断罪の瞳2《3》


 今日こそは正式なご返事を何としてもいただきたい。国元からの催促が矢のようになっている。もはや我々は待てない。待つ訳にはいかない―。
 その要求がカザレント大公ロドレフの元に届けられたのは、彼が朝食の席に着いたばかりの時だった。使者達がカディラを訪れてから、既に三週間は過ぎている。白い粉雪に覆われた銀世界の都は今も真冬の気配が強いが、南に位置する国ノイドアの海岸沿いの地域であれば、近づく春を知らせる湿った雪が降り積もり、弱った木々をその重みで倒している頃であろう。確かに、かなり待ってもらった方ではあった。
 ロドレフは豆やジャガイモ、キノコや鳥肉をふんだんに使った、けれども一国の君主の朝食としては実に質素な料理を食べ終えると、席を立ち答えを聞く為に待機していた者達へ承諾の意を伝えた。長らくお待たせして申し訳なかった、午後に謁見の間にてお会いすると伝えてくれ、と。
「……大公」
 各国使者の従者達がそれぞれ主人の元へ戻っていくと、食事の間給仕を務めていた銀髪の侍従は気遣わしげな声で己の主に問いかけた。
「本気で例の考えを実行なさるおつもりですか?」
 侍従の緊張は、主には伝わらなかったらしい。ロドレフはくつろいだ様子で食後の香茶を味わい、窓の外へと眼を向けている。すっかり葉の落ちた木々が雪に白く覆われ陽光を受ける様は、まるで巨大な砂糖菓子の飾りのようだった。そのおとぎ話を思わせる光景を眺めながら、大公は呟く。
「それは各国のお偉方次第だな。こちらの申し出に乗ってくるか、あくまで最初の案に固執するか。それによって対応は変わる」
「乗り気になられた場合は、どうなさいます?」
 ロドレフは肩を竦め、笑って答えた。
「クオレル、一人の人間を四ヶ国に分け与える訳にはいかなかろう? 暫くは向こうで勝手に争ってもらうとしよう。その上で、交渉に勝利した国が望めばそこまでだ。君主たるもの、約束は守らねばならん」
「ですが……」
 なおも言い募ろうとした侍従は、諦めて言葉を飲み込む。主は既に決心しているのだ。ここで周囲が何を言おうと、決意を翻しはすまい。たとえそれが実の娘の嘆願であろうとも、ロドレフ・カディラの心を変える事はできないのだ。
 正装に着替え、使者を待たせてある謁見の間に足を踏み入れようとした大公は、ふと思い出したように立ち止まり背後の侍従を返り見る。
 カディラの始祖に良く似た面ざしのクオレルは、長さを増した銀の髪をまっすぐ垂らしいつもとは異なる軍服めいた衣装を身に付け、青ざめた顔で大公の後ろに控えていた。
「クオレル」
 呼びかけられ、訝しげな眼差しを向ける侍従に、父である男は念を押す。
「お前の答えは、本当にあれで良いのだな?」
 狡い尋ね方だった。クオレルの口許を微苦笑がよぎる。「本当に良いのか?」と訊かれたならば「いいえ」とも答えられたろう。しかし「良いのだな?」という確認の言では、それはできない。
「私は、私の立場がどういうものか理解しております。大公」
 相手の思い通りにはいと答えるのは癪で、けれどそう口にするのが精一杯だった。大公があの事実を口にしたら、侍従のクオレルは消滅する。これまで通りの自分ではいられなくなる。わかっていて、それを見守らねばならなかった。自分が自分でいられた時の終わりを、受け入れねばならなかった。
 ロドレフはじっと己の後継者を観察し、ややあって背を向けた。謁見の間の扉が左右に開かれる。これでもはや後戻りはできない。クオレルは深呼吸し拳を固め、運命の時を迎える心の準備にかかる。それはどれだけ行おうと、もう充分、とは決して言えない作業であった。


「……なんとおっしゃられました?」
 プレドーラスの使者が、己の耳を信用できずに再度答えを大公に求める。他の国の使者は声にして問いかけこそしなかったものの、内心はプレドーラスの使者と同様であったに違いない。皆驚きに眼を大きく見開き、疑わしげな表情を顔に張りつかせている。
 どんな事態であっても感情を表に出さず、冷静に駆け引きを行うのが一国を代表する使者というもの、……であるならばこの場に集まった四ヶ国の使者達は全員失格であろう。しかしロドレフが口にした台詞は、彼等をそう反応させるに充分な内容であったのだ。
 大公の言葉に衝撃を受けた、という点ではカザレントの人間の方がより重症である。謁見の間の壁際に控えていた重臣達は、驚愕の余り完全に凍りついてしまっていた。口はポカンと開いたまま、一言も発せられずにいる。
「おや、これは失礼。声が小さすぎたようだな」
 謁見の間正面、黒みがかった赤い天鵞絨の垂れ幕を背にし、台座中央に置かれた朱塗りの椅子の上で、大公ロドレフはひとり悠然と構えていた。その表情は、自分の発言が周囲に引き起こした反応を見て楽しんでいるいたずら好きの少年と大差ない。
(まぁ実際、この状況を楽しんでいるんでしょうね、この人は。現実問題としてかかっているのが己の生命と、自国の命運であっても)
