断罪の瞳2《2》


 その日ヤンデンベールの上に広がる空は、雲一つなく晴れ渡っていた。このところのどんよりとした曇り空や、眼もまともに開けられない猛烈な吹雪といった天候に慣れていた兵士達は、久々に見る青空に浮き立つものを感じながらも、気を引き締めて兵舎を出る。 良い天気であるという事は、行動するに支障がないという事であり、敵が大々的に攻めてくる可能性をも孕んでいるのだ。そう考えれば、昨日までの吹雪は彼等に中休みの時間をくれたようなものである。青空と澄んだ空気に浮かれてはいられない。
 隣国ゲルバと国境を接するヤンデンベールは、カザレントの人間にとって最も忌避すべき地域、として知られている。昔この地で行われた戦闘において、カザレント最後の王バルザはその若い命を落としているのだ。ヤンデンベールが不吉な場所として、カザレントの人々から嫌われる所以である。
 それでも、ヤンデンベールがゲルバとの国境に接している以上、国の大事な防衛拠点には違いない。バルザの死後レアール・カディラ公爵が率先して設計し、築城したという城は、冬でも生い茂る針葉樹の森に囲まれ、高く突き出た山頂から周囲を睥睨していた。
 その城は山頂のほぼ全面を占める大規模な城塞で、敷地面積においては大公の居城に匹敵し、戦闘用の城としてはカザレント一の強固さを誇っていた。優美さの欠片もない厳しい構えの建物は、城門の内にある兵士達にしてみれば身の安全を保証してくれるありがたい家であった。
 殊に現在のような非常時においては、城の堅牢さは頼りになる。それは、王の血が流されたこの不吉な場所で戦う兵士達の、唯一の救いであり安らぎとなっていた。

 城門の内を行き交う兵士の間をぬって、異様に目立つ風体の剣士が敬礼を受けながら北翼の塔へと向かう。
 別に奇抜な装束を身に纏っている訳ではない。鍛え抜いた体躯を持つ長身の剣士だが、それだけならばこうも目立ちはしないだろう。彼を周囲の兵士から異なる存在にしているのは、この大陸ではついぞ見かける事のない南方人のような褐色の肌と、額から右頬にかけての古傷、そしてその隻眼であった。
 剣士の通り名は隻眼のザドゥ。ヤンデンベールの城を実質上預かっている、対ゲルバ戦の責任者である。ただし、城塞守護職等の役職名はもらっていなかった。城内の兵と周囲の砦に籠る部隊、そして近隣の村の護衛に回った兵士達全てのまとめ役であり、兵団の最高責任者でありながら将軍の地位を固辞している彼は、この任務を受けた日から単に隊長とのみ呼ばれている。
 名目上、ヤンデンベール城塞守護職の任に就いているのは、領主の息子でまだ十代のエルセイン子爵である。誰もなりたがらなかった不吉な場所の守護職を父親に押し付けられた形の三男坊は、昨年の秋に戦場を駆け抜け一人でこの城にやってきた。たとえ名目上の城主でも主は城にいなければ、という理由で。
 国境の警備を突破されれば真っ先にゲルバの攻撃に曝される城である。その城主ともなれば、捕らわれたら最後生かして帰してはもらえまい。そんな事は百も承知、覚悟の上で来たのだと、名目上の城主は言う。
 軍を指揮するザドゥにとって幸いだったのは、子爵が貴族の子弟としては珍しく分をわきまえた、己を知る人物であった事である。
 剣と馬術の腕前はそこそこ、弓は苦手で兵法に関しては全くの素人な若い城主は、ゲルバとの戦いにいっさい口を出そうとしなかった。作戦会議の席には守護職として顔を出すものの、戦法は現場で戦う者に任せる、と余計な口は挟まない。平民出身のザドゥを見下している面はあっても、その能力に対しては信頼を寄せ、疑いを持たなかった。現在ヤンデンベールが置かれている状況を思えば、誠にありがたい城主である。
