断罪の瞳2《4》


 粉雪の舞う薄紫の闇に包まれた夜の森を、少年が泣きながら駆けていく。
「ローレンっ!」
 その名を呼んで後を追うのは、粗末な男物の衣服を身に付けた年長の少女だった。背丈は、前を行く少年より頭半分ほど高い。
「戻って! ここはカザレントとの国境に近いの。また妖獣が現れるかもしれないんだから一人になっちゃ駄目。戻りなさいったら。ローレンっ!」
 少年は、チラリと振り返ったものの駆けるのをやめなかった。子供の足とは言え、走る速度は早い。舌打ちしながら追う少女は、疲労もあってその後ろ姿を見失わないようにするのが精一杯だった。
 少女の名はアディス。ゲルバの王都から遥かに離れた地に建てられた、国立孤児院第十三施設の出身であった。
 ゲルバという国では、捨て子はさして珍しい存在ではない。子供が大きくなるまで育てられない、貧しい階層の人々が全人口の七割を占めるのだ。生まれた子供が自力で働ける年齢まで生活を維持できれば良いのだが、大抵の親は最初の子か二人目までを養うのが精一杯である。その後は、どう頑張ってももう育てていけなかった。
 アディスは、都市部に住む日雇い労働者の夫婦の間に生まれた、三人目の子供だった。彼女が生まれた時、両親は恐ろしく苦悩し、頭を痛めたものである。何しろ長女は七歳、長男は四歳になったばかり。ここでアディスまで育てるとなったら、七歳の長女を娼館にでも売り飛ばすしか道はないという状況だったのだ。
 その日暮らしで生きてきた夫婦は、これまで苦しい思いをしながら必死に育ててきた娘を手放すのは、どうしても嫌だった。長女には七年分の思い出と、比例する量の愛着がある。育つかどうかもわからない、生まれたばかりの赤子の方を手放す事を選んだのは、当然の成り行きであったかもしれない。
 アディスは生後一週間で役人の立ち合いの元、御城主様への献上品として登録され、その証拠として手の甲に焼き印を押された。そしてささやかな支度金と引き換えに、一歳の誕生日を迎え次第、城へ身柄を引き渡すという契約が交わされたのである。
 献上品として城主の城へ運び込まれる子供達は、毎年何人かいた。その年齢は一歳から八歳ぐらいまで、実にまちまちである。赤子の時点で諦めて手放す事を決意する親もいれば、育てるつもりで手許に置いて、結局このままでは一家心中するしかないと泣く泣く登録を申し出る親もいるからだ。
 見目の良い子であれば、一年かそこらで買い手が付く。買っていくのは主に我が子の遊び相手兼召し使いを必要とする大貴族、もしくは未来の売れっ子を求める娼館の主人、あるいは幼児趣味の富豪等であった。
 代金は全額城主の懐に入るので、何年か養ったところで損はない。食事は城内で働く者達の残り物だし、与える衣類は善意の寄付によるお下がり品ばかりなのだ。支出は殆どない。生きた献上品を売買する事は、国が各地の領主に認めた正式な副業であり、彼等の貴重な収入源でもあったのである。
 しかし、献上品の中には何年経とうと買い手が付きそうにない者もいる。小さなアディスは、城に入って二年目でそう見なされた。櫛もまともに通らない、ゴワゴワした人参色の髪と、顔いっぱいに散ったそばかす。愛敬はあるが、ごく平凡な顔立ち。怪我をしてもすぐ治る丈夫さだけが取り柄では育てるだけ無駄、と判断された彼女が孤児院送りになったのは、三歳の誕生日から数日後の事である。
 これでアディスの将来は、奴隷となり国の為無料奉仕で死ぬまで働くよう決定づけられたはずだった。事実、そのように彼女は孤児院で監視員の中年女性から教えられたのである。また同様の運命を辿る仲間は、周囲に何人もいた。
 孤児院の前に捨てられていた子や、親を亡くして浮浪児となり収容された者、そしてアディスと同じく焼き印を手に押され、不要と見なされて城から送り込まれた子供も。
 第十三施設でアディスが仲間と共に学んだのは、魚のさばき方と野菜の刻み方、畑仕事や動物の皮を剥いでなめす事、木の板を使って簡単な家具を組み立てる技術、それから飢えと寒さに耐える心、だった。
 孤児院では、冬の最中でも経費節約の為、子供達が暮らす大部屋の暖炉に薪が入り火が焚かれる事は滅多になかった。食事は、国から支給される援助金だけでは全員の食べるパンを焼く分の小麦を買って終わりとなる。故に庭の畑で豆や野菜を育て、それを少しずつ食べて凌ぐのだが、一人当たりの割り当てはごく僅かで、子供達は常に飢えを感じ、冬場は寒さに震えていなければならなかった。
