのでしたらそれは、私に死ねと命じたも同じです。王が私を憎く思われるのでしたら、そうなされれば良いでしょう」
 涙を浮かべたマーシアに、王はひどく複雑な表情を向けた。
「私はそなたを憎んでなどいない、マーシア。だのに腹の子を消せば憎んでいる事になるのか? そなたに死ねと命じた事になると……」
「ええ、そうなります」
「何故?」
「王」
 マーシアはキッと王を見据え、呟く。
「こうした答えは他者に聞くものではありません。自分で考え得た答えでない限り、本当の意味で納得する訳はないのですから」
「……」
 王は暫しマーシアを見つめ、それからホゥと息を吐いて呟きを漏らした。
「どうも……、まずいな」
「何がです?」
 小首を傾げたマーシアの頬に唇を寄せ、王は囁く。
「本気で、貴女を好ましく思いそうだ」
「………」
 マーシアの顔から血の気が引いた。自分の為にケアスが被った被害、今日までかけられたちょっかいの数々、自分と関わったが故に蜘蛛使いが受けた嫌がらせ。あれで自分への想いが本気でなかったと言うのなら、本気になった後はいったいどういう事になるのか? 恐ろしさに、彼女は想像を放棄した。
 性格の悪い男性への対処法は、ケアスの相手でかなり学んだつもりだったが、王の場合悪さも捩れ具合も単純なケアスの比ではない。さすがは妖魔界を統べる王、と感心すべきなのかもしれなかったが、今のマーシアにその余裕はなかった。
 木々に囲まれた東屋までマーシアを運んだ王は、そこで彼女の体をおろし石造りのベンチへと座らせると、自身も向かい側に腰かけた。サワサワと木々の葉が擦れあう音以外、何も聞こえぬ静かな場所である。湖に漕ぎ出した小舟の上同様、内緒話をするには適した場と言えた。
「ルーディックの事で何かお話でも?」
 沈黙を嫌い口を開いたのは、マーシアの方である。どう切り出すべきか迷っていたらしい王は、少しホッとした顔になった。
「あれの事をそなたはルーディックと呼ぶのだな」
「肉体はどうあれ、中身はケアスの教育係だった人ですもの。本来の名で呼ぶべきでしょう?」
「だがあれはレアールでもある」
「そのレアールとしての記憶が欠片もない以上、同じ者として見なされるのは耐え難いと思いますけど。私でしたら嫌ですわ。ある日目覚めたら自分が自分でない肉体に閉じ込められていて、貴方はこの器の前世の魂だったのだから、暫く代わりにその肉体を維持してほしい、などと告げられ別な名で呼ばれるのは」
「そうなのか?」
「普通はそうだと思います。王は平気ですの?」
「私に限って言えば、そうした事態は起こりえぬからな。考えた事もない」
「では、少しばかり想像力を養って下さるようお願い致しますわ」
「難しい注文をする」
 苦笑する王に、マーシアは意思の疎通がなされないもどかしさを覚え眼を伏せた。
「それができないとおっしゃるのでしたら、いっそ放っておくのが思いやりというものです。側近として側に置き監視するのではなく、どこかあの人の行きたい所へ行かせてやるべきでした。他人の体に閉じ込められているだけでも充分不幸な方へ、あんな負担を背負わせる事はなかったはずです」
「……どんな負担だ?」
 訝しげな王に、マーシアはまさかと疑いの眼差しを向ける。
「いくら何でもご存知なかった、などとはおっしゃいませんわよね? 王。私よりは頻繁に彼と顔を合わせていたのですから」
「だから、私がどんな負担をあれに負わせたと言うのだ。マーシア」
 王はとぼけている様子ではなかった。マーシアは脱力し、唇を噛む。
「ご存知なかったのですか。蜘蛛使いの魂が長らく封じていた異界の魔、彼が他者を犠牲にして代替りし続けねばならなかった原因のそれが今、ルーディックの内にあって日夜あの人を苦しめ、心を蝕んでいますのに」
「ああ、負担とはその件か」
 あっさりとした王の口調に、産み月を間近に控えた妖魔の眉が跳ね上がる。その件か、ですって? と。
「……ご存知で放置しておりましたのね、王」
「放置ね。まあ、放置になるか。あれが知られたくないと隠していた以上、気づかぬ素振りでいるより仕方がないと思うが」
「たとえルーディックが知られまいと隠していたにせよ、お気づきになった時点で救って差し上げるべきではありませんの? 彼はあんなにも苦しんで、日を追う毎にやつれてきてますのに!」
「私の部下でもないのに、救えと言うのか?」
「!」
 マーシアの表情が凍りつく。王は気にする様子もなく語り始めた。
「あれがそう言ったのだよ。側近の地位など名目上のもので、私の部下になった覚えはない、と。ならば私に救えというのはおかしな話ではないか。部下でもない男を、頼まれもしないのに魔から解放してやれと?」
 側近の紅一点たるマーシアは、王の言い草に拳を震わせ立ち上がる。彼女は心底怒っていた。相手の無神経さに、腹が立ってならなかった。
「矛盾しておりますわ! 部下ではないから救う必要がないと言うのでしたら、何故会議の席で人間界の視察を彼に命じましたの? 部下でもない相手に何故っ!」
「なるほど、そうきたか」
 王は苦笑し、一転して冷ややかな眼差しを向けた。ただしそれはマーシアにではなく、その場にいない誰かに、であったが。
「何故と訊く程の事もなかろう。答えは決まっている。単なる退屈しのぎ、それだけだ」
