断罪の瞳1《4》


 村を襲撃するはずだった妖獣の部隊を一人で倒したハンターに、宿の主人は感謝の印としてとっておきの酒と料理と客室を提供した。むろん、小さな村の宿であるからそれは素朴でささやかなものであったが、それでもパピネスにしてみれば充分贅沢な部類に入る。 彼は上機嫌で酒を注ぎ蜘蛛使いに勧め、黒牛の煮込みやステーキ、ジャガイモのサラダやこんがり焼けたガーリックトーストに舌鼓を打った。
 着替えた服の下に傷はなく、包帯も用済みとなっている。ずっと付き合っていた苦痛が消えた事も、パピネスを陽気にさせる一因となっていた。これで存分に戦える、と思うと自然に笑みがこぼれる。吹雪の方も収まりつつあるし、この分なら明日には出発できそうだった。

「食べないのか?」
 自分の分の料理を半分平らげたところで、赤毛のハンターは向かい合わせに座っている男に声をかける。蜘蛛使いの前の皿は、さっきから殆ど手をつけられていなかった。
「不味くはないと思うけどな。この料理は結構いけるぞ。今朝の朝食も美味しかったし」
 亜麻色の髪の妖魔はその意見に同意したが、手を伸ばしたのは料理ではなく酒の方だった。
 パピネスは困ったように眉を寄せる。
「それ、料理と合わせて飲むから美味しいって酒だぜ。料理なしじゃ本当の旨味は味わえないんだが」
「………」
 仕方がない、といった表情で蜘蛛使いは料理を口にする。テーブルをはさんで正面に座る相手は、ほっとした顔になり食事の続きに取りかかった。
 宿で働く者達は、主人も含めて皆、突然現れたこの異様な風体の青年に不審な眼を向けようとはしなかった。ハンターの口から聞いた説明を、頭から鵜呑みにしたせいである。
「……よくもあんなでまかせが言えますね。吹雪ではぐれて偶然の再会? いつ私が貴方の相棒になりました?」
「んーっ? 別にいいじゃないか。誰に迷惑をかける訳でもないし。あんたが俺を助けてくれたのは事実だし」
 蜘蛛使いは思いっきり眉間に皺を寄せる。
「私は迷惑です」
「そりゃお互い様」
 しれっとしてパピネスは答える。本気で相棒にしようとは思っちゃいないから安心しろよ、と。
「それに呪術師だという事にしておけば、誰もその肌の模様を奇異に思いはしないだろ? 悪い手ではないと俺なりに考えたんだが」
「それは認めましょう。確かに皆さん驚いてはいましたが、嫌悪の念は抱かなかったようですし。自力でこの模様を消す事ができない以上、そういう職業だとしておくのが無難ですね」
「自力で消せない、か。……誰にやられた?」
 どうでもいい口調でパピネスは訊く。返事は期待していないらしかった。それ故に、かえって蜘蛛使いは答えてやりたくなる。答えを聞いたハンターの、反応が見たかった。
「妖魔界の王に」
「あ?」
 蜘蛛使いはニッコリと笑う。
「聞こえませんでしたか。妖魔界の王にやられてしまったんですよ」
 パピネスは眼を丸くする。
「そりゃ……何でまたそんな……」
「全く、何でまたとは私も言いたいですね。たかが王宮を半分吹き飛ばしたぐらいで」
「ああ?」
「正確には吹き飛ばした訳ではありませんが、まあ半壊させたのは事実です。もちろんその場にいた妖魔も全員道連れにしましたし……。それにしてもあれを食い止めるどころか逃げ出せもしなかったなんて、側近の名折れですね。情けない」
「おい……」
「言っておきますけど、わざとやった訳ではありませんよ。不慮の事故というものです。どうにも我慢ならない出来事がありまして、気がついたらそういう惨事になっていたのですよ。断じてわざとではありませんから」
「あのな……」
「本当に王も短気ですねぇ。どうせあの方の妖力を以てすれば、王宮など一日で復元できるでしょうに。死んだ側近や上級妖魔についても、惜しんでなどいませんよ。ええ、保証します。きっと今頃は良い退屈しのぎができたと喜んで、新しい側近の選出に情熱を傾けている事でしょうからねっ!」
「………」
 赤毛のハンターは、何とも複雑な表情を浮かべ旧知の妖魔の台詞を聞いていた。やがて彼はこそりと呟く。この部下にしてこの上司ありかよ、と。