 大公を護衛する衛兵の脇で控えていたクオレルは、顔を伏せ気味にしながらも周囲を観察し、心密かに呟く。いかなる状況をも楽しむのが君主である、と誰かに言われたとしても、カザレントの大公を見る限り納得してしまいそうだった。それ程に、今のロドレフには己が置かれた状況に対する悲愴感も、緊迫感もないのである。
「ではもう一度繰り返そう。せっかく諸君等の主が御招待してくれたというのに申し訳ない話だが、我が舅は寄る年波で去年から体調がすぐれず、隣国まで娘達に会いに行く気力もないと愚痴をこぼしている。娘達の方からこちらに来てくれるなら、もちろん歓待するとの意向であったが」
「………」
「そして我が妻と言えば、諸君等も先刻承知の通り長らく患っている気の病が未だ完治しておらぬ。これで他の王室の方々を相手に、まともに振る舞うのは非常な困難が予測される。はっきり言ってしまえば、とんでもない迷惑をそちらの宮廷にかけるのではないかと危惧しておるのだ」
「………」
「正直な話、この度諸君等の主君が提案した申し出は、我が国にしてみれば誠にありがたかった。厄介な舅と役にも立たぬ病身の妻を引き取り、尚且つ我が国からそれで手を引いてくれるという。こんなありがたい話は他にない」
「はあ……」
 使者達は困惑した様子で首を傾げる。もしかしたらこの大公は、本気で言ってるのではないか? 本当にそういう事になるのでは? と悩み始めたらしかった。カザレントを困らせる為の申し出が、むしろそこの君主を喜ばせ、しかも自国は厄介者を二名背負い込むはめになる、というのはどう考えても面白い話ではない。
「諸君等の主が我が国に対し示してくれた御厚情は、心底嬉しく思う。当方としても厄介払いが出来た上に国土を戦で荒らされずに済むというのは、願ってもない話である。私個人としては、是非ともその申し出に乗りたいところなのだが……」
 ロドレフは一旦言葉を切り、わざとらしく眉を寄せると顎に手を当て溜め息をついた。
「あいにくカザレントにも世間体というものがある。いくらイシェラがもう滅んだも同然の国、と言ってもこれ幸いと元国王の舅や王女であった妻を放り出したら、世間の非難は我が国に集中するであろう。そうなると国民も肩身の狭い思いをする。結果的に、そんな決定を下した者を恨むようになるのは間違いない。それは困る。そこでだ」
 カザレント大公は、前にした四ヶ国の使者達にしらじらしい笑顔を向ける。
「そんな非難に国民を晒さぬ為、そして各国に余計な迷惑をおかけせぬ為にも、君主の私が御招待に応じるべきではないか、と考えるに至ったのだがどうだろう?」
「………」
 どうだろう、と問われても使者達は返す言葉もない。ロドレフは、そんな彼等に構う事なく喋り続ける。
「しかし、そこでまたまた悩みが生じてしまった。私が招待に応じるにしても、申し出ているのは四ヶ国で我が身はこれ一つだからな。となると、必然的にどこか一国を選ばねばなくなる。だがそれを当方で選んでしまってはまずい。選ばれた一国だけが手を引いて、他国は雪解けと共に再び攻め入るかも知れぬからだ。故に、諸君等にお願いしたい。どの国が真っ先に私を招待するかは、各国で協議の上決めてもらえぬだろうか」
「……協議の上、ですか?」
 使者の一人が辛うじて声を返す。カザレント大公は頷いた。
「決定権はそちらに預けよう。行き先が決まり次第、どの国であっても我が身は赴くと約束する。その代わり、どの国に私が滞在する事になろうと、他の三ヶ国はカザレントに攻撃を加えぬ旨の誓約を正式な書面でいただきたい。以上を諸君等の主に伝えてもらいたいのだが、構わぬだろうか。では、よろしく頼む」
 言い終えて、大公は席を立つ。彼が退席すると各国の使者達もあたふたと立ち上がり、急ぎ自国へ戻って報告すべく退出した。それを確認したカザレントの重臣の面々は、それまでの凍結状態を解いて脱兎の如く大公の私室に殺到し、このとんでもない答えに関する詳しい説明を主に求めたのである。
 それは予測された事態であったので、クオレルは事前に必要と思われる数の椅子と飲み物の手配を小姓に命じてから、謁見の間に出向いた。それ故、皆が息せき切って私室へ駆け込んできた時には、迎える準備は万端整っていた。
 だが、完璧とも言えるその用意周到振りに、クオレルの正体を知らされていない重臣達は頭に血を上らせる。すなわち、近臣である自分達が聾桟敷に置かれていたのに、たかだか侍従の若者が前もって大公から返答の内容を知らされていたのかと。しかも、知っていて黙っていたのかと。
 クオレルは、彼等に何と責められても一切反論しなかった。無理もない反応だと、心のどこかで納得していた為である。この先重臣達が受ける事になる新たな衝撃を思うと、何やら気の毒でもあった。
