断罪の瞳1《3》


◇ ◇ ◇


 カディラの都を発ってから十日目の朝。妖獣退治を生業とする赤毛のハンターは、テーブルの上に置かれた宿の朝食、豚肉と豆をじっくり煮込んだトマト味のスープと、焼き立ての香ばしいパンを前にしながら、空腹も忘れたような表情で曇った窓の向こうを見つめていた。
 硝子の曇りを指でこすった部分から、僅かに覗く外の様子は昨日の午後と同じである。昼過ぎから本降りとなった雪は、折からの強風で吹雪に変わり、今なお激しく吹き荒れて人々の外出を許さなかった。
「お客さん、そう睨んだところで天候は変わりやしませんって。今日はまあ諦めて、ここでおとなしく骨休めでもしているんですな」
 見かねた宿の主人が、飲み物を運びがてら苦笑気味に話しかける。それでもハンターの視線は、窓の外に向けられたままだった。
 禿げ上がった頭とは対照的に、たっぷりと髭をたくわえた小太りな宿の主人は、昨日近所の農家へ予備の小麦粉を仕入れに出かけた帰途で吹雪に遭遇し、難儀しながら戻る途中で山道の方へ進もうとしているハンターの姿を発見、その場で引き止め強引に自分の経営する宿へと連れてきたのである。いくら急いでいようと、この天候の中雪山を越えるなぞ自殺行為でしかない、と説得して。
「実際あのまま山に入っていたら、今頃凍死体の出来上がり、になっとりましたよ、お客さん。いやはや全く、偶然とはいえ発見できて良かった。その髪とマントの色は、吹雪の中でも目立ちますからな」
「そんなに目立つか?」
 ようやく反応を返したハンターは、指先で己のマントの裾をつまむ。出かけるつもりで身に付けたものの、この天候でははずして部屋の壁に掛けるしかないであろう、ハンター特有の色で染められた布地を。
 眼に映る、深みのある濃い色合い。白一色の世界で、確かにこれは目立つ。赤毛の青年は微かに苦笑した。
「昔はもっと薄い色だったんだけどな」
 一匹倒すのがやっとな駆け出し当時のマントの色は、これとは比べものにならない程薄い。子供すぎて客からも信用されなかった頃の、ひどく安っぽい布地で作られたそれを思い出し、彼は言う。
「おお、そりゃそうでしょうとも。強くなるに従って濃い色合いに変化する、という決まりと聞きますからな。能力が即わかるように。お客さん、こう言っちゃ何だが相当お強いでしょう?」
 ハンターは曖昧に笑う。それから、口の中でそっとぼやきを漏らした。ケアスの野郎にやられた怪我さえなけりゃ、自信を持って強いと言えるんだが……、と。
 雪降る街道を凍えず旅する為の、首から手の甲までを覆う厚めの布地で作られた上着。その下に隠された皮膚の上には、無惨な傷跡が縦横無尽に走っていた。しかもその殆どは未だ乾きもせず、生々しい傷口をさらしている。負傷から三ヶ月余りが過ぎた今も、包帯をはずす訳にはいかない事情がこれであった。
 もちろん、表面が乾いていない傷は痛む。苦痛は昼も夜も執拗に、やむ事なく続いていた。それでも取り合えず、痛みの度合いが軽くなったのでこうして行動しているのだ。我慢できない程ではない、と。
 しかし妖獣と戦う場合、この痛みは致命的になりかねなかった。一匹二匹が相手なら、全く問題はない。十匹程度までは、たぶん何とかなるだろう。だがそれ以上の数の妖獣が連携して攻撃を仕掛けてきたとしたら……。
 苦痛で意識を集中できぬまま放つ力の威力は、通常のものに比べて数段落ちる。何匹かは倒せたとしても、敗れる可能性は大だった。
 別に、治療を担当した医者の腕が悪かった訳ではない。妖魔が妖力を使って負わせた傷は、その妖魔自身かあるいはそれより強い妖力の持ち主でないと、簡単には治せないというやっかいな代物なのだ。人間にどうこうできるものではない。
(だからといって、この場に都合良くケアスが現れてくれるはずはないもんなぁ。あ、たとえ現れたところで、俺のこと殺したがってる以上治してくれる訳ねぇか)