「それでケアス。あんたはその結果そういう模様を肌に刻まれて、こっちの世界に追放された……のか?」
 恐る恐るパピネスは確認する。蜘蛛使いはむっつりとして頷いた。
「不本意ですが、そうなりますね。許可があるまで戻ってくるな、だそうです」
「ふーん、だから見える所までそんな肌にした訳だ」
「え?」
 聞き咎めた相手に、パピネスは言う。たとえ王の命令だろうと、おとなしく従うようなあんたじゃないだろ?と。
「もしも体の表面にまで模様が刻まれてなかったら、あんたは王の命令なんか無視して即刻故郷へ戻ったと思うんだが、……違うか?」
「………」
 違わなかった。邸で待っているマーシアに会いたかったし、何より倒れたレアールことルーディックの容体が気になる。この肌をおぞましく彩る模様さえなかったら、すぐにでも自分は戻っただろう。だが……。
「……知り合いにこの姿を見られたくはないですね」
 うつむき、額を押さえて蜘蛛使いは漏らす。そうだろうな、とハンターは呟いた。
「でもまあ、悲観するなよ。そのうち王様も気を変えて呼び戻すって」
 蜘蛛使いは自嘲の笑みを浮かべ、首を振る。破壊と殺戮自体はともかく、封じていた異界の魔を解放した件に関しては、王は本気で怒っていた。あの怒りが十年やそこらでとけるとは思えない。無駄な期待はしたくなかった。
「気は変わるさ。俺という実例がここにいるじゃないか」
 励ますように囁いたハンターは、自身を指差す。
「実例……?」
「実例だろ。あんたと最初に会った時の第一印象ときたら、最低最悪だったんだからな」
 蜘蛛使いは思い出す。初めてパピネスに会った時、自分が何をしでかしたか、どんな目にあわせたかを。
 レアールに対する執着故に犯した罪。あの時このハンターは、十四の子供ではなかったか? 痩せ気味の、抵抗する力もない少年ではなかったか?
 それを自分は凌辱し、妖獣に与えたのだ。
 蜘蛛使いの顔から血の気が引く。今になってようやく彼は、自らの罪を意識した。己の犯した、逃れようのない罪を。
 赤毛のハンターは、責めるでもなく見つめている。かつて自分を力ずくで汚し、妖獣達に輪姦させた男を。
「あの頃は、レアールがあんたの名前を口にするだけで耐えられなかった。空気が腐ると本気で思ったさ」
 淡々と、パピネスは言う。その表情から、内心の思いは読み取れなかった。
「あの当時、俺はあんたを殺してやりたかった。あんたができるだけ惨たらしい死を迎える事を、願わない日はなかったよ。憎くて、吐き気がするほど嫌いで、存在そのものが許せなかった」
 言葉を切り、ハンターは酒を口に流し込む。蜘蛛使いは何も言えなかった。逃げ出したいという思いにかられてはいたが、それもできなかった。逃げたら許されないと、今度こそ許されないと感じて、彼はその場に留まり、ハンターの次の言葉を待つ。
「俺は、あんたを許した訳じゃないんだ。ケアス」
 杯を置き、パピネスは呟く。
「ただ昔のような憎しみは持っていないし、同じ部屋で空気を吸うのも嫌じゃない。あの頃の自分なら耐えられなかったはずの事が、今は平気なんだ。歳月を重ねるというのは、そういう事なんだよ、ケアス。どんな恨みも憎悪も、やがては薄れていく。耐えられないと思っていた出来事が、耐えられる範囲の事になる。要するにだ、生きている者は、いつまでも同じ場所に留まってはいられないものなのさ」
 だから信じろ、とハンターは肩に手を置く。
「必ず妖魔界に戻れると保証してやる。自棄になるなよな」
 茶色の眼が、蜘蛛使いの顔を覗き込む。もはやそらす事もできずに、亜麻色の髪の妖魔はその瞳を見つめ返した。以前はレアールを映していたはずの人間の眼を。
「……戻れる保証はしてくれても、私を許す気はない訳ですか。ハンターの坊や」
 何故そんな事を口にしたのか、蜘蛛使いにはわからなかった。気がついたら、ポツリと漏らしていたのである。慌てて唇を閉ざしたが、後の祭りであった。言った言葉は取り消せない。案の定、パピネスはあきれたように彼を見る。
「おい、ケアス。そりゃあないんじゃないか?」