「お怒りはごもっともですが、皆様少し落ち着かれてはどうでしょう。どうか椅子におかけになってお待ち下さい。すぐに大公もお見えになりますから」
 微かな溜め息交じりに発した言葉は、周囲の怒声でたちまちかき消される。
「これが落ち着いていられるか、馬鹿者めが!」
「貴様のような若輩の指図など受けんわ!」
「己の身をわきまえて口をきかぬか。たかが侍従風情が、大公のお気に入りだからといい気になりおって!」
「………」
 これらの台詞は、いささか大声で語られすぎた。いかに分厚い壁と扉で遮られていようとも、隣室にいる大公には聞こえてしまったはずである。クオレルは額を押さえ、肩にかかる髪を揺らし沈黙した。気の毒に、という思いは先程から強まる一方である。後で彼等が衝撃のあまり発作的に首など括らぬよう、密かに祈る彼女であった。
「おや、これは妙だな。いつから私の部屋は会議室に変わったのだ?」
 緊迫した雰囲気の中、扉が開いてのんびりした声が隣室からかかる。謁見用に固めていた髪を手櫛で乱し、部屋着に着替えたロドレフが、悠然と姿を現した。
「先程からずいぶんと賑やかな騒ぎだが、皆そろってどうしたのだ?」
「大公……」
 血相を変えた重臣達は、一様に恨めしげな表情で絶句する。賑やかな騒ぎだが、ではない。どうしたもこうしたもあるものか。あのような爆弾発言をしておきながら、この人はどうしてこうなのかと。
 唸りながら黙した臣下を前に、カザレントの大公はいささか戸惑った顔になり、首を傾げる。それから、うんざりした様子を隠そうともしない我が子に眼をやり、不思議そうに尋ねた。
「クオレル、教えてもらえぬか。この者達はいったい何の用事でわざわざこの部屋へ詰めかけてきたのだ?」
「……貴方の説明が足りなかったからですよ、大公」
「説明?」
「ええ、先程謁見の間でお答えになられた各国の申し出に対する御返事の内容について、ここにおいでの皆様は詳しい説明を求めております」
「何故そんな?」
 頭痛を感じつつ、辛抱強くクオレルは応じる。
「貴方がああした答えを返された真意が、おわかりにならないからですよ。もちろん」
 大公はあきれたように己の重臣達の顔を眺め、ややあって大きな溜め息をついた。それくらい、自分の頭を使って考えろとでも言いたげに。
「さて、我が侍従はこう言ってるが、本当にそうした理由で皆ここに集まったのか? あの答えの意味が、私の真意が本気でわからぬと?」
 ロドレフの言葉を受けて、興奮状態から冷めた何人かは恥ずかしげに眼を伏せたものの大半の臣下ははっきりと同意の声を、あるいは頷きを返す。説明してもらうまで自分達はこの部屋から一歩も引く気はないと、彼等の眼は雄弁に語っていた。
 ロドレフは軽く眉を寄せ、腕を組んで椅子に腰をおろす。それから、皆にも座れと合図した。
「このさして広くもない部屋の中で、その方らに集団で立たれていては非常に欝陶しい。さっさと席に着かぬか。質問を受け付けるのはその後だ」
 大公にそう言われ、重臣達は慌てて手近な椅子に腰かけた。クオレルが座って待つよう願い出た時とはえらい違いである。
 そうした光景を冷静に観察しながら、クオレルは思う。彼等は、大公の部下なのだ。大公の言には従うが他人の言葉には耳を貸さない。主に忠実、という点では良い部下なのかもしれないが、少々融通が利かなすぎる。これは明らかに改善すべき短所であった。
 その上、わからない事は何であれ大公に訊けば良い、と考えている点も引っかかる。皆が皆、謁見の間での大公の言葉を自身の頭で熟考する事もなく、他者との議論もなしに、すぐさま説明を求めてここに来たのは一国の重臣として余りに情けない。
 前大公ケベルスは、己の無能さ故に良い臣下に恵まれなかったのだろう。しかしロドレフの場合は、有能であるが故に周囲に頼られ、それに応じ続けているうちに結局、全てを任せ切って自分の頭では何も考えない、命令された事だけを確実に行う柔軟性のない近臣を育ててしまったのかもしれなかった。
 どちらも、君主としては不幸である。
 ならば自分はどうすれば良いのか。どのように振る舞えば良い近臣を得られるのか。頼り甲斐のある部下を育てる為には、どうすれば良いのか。クオレルは考えねばならなかった。この国を背負うと決めた自身の為に。
「で、質問の一番手は誰だ? ここにこうして押しかけてきた以上は、質問内容とその順番ぐらいは考えてきたのだろうな」
 口火を切ったのは、いつものように大公の方であった。重臣達は椅子に腰を落ち着けるやそれまでの興奮が急速に冷めたらしく、口を閉ざし貝になってしまっている。室内は暖炉の火のはぜる音以外、何も聞こえない。
「どうした? 質問する側がそのように沈黙していては、私としても何も答えようがないぞ」
 大公からそう促されても、彼等はなかなか発言しようとしなかった。集団を構成する一員で喚いている時ならいくらでも意見(らしきもの)を言えるのだが、こうして沈黙が漂う中、個人として質問したり意見を述べるのは気後れするらしい。困った性質である。