「お……」
 絶句し、立ちつくすマーシアを不意に王は抱き寄せる。
「あれはな、妖魔でも人間でもなく、同時にそのどちらでもある、極めて興味深い玩具なのだよ。マーシア」
「王……」
「異界の魔物も、それ故に殺す予定を変更して内に留まった模様だが。もっともあの魔物は長期に渡って蜘蛛使いの魂に封じられていたものだから、妙な影響も受けてしまっているらしい。玩具の好みも扱い方もほぼ同じなら、行き着く先もおそらく同じ様なものだろう。前に覗いた時はまだ制御できぬまま破壊衝動や征服欲をあの身体に向けていたから、受け止める側のあれもさぞ辛かったろうが、じきに手加減を覚えて対処を変えるはずだ」
「覗いたって……、それじゃルーディックは!」
 背中へ回された腕に息苦しさを感じながら、マーシアは叫ぶ。全てを知られ、一部始終を見られていたというのなら、ルーディックのこれまでの忍耐も努力も、一切が無駄という事になる。
「異界の魔物は、蜘蛛使いに対しては封じられていた間に反感を持ったようだが、あれに対してはそうした感情を抱いていない。なにしろその肉体を使って風を感じる事も香りを嗅ぐ事もできるし、風景も見られる。周囲の音もはっきり聞けるし地面の感触を楽しむ事も可能だ。一番初めに器にされた蜘蛛使いの能力では、魂に封じなければ影響を抑え切れなかったが、あれの場合肉体を共有していても外見上の変化はない。精神も乗っ取られてはいない。しかも完全に解放する事はなく、被害を己のみに留めている。この世界にとっては誠にありがたい話、ではないか?」
 マーシアは必死で首を振る。そんな風に考えたくはなかった。たった一人を異界の魔物の犠牲にし生きた玩具として提供しながら、それで良しと済ませるのは余りに卑怯と思える。しかも犠牲にされたのは、本来妖魔界の住人ではない存在なのだ。
「誤解してもらっては困るが、マーシア。私はね、あれが助けてくれと懇願してくるようなら、すぐにでも魔物から救ってやるつもりでいたのだよ。だのに一向に頼ってはくれないのだから、全くつれない男だ。あんまりつれないから、ついまた意地悪をしてしまったのだが、その件に関してあれは貴女に何か告げ口していかなかったかな? これが本日の訪問の用件なのだが」
 口調だけはいかにも優しく、王は尋ねる。マーシアは身を震わせ、もがきにもがいてようやくその腕から逃れた。腕をほどかれた相手は、穏やかな笑顔で彼女を見つめている。表情から、本音を窺う事はできなかった。
「あれは何も言わなかったか? マーシア」
 支柱に縋り、辛うじて立っている相手に王は問う。淡いラベンダー色の髪を一房、鷲掴みにして。
「何も言わずに去ったのかな? ここまで来ながら」
「あ……」
「何も聞かなかったかい? マーシア」
 マーシアの視界が、暗く陰った。王の瞳が、彼女の青い眼を覗き込んでいる。
「彼は……、先日の会議で人間界の視察を命じられたと言っておりましたわ。妖魔界とあちらの界が離れた事による影響や、人間界に取り残された妖魔の動きを調べろと」
「ふむ、それで?」
「先に送り込んでおいた蜘蛛使いと接触し、協力を要請するよう貴方から言われた件でしたら聞かされましたわ。でもそれだけです。私が聞かされたのはそこまでですわ。あとはただ……」
「ただ、何かな」
 マーシアはスウッと息を吸い、気を落ち着かせた。おそらくこれから口にする内容は、王が予想もしていない事柄だろう。だがそれは、彼女が知っていた五百年前のルーディックと現在の彼を、確かに同一人物なのだと認識させた、そんな申し出であった。
「あの人は、私にこう言いましたわ。自分は側近としての経験がないから仕事をどう行うべきかわからない、そうである以上、個人的な感情は抜きにして蜘蛛使いと会わねばならないだろう、と。それで私に、何か彼に伝えたい事があるのならと申し出て下さいましたの。必ず伝えるからと。ええ、彼は貴方の命令に従って、己の仇に任務の協力を請う気でおりましたわ。これでよろしいですかしら、王。私が聞いた話は、以上です」
「……なるほど」
 頷いて、一頻り苦笑すると王は背を向ける。
「いったいどんな意地悪をなされましたの? 王。彼はそれについては何も言いませんでしたわ。まさか仇への協力要請といった些細な嫌がらせを称して意地悪、とは言いませんでしょう?」
 マーシアの詰問に肩を竦めた王は、答えを返さぬまま花々に彩られた庭園を進む。転ばぬよう腹部を庇いながら、急ぎマーシアもその後を追った。男の歩幅に合わせしかも追いつき並ぼうとすると、女の足では自然小走りになる。背後の彼女の息づかいがやや苦しげなのを耳にした王は、足を止め追いつくのを待って、来た時と同様にその身体を抱き上げた。
「予定変更だ。運動不足になると貴女は言うだろうが、用意されたお茶が冷める前に戻った方が良い。せっかく支度をして待っている、二名の半魔をがっかりさせぬ為にもな」
「………」
 抱き上げられたマーシアは、自分を抱え足早に進む男を茫然と眺めつつ、心の内で溜め息をつく。ますますこの王が理解できなくなってしまったわ、と。

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