 全くである。いったいどこまで譲歩させるつもりなのか。過去の恨みは横に置き、親身になって励ましてくれる相手に、自分はこれ以上何を求めるのかと、蜘蛛使いは己を叱咤する。だが、続いてパピネスが語った台詞は、彼の予期せぬものであった。
「加害者のあんたが謝ってもいないのに、どうして被害者の俺が許してやらなきゃいけないんだ? 順番が逆じゃないか。そうだろ?」
「謝っていない……?」
「そうだ。俺はあの件に関してあんたに、一度も謝ってもらった覚えがないぞ。それで許すも許さないもあるかよ。自分が悪かったと思っていない相手に許すと言ったところで、意味なんざありゃしないだろうが」
 蜘蛛使いは暫し沈黙し、言われた言葉を反芻する。つまり、この人間は……。
「……謝ったら許してくれると言うのですか。貴方は」
 真剣な声音で、蜘蛛使いは問う。
「謝ったぐらいで許される事をしたとは思っていませんよ、私は。それでも許すと言うのですか?」
「ケアス」
「私が貴方の立場だったら絶対に許しはしません。それなのに許す気でいる? 謝れば許すと、本気で言うのですか?」
 赤毛のハンターは首を傾げ、次いでまじまじと旧知の妖魔を眺める。それから、たまりかねたように吹き出した。
「何だよ、ケアス。あんた、ちゃんと悪いと思っていたんじゃないか。そうか、実は悪いと思ってたんだ。そいつは知らなかったな」
 背後に回り、背中を叩きながらパピネスは笑い転げる。蜘蛛使いは戸惑い、対処に悩んだ。
「ハンターの坊や! 質問に答えていませんがね」
「質問? 質問って、ああ」
一人で納得し笑い続ける相手に、蜘蛛使いは困り果てて立ち上がった。その肩を掴んで座らせると、ハンターは囁く。
「謝れよ、許してやるから」
「………」
「今の俺はあんたがレアールを好きだったと知っている。だから許せる。一度だけ謝れ、ケアス。それでもういい」
「私は……」
 蜘蛛使いは遠い幻影を見る。傍らにいる成長したハンターの姿ではなく、初めて会った頃の痩せ気味の子供を。レアールが笑顔を向けていた、赤毛のみっともない子供の妖獣ハンター。己が嫌悪し、いっそ殺してやりたいと考えていた相手の幻を。
「私は、貴方が憎かったんですよ。会う以前から嫌って、憎んでいました。レアールが貴方の側で幸せそうに笑っていたから……」
 彼方を見たまま、蜘蛛使いは呟く。現実ではなく過去をその瞳に映して。
「殺してしまいたいとさえ、思いましたね。でも、それをする訳にはいきませんでした。貴方はレアールにとって必要な存在で……。その生命を奪ってしまったらレアールは、もう私の玩具でいる事に耐えられなかったでしょうから」
 蜘蛛使いは唇を噛む。人間相手に謝った事など、許される事を願って謝った事など、これまでの生を振り返っても一度もない。未知の領域に踏み出すのは、妖魔といえどもかなりの勇気が必要だった。
 思い切りも、同様に必要である。相手が人間であるという侮りを捨て、対等の者と見なさなければ謝罪は難しい。彼は唾を飲み込み、言葉を口にしようとして体を強張らせる。何かもう一つ、きっかけがほしかった。障害を乗り越える為のきっかけが。
「ケアス」
 ハンターの声が、彼の現在の器の名を呼ぶ。蜘蛛使いという呼称ではなく、この存在に与えられた名を。
「ケアス」
 促すように、名を呼ぶ声。それがきっかけだった。最後の障害を飛び越える為のきっかけ。唇を開き、亜麻色の髪の妖魔は謝罪の言葉を口にする。そして彼は知るのだった。自分が許されたという事を。目の前のハンターの微笑みで。


◇ ◇ ◇



 深刻な吐息が、少女めいた愛らしい唇から漏れる。通算八回目の溜め息をついたのは、側近仲間の紅一点たる女性の妖魔マーシアであった。長椅子に腰をおろした彼女が先程から眺めている床は、色とりどりのきらびやかなドレスと装飾品で埋めつくされ、足の踏み場もない。それらは全て妖魔界を統べる王、この世界を支配する者からの贈り物である。
「毎日毎日飽きもせず、よくもこれだけ贈って下さること。こんな物で私が気を変えるとでも思っているのかしら。あの王は」
 贈り物と共に寄越された手紙を指先で弾き、マーシアはぼやく。そこには王の直筆で、早く離宮に戻ってきてほしい、もう子供を産むなとも消滅させろとも言わないから云々、といった文面が延々と綴られていた。