 塔内に造られた礼拝堂に足を踏み入れると、天井の窓から降り注ぐ太陽光にザドゥは暫し眼を細める。久々に見る太陽の、眩しい光であった。その光を浴びながら、祭壇の前に跪き熱心に祈りを捧げる先客の姿がある。
 ヤンデンベール城塞守護職、エルセイン子爵その人であった。
 気配に気づき振り返った子爵の、咎めるような眼差しを受けて、褐色の肌の剣士は苦笑する。とんだ邪魔をしてしまった、という表情で。
「失礼、御城主。この時間なら誰もいないと思い入室してしまいました。祈りの邪魔をして申し訳ない」
 きまり悪そうに立ち上がった若者は、膝の部分に付いた埃を手で払うと、まだ少年めいた幼さの残る顔を兵団の責任者に向ける。
「ここへ来たという事は、お前も祈るのか」
「ええ、余りゆっくりとはできませんが」
 エルセイン子爵は、どこか懐疑的な表情で隻眼の剣士を眺める。己の腕一本で世の中を渡る、信ずるものは我が身の力だけ、のはずの雇われ剣士がこうした場所で神に祈ったりするという事が彼には納得できないらしい。
「何を祈る? 戦の勝利か?」
 年若い城主の気負った問いに、ザドゥは首を振る。
「まさか。勝利とは自軍の兵力を最大限に引き出し、機をみて掴むものであって、神にすがって得るものではありませんよ」
「そうなのか?」
 ザドゥの答えは、子爵にしてみれば意外であると同時に、この戦士ならば当然、の感もあったらしい。首を傾げつつも、眼から懐疑の色は消えている。
「御城主は、何を祈られておりました?」
 微笑を浮かべ、軽い調子でザドゥは尋ねる。彼はこの、若いながらもそれらしく振る舞おうと懸命に努力している城主に対し、そこそこの好感を抱いていた。思い付きの作戦を実行させたり、わかりもしない戦の戦法に口を出さないだけでも、貴族の若者としては上等である。自然、接する態度も柔らかいものとなった。
 もっとも、かつて彼が護衛として側にいた貴族の若様……というより大公の隠し子は、目の前の子爵より遥かにくだけた性格の持ち主で、敬語を使う必要性すら全くなかったのだが。
 エルセイン子爵は、貴族の中ではかなり付き合いやすい部類の若者であったが、それでも身分が下の者に馴れ馴れしくされれば不快の念を示したし、貴族以外の人間を対等の相手とも見なしていなかった。そうした教育を受けてきたのだから仕方がない、とザドゥは思う。その点を考慮し、できるだけ敬意を示すよう日頃から心掛けている彼だった。そうでなければ、こんな口調で問いかけはしない。
 しかし、そうしたザドゥの気遣いは子爵には通じなかったらしい。彼は不快げに眉を寄せ、足早にこの剣士の脇を擦り抜ける。
「私が何を祈ろうと、お前にいちいち報告する義務はない。必要もない事を訊くな」
 擦れ違い様子爵が口にした台詞は、好意的とは言い難い内容だった。若い城主が姿を消すと、ザドゥはやれやれと苦笑し肩を竦める。身分は低くても能力と人望は自分より上、と認めている相手との会話は、貴族の若者にとって楽しめるものではないのだろう。
「つくづく付き合いやすい相手だった訳だな、若さんは」
 長い黒髪と大きな人なつっこい黒い眼の、実年齢より幼く見えた華奢な青年を思いだして、ザドゥは呟く。
 イシェラの森で消え失せたルドレフ・カディラに対する情は、今も変わる事なく彼の内にあった。ずっと側にいるつもりだった、剣の誓いを交わした相手。生涯共にあると自分が心に決めた、唯一の存在。
 あの公子が帰るべき国を、他国に蹂躙させる訳にはいかなかった。彼の居場所を失わせてはならなかった。その為の戦であり祈りである。少なくともザドゥにとっては、それが任務を遂行する最大の理由となっていた。