 風邪を引き体力が低下した子供が、夜中に寒さで凍死するのは良くある事で、毎年冬を迎える都度に、施設の裏庭の墓は三ないし四つ増えていった。それが、十一の年までにアディスが知った社会であり、世界の全てだった。
 だが、今の彼女は違う世界を覗いている。
「戻りなさい、ローレンっ!」
 上り坂の途中で滑って転倒し起き上がろうとしていた少年に、やっとの事で追いついた少女は叫ぶ。と同時に、腕を伸ばし背後から少年を抱え込んでいた。
「泣いたって状況は変わらないんだから。観念して先の事に眼を向けなさい。いい? 貴方がここで泣こうが凍死しようが、最悪妖獣の餌になろうがよ。それで貴方の大事な叔父様が生き返る訳でも、カザレントへ一緒に行ける訳でもないの。わかった?」
 息を切らしながら語りかける相手に、少年は涙で濡れた頬をこすり反論する。

「あ……、アディスなんかにそんな事言う権利ないよっ! 金で雇われたハンターのくせに、襲ってきた妖獣を全部倒せもしないで僕だけ連れて逃げて! それでルノゥを妖獣に食べさせておきながら、何を偉そうにお説教するんだっ!」
「!」
 アディスは反射的に唇を噛む。国境に程近い城塞都市ギザンを迂回する形で通りすぎ、山道に入った途端襲ってきた三匹の妖獣。うち二匹を辛うじて倒した時、力を殆ど使い果たしたハンターの少女は、立っている事さえ辛くなっていた。そんな彼女に、ローレンを連れ安全な場所まで逃げるよう命じたのは、少年の叔父ルノゥだったのである。
『時間稼ぎくらいはできるよ。行くんだ、アディス。ローレンを連れて逃げておくれ』
 肩に妖獣の鋭い牙を受け、衣装を血に染めながら笑った、ファウラン公爵の異母弟。儚げな印象を見る者に与える、淡い灰色の髪と水色の眼をした彼女の雇い主。
「離してってば。アディスの言う事なんかこの先いっさい聞きたくない。どうしてあの時ちゃんと戦わなかったの? どうしてルノゥを助けてくれなかったのっ! 助けてって頼んだのに……あんなにいっぱい頼んだのに!」
 黙りこくったアディスに対し、少年はなおも怒りの言葉を放つ。身をもがかせ、腕から逃れようと手足を振り回す。押さえるアディスの、手が震えた。
 命じられるまま、雇い主の甥に当たる少年を連れて林の奥へと入り、雪の中に穴を掘って気配を消し隠れること数時間余り。少年から戻ってと哀願されなくても彼女自身、あの青年の身が心配でたまらなかった。
 自分一人なら構わずあの場に留まり、まともに使いこなせない剣を手にしてでも戦ったろう。雇い主であるルノゥと一緒に死ねるなら、本望だった。だがアディスには、まだ守るべき者が残されていたのである。恐怖に凍りつき、雪面に座り込んだまま動けずにいたローレンが。そしてルノゥも、この甥だけを守ろうとして妖獣の前にその身を晒し、牙を受けたのである。
 嫁いできた時には既に身重だった兄嫁が産んだ、最初の子供。片親しか血のつながらない兄の、更にまた血のつながらない息子。それでも彼にとって少年は、大切な家族の一員だった。自分と同じ立場の幼い同胞。家族からはじき出された異端の存在。それがルノゥであり、ローレンだったのだ。
 カザレントの首都、カディラの都まで二人と同行する契約を結んだアディスは、これまでの道中で雇い主ルノゥから、彼等が隣国への亡命を決意するに至った理由や経緯を教えられていた。
 国王が政策面で対立していたファウラン公爵に刺客を放ち、遂には妖獣を使って王宮からの帰途を襲わせ殺害した事。更に領地に残っていた身内の者まで部下に命じ始末させようとし、その魔手から逃れた彼等二人に追っ手を差し向けているといった事情を。
 一方でルノゥの甥ローレンは、もっぱら公爵家の内情を彼女に話して聞かせた。あのねアディス、これ秘密なんだけど、と前置きして。
 僕は一応ファウラン公爵家の長男とされているけど、実は父様とは血がつながってないんだよ。召し使い達がそう噂してたんだ。父様は優しいけど、お仕事で滅多に邸へは戻ってこないの。母様は父様が大好きだから、父様がいない時はぼんやりしていて誰が話しかけても上の空なんだよ。僕の事は、父様の子供じゃないからあんまり好きじゃなかったみたい。はっきり言われた訳じゃないけど、そういうのって何となくわかるよね。
 お祖母様は、父様の母上だけどいつも怖い顔をして周囲を睨んでて、僕を見れば小言を言って鞭で打とうとするから嫌い。いつだってルノゥが庇って、身代わりに打たれるんだよ。お祖母様はルノゥも嫌いなの。お祖父様が浮気して作った子供だから、ルノゥは生きていなくていいんだって、ルノゥの前でそんな事言うんだ。ねえアディス、ひどいと思わない? そのせいかな、僕お祖母様が殺された時少しも悲しくなかったんだよ……。