 スープを口に運び、パピネスは思う。
傷口が開いたまま治らない傷、には覚えがあった。何年か前、相棒のレアールがケアスの誘いを断って妖魔界に帰らず、自分と共にいる事を選んだばかりにそうした目にあわされた事がある。
 その事実を知って自分は怒ったが、当の被害者であるレアールはごく当たり前の事として受け止めていた。強い者は弱い者をどう扱ってもいい、それが妖魔界の掟だから、と。
『それにケアスのこれは、拗ねてる子供の八つ当たりみたいなものだしな。俺の方から訪ねていかない限り治してやらない、ってのは本気で子供の駄々こねとしか思えんぞ。ま、何にせよ怒る程の事ではないさ』
 そう言って、他人事のように笑ったのだ。あの黒髪の相棒は。
 当時のパピネスは、レアールのこうした考えを理解できなかった。十五の少年の眼には妖魔ケアスは大人としか映らなかったのだ。もちろんレアールもだが。
(けど、今はわかるな。ケアスのあれは、子供の八つ当たりと同じだ。誰かを悪いと思い込み、そいつを憎む事によって自分の非を認めまいとしている。……子供なんだ、あいつは)
 それはそのまま、かつての自分の姿だった。恋した少女を失った悲しみを、レアールへの憎悪にすり替え暴力を振るう事でどうにか紛らわしていた自分と同様の弱さ。
 そうとわかってしまってからは、どうも本気で憎めない。殺されかけ、今も苦痛に悩まされているというのに、憎めないのだ。被害がクオレルにまでは及ばなかった、というのもその理由の一端を担っているかもしれない。
 強者は弱者をどう扱おうと構わない、という妖魔界の論理は、レアールと異なり人間のパピネスには植えつけられていなかった。故に、無条件でケアスの行為を許す気にはなれなかったが、それでも憎しみは湧いてこない。 むしろ同情めいた感情の方が、今のパピネスにはあった。
(そうだ、ケアスも……。あいつも失ったんだよな。自分の我侭にどこまでも付き合ってくれる相手、ありのままの自分をさらけだせる、受け入れてくれる存在を)
 自分を見る時とレアールを見る時では、ケアスの表情はまるで異なった。話しかける口調も違う。明らかに、妖魔ケアスにとってレアールは特別だったのだ。
(それを本人が認めずに、所有物だの玩具だのと言い続けるあたりが馬鹿なんだが。んな言い方するからレアールも、妖魔界に帰ろうって気に最後までならなかったんだぜ。……いや待てよ。もしかしたらレアールの奴が凄まじく鈍感で、自分が必要とされているとは思っていなかった、って可能性もあるか)
 そこまで考え、赤毛のハンターはふと自嘲の笑みを浮かべる。いつの間にか自分は、こんなにも心穏やかにレアールの存在を思い出せるようになっていたのだと気づいて。
 胸が締め付けられるような痛みを感じる事もなく、気が狂いそうな程の激情もなく、既にこの世にいないものとして、その人の事を思い出せるのだと。
(結局のところ、人間っていうのはそういう生き物な訳だ)
 寂しいからといって死ぬ事はない。悲しくても腹は減る。そして生きる為の営みを、辛い辛いと愚痴りながらも繰り返すのが人なのだ。
 パピネスは視線を目の前の皿に向ける。スープは全部平らげていたし、美味しかったという記憶もある。ついでにパンも、三分の二は片付けていた。ぼんやりと想いに浸りながらも、手と口はしっかり動いてこれだけの量を食していたのである。俺は間違っても餓死する心配だけはないな、とハンターは苦笑した。
 残っていたパンを口に放り、飲み物を喉に流し込むと、カップを置いて席を立つ。天候の方は相変わらずである。どうやら部屋に戻るしかなさそうだな、と宿の主に声をかけ、もう一泊分の料金を手渡した。そして食堂から部屋に続く階段を上りかけた時―。
「!」
 不意に、その感覚が全身を駆け抜けた。馴染んだ危険な気配、妖獣が近づいてくる時のあの異様な感覚をピリピリと肌に感じ、パピネスは叫ぶ。