 以前は、こうした状況で真っ先に発言する人間がいた。皆は彼に代表を任せ、自分達の意見を代弁させればそれで良かったのだ。だが今、その男はいない。
 大公の側近であったフラグロプ。現大公ロドレフを、父親に従順で覇気がないお人形と評価されていた公子時代から崇め、期待を寄せていた人物。ロドレフが大公の座に就いた後は熱狂的崇拝を以て仕えていた。それは城内に勤める者なら、誰もが知っている事実であった。
 普通なら、臣下が主をそのように見、敬うのは良い事であると言えるだろう。しかし、フラグロプの場合はいささか度が過ぎていた。大公の隣に立つ女性の存在を、いかにその人個人の資質が優れていようとも認めず、抹殺を計った程に。更に彼女がこの世に残した子供の存在までも許さず、暗殺を企て自ら率先して襲撃した程に。
 今ではカザレントの民は、子供から老人に至るまでフラグロプの名を国に仇成した悪徒として記憶している。公子の失踪が戻ってきた者達の口から大公に告げられた後、カディラの都に端を発した噂は多くの真実と同程度の虚偽を織り混ぜて、瞬く間に全土に広がったのだ。
 その噂によれば、宰相ディアルの突然死はフラグロプが出産直後の彼女に暴行を加えた為であり、何故そういう所業を彼が行うに至ったかについては、ディアルが大公の寵愛を受け子を産んだ事実が許せなかったのだとか、または嫉妬から衝動的に暴力を振るったという見解、もしくは下町で野菜売りをしていた女性が、男の自分より上の地位である宰相の座に就いた事に対する貴族としての怒り、明らかな身分及び性の差別意識から行われたのだ、とされていた。この辺りの内容は、誰が話す噂でもほぼ一致する。
 ただし、公子ルドレフの暗殺をフラグロプが目論んだ経緯については、諸説乱立状態であった。一方でその暗殺未遂の一件が、庶子として生まれ長らく不遇の時代を過ごした公子の心を修復不可能なまでに傷つけ、失踪させる原因となった、という点についてはどの噂も結論を同じくしている。
 故に元大公の側近であったフラグロプは、死者となった現在、老若男女を問わずカザレント国民の怨嗟の的になっていた。何て事をしてくれたのだ、と。
 その彼がいてくれたら良かったのに、とはさすがに今更言えない。口が裂けても言えるものではない。やむなく大臣の一人が、挙手して席を立ち質問を口にする。沈黙する他の同僚達を、心底恨めしげに眺めながら。
「先程謁見の間で言われた事は、本気なのでしょうか。大公」
「漠然とした質問だな。どの件だ?」
 ようやく発言する者が出た事を面白がるように、大公は問い返す。
「公妃様やイシェラ国王に代わり、他国に赴かれると言われた件です」
 集まった臣下の眼が、いっせいに大公へ注がれる。それこそが彼等の最も訊きたい事であった。
 ロドレフは顎を指でこすり、曖昧な笑みを浮かべる。
「各国が先の提案を翻し受け入れるなら、そして行き先をちゃんと決めてくれるなら、という条件がつくが……それで良い、という事になったら赴く事になるな。まさか一国の君主が前言を撤回する訳にはいくまい」
 発言した大臣は顔色を変える。
「軽率です! 一言の相談もなしにそのような重大事を決めるなど、あんまりではないですか!」
 当然の抗議であった。聞いていた他の重臣達も、よくぞ言ってくれたという顔で同意の声を上げる。しかし、非難が集中した形の大公はその表情を全く変えなかった。
「では訊くが、相談すれば諸君等はこれに代わる代案を出してくれたのか。私だけでなく各国の使者をも納得させ、おとなしく帰国させるような代案をだ」
「………」
 室内は再び静まり返る。
「軽率だと言うが、私も一応考えたのだぞ。我々は一刻も早い返答を求められていた。今回のこちらの提案を受け入れるにせよ拒否するにせよ、各国は話し合いの機会を持たねばならぬ。正式な協議の場を設けるとなれば、一ヶ月やそこらは優にかかるだろう。仮に我が提案を受け入れるとなったら、今度はどの国が私を虜囚とするかで大いに揉めるのは間違いない。少なくとも、春までに決着がつく事はないだろう。その間、戦闘は確実に中止される。国境の部隊の安全は保証されるのだ。一応の時間稼ぎにはなる。それのどこがいけない?」
「大公……」
 大臣は呻く。虜囚、とロドレフは口にした。わかっているのだ、彼等の君主は。自分の提案が受け入れられ、各国の間で話がついた場合、己の身が敵国でどのような扱いを受けるかは。承知の上で、あのような答えを返したのである。妻と舅を守る為、そして自国の兵士達を少しでも長く休ませる為に。
