断罪の瞳2《1》


「……やってもやっても減ったように見えぬ。永久稼働運動か? これは」
 溜め息をついて、妖魔界の統治者は朝から握りっぱなしのペンを置く。二ヶ月ほど王宮を留守にし姿をくらましていた王は、その間溜まりに溜まって廊下を仮の倉庫に変えた書類の決裁処理という自業自得の事態に直面し、今日もまた日暮れまで休みなく、書類の山に目を通していたのであった。
 一ヶ月前、蜘蛛使いの暴走した妖力によって半壊させられた王宮は、そんな惨事など全くなかったかのように復元され、元の優美な姿を見せている。だが、回廊を歩く妖魔の数や会議に出席する側近の数は、確実に半減していた。
 建物を復元するのは簡単でも、死んだ妖魔を生き返らせるのは困難である。寿命が尽きて死んだのではない者ならば蘇生は可能だったが、むずかしい事には違いない。肉体を完全に元通りの姿で復活させた上、その者の魂魄を呼び戻し体内へと収めねばならぬからである。それは王にとっても極めて面倒な、細心の注意を払う作業であった。
 加えて、亡くなった側近や上級妖魔の面々が我が身に多大な負担をかけてまで助けたいと思える者達でなかった点を考慮すると、できない事にしておく方が無難だな、と王は結論づけたのである。
 我ながら他者への執着に欠けている、とは思う。だからこそ、自分と同様執着心を持っていなかった蜘蛛使いの、最近の変化を観察するのは楽しかったのだ。
「しかしまさか、ああまで思い入れていたとはな」
 計算外だった。予想もしていなかった。レアールがもう存在していない事実を、その記憶の一部を見せた事によって蜘蛛使いが死を望むとは。自身の破壊を求め、封じていた異界の魔を解き放つなどとは、王は考えていなかったのだ。
 己の死すら願うような悔恨の情なぞ、王には理解し難かった。それは、およそ妖魔の持ちうる感情ではない。
 創造主である自分が持ちえない感情を、どうして造り出された生命の一つが持つに至ったのか? 王は首を捻り、悩む。
 予想外な行動を取ったという点では、レアールも同様である。マーシアを一時的に従わせる切り札としてケアスを、蜘蛛使いへの嫌がらせの道具としてレアールを人間界から連れてきた時は、変化の後にああした行動に出るとは思っていなかった。
 自分の外見の特性については、王も存分に自覚している。どういう効果が働くかに関しては。妖魔界の王の容姿は、見る側の好みやその理想とする外見によって、各々異なる姿に映るのだ。髪の色も眼の色も顔立ちも、本来の姿ではなく相手が好ましいと感じる形でしか映らない。そういう特性だとわかってはいた。だが、だからといって他者と混同されても平気な訳ではない。

『……ケアス』
 妖力を目覚めさせた事によって変化したレアールの様子を伺うべく、閉じ込めていた結界内の部屋を訪ねると、鏡に映る己の姿を青ざめ凝視していた青年は振り返り王をそう呼んだ。何のためらいもなくケアスと。
人間的だった外見は、本来の妖力に相応しいものへと変わっていた。全ての記憶を取り戻したはずの彼は、その段階ではまだ、間違いなく正気だった。そして一度も顔を合わせた事がなかった王を、王ではなくケアスだと誤って認識したのである。自分を攫ったり閉じ込めたりする存在は、蜘蛛使い以外にいないと信じて。
 事実、彼の眼には対峙する王の姿はケアスとして映っていたのだろう。それは、決してレアールの罪ではない。もちろん罪ではなかった。されど、王を不愉快な気分にさせるには充分であったのだ。
『ケアス、……これは何だ? 俺の姿が前と違う。いったいどうなってるんだ? 何故こうなった?』
 鏡に映る自分を指差し、恐怖にかられたように彼は叫ぶ。こんなはずはない、こんな事はありえないと。
 王は肩を竦め、蜘蛛使いの声音で言葉を返す。別に驚く事はないだろう、と。
『妖力が強くなれば比例して容姿も変化する。わかりきっていた事じゃないか。お前の妖力は増した。結果、外見もそれに合わせて変化した。それだけの事だ』
『妖力が増して変化した?』