「子供を消滅させろとは言わない、っていうのなら少しは考えてもらいたいわね。このドレス! 今の私が着られるとでも? 本当に殿方ときたら、女性に対する理解度が足りないのだから」
 胸ほどではないにせよ膨らんだ腹部を両手で覆い、彼女は眉を寄せ悪態をつく。
 王への文句は他にもあった。一ヶ月前の朝、いつものように留守番役の同僚がいる王宮の執務室へと出かけていったこの邸の主。亜麻色の巻毛と紫の瞳、彼女が昔恋した若者の肉体を持つ妖魔が、それきり帰らないのである。夕食までには戻ると約束した、蜘蛛使いの異名で呼ばれる王の側近が、戻ってこないのだ。
 二ヶ月振りに王が帰還した、という噂は程なくマーシアの耳にも入った。その後に王宮が何故か突然半壊、側近や上級妖魔に多数の死者が出たという事も。しかし、一番彼女が知りたいと願った事柄に関する情報は、全く流れて来なかったのだ。
 だから王へ文書で尋ねたのである。彼はどうなったのか、どうして戻ってこないのか。王宮で何があったのか、レアールがあれきり姿を見せない理由は何なのか、と。
 だが、それに対する王の返信はドレスや宝石、装飾品の類いと、離宮に戻ってきてほしい、側近として側にいてくれといった内容に終止して、肝心要の件についてはいっさい触れようとしなかった。何度マーシアが問おうとも、結果は同じだった。
 訳もわからず待つ身は、余計不安になる。既に一ヶ月も会っていないのだ。ケアスの肉体を持つ蜘蛛使いにも、彼が想う相手であるレアールにも。
 かといって、自分がのこのこ王宮に出向いたらどういう事になるか、は概ね想像がついた。王は、二度とこの邸へ帰してはくれないだろう。そなたは蜘蛛使いの妻ではないのだから、と言って。子供は、おそらく消されてしまうだろう。体のラインが崩れてみっともない、という理由で。
 そう、彼女にはわかっていた。だからどれほど不安になろうとも、マーシアは行動に出る訳にはいかなかったのである。身の安全と、子を守る為に。
「マーシア様? あの……」
 ノックと共に扉を開け、返事も待たずに顔を覗かせた小柄な半魔は、言いかけた言葉を飲み込みあきれ果てた表情で床一面のきらびやかな贈り物を眺めた。それから、大きく息を吸って袖をまくると、片付けさせていただきます、と宣言し手近なドレスを掴むや畳み始める。
その様子を微笑ましく眺めながら、彼女は問いかけた。
「何か私に用事があって来たのではなかったの? ユーリィ」
 ユーリィと呼ばれた半魔はピンと耳を立て、ドレスを畳む手を止めると慌てて用件を口にする。
「あっ、あの、ついさっき突然あの方が見えまして。今ミルファが玄関ホールで応対してますけど、お会いになられますか?」
「あの方?」
 不審げな表情で首を傾げたマーシアに、半魔は自分の表現のまずさを悟り焦って説明する。
「ですからっ! あの、前に気絶した状態で御主人様に連れてこられた、昔とは全然違う容貌と妖気の、でもレアール様はレアール様、とミルファ言うところのあの方が……」
「!」
 マーシアは顔色を変え立ち上がる。一ヶ月振りに会う、必要な情報を握っているはずの相手だった。お腹の子の事を考えると余り妖力は使いたくなかったが、逸る気持ちは瞬間移動を彼女に選ばせる。
 室内の光景が一瞬で消え、代わりに玄関ホールが視界いっぱいに広がった。ピンクの髪の半魔に屈み込んで目線を合わせ、言葉を交わす鮮やかな紅の髪の妖魔。夜空の色の眼を持つ、長身の側近。その内心を殆ど伺わせぬ穏やかな笑みを浮かべた顔は、マーシアの出現を確認するなり怒ったような、心配するような表情へと劇的に変化した。
「マーシア嬢! 何て無茶をするんだ、貴方は!」
 いきなり耳元で怒鳴られ、マーシアは身を竦ませる。急ぐあまり、着地点を間違えて現れたとしか言い様がない。危うくミルファの頭部を靴のかかとで直撃するところだった彼女は、同僚の妖魔の腕に抱えられ、間一髪で事なきを得たのだった。
「今がどういう時だと思ってる! お腹の子供がびっくりして消える可能性は考えなかったのか?」