 そうした事を、彼女の耳に囁くようにして喋り続けたのだ。通りすがりの深く関わる事のない人間だから、という安心感があったのかもしれない。年下の少年の口は軽かった。おかげで今やアディスは、国王の親戚であるファウラン公爵家に関してだけはちょっとした情報通となっている。
 もちろん、本来ならルノゥはもっと経験豊富な大人のハンターを、護衛代わりにもなる男性を雇いたかったろう。アディスのような駆け出しの小娘ではなく。しかし、今のゲルバに妖獣ハンターは一人もいない。少なくとも公的には、そういう事になっている。
 前王が亡くなって五年。国王となったかつての王太子は、父親の信頼厚い忠臣だった従兄のファウラン公爵を毛嫌いし、難癖をつけてはその領地を削り取ったり、公式の席で無視する等の態度を取り続けた事で、貴族の間から芳しくない評価をされていた。前王に比べ人格的に劣っているのではないか、性格にずいぶんと問題のある方だ、これではゲルバの行く末が心配だ、と。
 加えて二年前、妖獣を思いのまま操る事のできる美貌の妖術師を雇い入れた件で、民からも良からぬ噂の的にされていた。うちの王様は妖術師の少年を男妾にした、前代未聞の好事家よ。そいつがいなけりゃ夜も明けぬと、誰が呼んでも寝室から出てこないとさ、といった具合に。
 そうした噂だけで済んでいれば実害もなく良かったのだが、現実に王はその妖術師へと深く傾倒し、換言する者全てを遠ざけたという。のみならず、妖術師の要望に応えて国内にいた妖獣ハンター全員に即時退去を命じ、従わぬ者を投獄、雇い主共々死刑に処したのである。
 その法令が発せられた当時、アディスはハンターとして駆け出しもいいところで、専用のマントさえ纏う勇気がなかった。それ故役人達に気づかれる事もなく、捕われも処刑もされずに済んだのである。
 もちろんルノゥに雇われた時は、一応目印となるハンター専用色のマントを付けていたのだが、否定すれば誤魔化し切れる程度の薄い色で、さほど目立つものではなかった。
 実際、マントを付けてから何度か役人の質問を受けたりもしたのだが、その都度上手く誤魔化して彼女は難を逃れていた。
 えっ? これ、ハンター用のマントの色? まあ、知らなかったわ。お店の人買う時そんな事一言も言ってくれなかったのに。ねぇ本当なの? ……これで役人はころりと騙されてしまうのである。
 少女の一人旅、という不自然さは親が亡くなって遠縁を頼りに行く途中、で済んだし男装の理由は女物の衣装で一人歩いていては道中余計な危険を招くから、で信用してもらえた。
 何よりアディスの外見は、ハンターに見える程強そうではなかったし、役人相手に嘘をついて誤魔化し切れる程利口そうな顔立ちもしていなかったのである。
 世の中、何が幸いするかわからないものなのだ。
 結果彼女は自由の身でハンターを続け、ルノゥやローレンと知り合う事になったのである。
 だが雇い主のルノゥはもういない。己の未熟さ故に犠牲にしてしまった。その事実は、誰よりもアディスが強く感じている。ローレンに責められるまでもなかった。泣き喚きたいのはアディスも同じである。ただ、それをしたところでどうにもならないと知っているだけなのだ。
 襲われた現場に戻った二人が見たものは、ズタズタに裂けたルノゥの衣装と雪の上に残るいくつもの血痕。
 骨すらも妖獣に食われてしまったのか、雇い主の遺体はどこにもなかった。
 最愛の家族を失った衝撃で少年はその場から駆け出し、追ったアディスは今ようやく彼を腕の中に押さえ込んでいる。
「離してってば。アディスなんか嫌いだ。ルノゥを返してよ。生かして返してよぉ……」
 ローレンはなおももがき、彼女への文句を口にする。アディスの眼から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。天使のような声をした、優しいルノゥ。綺麗で儚げな雇い主。会った瞬間に心惹かれ、守りたいと願った。真実この手で守りたかった。だのに彼はいない。もうあの声で語りかけてはくれない。微笑む様も見られない。アディス、と彼女の名を呼んではくれないのだ。
「……ごめんね。あたし……守れなくてごめんなさい。守りたかったのに……」
「……!」
 囁かれた言葉に、ローレンはもがくのを止める。顔が見えなくても、明らかに泣いているとわかる声だった。その事実に、少年は驚愕し戸惑う。
(泣かせた? もしかしなくても僕がアディスを泣かせた? 年上のハンターを、泣かせちゃったの?)