 長い黒髪の妖魔は困惑し、頭を振った。妖力の増加にこうした著しい容姿の変化が伴うとは、どうやら予想しなかったらしい。これが夢なら早く覚めてくれ、と今にも呟きそうである。それから、おそるおそる眼差しを王に向け、足を踏み出し話しかけた。
『……最初に会った時、子供の俺にお前は言ったな。生きていなくていい、と。そう言って、殺そうとした』
『ああ』
 蜘蛛使いの振りをして、王は答える。
『成長して再び会った時には、玩具として生かしておくと言った。それは、俺が昔と違ってルーディックとかいう者に似た姿へと変わっていたからか?』
『そうだ』
 返された答えに、レアールは眉を寄せ唇を噛む。
『ではこうしてルーディックと異なる姿、まるで似ていない外見に変化した俺は、お前にとってもう用なしなのか? 必要のない存在か、ケアス!』
『当然だろう』
 意地悪く笑って、あっさりと王は言う。己の部下である蜘蛛使いと間違われ続けている事に対する腹立ちも多少あったし、妖魔らしからぬ感情を正面からぶつけられる事についての戸惑いもあった。が、何より王はこの状況を楽しんでいたのである。蜘蛛使いを装って、その玩具の心を傷つけるというのは、なかなかに面白い遊びだった。
『ケアスっ!』
 すがるような声で呼びかけ、レアールは手を伸ばす。王は、わざと不機嫌な表情を浮かべ、その手を撥ね除けた。蜘蛛使いがどれ程手荒に扱おうと、彼を嫌いも憎みもしなかった存在に、怒りの種を植えつけたかったのである。その上で、いずれ乱族退治を終え帰ってくるであろう蜘蛛使いと対面させるつもりであった。
 自分によって拒絶と侮蔑を受けたレアールがどんな態度をその時取るか、そして蜘蛛使いがどう反応するかを、王は見たかったのだ。退屈しのぎの余興として。
『ルーディックに似ていないお前では何の価値もないな。ここに留めておく意味もない』
『………』
『私はお前が似ていたからこそかまってきたんだ。それぐらいわかるだろう? お前がお前自身でしかなければ、誰がわざわざ気にかける? 妖獣に組み敷かれても自害もせず生き恥をさらしているような出来損ないに!』
『ケアスっ!』
 たまりかねたように叫び、レアールは顔を伏せる。きつく握りしめた拳は、青白く変色していた。
『……わかった、もういい。もうそれ以上言わないでくれ。わかったから……』
 うつむき身を震わせている相手の、次の台詞を王は待つ。かなり残酷な言葉を浴びせた自覚はあった。これだけ言われれば、普通その相手に好意など抱けはしないだろう。過去の傷を承知の上で、消えない棘を心に突き立てたのだ。今後の付き合いにおいて、必ずや支障となる棘を。それは、簡単に消え去るとは思えなかった。
『……お前が俺を見ていない事は、前から気づいていた。ただ俺は馬鹿だから……、無駄な望みを持ってしまった訳だ。お前の好きな誰かに外見が似ているにせよ、もしかしたら俺自身をもいつかは見てくれるのではないかと。そんな風に期待して……願っていた』
『分不相応な願いだな』
 つれない口調で王は言う。レアールは顔を上げ、ほんの少し笑った。
『そうだな。自分がどんな存在かなんて知っていたはずなのに、ずいぶんと大それた望みを抱いたもんだ。好かれているのは自分でないと、わかっていたはずなのにな』
 それから、僅かな沈黙の後、彼は呟く。
『ケアス』
 長い黒髪が、微かに揺れた。
『ミルファの事だけはよろしく頼む。お前には必要のない半魔だろうが、俺はあの子の主人にはなれない。今まで通り邸に置いてやってくれ。頼む』
 それきり、レアールは口を閉ざして背を向けた。王がいくら待っても、次の台詞は出てこなかった。怒りの言葉も恨み言も、彼の唇からは遂に発せられなかったのである。
 そして翌日の夜、王が再度部屋を訪れた時にはレアールは既に存在していなかった。
 信じられぬ思いで、王はその物体を見る。
長い黒髪は全体が鮮血色の赤に染まって床に広がり、両の手は己の心臓を潰した直後に動きを止めたらしく胸の上にあった。寝台脇のテーブルには、蜘蛛使いから贈られた赤の守護石のピアスが並べて置かれ、これが覚悟の自決である事を示している。ケアスだと信じた相手に突き放された青年は、怒る代わりに死を選んだ。強い妖力を持つ妖魔としてこの世界で生きる権利を得ながら、それを放棄し息絶えたのだ。