 ルドレフ・カディラが魔物だろうと生きている死体だろうと、大公の子であろうとなかろうと、彼にしてみればそんな事はどうでもいいのである。大切なのは相手が愛すべき人柄の持ち主で、自分を庇い剣をその身に受けたという事実であった。
 護衛を庇って何本もの刃の前へ身をさらす雇い主が、いったいどこの世界にいると言うのか。敵が妖獣であれ人間の刺客であれ、ルドレフ・カディラは常に自分を犠牲にしてでも他を守ろうという姿勢を見せた。その甘さ、人の良さ、己の価値をわかろうともしない愚かさ。それ故に放ってはおけず、同時に心惹かれてやまない。
 天窓から射しこむ陽光の優しさは、どこかあの公子の持つ雰囲気と似ていた。ザドゥは祭壇の前に進み出ると、片膝をついて跪き、眼を閉じて祈り始める。行方の知れぬ雇い主と、生きて再び会いまみえる日が来る事を願って。
 ルドレフ・カディラを恐ろしいと思う気持ちが、彼の内に全くない訳ではない。心臓を剣で貫かれながら歩き、喋る事ができた赤い眼の公子。自分より一回り小さく柔らかな手をしながら、母親の仇であるフラグロプの頭部を簡単に砕いたあの人ならぬ力。だがそれら全てに眼をつぶっても良い程、隻眼のザドゥはルドレフが好きだった。好意が、人間としての本能的恐怖を上回ってしまっていた。それ程までに大切で、愛しかった。
 二十三歳だと言いながら、上の方に見積もっても十八かそこらにしか見えぬ外見。赤ん坊のような肌と大きな眼から、幼い印象を見る側に与える顔。その剣の腕前を承知し、自分より強いとわかっていながらなお保護欲を掻き立てる相手。
 どうしようもなかった。出会った時点で捕まったも同然だった。常に眼を離せない、亡き宰相ディアルの息子。貴族の常識を覆す言動、他者の痛みを感じ、他人の為に泣ける素直な感性。誰も代わりにはならなかった。剣の誓いを守る為にも帰ってきてほしかった。無事な姿を見て、安心したかった。
 最後に眼にしたのが泣きそうな笑顔だっただけに、心の底から楽しげな顔を見たいとザドゥは思う。何もかも、もう一度会えなければ叶わない事柄だった。だからこそ祈らずにはいられない。
 目的を叶える為ならできる事は何でもする、がザドゥの主義である。そしてこの際できる事は、城主に妙な眼で見られようとこれしかなかった。他の兵士は戦の勝利を、あるいは己が生きて故郷に帰れるよう願い祈りを捧げるのかもしれないが、彼だけは祈る内容が違うのだ。
「ザドゥ隊長! 隊長はおられますか?」
 礼拝堂に続く階段を二段飛びで駆け上がる賑やかな靴音と、弾んだ声が辺りの静寂を破る。祈りを中断したザドゥが立ち上がり返事をすると、両の頬を寒さの為ばかりでなく紅潮させた十代前半の見習い兵が、開け放たれた扉から勢い良く飛び込んできた。
「報告致します! ただ今、大公と契約したハンターがこちらに向かって来る姿が、正門の見張り台から確認できました。まもなく到着する模様です!」
 それは、城塞内の兵士達にとって久々に晴れた空にも勝る朗報であった。対ゲルバ戦の要であるヤンデンベール城塞はこの日、傷も完治し極めて元気な赤毛の妖獣退治専門家パピネスと、道行きの途中で合流し同行を申し出たという美貌の呪術師、派手な極彩色の模様で肌を彩った、ケアスという最強の味方を手に入れたのだった。


「しかし……、らしくもなくと言うべきかそれともらしいと言うべきか悩むところだが、ずいぶんと派手な入城をしてくれたもんだな、ハンター」