「え……、えっと、アディス?」
「ごめんね、未熟なハンターで。力が弱くて、守り切れなくて……。あの人を死なせてしまって、ごめん……なさ……っ」
「あ、あの……」
 ローレンの、興奮状態にあった頭がスッと冷める。この妖獣ハンターが、彼の名義上の叔父であるルノゥにほのかな恋心を抱いていたのは間違いない。奥手のローレンでさえそうとわかる程、態度や声音に現れていたのである。
 その恋する相手を、見捨てて逃げたかったはずはないのだ。そうするより他になかったから、自分を連れて彼女は逃げたのである。己の力不足を、誰よりくやしく思っているのはアディス当人に違いない。それを、自分は一方的に責めたのだ。ルノゥが知ったら絶対に嫌な顔をするだろう。彼は他人を不当に傷つける事を、何より嫌っていたのだから。
「アディス、……あの、さっきの嫌いは取り消すよ。ルノゥが命じたんだもんね、僕を連れて逃げろって。従っただけなのに責めるなんて間違ってた。ごめんね」
 アディスは背後からローレンを抱きしめたまま首を振る。そんな風に素直に謝られては困る、と彼女は思った。まるでルノゥのような気配りをこの少年に示されては、涙が止まらなくなるではないか。先程までのように詰られている方がまだましだった。それなら、これだから貴族のお坊ちゃまはーっ、人の苦労も知らないで勝手な事をぬかしてっ! と怒っていられたのに。怒る事で、自分を支えていられたろうに、と。
「ごめん。ルノゥを死なせたくなかったのはアディスも同じだよね。酷い事言ってごめんなさい」
「……っ!」
 アディスは少年の肩に顔を埋め、嗚咽を漏らした。優しいルノゥ、綺麗なルノゥ。その背中に白い翼がないのが不思議な程だった。初めて自分を女性として扱ってくれた相手。貴族に対する憤りと偏見を、一日で簡単に吹き飛ばしてくれた人。
 その人がもういない、その事実が辛かった。力不足から守り切れずに妖獣に食べさせてしまった事が、それをさせてしまった自分が、許せなくて情けなくてたまらなかった。
「アディス」
 ローレンの、手袋ごしでもわかる柔らかな手が、アディスの髪に触れる。
「アディス、泣かないで。ねぇ、僕のこと怒ってる?」
「………」
 アディスは顔を上げ、まじまじと少年を見つめた。涙で汚れた状態であっても、育ちの良さを窺わせる顔立ちをしている。それが少々癪だった。同様に涙でグチャグチャの自分は、とても見られたものではない顔になっているだろう。
 改めて見ると、ローレンはルノゥと直接血はつながっていないにせよ、雰囲気的には共通したものがあった。一緒に暮らしていれば人は、自然このように似通うものなのかもしれない。
「……もう一緒に行くの嫌になっちゃった? ルノゥがいなくなったから、僕のこと見捨てる?」
「………」
「カディラの都まで送ってはくれないの? 足手まといの面倒なんか見るのは、もう我慢できない?」
 アディスはハーッと溜め息をつき、濡れた頬を一擦りして呟いた。
「勝手に話を進めないでよね、全く」
「アディス?」
「契約は確かに貴方の叔父様としたけれど、お金は前金で全額貰っているの! つまりカディラの都にいる貴方のお祖父様の元まで届けない事には、任務は完了しない訳。あたしは力もろくにない下の下のハンターだけど、仕事を途中で放棄したりはしないわ。たとえ依頼人がいなくなろうともね。わかった?」
 ローレンはこくこくと頷く。次いで、両手を広げそばかす顔のハンターを力いっぱい抱きしめた。これにはアディスも絶句する。
「なっ、なっ、何……」
「ありがとう。アディス優しいね」
 離れたローレンは、にっこり笑って礼を言う。アディスの口許がヒクッとひきつった。お礼は良いんですけど、貴方あたしが女だってこと忘れちゃいませんかーっ、と彼女は内心で叫ぶ。が、あくまでも内心の叫びだったので、ローレンには全く通じなかった。彼は単に、素直に感謝の念を行動で示しただけだったのである。ルノゥに対して常にそうしていたように。
 相手が年齢の近い異性であり、ゲルバの一般庶民の女性なら既に結婚していてもおかしくない年頃なのだ、という感覚は欠片もない。
(鈍いっ。このお坊ちゃまは徹底して鈍いっ!)