『……何故そうなる?』
 問うても、死者は答えを返さない。
 王は直ちにレアールの遺体を寝台に運び、蘇生させるべく全力を尽くした。殺すつもりで捕らえ、変化させた訳ではなかった。こんな酷い形で死なせるつもりなど、彼には断じてなかったのだ。
 死から生へと戻る段階で、レアールの記憶は王に流れ込んだ。この記憶を一人で抱え込むのは耐えられない、とでも言うように魂は第三者たる存在に記憶の共有を求め、王はそれに応じた。妖魔界の誰よりも強い妖力を持ち、確たる自己を形成していた王には、それが可能だったのだ。
 記憶の共有、と言っても王にとってはあくまで他者の、レアールの記憶である。必要以上に感情を同調させはしなかった。他の妖魔であれば引きずられ同調しきった挙句、記憶の中の苛酷な出来事に耐えかねて発狂したかもしれなかったが、王の場合その心配は無用であった。彼は一瞬の揺るぎもなく妖魔界の統治者であり続け、その上で五百年に渡るレアールの記憶を引き受けたのである。
 結果的に、それによって王はレアールが自害に至った経緯をも知る事になった。蜘蛛使いと思い込まれた状態で自分が放った言葉が、彼にどういう決断を促したかを。
『必要ない、価値がない、か』
 ぼんやりと床に座り込んだまま、黒髪の妖魔は呟き自棄気味に笑う。ルーディックに似ていない自分では存在する意味がないのだな、と。
 それを、当然の事として彼は受け入れていた。そして自身をなじっていた。下級妖魔に飼われて生きてきた者が、王の側近という地位にある相手に好いてもらいたいなどと願ってどうする? そんな欲求を抱いてどうするんだ? 自分は常に、誰にとっても物で、道具で、玩具でしかなかったではないか。感情がある生き物だと認識されなかったではないか!
 ざわざわと髪が乱れ、血色の赤に染まっていく。新たな変化を眼にして、己が更に異なる姿へ変わりつつある事を知ると、レアールは耳朶にはめられていた守護石のピアスをはずしテーブルに置いた。これはルーディックに良く似たレアールに贈られた物だから、今の俺が付けていてはならない、と。それから、眼を閉じ取り戻したばかりの過去の記憶を振り返る。自分は死なねばならないのだと、再確認する為に。
 飼い主の妖魔が変わる都度、前の飼い主やそこで起きた出来事を忘れ、辛うじて生きてきた。全ての記憶が戻った今、まだ成長途中にあった当時を振り返り見れば、何度飼い主が変わろうと己の境遇にさしたる変化はなかったようである。せいぜい痛めつける為の道具が多少違う程度のもので。
 笑えば何故笑うと殴られ、泣けば何で泣くと蹴られるのは誰が飼い主でも同じだった。相手の気に入った料理を作れなければ役立たずと爪を剥がされ、具合が悪くて汚れたシーツの交換ができなければ、仮病を使うなと頭を壁や床に叩き付けられた。苦痛でまともに動けず、暴行を受けた際周囲に付着した血の汚れを落とせずにいれば、掃除もしない怠け者と罵られ、罰として手を釘打たれた。
 鎖で繋がれるのも獣と共に檻に閉じ込められ放置されるのも、頭部を汚水に沈められ窒息寸前まで追い込まれるのもいつもの事だった。虫を食わされるのも汚物を口の中に入れられるのも、ごく日常的な当たり前の事柄でしかなかった。
 彼等は常に従順である事を望んだ。悲鳴すら、許しがなければ上げてはならなかった。泣くのは命じられた時でなければ許されなかったし、怒りを示すような言動は断じてしてはならなかった。そんな権利は、飼われる側にはないのだと彼等は言った。欲望を処理する為の玩具に、感情などあってはならないと。
 感情のない道具として扱われ、惨めな日々を送りながらそれでも生きようと努力したのは、辛いままで死にたくなかったからである。誰からも必要とされない身で、名前を呼ばれる事もなく一生を終えたくはなかったのだ。
 分不相応な望みを抱いたと彼は苦笑し、人間界で同行した少年の事を思い浮かべる。特殊能力を持つ赤毛のハンター。俺がいるだろ、と口づけてくれた相手。ほんの僅かな期間の、幸福な記憶の欠片。