 日も暮れてお祭り騒ぎも一段落したのを見計らい部屋に戻ったザドゥは、そこで暖炉の前に陣取りのんびりとくつろいでいる本日の主役の姿を目にし、笑みを浮かべて酒の用意をすると盃を手渡し囁く。
 食堂での歓迎の宴をさっさと抜け出し、一人城塞の責任者の部屋に逃げ込んでいたハンターは、苦笑しながら盃を受け取るといつもの癖で赤い髪を掻き乱した。
「俺が望んで派手にした訳じゃないぜ。ケアスに関して言うなら、初お目見えに相応しい派手さ、だったけどな」
 朝方、このハンターと見知らぬ同行者が城塞へ向かってくる姿を確認して、門を開き迎えを出そうかとしていた矢先だった。自分達を囲む床や壁が溶けるように崩れ、大量の妖獣が城塞内に湧いて出たのは。
 ヤンデンベール城塞の兵士の殆どは、これまで何度となく妖獣と遭遇していたが、こんな現れ方をされたのは初めてだった。軍馬同様敵兵と一緒に行動している姿なら見た事があっても、城の壁や床から突然姿を現しての襲撃は経験がない。
 城内の兵士達はこの事態に激しく動揺し、完全な混乱状態に陥った。日頃自分達が普通に歩いている床から、敵の妖獣が出現する。日常生活の中で何気なく寄りかかったり手をついたりしていた壁が溶け、妖獣が現れる。こんな光景を目の当りにしては、どんな兵士も冷静でいられる訳がなかった。
 ザドゥはゲルバが妖獣をも戦場に投入した時点から、妖獣一匹に対し五人一組で取り囲み挑む戦法を配下の兵士に徹底させていたが、恐慌状態となった彼等はこの時その戦法を取る事ができず、本能的な恐怖から背中を向け逃げ惑った。
 何人かの兵士は勇気を出してその場に留まり戦おうとしたのだが、協力者がいなければ一対一である。妖獣は、人間の兵士が一人で戦うには荷が重すぎる相手だった。動きの速度も、腕力も体力も差がありすぎる。負傷者の数はいたずらに増えるばかりで、ザドゥ一人が奮戦しても何ともならない。
 そんな絶望的な状況下だった。空間を切り裂いてハンターが、まだ城から遠い雪原を徒歩で進んでいたはずの存在が光の粒子を纏い出現したのは。
 それを目撃した者達は、誰もが暫く己の正気を疑った。何もない空間から突如現れたハンターは、真昼の太陽光を凝縮したような光の帯を指先から放ち、瞬く間に周囲を埋めつくしていた異形の獣を倒していく。その光は人間には何の影響も及ぼさず、確実に妖獣だけを死に導いた。一方、ハンターより少し遅れて出現した美貌の呪術師は、非常識にも空中に浮いたまま見えない糸を操り妖獣達の動きを封じると、その肉体を再生不可能な肉片へ次々に変えていく。
 兵士達が呆然自失の体でいる間に、二人は全ての妖獣を倒し、ついでに全部の死体を空間移動させ送り込んだ当人の元へ返すという真似までやってのけた。襲撃者達が失せた後の城塞内は、飛び散った血の痕跡までも消え、負傷者や死んだ兵士の遺体が転がっていなければ夢でも見ていたのかと思いたくなる状況だった。
 だが、夢ではなかった証拠に赤毛のハンターは依然として存在し、来るのが遅くなってすまなかったと詫びの言葉を口にしていたし、亜麻色の巻毛を持つ美貌の呪術師は空中に浮いたまま、辺りを物珍しげに眺めている。多少の事では動じないザドゥも、これには自身の眼と耳を疑うしかなかった。
 それでも再会の握手を交わしたパピネスに最初に言った台詞は、「強力な助っ人を連れてきてくれたようで感謝する。紹介してもらえんか?」であったのだが。
 思い出して、ハンターは喉の奥を震わせ笑う。
「あの騒ぎの直後にああした台詞を平然と言えるとは、大した人間だとケアスが感心してたぜ。俺も同感だな。さすがはザドゥだと思ったよ。あんな常識外れの光景を見せられたら、普通は驚いてひっくり返ってる」