「ご主人! 村人に異常を知らせる手段は何がある?」
 突然頭上から怒鳴られた宿の主人は、驚愕に眼を丸くしたが、それでもそこは客商売の玄人ですぐに気を取り直し、落ち着いた声でハンターの質問に答えた。
「この雪では色違いの煙を炊いても無駄ですから、鐘を鳴らすしかないでしょうな」
「その鐘はどこに?」
「村の中央に建てられた寺院にありますが。あとは村はずれに非常時用の塔が建っとりまして、ここにも鐘は備えつけられとるはずです。で、それが何か?」
 パピネスは頭の中で計算する。ここから隣国ゲルバの国境までは、そびえ立つ山が行く手をふさぐ為、一般の人間は大きく迂回する麓の道を使うのが常である。雪が積もっている限りは。だがその道でも早馬を使えば、一両日中に到着が可能な距離であった。妖獣の足でも、結果は同様であろう。
 つまりゲルバ側から侵入した妖獣が、この付近まで足を運ぶ事は充分ありえる事態だったのである。
「迂闊だったな」
 舌打ちして、ハンターは呟く。国境を守る部隊が全滅した、とは兵団の最高責任者が隻眼のザドゥである以上考えられない。自分が知るあの男は、部下を全滅させるような戦い方は決してしないはずだった。しかし、妖獣達をゲルバの人間ではなく妖魔が操っているのであれば、警備兵の眼をあざむき、戦闘なしでカザレントへ潜入させる事などたやすいだろう。これまでそうした手段にでなかった事が不思議なくらいである。
 ギリッ、と歯噛みしたパピネスは階段を駆けおり、入口の扉へ向かう。お客さん? と血相を変えた主人が、その背中を追った。
「非常事態だ、ご主人。すまないが誰か手の空いている者を塔か寺院に向かわせてくれ。鐘を鳴らすんだ。村人に危険を知らせる為に。ここも扉を閉めて、武器を用意した方がいい。妖獣が向こうの方角から来る。それもかなりの数だ」
「ひえっ!?」
 宿の主人は飛び上がり、慌てて厨房で働く息子を呼び出すと、寺院よりは近い塔へと向かわせた。それから急いで扉を閉め、いざという時に備えて待機する。それらを確認したハンターは、視界もきかぬ吹雪の中に飛び出し、自分の勘が知らせる方角へと走りだす。当然の如く傷の痛みは増したが、構ってはいられなかった。
(近い……)
 肌に感じる、馴染んだ気配。その数は、軽く十を越えている。常識で考えれば、こんな辺鄙な村の回りにそんなにも多くの妖獣が生息するはずはない。餌となる人間の数が足りなすぎるからだ。そうである以上これは、明らかに命令を受けて乗り込んできた連中と知れる。今の状態で戦うのは、最も避けたい輩だった。
 妖獣の臭いが、風に乗って運ばれてくる。パピネスの足は速度を増した。

 そして村に塔で鳴らされた最初の鐘の音が響く頃、赤毛のハンターと妖獣部隊の先方は遭遇したのである。村から僅かに離れた、山の麓の雪原で。



◇ ◇ ◇



「お客さん、本当にこんな所で降ろしていいんですか?」
 御者の若者が、困惑した声を背後の客にかける。フードを目深に被り更に厚手の布地で顔の殆どを隠した奇妙な客人は、肯定し馬車を止めるよう促した。御者はやむなく馬の足を止め、扉を開けて客人を地面に降ろす。しかし、ここは街道から完全にはずれた山道である。左右に迫る山の頂に城塞が見える他は、一軒の民家もない。こんな場所で降りてどうするつもりなのか、御者が疑問を抱くのももっともな話であった。
 いや、そもそもこの客が告げた目的地の名前自体、御者にしてみれば首を傾げざるを得ないものである。パストレイロまで、と辻馬車に乗る際客人は口にしたのだ。その地名は現在、この国から消滅しているにも関わらず。
 大陸の東南側に位置する王国ボルドワは、年若い王の施政の元、昨年から中央で起こっているイシェラを中心とした戦乱に巻き込まれる事もなく、平和の中で繁栄を築こうとしていた。