 戻れない事はわかっていた。完全に妖魔となってしまった今は、人の世界に戻れない。側にいる資格もない。もう一度妖魔と呼ばれ、憎悪の眼差しを向けられるのは嫌だった。責められるのも今となっては耐えられなかった。ただ笑って、側にいてほしかった。
 だが、自分は約束を破ってしまったのだ。待っていろと言われたのに、待っていられなかった。迎えに行ける範囲内にいろと言われたのに、人間界ではない場所にいる。それは界を移動できない相手に対する、とんでもない裏切り行為だった。その上、勝手に死のうとしているのである。
『すまんな、パピネス。悪いが……限界だ』
 これ以上、平気な振りをして生きていけない。これ以上は頑張れない。居場所は、遂に得られなかった。夢は夢のまま、最後まで叶わなかった。妖魔界も人間界も、自分の存在を受け入れてはくれない。どちらにも適応できぬ、異端者でしかなかったのだ。
『疲れたんだ……。もう、お前を待てない』
 手が胸に沈み、心臓を掴んで引きずり出す。
 ふくれっ面をして自分を見おろしている赤毛の少年の幻を、その瞬間彼は見た。苦笑が微かに口許をよぎる。
(できれば、最後くらい笑ってる顔を見たかったな……)
 それが、レアールとしての最後の思念だった。それきり、彼の意識は四散し消えた。修復した肉体を前に王がいくら呼びかけても、無駄だった。レアールの意識は、界のどこにも存在しなかった。
 鮮血色に染まった彼の髪は、いくら直そうとしても以前の黒には戻らない。まるで、蜘蛛使いが好んだ黒髪の人間的な雰囲気を持つ妖魔はもういないのだと示すが如く。
 肉体に呼び戻され目覚めた魂の表層は、前世の意識であるルーディックに成り代わっていた。用がない、必要ない、価値がないと言われたレアールは、どれだけ王が呼びかけようと表に戻ってこなかったのだ。


「王」
 不意に、頭上から冷ややかな声がかかる。
「心がどこかに出張しているのか? その状態で仕事が進むとはとても思えんが」
 現実に引き戻された王は、机に片手をつき軽蔑の眼差しで己を見おろしている側近と視線を合わせる。不自然に赤い、鮮血を連想させる髪と夜空のような眼。変化したレアールの肉体と、人間のルーディックの精神を持つ混合体の相手を。
「やってもやっても減らないんだが」
「やらなければもっと減らない」
「………」
 道理である。正論である。お説ごもっとも、の世界である。相手が悪い、と王は肩を落としてペンを取った。
「そなたはまるで、部下というより教育者だな」
 溜め息と共に漏らした呟きを耳にして、紅の髪の側近は露骨に顔をしかめる。この辺の反応は、王宮半壊の騒ぎ以前には見られなかった変化であった。
「側近というのは、俺を側に置いて観察する為与えた地位に過ぎないだろう。いわば名目上のものだ。俺は妖魔の部下になった覚えはないし、こんな可愛げのない教え子を持った覚えもない」
「可愛げがない、か?」
「全くない」
 即座に断言され、王は苦笑する。
「蜘蛛使いからの報告を聞いた限りでは、候補生だったケアスにも可愛げがあったとは思えぬが」
「それは俺がまともな情緒教育をせず躾もろくにしなかったからで、ケアスの性格が根っから悪いという訳ではない」
 紅の髪の妖魔は、すっかりかつての教育係ルーディックに戻って、己の教え子を弁護する。
「どうせ妖魔だと突き放して、物事の善悪もちゃんと教えず放置していたのは俺だ。後で成長した相手からそのしっぺ返しを受けたにせよ、それは当然の報いであってケアスだけを責める事はできない。あれに対しては、今もすまないと思っている。怒りも責めも受け止めるべきだったのに、俺の意識は逃げて、戻ってからも向き合おうとはしなかった。あげく力不足で守れずに失い、未だ謝罪もできないとは情けない」
「その件に関しては、蜘蛛使いにケアスの肉体を奪う許可を与えた私にも責任がある。しかしまあ、優先順位で言えば私にとって大事なのは未来に部下となる存在ではなく、今現在の部下の方であったからな。そなたに謝る気は、正直なところない。それに候補生のケアスの例の振る舞いが、正当な報復行為であったとは私には到底思えぬが」
「………」
「ところで我が愛しき女性、麗しのマーシアの様子はどうであった? 暫らく聾桟敷に置いてしまったが、元気にしてたかな?」