「正直な話、腰を抜かす寸前だったぞ。皆の手前何とか堪えたが」
 食堂から持ち出してきたキノコのパイ包み焼きを手掴みで口に運び、ザドゥは言う。
「嘘つくなって」
「本当だ」
「平気な顔に見えたぞ。周囲の連中はともかく」
「ここで指揮を取ってる間に、感情を表に出さない術を覚えただけだ。上の者がいちいち動揺を見せていたら、兵はついて来ないからな」
 その台詞に、赤毛のハンターは笑みを消し真顔になった。後悔の念に、表情が翳る。
「……大変だったろうな。この地区を任されてハンターの一人もいないまま国境を守り年を越すのは」
 ザドゥは視線を向け、揺らめく炎に照らされたパピネスの横顔を見つめた。
「上に立つ者が大変なのは、何もここに限った事じゃないぞ。ハンター」
 呟かれた言葉に対し、パピネスは首を振って否定の意を示す。通常であればそれは正論であるが、ここヤンデンベールは事情が異なる。
「他の国境地帯の敵軍は、雪が積もってからというもの戦闘を仕掛けてこない。完全に停戦状態にある。だがここだけは違うんだ。ゲルバは妖獣を戦に使っている。イシェラとの国境でも妖獣による被害はあるが、ここの比ではない。俺は、去年のうちにここへ来なければならなかったんだ」
「怪我で動けもしない状態で、か?」
「……!」
「普通の人間と異なる能力を持つハンターとして、人を守り妖獣を倒すという課題を己に課すのはいいが、重すぎる負担は身を滅ぼすぞ。どうせ一人の力なぞ限られているんだ。できる事から一つ一つ片付けていけばいい。無理をしない程度に、焦らず確実にな」
 パピネスは唇を噛んで顔を伏せる。椅子から腰を上げたザドゥは、酒瓶を手に暖炉の前へ進むとうつむくハンターの隣に座り込んだ。
「予定が狂った理由については、伝令兵から報告を受けている。カディラの城で妖魔に襲われたという話だったな。まぁ実際問題、戦時下にある国の君主と契約を続けるハンターなんざあんたぐらいなもんだから、その存在を目障りに思ってる他国のお偉いさんの数も一人二人じゃ済まんだろう。下手すりゃ今後も狙われる可能性大だ」
 パピネスは沈黙したまま言葉を返さない。ザドゥも、答えを求めた訳ではなかった。炎のはじける音に混ざり、遠く階下の喧噪が聞こえる。食堂での宴はまだ終わっていないらしい。
「俺がゲルバの妖獣相手にここ数ヶ月しんどい思いをしていたのは確かだし、兵達も同様だろう。だがだからといって、あんたが来られなかった事を責めるような奴はここにはいない。もしいたら俺はそいつを張り倒す。あんたはあんたなりの戦いをして生き延び、ここへ来た。それで充分だ」
「………」
「それにな、あんな役に立つ呪術師をここへ連れてきてくれたのは、他でもないあんただろう?」
 ケアスの事を言われ、ようやくパピネスは落ち込みから浮上する。あの妖魔をこの地へ連れてきたのは間違いなく自分であった。自分の存在がなければ、ケアスはカザレントの為に力を貸してはくれない。それだけは確かである。
 彼は微苦笑を浮かべ、盃に残っていた酒を飲み干す。妙な事になったものだ、という思いがあった。レアール絡みでケアスに憎まれていたはずの自分が、レアールを記憶しているが故に今はケアスに必要とされている。
 傍らに座ったザドゥは、あのケアスを妖魔とは疑わず一流の呪術師と信じ込み、彼が示した能力を讃えていた。
「兵達が妖獣に負わされた怪我を治してくれた点もありがたいが、もう二度と妖獣があのような形で城塞内に現れたりできぬよう、特別なまじないを施してくれたのが一番だな。おかげで皆の不安が一掃されて大助かりだ。今日のような出現の仕方をまたされたらと思うと、安心して眠る事すらできなくなったろう。そうなっては俺もお手上げだ。睡眠不足と疑心暗鬼に捕らわれた兵を抱えて戦わねばならんとなったら、荷物をまとめて夜逃げするしかない」