 その覚悟は立派である。充分、尊敬に値する。誇らしくも思う。だが、本当にこの人を奪われてしまったらカザレントはどうなるのか? 自分達はどうしたら良いのか? 要求を突き付けた各国が、前言を撤回し大公の提案を受け入れる可能性は大いにあった。何故ならイシェラ国王ヘイゲルにとって、娘であるセーニャ妃はむろん可愛く、これを人質に取られたら脅迫者に従うしかないところだが、その婿であるロドレフも、同じくらい重要な人質となりうるのである。
 なにしろ彼はカザレントの大公なのだ。世話になっている身で、その国の君主を見殺しにする訳にはいくまい。そう考えるのが妥当である。
 だからこそ、提案を受け入れられてしまっては困るのだ。たとえヘイゲルが言いなりになり、イシェラ全土の譲渡を申し出たとしても、ロドレフが無事カザレントに戻される保証はどこにもない。
 カザレントの人間でカディラ一族の血を濃く引く存在は、既にロドレフただ一人。その彼を国外に連れ出されてしまったら、一時的に代理を務める者すらいないのである。もしも異国の地で大公の身に何か起きたとしたら、カザレントという国は事実上崩壊してしまう。国の束ねとなる人物がいなければ、民心は一つにまとまらない。そんな状態で、他国の侵略に抗し切れるはずはないのである。
 涙ぐみつつそうした現実を訴え前言撤回を求める大臣を前に、カザレント最後の君主になるかもしれぬと危惧されている男はやや複雑な表情を見せた。臣下の嘆きを眼にして、少々良心の呵責を覚えたのかもしれない。どうしたものかな、と大公はクオレルに視線を向ける。
 銀髪の侍従は、微かに首を揺らすだけで答えに代えた。覚悟は既にできている。後は大公ほどではないにせよ、己の芝居っ気に賭けるしかない。たぶんこうした茶番劇は、今後の人生で何度となく演じる羽目になるのだから。
「わかった。諸君等がそうした不安を感じるのは当然だ。配慮が足りなかった事を認めよう。すまなかった」
 真摯な表情で詫びられ、重臣達は当惑する。大公が謝罪した事で、彼等の緊張はより高まった。これはもしかしたら別れの挨拶のつもりではないか、と。
「大公、我々は謝っていただきたいのではなくただ……」
 老臣の緊迫した声を軽く手で遮り、大公ロドレフは微笑する。その場にいた者一人一人を確認するように注がれた眼差しは、不安に怯える子供をなだめる父親の如き優しさを含んでいた。重臣達の内で膨れあがっていた不安感は、大公の視線によって少しずつ削がれていく。彼等の神経がだいぶ緊張を解いたところで、ロドレフは切り出した。
「今度の件に関する諸君等の最大の関心事にして不安の種は、この血を次ぐ者がいないまま他国で私に果てられでもしたら、国としてのカザレントが立ち行かなくなる、という点にあるのだろう。違うか?」
 違わない。むろん心配事は他にも色々あるが、彼等にとって一番の不安はそれである。重臣達がいっせいに頷くのを確認して、大公は唇の端を上げる。
「私が異国でどういう運命を辿るかはともかく、カディラの血が絶えるという諸君等の心配は、はっきり言って無用のものだぞ」
「は?」
 思いがけぬ台詞にきょとんとなった臣下を前にして、大公ロドレフはニンマリと笑みをこぼした。
「心外だな。そんなに甲斐性なしに見えたか、私は」
「あの……大公?」
「この血を引く者が現在行方不明のルドレフしかいない、と決めつける事はなかろう。私の子を産んだのは、ディアル一人という訳じゃない」
「な……、なんですと?」
 仰天した一部の臣下が、たまらず席を立ち詰め寄る。大公は苦笑してそれを諫めた。
「そう驚く程の事ではないと思うが……。やれやれ、どうやら私は予想以上に甲斐性なしな男と見なされていたらしい」
「お戯れは困りますぞ、大公。それが事実でしたらその方は、貴方様の跡継ぎは今、何処におられるのですか!」
「ここに」
 落ち着き払った声で、ロドレフは控えていた侍従を差し招く。銀髪の侍従は肩を竦め、ゆっくりと歩を進めて大公の隣に立った。
「ま……まさか」
「大公、まさかその侍従が……」
「そう、我が妻セーニャが産んだ大公家の嫡子。正真正銘私の血を引く、カザレントの次期大公だ。見栄えの良い跡継ぎで嬉しいだろう?」
 あっさり断言され瞬間凍結状態に陥った人々の顔を見回して、クオレルは嘆息する。仕える主君の性格をまともに把握していなかったのは、大いなる間違いですね、と。
 そういう自分もつい最近まで、完全に把握していたとは言い難かったのだが。
「申し訳ありません。ここにいる根性曲がりの意地腐れのせいで、心ならずも今日まで身分を詐称し皆様を欺くはめになりました。言いたい事は山ほどおありでしょうが、お怒りの言葉はどうか、諸悪の根源である大公に向けて下さるようお願いします」

 開口一番クオレルが放った言葉は、凍り付いていた重臣達の顔を更にガチガチに強張らせた。 諸悪の根源と称された大公は肩を竦め、楽しげに問いかける。
「クオレル、一つ尋ねるが、その根性曲がりの意地腐れとは誰を差しての言葉かな?」
「おや、おわかりになりませんか、大公」
「ああ、わからんな」