 レアールの名と姿を持つ青年は、途端にうんざりした表情を見せ、頭痛を感じた様子で額に手をやる。
「自分が会いに行けないからといって、人に使い走りをやらせないでほしいものだが」
「いや、そなたが私の部下でなく、厳密に言えばこの世界の住人でもない事は承知している。だから命令ではなくちゃんとお願いしたではないか。確かに起き上がれるようになったばかりの体で、蜘蛛使いの邸まで行かされるなぞ迷惑千万だったろうが、私が書類を放り出して行くよりはましと言ったのはそなたなのだし……」
「ああ、言ったとも。またさぼられて、こちらに処理を押しつけられてはたまらない。今度は手伝ってくれる誰かもいないことだしな」
 紅の髪の側近は皮肉な口調でぼやくと、おもむろに袖をめくって男にしては細い、透けるような白い肌の腕を王の眼の前に突きつける。
「言いはしたが、この腕で一時間余りも舟を漕がされる、などというのは予定に入っていなかったぞ」
「舟を漕がされる……?」
「漕ぎ手が帰ってこないから舟に乗れない、としきりに文句を言っていた」
「マーシアがか?」
「そうだ」
「蜘蛛使いは何をやっていたんだ?」
「俺もそれを知りたい。まさかあの男が毎日マーシア嬢の為に、必死で舟を漕いでいたとは思えんが……」
 妖魔界の王と中身が人間の側近は、まじまじと顔を見合わせ、やがて堪え切れずに吹き出した。あの蜘蛛使いが女性に奉仕し黙々と舟を漕いでる図、というのはちょっと想像できない。できたとしても、額に青筋口はへの字に曲げている様しか浮かばなかった。
 両者は改めてマーシアの度胸と押しの強さに感服する。他の誰にもこうした真似はできないだろう。頼まれてもやらないに違いない。彼女が妖魔界最強の女性である事は、まず間違いなかった。
「まあ、マーシアらしいと言えばらしいのだが……それにしても大したものだな」
 笑い疲れた王は、ほとほと感心し切った様子で呟く。
「その彼女を本気で妻に望むと? 尻に敷かれる程度では済まないと思うが」
 真面目な顔で皮肉を投げかける側近に、王は口の端を上げた。
「そなたもずいぶんな台詞を吐く。レアールではないのだから、あれと違うのは当然にせよ、ルーディックとして存在していた頃でもそんな性格ではなかったと記憶しているのだが、またえらく変わってしまったものだな。昔はあんなにおとなしく、常にどこか悲しげな表情を浮かべていて、そそる風情があったというのに」
「ほぉう?」
 紅の髪の側近の眼が、極めて物騒な光を帯びる。
「死んだ方がましという目に散々合わされたあげく殺され、転生して妖魔となればこれまた不幸のてんこ盛り状態。耐え切れず精神崩壊を起こし消えた人格の代わりに強制的に目覚めさせられたこちらは、五百年分の壮大な記憶喪失も同然。その上再会した己の仇を教え子と思い込むという恥ずべき間違いを犯し、更にそいつのおかげで再び死の国の門を叩きかける羽目になりながら、なお性格が歪みも、曲がりも、ひねくれもしない、そんな男がいたらぜひ会ってみたいものだぞ、王」
「……それは……確かに、そう……かもしれん」
 王は唖然として言葉を返す。レアールの肉体を持つ妖魔が喋っている間に、決済処理が為されていなかった机上の書類は全て舞い上がり、天井や壁に刃物の如く突き刺さってオブジェと化していた。これでは仕事の続きにかかれない。
妖力をほんの僅か発揮して悪さを仕出かした側近は、にっこりと晴れやかな笑顔を向ける。
「引っこ抜きながら作業をすれば、少しは単調な仕事も楽しめるだろう。ま、せいぜい張り切ってやってもらおうか。俺はマーシア嬢への奉仕作業に疲れたので休むとする。ではお先に失礼、王。どうぞごゆっくり」
 手を振り執務室を去る側近の背中を見送って、王は思わずぼやきを漏らす。思い切り歪んで曲がってひねくれたのではなかろうか、あの男の性格は、と。


 妖魔界の王の住まいたる華美な宮殿の中で、一部屋だけ殺風景な、殆ど装飾のない壁と質素な調度で整えられた部屋がある。広さだけは充分なその私室に戻ると、レアールの肉体を持つ妖魔は疲労し切った体を投げ出すように寝台に横たわった。昨日の朝まで、意識もなく眠ったまま過ごしていた寝台である。