「全くだな。しかし、それじゃゲルバは今日まであんな攻撃方法は取らなかったのか?」
 ザドゥは頷く。
「ああ、一度もなかった。これまでは妖獣を使って攻めてくるにしても正攻法というか、人間相手の戦とほぼ同じ戦法だった。もっとも、人間よりは遥かに機敏で頑丈で獰猛な連中だからな。多少の寒さや雪をものともしないで突進して来るし、人間の兵士なら動けなくなる程の傷を負っても平気で暴れ回る。敵にするには実にやっかい、迷惑な奴等だ」
 これまでの戦闘を思い出し溜め息混じりに語るザドゥの顔を凝視したパピネスは、訝しげに眉を寄せる。ならばゲルバが戦法を変えたのは、ごく最近という事になる。
 吹雪の中見張りの兵士の目を盗んで国境を越え侵入し、山向こうの村を集団で襲おうとしたあの妖獣達と、今日の城塞内に直接送り込まれ兵達を襲った妖獣とでは、明らかに指図した者が異なっている。今日の作戦は、人間の指揮官に立案可能なものではなかった。力ある妖魔でなければ、空間をねじ曲げ壁や床から妖獣を出現させる事などできない。それができる者でなければ、最初からこんなやり方を思いつくはずはないのだ。
 つまり、ゲルバの戦闘指揮を取る者は人から妖魔に変わったと、これまでのように妖魔が間接的に関わるのではなく直接指示を下せる形になったと、実権が移動したのだと見なさねばならない。何故そうなったのかは定かでないが。
(ならば、取り合えず俺は間に合ったのかもしれない)
 そう結論を出すと、パピネスはほんの少しだけ安心した。考えねばならぬ事柄は山程あるが、手遅れな状況に陥ってから到着したのではないとわかっただけでもましである。それにザドゥの言う通り、過去を振り返ってできなかった事を悔やんでも仕方がないのだ。
「それはそうと大公は息災か? カディラの都の雰囲気はどうなっている? 伝令兵よりは詳しい情報を握っているだろう、ハンター。それも最新の情報を」
 背中を叩き、褐色の戦士は陽気に問いかける。この地に着任してからの苦労など少しも感じさせぬ明るい表情と声で。やっぱりこいつは大した奴だよな、としみじみ思いながら請われるままにパピネスは、都の様子や大公の居城を訪れた各国の招かれざる客人達が引き起こした波紋、突き付けられた要求に苦悩し連日不毛な議論を交わしている面々の事を語った。
 酒瓶を何本か空にしながら、兵団の最高責任者とハンターの暖炉前の会話は続いた。使者をカディラの城に送りつけた各国の思惑と意図、ゲルバで起きているらしい政争に関し捕虜が漏らした情報の真偽、ヤンデンベールの置かれた状況、カザレントの行く末について。
 話は、尽きる事がないように思われた。提供し合わねばならぬ情報はいくつもあった。乾いた喉を果実酒で潤しながら、二人は夜更けまで語り合い、再会の夜を過ごしたのだった。


「ケアス?」
 深夜、皆が寝静まった城内の廊下を足音も立てず進み、自分にあてがわれた部屋の扉を開いたパピネスは、いつから待っていたのか窓際に置かれた寝台の上であぐらをかき、思いっ切り不機嫌な表情を浮かべている同行者の姿を眼にして声を上げた。
「ずいぶんですね、ハンターの坊や」
 肌に極彩色の模様を付けられてなお美しい亜麻色の巻毛の妖魔は、待ちくたびれたのかすっかりうんざりした様子である。
「この私にあの馬鹿げた歓迎の宴の主役と城主の相手を任せ、さっさと姿を消した貴方はこんな時間までどこへ何をしに行っていたのです? 説明していただきましょうか」