 だがほんの数年前、前王が亡くなる前後のボルドワは、平穏という言葉から程遠い世界にあった。何しろ妖獣が王都、それも王宮の奥深くに出没しては要人を襲い、次から次へと殺害していったのである。その犠牲者の中には、王女と第二王子、そして国王までもが含まれていた。
 それだけでも民の不安を掻き立て、騒がすには充分であったのに、父王亡き後王位に就いた第一王子が真っ先に着手した人事の内容が、人心の乱れに拍車をかける。何しろ亡き王の側近にして異母兄、自身の伯父にもあたる臣下ドルヴィスを側近の座からおろし、国境沿いの辺境の地パストレイロの領主に任命したのだから。
 どう考えても不可解なこの処置に、都では憶測が乱れ飛び、様々な噂が誠しやかに囁かれる事となった。
 更にその二年後、ドルヴィスが領主として着任したパストレイロの住人全員が妖獣と化し、領主である国王の伯父を道連れに炎の中命を落とすという事件が起こるに至って、ボルドワ国民の不安と怖れは絶頂に達したのだが、若い王はこの悲劇の地を直に見舞い、死者の霊を弔い自らの手で大地を清め、周辺住民の心が安らぐよう配慮し騒ぎを沈静化させた。そしてその後のボルドワは、何事もなく平穏な日々を積み重ねているのである。
 ともあれ、かつてパストレイロと呼ばれていた地に住んでいる者はいない。いるのは国境を見張る砦に駐在している兵士達と、山頂の城塞に籠る士官、兵隊のみである。
 そんな所に一人、行く事を希望したのだ。この奇妙な客人は。それも踏み固められた街道の雪が、凍りついて一部透き通っているこんな季節に。
「せめて城塞の門の前まででも乗っていった方が……。ここから歩くとなると、かなりの距離になりますよ」
 客を人も通らない山道に置き去りにして町へ戻るのを気に病んでか、若い御者は親切にも申し出る。所持金が足りずに降りた可能性も考え、そこまでの代金はいらないから、とまで付け加えたのだが、既に歩き出した客は手を振るだけで頷きはしなかった。
 御者は反対方向に馬車の向きを変えながら、何度も客の立ち去る姿を気がかりそうに眺めていたが、やがて世の中変わり者もいるのだと結論づけ、一鞭当てて馬車を走らせた。
 乗ってきた馬車が小さくなると、客は安心したようにフードをずらし、口許から顎にかけてを覆っていた布を取りはずして、その髪や顔をあらわにする。
 人目を引く、亜麻色の巻毛と紫の眼。彫刻のように整った美貌。しかしながらその乳白色の肌は、眼を背けずにはいられぬような極彩色でまだらに彩られていた。まるで子供のいたずら描きのように。
「……さすがに界を移動したくらいでは消えませんか」
 袖の内に隠していた手の表面に刻まれた模様を確認し、失望とも諦めともつかぬ声を、蜘蛛使いの異名を持つ妖魔は漏らす。王にかけられた術である以上、そう簡単には消えないだろうと覚悟していたが、界が変われば少しは変化があるかもと心密かに期待していたのだ。
「これでは人里離れて隠れ住むより他にありませんね。それがいつまでになるかわかりませんが……」
 溜め息をついて、妖魔ケアスの肉体を持つ男は宙高く浮かび上がる。
 彼がパストレイロに向かったのは、特に深い理由あっての事ではなかった。王によって強制的に人間界へ送り込まれたところ、たまたま出た所がボルドワで、しかもかつてのパストレイロの近く、国境からそう遠くない地域だったのである。レアールとの思い出のある場所だから、立ち寄ってみるのもいいか程度のものであった。
 それでも、いざ自分が焼き滅ぼした村の跡とかを眼にすると、無性に懐かしさが募る。あの頃はレアールが生きていた。邪魔な赤毛の小僧は側にいたものの、レアールはレアールの姿で生きていて、傷ついた表情を見せたり苦笑したりぼやいたり、自分の腕の中おとなしく抱かれていたりしたのである。