 前途の多難さを思って、アディスは頭を抱える。しかし、このやっかいなお子様思考の同行者がいたおかげで、初恋の人の死に悲嘆に暮れ沈んでいる暇もなく、死の誘惑にかられず済んだ自分に、後日彼女は気づくのだった。
 取り合えず、己を叱咤しどうにか気を取り直したアディスは、手を少年に差し伸べる。
「行きましょ。ここまで来たら意地でも追っ手を振り切って、無事にカディラの都へ辿り着こうじゃない」
「うん」
 ローレンは少女の手を取り、後について歩き出す。
 だが、実年齢より身体も精神も幼い少年は、この時まだ知らなかった。カディラの都に滞在している母方の祖父が同時に曾祖父に当たる存在である事を。そして自分の実の父親の生みの母が、カザレント公妃である事も。その公妃の夫である現カザレント大公が、父の異母兄に当たる事実をも。
 ローレン・ロー・ファウランは先代ゲルバ国王の甥にして側近でもあったファウラン公爵を名目上の父とし、イシェラの第五王女ソーシアナを母として十二年間生きてきた。そして己の素姓を何一つ知らぬままカザレントに向かい、運命の扉を開いたのである。


◇ ◇ ◇


 窓から差し込んだ一条の光に瞳を射られ、夜が明けた事を知る。自分が眼を開けたまま失神していた事に気づいたルーディックは、意識して瞬きを何度か繰り返す。ヒリヒリした感覚が少し薄らいだところで、床に伏したまま肉体の損傷をチェックしにかかった。
(右肩表面と胸部に裂傷。加えて右上腕部骨折、左手首脱臼に人差し指と中指が火傷)
確認次第、癒しの力をその部分に向け治療にかかる。
(左肩甲骨にひび。両鎖骨が砕かれていて、右頸骨にもひびあり。それから……何ィ!)
「あ……」
 覚えのない部分の損傷に、顔面が紅潮する。が、癒さない訳にはいかなかった。
「あの異界の腐れ外道がーっ!」
 喚いて一呼吸すると、冷静に確認作業を行う。
(……股関節脱臼、両太股に鬱血、出血はなし)
「以上だな」
 確認を終えると溜め息をついて、鮮血色の髪をした妖魔は上体を起こし立ち上がる。妖力による治療を施した体は、先程まで重傷を負っていたのが嘘のように何の支障もなく動いた。便利なものだ、と皮肉な笑みが男の口許を掠める。
 気を失う原因となった破裂した内臓は、目が覚めた時には治っていた。どうやら生命に関わる損傷を受けた場合、意識がなくても身体が勝手に回復させてしまうらしい。少なくともこの妖魔の体は、そのようにできていた。
「これでは当分死ねそうもない、か」
 疲労にうんざりしながら、ルーディックは呟く。人間であれば、もう何度も死んでいるはずの状態に置かれているのだ。肉体も精神も眠りを欲しているのに、魔物は彼に眠る事を殆ど許さなかった。睡眠不足に悩まされた胃は、ここ暫らくまともに食事を受け付けようとしない。水だけで生きているようなものである。その上連日連夜、こうした傷をその身に負っているのだ。
(……あれを攻撃しなければ良いのだろう、たぶん)
 ルーディックが確認した傷は、一部を除けば全て自身があの異界の魔物に向け放った攻撃によるものであった。いかなる術をかけられたのか、最初の結合以降というもの魔物に対する攻撃は皆、己の体に跳ね返るようになっている。傷も、苦痛も、味わうのは自分だけだった。
(それでも……)
 それでも、何とか切り離せないものかと思い、諦め切れずに力を放つ。自身を傷つけるだけの攻撃を繰り返す。異界の、正体不明の魔物が己の内に同居し、しかも自由に分離しては肉体を弄び、嬲るのだ。そのくせ、決して完全にこの体から離れようとはしない。一部は常につながっている。それは手の甲だったり、足の指先だったり、時には唇だったりもするのだが。