「えーと……」
 パピネスは長めの前髪を指でかき上げ、困り切った表情で視線を宙へと漂わせる。呪術師を名乗り同行する事を希望した妖魔界の王の側近は、人間など及びもつかない凄まじい力を持ちながら、精神がそれに全く釣り合っていなかった。人間として生まれ、二十年も生きていないハンターの方がまだしも精神年齢は上な程に。
 そして、人間の子供の駄々なら黙って放っておくのも一つの手だが、妖魔の駄々はそのように無視する訳にはいかない。感情の流出で大地を裂いたり建物を吹き飛ばしたり、あるいは火事を引き起こす等々、人や自然に多大な被害を及ぼしかねないのである。
 扉を閉め閂をおろしたパピネスは、軽い溜め息を漏らすと寝台に向かい、当面の協力者の隣に腰かけた。
「悪かったな、面倒事を押し付けて」
 顔を向け、微笑むと赤毛のハンターは言う。屈託のない笑顔を向けられて、妖魔の寄っていた眉は少し離れた。
「でもあの若い御城主は、俺みたいな平民とまともに言葉を交わすのは何か嫌そうだったしさ。ケアスなら綺麗だし、品もあるから以前は貴族だったという事にしても通ると思ってそう伝えたんだが……、まずかったか?」
「貴方って人は……」
 話を合わせて誤魔化すのにどれだけ苦労したと思っているんです、と文句を口にしかけて蜘蛛使いはやめた。全身の肌に模様を彫り込まれた現在の姿でも綺麗と言ってもらえるのはそれなりにいい気分だったし、エルセイン子爵がハンターの到着を本気で歓迎しながらも握手をためらったのは事実である。もちろん城主として兵の手前一応行いはしたものの、その後ハンカチで手を拭い、更にそれを捨てたのを彼は目撃していた。
 黙り込んだ蜘蛛使いの様子を不審に思う事もなく、仕方がないって、と軽い調子でパピネスは言う。
「普通の貴族の子弟はそうした教育を受けているんだから。自分達は平民のような下賤の身とは違う、選ばれた血を引く優れた存在だと。だから間違っても平民出身の俺を同列に見なしたりはしない。同じ人間だと考えないんだ。ああして公式に握手を交わしただけでも、相当の忍耐と努力を必要としたと思うぜ」
 蜘蛛使いは頭痛を感じ、指先で額を押さえた。妖魔の自分から見れば、貴族も平民も等しく弱い種族の人間である。同じ赤い血が流れ同じ肌の色を持ち、同じ短い寿命の生き物でしかない彼等の、いったいどこがどう違うというのか。
「……理解不能ですね、私には」
 パピネスは面白そうに首を傾げた。
「別にむずかしくないだろ。例えばお前、同じ妖魔だからって下級妖魔と同列に見なされても平気か?」
 途端、蜘蛛使いの眉間に皺が寄る。
「冗談を言わないで下さい。どうしてこの私があんな下級妖魔風情と同列に見なされねばならないんです!」
 パピネスは口笛を鳴らし、ニッと笑った。
「なっ、子爵がどういう気分だったか理解できただろ?」
「……!」
「今のケアスと同じだったんだよ。何で自分が平民相手に握手なぞせねばならないんだ、冗談じゃないって思っていたろうさ。でも彼は実行した。それは評価すべきではないのかな、ケアス」
「そうは言いますがね、ハンターの坊や。あのエルセインとかいう小僧は、貴方との握手の後で―」
 蜘蛛使いの台詞は、パピネスの手によって遮られた。赤毛のハンターは涼やかな微笑を浮かべ呟く。
「俺の目の前で手を拭おうとした訳じゃない。怒る事はないんだ、ケアス」
「知って……」
「ああ。でもまあ、怒ってくれてありがとうとは言っておく。ありがとな、俺の為に腹を立ててくれて」
 ポンポンと肩を叩き笑顔を向ける相手に、蜘蛛使いはやるせない気分になり衝動的に抱きついた。