 初めてレアールの方から口づけてきたのもこの地だった。性的な意味合いなどまるでない、癇癪を起こした子供をなだめるような接吻。されど、その口づけがレアールの側から行われた事には違いないのだ。ほんの一瞬、喚く口をふさぐ為の行為であったにせよ。
「……!」
 不意に思い出の中の映像が切り換わる。身動きもできない狭い檻の中に立ったまま押し込められ、傷の手当てもなされず放置された黒髪の少年。汚物にまみれ、餓死寸前の体の上を、傷口から孵化した虫の幼虫が這い回る。下級妖魔の男の指が、それを摘んで口の中に押し込み、喰えと命じていた。
 虚ろな瞳。泣くことも忘れた虚ろな黒い眼。何の感情も伺えない眼差し。
 開いた口から這い出してきた幼虫がこぼれ落ちる。男の拳が、顔面にめり込んだ。
 それは王から見せられた、自分の知らないレアールの過去。自分が教育係を人間界に帰し、死を願って空から放り投げたが故に運命を変えられた子供の記憶。
 何度殺しかけようと、どれだけ痛めつけようと自分を憎まなかった男の過去。
 比較的軽い部分を選んで見せた、と王は言った。だがあれが軽いと言うのなら、いったい普段はどんな扱いを受けていたのか。どんな思いで生きてきたのか。
(だから拒めなかったのだ、あいつは)
 拳を握りしめ、蜘蛛使いは思う。己の身勝手にどれだけ振り回されようと、拒まなかったレアール。名前を呼んでくれる相手を、抱きしめてくれる腕を失うまいと必死だったのだ。痛めつけられようが殺されかけようが、そんな事はどうでも良かったのだ。レアールにとって数日間耐えれば済む苦痛は、大した事ではなかったのだ。自分が遊びとして仕掛けた行為は、レアールにしてみれば充分耐え切れる範囲内だったのだ……。
 だのに自分は何をしたのか。口づけて呼んだ名前は誰のものだったか? 所有物だと言いながら、見ていた相手は誰だったのか!
 レアールはレアールだったのだ。断じてルーディックの代用品ではない。
 けれどもレアールが人間界に行き、赤毛のハンターと共に生きる事を選ぶまで、自分はその事実をわかっていなかった。ルーディックに似ているから好きなのではなく、レアールだから好きなのだと、ただそれだけの事に気づかなかった。そして伝える事もできぬまま、永久に失ったのである。
 意識の奥で、紅い髪が揺れる。膝まで達する長い髪、鮮血色の赤。王宮の床に倒れ伏して動かなかった同僚の姿。変化したレアールの肉体を持つ、レアールではない存在の。
 妖魔ケアスの肉体を奪い、ケアスとして生きてきた男は、無意識に唇を噛み締める。王が妖魔界を留守にしていた二ヶ月間。紅の髪の同僚をレアールだと信じて過ごした二ヶ月間。失ったと諦めかけていた相手を取り戻せたと、きっとやり直せると夢見ていた至福の時間。
 あの二ヶ月の間、自分はこの上なく幸福だったのだ。自宅には側近の中で唯一の女性である同僚がいて、半魔に囲まれ楽しげにお喋りし、笑顔を周囲に振りまいていた。通りがかった自分に対し、お腹の子が生まれたら名前をつけてちょうだいね、と悪戯っぽく囁いて頬に口づけた、少女のような外見のマーシア。
 王宮の執務室には留守番役の彼がいて、自分が訪ねていく都度笑顔で迎えてくれた。皆が怖れて近寄らないのに平気で側にいてくれるのが嬉しいと、単なる同僚ではなく親しい友として接してくれた相手。二人でたまった書類を分類し、王でなくても処理できる内容のものは決裁を済ませ、半魔が作ったお弁当を食べながら他愛ない会話を楽しんだ日々。 マーシアのお腹がまだ膨らみを見せなかった頃は、彼女も連れて訪問し、地上を見おろしながら三人で空中散歩をした事もあった。

 その時のマーシアは、皆から避けられている紅の髪の同僚を前に少しも怯まず、いざ散歩の段になるや並んで腕を組み、髪に触れては積極的に話しかけ、蜘蛛使いと彼の首を捻らせた。
 怖くはないのですか、という蜘蛛使いの問いに、彼女は答える。だって貴方の惚れ込んだ相手でしょ? だったら私に危害を加えるはずはないわ、と。