「なるほど。人間誰しも、自分の事は正確に判断できないものなのですね」
「それは言えてる。現にお前も、私に良く似た性格をしている事には未だ気づいておらぬようだし」
「似てますか、貴方に」
「似ているとも。こうした会話を交わすと更にその感が強くなるな」
 ニッコリ笑顔で皮肉の応酬をする大公と侍従を前にして、カザレントの重臣達は納得した。親子である。この二人は間違いなく親子である。ここまで性格が似ていれば、どんな石頭でもそれを認めるだろう。
 取り合えず、公子ルドレフ・カディラが生死不明で行方が知れぬままでも、正当な跡継ぎが存在する事だけはわかった。その点に関しては心配はいらないのである。だがそれでカザレントの未来が安泰かと言うと、何故か前より問題が増えただけのような気がしてならない彼等であった……。


「あんな形で紹介して良かったんですか? 大公。皆様誤解したかもしれませんよ」
 茫然自失の体で重臣達が部屋から去った後、クオレルは大公相手に疑問を投げかけた。
「ほう、誤解とは?」
 退出する臣下を見送る間、爆笑すまいと顔の筋肉を必死に抑えていたロドレフは、扉が閉ざされた瞬間から身を折るようにして笑い転げていたが、質問を受けて体を起こすや一転真面目な表情を浮かべて見せる。この変わり身の早さはさすがであった。
「つまり、私はここに侍従として勤務しておりましたし、貴方は一度も私を本名で呼びませんでした。おまけに服装がこれでは……」
「娘ではなく息子と、すなわち公子と認識したのではないか、と言いたいのだろう」
「その通りです」
 居心地悪そうにクオレルは言う。彼女が今日着用している衣装は、大公が着るように指定して渡した物だった。
 いつものたっぷりとした布地で多くの襞を寄せた服とは違い、かっちりした印象のそれは、胸の丸みを押さえ肩幅を補強した、特殊な仕立てである。明らかに男性を強調する目的で作られた衣装であった。それを大公が今日着るよう命じて渡した以上、意図は明白である。カザレントの次期大公は男である、と臣下に思い込ませておきたいのだ。少なくとも今のところは。
 だが、その理由が正直わからない。跡継ぎが女であっては何か支障があるとでも言うのだろうか。確かに、女性は男性に比べ軽く見られる傾向が世間一般にはある。カディラ一族の始祖が男装の美女であった為、カザレントは他の国に比べれば女性の社会進出に対し寛容だが、それでも突出すれば睨まれる。高い地位を望めば、周囲から叩かれるのは他所と同じであった。
 しかし他国では例がない事にせよ、この国では女性が跡継ぎであっても問題はない。周辺諸国においてはあくまでも姫君は嫁がせる存在で、君主となるのは王家の血を引く男子と定められているが、カザレントにそうした法律はないのである。実際、女性が大公もしくは摂政となり国を治めたという事例は、過去の資料をひもとけば数例記録が残されてあるのだ。
「どうやら初めからあの方々に公子と思わせるつもりでいたようですが、目的はどこにあります? 私の性別を偽る理由はいったい何ですか」
「偽る理由、か」
 男装の娘を眩しそうに眺めた後、側に来て腰かけるよう手で示した大公は、クオレルが隣に腰をおろすと口を開いた。
「お前はまだ、自分が女である事を利用する知恵は身に付けていない、と言ったら怒るかな? 理由はそれだ」
「………」
「女として育った者なら、多少の差はあれ自然と覚えてしまうものだが、お前は違う。お前は周囲の男から若い異性として見られ、そのように扱われた事がない。それでは感覚として身に付けようがなかろう」
「それが問題になるのですか。女としての知恵を身に付けていない事が、私に不利に働くと?」
 ロドレフは頷いた。
「公女であると発表した場合には、大いに不利だな。お前は好きでもない男を利用する為になびく振りをしたり、軽蔑している相手に媚を売って、自分の願う方向にその心理を操作する事などまずできない。違うか?」
「!」
 クオレルは咄嗟に頭を振った。想像しただけで寒気がする。冗談でも、そんな真似は御免であった。
「……普通の女性は、そんな器用な真似ができるのですか」
 恐る恐る質問すると、大公はあっさり肯定する。
「得手不得手はあっても、まぁできるだろうな。女性というのは、男性中心の社会で生まれた時から差別されている分、けっこうしたたかだ。見下されているのを逆手にとって、自在に男を操っている女は多いはずだぞ」
「具体的には、どういう風にですか」
「そうだな。たとえば、弱さや頼りなさを強調して男に縋り、自分が守ってやらねば駄目なのだ、と思わせておいて亭主を馬車馬の如く働かせ、しかもそれを気づかせずに生涯実権を握って安穏と生きるとか、あるいは何もわからない愚かな振りをして、相手を安心させたあげく弱みを掴み好きなように操るとか、他には……」
 クオレルは諸手を上げ遮った。