「ケアス?」
 赤毛のハンターは戸惑い、不思議そうに呼びかける。そこには怯えも嫌悪もない。人間ではないと知っていて、過去の一件がありながら撥ね除けようともしなかった。協力の約束を信じ、あくまで仲間と見なし接している。
 この人間と知り合いでここにいられる事を、蜘蛛使いは心の底から感謝した。自分に居場所を提供し、生きていく術を教えてくれた相手である。失う訳にはいかなかった。その為にも、今は協力せねばならない。己の持つ力を使い、ゲルバにいると思われる妖魔の手から守らねばならなかった。
「まいりましたね。最初に会った頃の貴方はやせっぽちの生意気な子供で、ひたすらみっともなかったのに」
 きつく抱きしめて、蜘蛛使いは囁く。守りたい存在が、こうしてまだ残されている事が嬉しかった。
「育った今は私の好みですよ。あと五年もしたらたぶん、完全に好みの姿になりますね。楽しみです」
「……おい」
 囁かれた内容に、パピネスはひきつった声を返す。
「まさかとは思うが、五年後に押し倒そうなんて考えないでくれよ。俺は嫌だからな」
 蜘蛛使いは喉の奥で笑った。
「さあ、どうしましょうかねぇ」
「あのなケアス」
 肩を竦めて、赤毛のハンターはぼやく。
「本命を手に入れ損ねたからって、手近な存在で妥協するなよ。俺だって身代わりじゃ御免だぜ」
「!」
 咄嗟に身を離し、亜麻色の髪の妖魔は相手の顔を凝視した。パピネスの眼差しは蜘蛛使いを突き放してはいなかったが、その表情は明らかに痛みを伴っている。
「無理に忘れようとする事はないだろう? 第一、そう簡単に忘れられたらあいつが気の毒だ」
 蜘蛛使いは首を振る。忘れるつもりはない。忘れられるはずもなかった。目の前のハンターに惹かれるのはその口調や仕草が、レアールを思い出させるからである。だから忘れてしまいはしない。決して。
「そうだな」
 そんな内心の思いを見抜いたかのように、パピネスは言う。
「お前が俺の側にいるのは、レアールを思い出させてくれる存在だからだよな。けどさ、ケアス」
 額に巻きつけていた布をはずし、束ねていた髪をほどいたハンターは、一本だけ灯されていた燭台の明かりを消し、靴を脱いで寝台にもぐり込む。
「俺は俺だ。他の誰でもない。誰の代わりにもならない」
「………」
 月明かりに照らされた顔は、微かな苦笑を浮かべていた。腕が、蜘蛛使いへと伸ばされる。
「じゃあおやすみ。ちゃんと自分の部屋に行って休めよ、ケアス。何もしないならここで寝てもいいけどさ」
 軽く頬に触れてそう告げると、眼を閉じたハンターは警戒するでもなく簡単に眠りへ落ちていった。呼びかけても答えぬ程に深い眠りの中へ。
 蜘蛛使いは火の気のない、冷え切った部屋の寝台に腰かけたまま寝入った相手の顔を見つめていたが、やがて覆い被さるように屈み込み、僅かに開いた唇へ口づけた。
「何もしないならここで寝てもいいという事は、ここで眠らなければ何かしたっていいんですよね」
 我ながらとんでもないこじつけだと、蜘蛛使いは自嘲する。だが、そうしたこじつけをしてもできるのはせいぜい接吻までだった。信用して眠りについた相手に、それ以上の悪さはできない。嫌われるのが怖いのだと、妖魔界を追放された男は自覚する。
「誰の代わりにもならない、ですか。私にとってはきつい言葉ですね、全く」
 眠るハンターを見おろすと、再び唇を重ね蜘蛛使いは姿を消す。その様を眺めていたのは、ただ空に浮かぶ月のみであった。




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