 どういう理屈でそうなるのか尋ねても、マーシアは笑うだけだった。意味を理解したらしい紅の髪の同僚は、微かに苦笑するが説明はしてくれない。蜘蛛使いはひたすら首を傾げ、眉を寄せるしかなかった
 もっともそのようにマーシアを連れ留守番役の側近と会ったのは、ほんの数回程度である。蜘蛛使いがもっぱら好んで行ったのは、深夜二人きりでの空中散歩であった。誰に見られる事もない夜空の散歩。そこでなら、何の遠慮もなく振る舞えた。夜の暗さが、行動を大胆にさせた。
 空中を浮遊しながら、蜘蛛使いはつい昔の癖で隣の青年の体に手をかける。レアールの時そうしたように。相手が接触恐怖症だという事を忘れ、肩を抱き寄せ腰に腕を回し、体を密着させて口づける。その度、相手の震えを感じ取って、慌てて体を離すのだ。
 眼に映る青ざめた顔が、今にも気絶しそうな強張った表情が痛々しくて謝罪すると、接触恐怖症の同僚はすまなそうに微笑んで、言い訳の言葉を口にする。触れられるのはまだ駄目だが、決してお前を嫌いな訳ではない、と。
 そう、彼もまた誤解していたのだ、と蜘蛛使いは思う。自分が彼をレアールだと思い込んでいたように。お互いにお互いを別な者として捉え、それで幸福だったのだ。
 王が戻るまでの二ヶ月間。それは幸福な夢だった。自分はケアスとしてあの世界で生きていた。本物のケアスであるような錯覚をして、彼にもマーシアにも接していた。無自覚のままに己はそれを望み、二人もそうある事を望んでいたのだ。おそらくは。
 だが、それは夢だった……。
 蜘蛛使いは顔にかかった前髪の一房を掴み、きつく握りしめる。帰ってきた王が自分達の様子を一瞥し、笑いながら皮肉な声で放った真実。明かされた互いの秘密。自分が捨てた子供の内にあったのは、自分が欲していた者の魂。欲してはいたが、レアールと異なり決して自分を許す事も好意を向ける事もない人間の。
 変化したレアールの肉体にあるのは、レアール自身の精神ではなく、その男のものだった。本来の妖力に目覚めたレアールは、同時に忘れていた記憶の全てを取り戻し、精神を崩壊させるに至ったのだと、蜘蛛使いは知らされる。
 そして見せられたレアールの記憶の一部。吐き気を覚えずにはいられない記憶。しかもそんな過去を彼に背負わせた元凶は、紛れもなく自分だったのだ。
 人間界では妖魔と呼ばれ拒絶され、妖魔界に戻れば誰も己を見ようとしない。レアールは、そんな存在だった。
 人の心を持った者が、果たしてそれで生きていけるだろうか。数々の忌まわしい記憶を抱え、正気を保って生きていけるだろうか?
 蜘蛛使いは首を振る。レアールの心は、記憶を取り戻した時点で壊れるしかなかったのだ。肉体を捨て、消えるより他に苦しみから逃れる術はなかったのだ。そう納得した時、妖魔としての蜘蛛使いの力は一気に暴走し、封じていたものを解き放った。

 彼は、止めなかった。止める気にすらなれなかった。自分を取り巻く全てを壊してしまいたかったのだ……!
「………」
 パストレイロの上空を漂う妖魔は、己の頬を伝うものを拭う。王は、わかっていなかった。自分が本当に破壊したかったのは王宮ではない。殺したかったのは同僚や上級妖魔達ではない。破壊と死は、自身にこそ欲しかったのだ。
 しかし、結果的に自分はこうして生き延びてしまっている。内に封じていた異界の魔も今はない。代わりにあれを封じ消滅させ、破壊と殺戮の嵐を止めた側近は、倒れたまま身動きもしなかった。乱れた髪の隙間から覗く、ひどく青ざめた肌が印象に残っている。自分が触れた時よりもなお青い顔をして、死んだように倒れていた同僚。助け起こして触れた肌は、陶器の如く滑らかで冷たかった。
 あの時、自分は彼を何と呼べば良かったのだろう。肉体の持ち主であるレアールの名を呼ぶべきだったのか? それともその精神の方の名を?