 厳しい口調で咎められ、声もなくうなだれるマーシアを、踏まれる寸前だった半魔が弁護する。
「怒っちゃ駄目です、レアール様。マーシア様は、この一ヶ月というものずっと待っていたんですから。だから柄にもなく焦ってお見えになったんです。普段はとてもおしとやかなんですから、怒らないで下さい!」
「おしとやか……? それは初耳だな」
 耳の穴に小指を差し込み、さも意外な事を聞いたという顔で呟くレアールに、マーシアも同意する。
「私も初耳ですわ。……残念ながら」
 マーシアは多くの美点を持つ女性だが、側近候補生の時代まで溯ってみても、しとやかと他者から評された事はないのである。半魔ミルファの言い分は、完全なひいき目というものであった。
「ねぇミルファ、庇ってくれるのは嬉しいけど、貴方を蹴飛ばしかけた相手をおしとやかだなんて言っちゃ駄目よ。誰も信用しやしないから」
 苦笑して囁きかけると、マーシアは同僚の腕を取る。
「少しお散歩でもしませんこと? 私、ここ数日湖の小舟に乗りたくて乗りたくてたまらなかったんですけど、ご存知のように櫂の漕ぎ手が帰ってこないものですから、乗る事ができずにおりましたの。でも、今日は貴方がいらっしゃるから安心して乗れますわ。もちろん漕いで下さりますわよね」
 紅の髪の同僚は、こめかみを押さえ息を吐く。
「断られる、とは思っていないようだな」
「あら、断るつもりでおりましたの? そんなはずありませんわよね。貴方は優しい方ですもの」
 ニッコリ笑って有無を言わさず押し切ると、マーシアはミルファにお茶と菓子の支度を頼み、長身の青年の腕を掴んだまま強引に湖へと連れ出した。


 小舟が岸を離れ、静かな湖面の上を緩やかに進み出すと、彼女は表情を一変させる。レアールと顔を合わせたら、すぐにでも王宮で何が起きたのか訊き出そうと思っていたのだが、ミルファ達の耳目がある所でその話題を切り出すのはためらわれたのだ。
 一向に戻らぬ邸の主を心配しているのは彼女達も同様だったが、内容によっては事実をそのまま伝えぬ方が良い場合もある、とマーシアは考えたのである。
 この湖上でなら、聞き耳を立てる半魔はいない。故に彼女は安心して問う事ができた。
「王宮で何があったか、話していただけます? そのつもりで訪ねて来て下さったものと判断しましたけど」
「ああ、……そのつもりだ」
 櫂を漕ぐ手を休めず、紅の髪の妖魔は頷く。それから、眩しそうに水面を眺め瞼を閉じた。
「もっとも、その前にこちらも訊きたい事があるのだが」
「何でしょう?」
「一ヶ月前に蜘蛛使いが持ってきた差し入れのお弁当は、半魔が作った物ではなく貴方の手作りだった気がするのだが、違うかな?」
 思いがけない事柄を指摘され、マーシアは眼を見開く。
「まぁ嫌だわ。確かにそうですけど、何故わかりましたの? 内緒にしてましたのに」
 苦笑して答える彼女に、男は淡く微笑んだ。
「味付けがラディーヌのそれと良く似ていた。盛り付けは彼女より上手だったが」
「あら、そんな事は……」
 ありませんわ、と謙遜の言葉を言いかけて、マーシアは絶句する。ラディーヌ。その名がどうしてこの同僚の唇から漏れるのか。
 自分の教育係の名前だけならば、あるいは知る事ができたかもしれない。何と言っても王の側近であるのだから、過去の側近候補生と教育係について記載された書類に眼を通す機会もあるだろう。可能性なしとは言えない。
 しかし教育係の料理の味付け、盛り付け等に関しては、記録に載る事はない。知る者はごく限られるのだ。
 ラディーヌの料理を実際に食べた者でなければ、それを語る事はできない。そして彼女の料理を食した者と言えば、自分とケアスとそれから……。
「!」
 震えが、マーシアの全身を駆け抜けた。
(まさか……。嘘よ、そんな馬鹿な事って……っ!)
 それでも、ケアスと自分を除けば明らかにその人しかいなかった。ラディーヌの料理を食べる機会があったのは。
「……ルーディック?」
 櫂を手にした同僚を見つめ、マーシアは呟いてみる。五百年前ケアスの教育係として側にいた青年、蜘蛛使いによって妻子を殺された人間の名を。

『断罪の瞳2』へ続く