「……もういいです。聞きたくありません」
 聞けば聞くほど気が滅入る。それが女の知恵だと言われたら、自分は女には到底なれなかった。もしくは、知恵を持たない愚者であり続けるしかない。何にせよ、精神をどつぼに叩き込まれる話、ではあった。
「だがこうした手管は男に対してかなり有効だぞ。相手は女と見て最初から舐めてかかってくるのだからな。かよわい振りをして図に乗らせ、接吻の一つも提供し肌で誘いかけ、調子に乗った男が屋根まで上ったら梯子をはずしてさようなら、といった狡さは一国を代表する女性ならば持つべき知恵だ」
 銀髪の公女は唇を噛み、全身で拒絶の意を示す。ふとその脳裏に浮かんだのは、赤毛の妖獣ハンターの姿だった。女であると正体を見抜きながら誰にもそれを言わず秘密を守ってくれた年下の青年。妖魔の攻撃から、身を盾にして庇ってくれた相手。
 自分が女に戻り振る舞うのは、あの男の前だけでいい、とクオレルは思う。その身に触れたいと願うのは、ハンターである彼だけだった。この身に触れてほしいのも、あのハンターただ一人であった。他の男に触れさせる気になど、とてもじゃないがならない。
「……必要だと言うのですか。そんな卑怯な知恵が」
「公女ならば、な」
「では公子と誤解させて正解ですよ、大公。私にそんな芸当は、逆立ちしてもできませんから」
「うむ。お前の潔癖さから言えばそうだろう。勤勉で誠実で融通が利かなくて真面目、だからな。まぁそれはそれとして、もっと現実的な理由はお前が私の娘に当たると知られた場合、現在の敵国からいりもしない求婚者が殺到する懸念があった為なのだ」
 クオレルは顔を上げる。求婚者と聞いて血の気が引いた。大公の子であると公表する決意を固めた際、いずれそうした問題に直面するであろうと覚悟はしていたものの、まさかこんなに早くそれが来るとは考えていなかったのだ。
「求婚者が殺到するとは……またどうしてですか」
「わからないか。カザレントは今どういう状況にある?」
「周辺諸国と交戦中です。各国はイシェラの主権をその手に握る事を望んでいて……」
「そしてお前はそのイシェラの王女と私の間に生まれた娘で、イシェラ国王の孫なのだ。こうした場合、お前が他国の王であったら何と考え行動する?」
「……!」
 思考の霧は晴れた。クオレルは拳を震わせて己の膝に置く。こんな人を馬鹿にした話はない。ロドレフも同様に感じているのか、苦虫を噛み潰したような表情で見つめていた。
「私を妻として手に入れれば、イシェラも自動的に自国の物となると? ふざけた話ですね」
「全くだ。連中は女性が人間である事、個人としての意志がある事を理解していない。妻にしてしまえばこっちのもので、己の意のままに動くと思い込んでいる」
「それ以前に、私が戦う事を選ぶと考えていませんよ」
「ああ。戦を好む女などこの世にいる訳がない、と信じ込んでいるんだろう。自分を守る為にすら戦わない、戦うはずがない、とな」
「勝手に決めないでほしいですね。他人の意志を」
「ところがこれが公子の場合だと、余程の能無しと思われていない限り娘と結婚させて言いなりに、とは考えぬのだな。彼等は妻は夫の命令に従うものと思っているが、夫が妻の意見に従うとは露ほども思わないらしい。要するに、性別を偽る事によって煩わしい事柄や余計な心配事から今、ある程度解放されるのだ。それを見越してのああした紹介だったが、気に入らぬのならやり直すとしよう。お前はどうしたい? クオレル」
 クオレルは溜め息をつき、己の父に眼を向ける。
「……そういう事情ならば、当分周囲に誤解させておくとしましょう。必要最低限の人々には既に本名を含めて正体を明かしてる訳ですし、支障はないですから」
「そうだな。では妻を訪問して、事の次第を報告するついでにアモーラにも会ってくるとするか。あれはセーニャの産んだ子供が女児だったと知っているからな。説明と口止めをせねばなるまい。ナンフェラに関する誤解もいい加減解いてやりたい事だし」
「それは是非ともお願いしたいですね」
 是非とも、の部分を強調してクオレルは言った。昔公妃付きの女官をしていた現トバス男爵夫人ナンフェラは、彼女にとって家族同然の人である。ただ産んだだけ、でその事実すら覚えているか定かでないセーニャ妃よりは、遥かに母と呼ぶに相応しい、懐かしい存在であった。何としても名誉を回復してもらわねばならない。
「ところでその前に一つ、確認しておきたい事があるのですが。大公」
「んっ?」
「もしも各国の協議がまとまり、貴方がどこかの国へ連れ出される事になった場合、私を大公代理とするのは良いとしてもです。その国がカザレント大公の生命と引き換えに何らかの要求を突き付けてきたとしたら、その時どういう答えを返す事を貴方は望まれるのでしょうか」
「例えばイシェラの全権を委譲する旨したためた書類への署名、もしくはカザレントの無条件降伏とかの要求か?」
「ええ」