 蜘蛛使いは爪を手の平に食い込ませる。結局、名を呼ぶ事もできぬまま王に捕らわれ引き離されて、それっきりだったのだ。邸に戻る事も、マーシアと会う事も許されず、むろんレアール(ルーディック)の容体も知らされずに、人間界へ移されたのである。許可が出るまで妖魔界に戻るべからず、と王に命じられた上で。
 蜘蛛使いは頭を振り、パストレイロ上空から姿を消す。耐えられなくなったのだ、思い出の場所にこれ以上留まる事が。今はいないとわかっている相手の思い出がいくつも残っている場所。その姿が幻のように眼に映り、懐かしい声が自分を呼んでいる。そんな気がして、たまらなくなった。
(それでどこに行くと? この世界のどこに?)
 どこに行く当てもない。親しい妖魔など人間界にはいないし、いたとしてもこの姿を見られたくはなかった。極彩色で彩られた体。肌に刻まれた罪の色。洗っても決して落ちない、己のまがまがしさを際立たせる模様。
(レアール……、レアールっ、レアールっ!)
 心の内で、蜘蛛使いはその名を繰り返し叫ぶ。返事などありはしないと知りつつも。幾度となく呼んで、呼んで、呼び続け―。そして、不意に反応を得た。
(え……?)
 何かが呼んでいた。レアール、と繰り返す彼の思念に呼応して。蜘蛛使いは意識をそちらへ向け、僅かに逡巡した後、移動した。
 白一色の、何も見えない世界が、やがて収まりかけた吹雪と、戦闘後の雪原に変わる。そして蜘蛛使いは、自分を呼んでいたものの正体が何であるかを知った。
 雪に半ば埋もれかけた妖獣の、背中から喉にかけてを貫いた一振りの剣。それは彼の記憶の中にある、レアールの愛用の剣だった。
「……ケアス……?」
 突然背後からかかった掠れ声に、ギクリとして蜘蛛使いは振り返る。雪の固まりがモコリと持ち上がり、血で汚れた顔と赤い髪が覗く。そして雪の中から、凍えて赤紫に変色した手が現れた。
雪に埋もれていた妖獣ハンターは、蜘蛛使いの存在を認めズルリと這い出す。そして己が最後の力で投げた剣を手にしようと、凍えた腕を伸ばし雪の上を進み始めた。だが、その動きは赤子よりのろい。
 蜘蛛使いはパピネスの異様な姿に一瞬息を飲み、次いで皮肉な笑みを浮かべ呟いた。生きていたのですか、ハンターの坊や、と。
「……ああ」
 辛うじて声を返し、パピネスはぎこちなく手を伸ばす。ズルッ、と体が少しだけ前に移動した。動く都度、白い雪面に新たな染みが広がる。若い体から流れ出る、赤い血の染みが。レアールの剣まではまだ遠かった。このままでは辿り着く前に力尽き、凍死してしまうだろう。失血死の可能性も大いにありうる。妖獣との戦闘で負った傷は、決して少なくはない。
 仮に無事辿り着いたとしても、妖獣の体に刺さった剣を引き抜く力は残っていないと思われた。
「………」
 それでもパピネスは鉛のように重い腕を上げ、殆ど感覚の無くなった手で雪面を抉り進む。立ち上がる力が既にない以上、這うより他に進む方法はなかった。己の吐く白い息さえまともに見えぬ程視界は霞んでいたが、剣のある方向だけは感じ取れる。
(大丈夫だ)
 ハンターは自身に語りかけ、這い進む。
(大丈夫、俺はまだ生きている)
 凍えた手が固くなった雪で切れ、血が滲み出る。手足の感覚はとうに麻痺していた為、痛みは感じなかった。
(剣さえ手にしたらきっと立てる。絶対に諦めるな!)