 これでは個人の権利も何もあったものではない。四六時中監視され、管理されているに等しかった。しかもその扱いたるや、完全に女の代わりなのである。
 人間であれば、とっくに正気を失って死んでいるはずだった。が、妖魔の体は回復力といい基礎体力といい、人間の比ではない。一週間食事抜きで一睡もせず嬲られようと、正気のまま生きていられるのは既に実証済みである。そう簡単には、死にたくても死ねないのだ。王の側近にされる程の妖魔の身では。
『死にたいのか?』
 不意に異界の魔が問いかける。衣装の下で、ないはずの手が浮き上がり動き始めた。
「……腐れ外道」
 寝不足で痛む眼を閉じ、ルーディックはぼやく。
「夜が明けてしまった。今日は王と会う約束がある。王宮に戻るから消え失せろ」
『お前……、ずいぶんと口が悪くなった』
 背中や胸を這い回っていた手が、動きを止める。ルーディックは苛立ち、頭を振った。
「他人を毎昼毎晩玩具にして、血を見る度発情するような変態魔物と付き合っていれば、口が良くなる訳はなかろうっ! 失せろと言ってる!」
『………』
 手の形状の膨らみは衣装の下から消えたが、魔物の気配は去らなかった。
『お前、死にたがっている。死にたいのに……死ねないという。何故そうなる?』
「何故?」
 ルーディックは笑いを漏らす。この体は、レアールという妖魔のものだった。転生体と言われようが結局は他人の体である。自分の体は、五百年前に失われていた。ルーディックはあの時点で死んでいるのだ。死者の意思が、今現在生きている者の体を殺してしまって良い訳はない。いくら元は同じ魂であろうと、今は別個に分離している。そう、別々に存在しているのだ。
 その一方の魂が壊れて表層に浮かび上がってこないからといって、表面に出ている側が勝手をしていい事にはならない。少なくともルーディックの倫理から言えば、それはやって良い事ではなかった。
「死にたいのに死ねない、か。そうだ、俺は死ねない。レアールを道連れに死ぬ訳にはいかない……」
 それをやったら、自分は蜘蛛使いを非難する権利を失うのだ。憎む資格もなくなる。蜘蛛使いがレアールをどのように思っていたかは、王が戻ってくるまでの自分に対する態度で充分わかっていた。あの親切さも思いやりも、全ては己をレアールと勘違いした故のものだったが、それにしても昔を思えば信じ難い変化であった。
『レアールは死にたがってる』
 異界の魔は囁く。
『お前の意識がない間、たまにレアールが表面に出てくる時があるから知っている。あれは死にたがっていた』
 ルーディックは軽く首を傾げ尋ねた。
「死にたがってるとわかるような言葉を口にしたのか?」
『……、今度は死ぬから、ちゃんと死ぬから、もう苛めないでくれ、と言った』
 長い紅の髪を揺らし、男は苦笑する。
「それは死にたくないと言っているんだ。誤解するな」
『………』
「誰も苛めなければ、死ぬとは彼も言わないだろう」
 その時、ルーディックの内に閃くものがあった。彼は指を鳴らし異界の魔に提案する。
「いっそ新しい遊び方を試すのはどうだ? 俺が相手の時は今までと同じでもいいが、レアールの意識が表面に出た時は優しくしてやってなつかせてみろ。たぶん簡単になつくはずだ。絶対に面白い、と保証してやる」
『なつかせる……』
「そうだ。今まで誰かに好かれた経験などないだろう? 一度味わってみるといい。破壊より暴力より楽しい事が、世の中にはあるとわかるから」
『………』
 異界の魔の、気配が失せる。どうやら体内に戻ったらしかった。
 だが、消える寸前、魔物は答えを返していた。試してみよう、そう言ったのである。




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