 一ヶ月前のあの日、蜘蛛使いの内から解放された異界の魔物は、蜘蛛使い自身が放った力によるいくつかの爆発の後で、破壊された宮殿内をそこにいる妖魔ごと、じわじわと呑み込んでいった。
 それは一見、極彩色の霧としか見えない物体であった。まがまがしくはあっても、側近や上級妖魔達に危害を加える力などあるとは到底思えぬ存在にしか。
 だがその霧の先端に手を包まれた側近の一人は、恐怖に満ちた悲鳴を上げのけぞった。異界の霧が触れた彼の手指は、一瞬にして生命を持たぬ乾いた砂となり、肉体から分離し崩れていったのである。
 妖魔だけではない。調度品や建造物も、例外ではなかった。極彩色の霧が触れる、極彩色の霧に包まれる、途端、それらは砂と化して崩れ落ち消滅していくのである。
 妖魔を、王宮の壁を調度を呑み込む都度、異界から侵入した正体不明の霧は広がり、巨大化していった。遂には宮殿の半分をその内に収める程に。
 自分にどうにかできる、などと思った訳ではなかったが、彼はその時立ち向かうべく駆けていた。王はギリギリまで手出ししないつもりなのか、それとも部下の力を試す気なのかのんびりと結界内でこの桁外れな破壊と殺戮を眺めているし、事態を引き起こした当の蜘蛛使いは、正気であるとはとても思えなかった。現に呼びかけても、反応すらしなかったのである。
 既に王宮の半分を呑み込んだ魔を完全に包み込む程の巨大な気の防壁を作り出し、封じ込め消し去る事ができるかどうか、己の今の肉体にそれだけの妖力が果たしてあるのか自信はなかったが、やってみるしかなかった。
 時間を与えれば与える程、敵は巨大化し強さも増すとわかっている以上、駄目で元々と試すしかなかったのである。

 霧の先端を触手のように伸ばし、犠牲者を求めて進む魔の正面に立って、紅の髪の妖魔は精神を集中し気を放つ。精神力だけが頼りの攻防だった。だが何とか包み切った、と感じた瞬間、相手の怒りの感情が刃となって全身を貫き、精神の集中が途切れて封じ込めに失敗した。
 極彩色の霧が唸りを上げて迫り、口から強引に侵入を開始する。包み込んで喰らうのではなく、内側から破壊しようと目論んだらしかった。息もできず苦痛に悩まされながら、彼は異界の魔物の声を聞く。二度と封じられぬよう、魂を喰ってしまおうという呟きを。 やめてくれ、と紅の髪の妖魔は、妖魔の内にあるかつて人間だった男は心の中で叫ぶ。魂を喰われてしまっては転生を望めない。無明の闇に永遠に囚われてしまう。そんな死を迎えるのは嫌だった。
 その間も、極彩色の霧状の魔物は彼の体内へと侵入を続けていた。呼吸はできず、耳はキンと痛み、頭はガンガンと鳴っている。それは紅の髪の側近にしてみれば、為す術もなく異界の魔に嬲られている状態でしかなかった。だが、周囲から見ればその光景は全くの逆である。
 王も含め彼等の眼には、新参の側近が極彩色の魔物の抵抗を封じ込み、己の内に吸収しているようにしか見えなかったのだ。
 実際に動作を、表情の変化さえ抑え込まれているのは彼の方だったのに、誰もその事実に気づきはしなかったのである。
 苦しさを訴える心の声さえ、封じられて誰にも届かなかった。それを聞いたのは侵入した異界の魔物だけである。絶え間ない激痛に、彼は己の全身から血が噴き出しているのではないかと錯覚した。が、現実の肉体からは、一滴の血も流れていなかった。
 シャクシャクと何かを噛み砕く音が聞こえ、昔人間であった妖魔は遠い幻を見る。人型を取った極彩色の霧が、両手にほのかな光を放つ球体を持ち、美味そうにかぶりついていた。それが魂である事を知って、紅の髪の側近は眼をそらす。されど意識を失う前に、微かな疑問を彼は抱いた。何故魂が二つあったのだろう、と。
「………」
 紅の髪の側近は、寝台の上で身を震わせる。思い出しただけで寒気がした。王の説明によれば、自分はあの霧状の魔を完全に吸収した後倒れ、一ヶ月も意識のないまま眠り続けたのだと言う。