 思考が、徐々に途切れていく。目の前の情景が更に霞む。動かしたつもりの腕は、もう上がらなかった。
 風が、積もった雪を地表から舞い上げる。再度降り積もった雪に埋もれ、ハンターの姿は見えなくなった。妖獣の体に足をかけ、無造作に剣を引き抜いた蜘蛛使いは、雪の下で動かなくなった相手に近づき、しゃがみこんで様子を伺う。
「ハンターの坊や」
 話しかけ、反応がないと見るや両手で顔を掴み引き起こす。グッタリとした相手が発する生気は、直に触れてやっと感じる程度の微弱なものだった。放っておけば、あと半時も持たないだろう。 指先から伝わってくる体温は、通常時に比べかなり低い。
「どうやら私が負わせた傷は全然治っていないようですね。そんな体で妖獣退治なぞ、無謀というものですよ」
 うっすらと眼を開けたハンターは、言葉の意味が通じたのか微かに笑う。蜘蛛使いの顔を覆う模様は、見えていないらしかった。
「……何故私に助けを求めなかったのです?」
 自分がここに現れてから、確実に数分は経過している。少なくとも最初のうちは口をきく元気があったのだから、頼む事は可能なはずだった。だのに何故、この相手はそれをしなかったのか。
「喋る気力もないのなら、頭の中に言葉を浮かべなさい。それで伝わりますから」
 答え欲しさに、そう呼びかける。脈拍数も極端に低下したパピネスは、暫く答えを返さなかった。 だが、ようやく求めていた返事が伝えられた時、蜘蛛使いは激しく動揺する。そして直ちに生気を指先から送り込み、同時に全ての傷を治しにかかった。
「……ケアス?」
 与えられた生気によって声を出せるまでに回復したハンターは、自分を抱きしめている妖魔に対し、不思議そうに問いかける。
「……どうして俺を助ける? 殺したがっていたのに……」
 蜘蛛使いは唇を噛み、顔を背けた。
「あんな答えを返されたら、助けるしかありませんよ」
「……? 俺、……何て答えたっけ。朦朧としてたからよく覚えてないんだが」
「思い出さなくて結構です! 忘れなさい」
 言いながら、当の蜘蛛使いの方がそれを思い出して舌打ちする。
 だって頼めやしないだろう? と赤毛のハンターは伝えてきたのだ。あんたが生きててほしかったのはレアールの方なのに。そのレアールを助けられなかったあんたが、偶然こんな状況で現れたからって、助けてくれとどうして頼める? あんたは俺を憎んでいるのに、そんな事を頼んだら可哀相じゃないか……。
「ケアス」
 手が、軽く背中を叩く。
「もう大丈夫だ。離してくれていい」
 我に返った蜘蛛使いは、ハッとしてハンターの体から腕をはずす。そしてすかさず手をかざし、己の顔を隠しにかかった。大丈夫と言えるまでに回復したという事は、視界も正常に戻ったという事である。肌に刻まれた模様も、今度は眼に映っているはずだった。
「ケアス……?」
 訝しげなハンターの声が耳に届く。その声に含まれた驚きを感じ取り、蜘蛛使いは羞恥に震える。自分を見る視線から逃げたいと、今すぐ何処かへ移動しようと決意した彼の腕を、体温を取り戻した人間の手が掴んだ。
「呪術師みたいだな。その顔の模様は」
「!」
 蜘蛛使いはパピネスを凝視する。変化に対する彼の感想はそれだけだった。気味悪がる様子は少しもない。どころか、平気で触れてくる。
「死体の数を確認したら俺は宿に戻るけど、あんたはどうする? 肌の模様を他人に見られたくないから消える、と言うなら止めないが」
「?」
 レアールの剣を拾い、マントで拭うと鞘に納めたパピネスは、歩きかけたところで足を止め、声をかける。亜麻色の髪の妖魔は、言われた台詞が理解できずに首を傾げた。
「だから、助けてくれたお礼に昼飯ぐらいはおごろうと考えたんだが、必要ないか? 急ぎの用があるなら無理には誘わないけどさ。人間の作る料理じゃ口に合わないかもしれないしな」
 苦笑して補足説明をするハンターの仕種に、蜘蛛使いの動揺は増していく。これまで一度もこの人間を、似ているなどと思った事はなかった。外見が余りにも違い過ぎる為に。 だが、今こうして見ると、その動作や呼びかける口調は、かつてのレアールに良く似ていた。
「ケアス」
 似た口調で、名前が呼ばれる。レアールが二度と呼ばないケアスの名を、彼に育てられた人間が呼ぶ。
「来いよ、ケアス」
 差し延べられた手は、抗い難い誘惑だった。その手を前にして拒む事は、蜘蛛使いにはできなかった。
 溜め息をついて、彼はハンターの手を握る。
「よし」
 重なった手を握りしめ、ニッと笑うと赤毛のハンターは先に立って歩き出す。分け与えた生気のせいか、寒さも気にならないらしい。足取りは蜘蛛使いのそれに比べ、格段に軽かった。


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