 ロドレフは微苦笑して暖炉の炎を見やる。
「そんなに高くふっかけてもらっても困るな」
「………」
「見捨てろ。この生命一つの為にそこまで譲歩してやる必要はない」
 膝に置かれたクオレルの拳は、力が入りすぎて青白く変色しかけていた。
「……つまり貴方を捨て駒にしろと? 私に父親殺しの悪党になれとおっしゃる」
「私も就任当初は、親族殺しの血の大公と全国民から罵られたんだぞ。悪党の度合いならこちらが断然上だ。己の兄弟姉妹に直接手を下したも同然だしな」
「そういう問題ではありません!」
 たまらずクオレルは叫ぶ。互いの悪さ自慢をしているのではないのだ。事はもっと重大で深刻なはずである。それをどうしてこの人は、こうも茶化してしまうのか。
「そういう問題だ。三十年の経験を持つ先輩として言わせてもらえば、君主などというのは国一番の大泥棒で大嘘つきでなければできん仕事だぞ。なにしろ国民からは国家予算の名目で税金だの何だのと毎年搾取せねばならないし、他国相手には二枚舌三枚舌で程よく騙しながら適当に友好を保って付き合っていかねばならん。正直者で良心的な奴がなったら、過労と心痛ですぐにあの世行きだ。誠に因果な商売だぞ、これは」
「……商売ですか、君主の座は」
「私にとっては商売というか、……まぁ職業だな。それも大公家の嫡子として生まれたばかりに継ぐ羽目になった、ろくでもない家業と言える。なにしろ給料は一銭も貰えんし、年中無休で働いても感謝される訳でもない。転職の自由もなく、他人の思惑で生命まで狙われる。おまけに、他の職業なら一日のうち何時間か働けば解放されるのにだ、君主は朝から晩まで常に君主として振る舞わねばならん。こんな苛酷な労働が他にあるか? 先祖を恨むぞ、私は」
「………」
 確かに苛酷である。担ぎ出されてうかうかと(やむなく、だったかもしれないが)君主の座に就いた御先祖、レアール・カディラ公爵の息子を恨みたくもなる。一日中仕事に拘束され、しかも年中休みはなし。更に逆恨みは買うわ妬まれるわで、国内国外問わず刺客が襲って来るとなると、性格が歪まぬ事にはやっていけない。
 クオレルは、改めてイシェラと国王ヘイゲルを呪いたくなった。大公がセーニャ妃との間にせめてもう一人子を持てるような状況であれば、自分だけが今こうして全てを背負い込む必要はなかったのである。
 イシェラがこの国の乗っ取りなど企まねば、それは充分可能だったのだ。政略結婚とはいえセーニャ妃は夫を心から慕っていたのだし、ロドレフも名ばかりの妻となって久しい彼女を今なおこうして守ろうとする程に愛しているのだから。両国間の関係が良好であれば、普通に夫婦としての時間を持ち、幸福に過ごせたはずだったのだ。
 だのにイシェラの陰謀の所為でこれである。子供が生まれれば夫は母国の父が放った刺客に殺されると知っていた公妃は、悩み苦しんだ挙句子を流そうと、あるいは自身をも殺すつもりで凍った池に身を投じた。その日から彼女の心は穏やかな狂気の内にある。決してそこから出てこようとはしない。結果、自分は現在の立場に立たされてしまったのだ。 セーニャ妃のように心を閉ざし逃げる事もできない、そんな立場に。
「その過酷とわかっている労働を、この先私一人に背負わせるのですか。大公」
 ポツリと漏らした言葉に、ロドレフ・ローグ・カディラはどこか苦い眼差しを向けた。
「前大公のような女好きで、子種をあちこちにばらまく父親の方が良かったか?」
 クオレルは首を振る。
「いいえ、そういう馬鹿げた事は申しません。ただもう一人か二人、相談相手となる身内が欲しかったですね。セーニャ妃が正気であれば、可能だったでしょうか」
「………」
 ロドレフは曖昧に笑い、扉の向こうに姿を消した。だがその立ち去り際、彼が口にした小さな呟きを、クオレルは聞き逃さなかった。
 すまぬな、と呟いたのである。カザレントの現大公が、視線もまともに合わせぬまま娘に謝罪したのだ。すまない、と。
 クオレルは立ち上がり、平手をテーブルに叩き付ける。
「貴方が謝る事はないでしょう! 大公」
 笑って死にに行こうとしている男が何故、後を任せた者に謝るのか。やり切れぬ思いに駆られ、クオレルは唇を噛む。謝ってほしい訳ではなかった。謝らせるつもりなどなかった。ただ、自分には今大公の他に愚痴を言って甘えられる相手がいないのである。
「ハンター……。いいえ、パピネス」
 無意識に、クオレルは呟きを漏らす。ゲルバとの国境に向かった赤毛の妖獣ハンターを思い浮かべ。
「勇気を下さい、私に。戦えるのだと、この国を守って行けるのだと言って下さい。背中を押して下さい。どうか……」
 両手を組み合わせ、テーブルに突っ伏して彼女は叫ぶ。 どうか無事に、無事に戻ってきて下さい、と。




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