 王は、彼が異界の魔物を封じ込んで消したものと思い込んでいた。周囲の生き残った側近達も同様だった。あの日現場を目の当りにした者達は、一人の例外もなくそう信じていたのである。当事者である彼だけが、そうではない事を知っていた。だが、あの魔物がどうなったのかは正直なところ彼にもまるでわからない。第一、魂を喰われたはずの自分が何故、こうして自己を保っているのだろう、と悩まずにはいられなかった。
『知りたいか?』
 夕闇の薄暗がりの中、不意に声が響いた。紅の髪の妖魔はガバッと身を起こす。
『教えてやろうか』
 再び声が聞こえ、手の甲から煙が立ち上った。見覚えのある極彩色、己の内に侵入してきたあの霧と同じ色。
 それはゆっくりと彼の前で密集し、濃さを増して巨大な人型を形成する。身動きはできなかった。あの日と同じく。声すら発せられない。
 新たにかかった重みに、ミシリと寝台が軋む。分離し極彩色の人型となったそれは、しかし完全に離れた訳ではなかった。指の一本だけはまだ、第一関節から先が彼の手の甲に埋まっていたのである。
『お前の名前はレアールでルーディック。どちらも現在のお前であり、どちらも現在のお前でない』
 声が頭に響き渡る。後頭部を殴られたような痛みと、激しい目眩を感じた紅の髪の側近は、自覚せぬまま上体を傾けた。その体を、極彩色の手が支える。
『お前は妖魔で、同時に人間という生き物。お前は人間ではなく、妖魔でもない。お前と同じものは、どこにも存在しない。お前は、実に興味深い』
 更に増した重みに、寝台が悲鳴を上げる。人であり妖魔でもある青年は、巨体にのしかかられ満足に息もできず喘いだ。
『お前を、気に入った』
 異界の魔は囁く。
『だから今も留まっている。当分はお前で遊ぶ。きっと退屈しない。嫌なら残しておいた魂を全部喰って終わりにする。どちらが良い?』
「………」
 救いのある選択肢はなかった。遊ばれるのも喰われるのも御免だというのに、どちらも否と答える事は絶対に許されないのである。あんまりな事態に、追い詰められた精神は肉体からの逃避を選ぼうとする。それを必死で止めながら、ルーディックは懸命に思考を巡らした。何故この魔物が自分を殺す予定を翻し内に留まっていたのか、何故こんな申し出をしたのかを。そして答えとおぼしきものを引き出した時、彼は苦笑するしかなかった。
(そうか、こいつは確か蜘蛛使いの魂に長らく封じられていた魔物だったな)
 ならば互いに影響を受け合ったとしても納得がいく。どちらがより多くの影響を相手に及ぼしたかは不明だが、そのどちらの行動形態にも、それなりに影響があった事は間違いなかった。
(だとすれば魂がこいつと離れた蜘蛛使いは、反動で善良な性格になっていてもおかしくない訳だ)
 何やら笑うしかない話である。善良な性格の妖魔、それもあの蜘蛛使いとなると、ルーディックの想像の範囲を超えていた。人間界で捕らわれてから、そしてこの妖魔界に来てからも、教育係となる為王に引き渡される前日まで、人でしかなかった自分が受けてきた扱いの酷さを思うと、どう頑張っても想像できはしない。
『答えは?』
 待たされる事に苛立って、魔物が促す。その声はガンガンと頭に響き、軽い痛みを伴った。この異界の魔物が何を目的として人型を形成したのかは、想像がついた。遊びがどういう類のものであるのかも。ルーディックは諦めの吐息を漏らす。体が完全に分離せずつながっているのでは、逃げる手段もない。そして魂を喰われたら最後、二度と新たな生を受ける機会はないとわかっている以上、どんなに嫌でも選ぶ答えは一つしかなかった。
「……ここでは駄目だ」
 巨体に潰されそうな思いをしながら、彼は呟く。
「ここは王に近すぎる。気づかれてしまうかもしれない。それは困る。お前も邪魔が入るのは嫌じゃないか?」
 気づけば面白がるだろう、あの王は。そう、ルーディックは推測する。何が起きてるか知ったら、面白がって覗き見に来かねない。それだけは避けたかった。他者の視線に晒されながら嬲られるという経験は、一度で充分である。二度としたくはなかった。
 遊びの途中で邪魔が入る事を嫌ったのか、魔物は彼を抱えると場を移動した。瞬きする間に王宮内の私室から異なる界へと。
 そこはかつて彼が教え子と暮らしていた場所。住む者もなく五百年に渡り閉鎖されていた、明かりの灯らぬ墓所のような館の一室。
 閉め切ったままの室内は埃と黴の臭いが充満し、息を吸うのもためらわれたが、異界の魔物は嗅覚が麻痺しているのか、それとも元より嗅覚など持ち合わせていないのか、まるで気にならないらしかった。
 魔物とつながっていない方の手で、窓硝子の埃を払い窺えば、既に館の外は夜の気配が色濃く漂っている。誰かが偶然近くを通ったとしても、余程注意をこちらに向けない限り中で起きている事には気づかないだろう。
「!」
 背後からのしかかった重みを支え切れず、膝が床につく。自分の意志では手足を自由に動かせなくなった事を認識すると、首を捩って己を嬲ろうとしている極彩色の魔物をルーディックは見上げた。人の輪郭をしているとはいえ顔などないはずのそれが笑っているのを感じて、彼は嫌悪に身を強張らせる。
 意識は五百年前の、誕生祭を前にした悪夢の日々へと引き戻されていく。あの当時も、自分に抵抗する術はなかったのだ。蜘蛛使いの糸に、身体の自由は奪われた。そして逃げる事もできず、中身が別者に変わった教え子によって身を引き裂かれ、何度となく気を失い、死ぬ自由すら与えられず連日弄ばれて。
(今度もまたか? また同じなのか?)
 黴臭い空気が、舞い上がった埃と共に肺の内に吸い込まれ、咳によって吐き出される。咳き込むとわかっていても、この状況で息を止め続ける事はできなかった。自分のものとは思えない鮮やかな紅の髪が乱れ、床の上に広がっている。咳き込む都度に髪は揺れて波打ち、その度積もった埃は舞い上がった。
『ルーディックが嫌がる事は無理にやらない。約束する』
 記憶の中で、教え子のケアスが言う。亜麻色の巻毛と紫の瞳、綺麗な容貌と強い妖力を持つ妖魔。側近候補としての未来を約束されていた若者。
『ずっと嫌がらせだの悪ふざけだの思い込んでくれていたから、私も素直に言えなかったんだがな』
 だから、これは絶対自分だけの責任じゃないぞ、と唇を尖らせ開き直り、そのくせどこかで許しを求めている相手。どうしても憎めない、大きな駄々っ児。
『約束する。ルーディックが嫌なら無理に触れない。手荒な真似もしない。私はお前が好きだし、お前を守りたい。できればずっと側にいたいと思う。いつだって好きだからお前に触れたし、愛しいと思ったから抱いた。常にお前の意思を無視してきた事は謝る。それでも、これだけはわかってほしい。衝動的に触れたくてたまらなくなる時がある。正直な話、我慢してると気が変になりそうだ。だが、お前が嫌なら二度と触れない。もう私の身勝手で辛い思いはさせない。ルーディック、お前が嫌なら……』
 冗談として受け流し済ます手もあった。けれどそうするにはケアスの眼差しはあまりにも真剣で、今までの行為が悪ふざけでも嫌がらせでもなかった事を存分に示していた。それ故、受け止めてやらねばならない、と思ったのだ。伸ばしてきた手を振り払うような真似は、今度はしてはいけないと。触れられたくない、とは言えなかった。ケアスに対しては、言えなかったのだ。
「……っ!」
 体が砕かれたような衝撃に、ルーディックの呼吸が止まる。それまで凄まじい嫌悪感に悩まされながらも、必死で己の元に引き止めていた意識を、この時遂に彼は手放した。極彩色の魔物は相手が気絶した事など意に介さず、なおも執拗にその肉体を貪り続ける。数分後、意識を取り戻した青年は、自分の置かれた状況が理解できないかのように辺りを見回し、それから先程までの諦め切った様子とはまるで異なる態度を示した。すなわち自由にならない手足で逃れようと無駄に足掻き、堪えもせずに悲鳴を上げ、やめてくれと嘆願したのである。
 魔物は歓喜にその身を膨脹させ、この新たな面を見せた獲物に再度襲いかかった。先刻までの、ひたすら無言で耐えていた人形のような相手より、こちらの方が断然面白いと感じて。長年封じ込められてきた異界の魔物は、自由に動ける我が身と、その手に得た極上の獲物を、同時にじっくり堪能したのだった。




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