断罪の瞳1《2》


 同時刻、大公付きの侍従クオレルは努めて無表情を装いながら、自分を呼び出した厄介な客人、今は名ばかりのイシェラ国王、寝台から起き上がる事も滅多になくなった公妃の父ヘイゲルと向き合っていた。
 その部屋にいたのはヘイゲル一人ではない。イシェラから同行してきた者のうち唯一共にカディラの土を踏んだ従者エフトスは当然としても、セーニャ妃付きのイシェラ出身の女官アモーラまでが、強張った表情で寝台の脇に立っている。どういう事かと、クオレルは密かに首を捻った。
「御用とお聞きして伺いましたが、何事でしょうか。私もそう暇ではありませんので、手早く済ませていただきたいのですが」
 寝室まで迎え入れながら、その後一向に用件を口にせぬヘイゲルに苛立ち、無礼を承知で銀髪の侍従は自分から話を切り出す。内心の思いを反映して、言い方は若干きつくなった。そんなクオレルの態度に怒りを表明したのは、当のヘイゲルでも従者のエフトスでもなく、女官アモーラである。
「国王陛下に対し何という口のきき方をなさるのです! 一介の侍従の身でありながら無礼でありましょう。身の程をわきまえなさいっ!」
 激昂する女官に、クオレルは冷ややかな眼を向ける。
「イシェラの民ならばそれも道理でしょう。ですが私はカザレントの人間です。お仕えしているのはこの方ではなく、カザレント大公ロドレフその人です。貴方は今もイシェラの民かもしれませんが、私は違います。その点をどうかお間違えなきよう。この方は城内に滞在しているお客人で、それ以上の存在ではございません」
「……っ! 陛下は、セーニャ妃の実の父上であられるのですよ。つまり大公の義理の父君ではありませんか。それを承知でそのような口をきかれるのでしたら、大公も侍従の教育がなっておりませんこと!」
 アモーラは身を震わせ、なおも何か叫ぼうとした。と、ヘイゲルの萎びた手が上がり、それを制する。
「良い、アモーラ。そちは認めたくないかもしれぬが、この者の言う通り儂はこの国においては敬う対象ではない。むしろとんだ疫病神じゃよ。ここへ逃げ込んだばかりに、このような災いを持ち込んだ」
「陛下!」
 妖獣に占拠された王都を脱出して命からがらカディラの都に辿り着いた頃よりも、なおやつれた様子のヘイゲルは、力なく笑ってクオレルへと視線を向ける。顔に刻まれた皺がより深くなり、身体も一回り縮んだ老王から向けられた眼差しを、若い侍従は真っ向から受け止めた。
 大公のお気に入り、と囁かれている一見して美青年のクオレルを、大国イシェラの王であったヘイゲルはほれぼれと眺める。そのきりりとした顔立ち、理知的な瞳、意志の強そうな口許。どれも彼の娘達には欠けていたものである。いや、息子のブラウでさえ、ここまで凛々しくはなかった。  長い歴史を持つイシェラ王家の血は、こうした人物を生み出す力を失って久しかったのだ。
 それが、カザレント君主ロドレフ・カディラの血という要素を新たに加える事によって変化し、このような孫を得られたという事実に、ヘイゲルは眼を細める。
 かつては執拗に殺そうとつけ狙った相手。今は最高の娘婿、失いたくない義理の息子。自分を助け、守り、憎みもせず、その上こんな孫まで与えてくれた大事な存在。いくら感謝してもしたりなかった。ありがたくてならなかった。しかし、それでも確かめねばならぬ事はある。
「儂は大公殿に、厄介な重荷を次から次へと背負わせておる。そうと知りながらこのような事を尋ねるのは、はなはだ心苦しいのだが……」
「何です」
 素っ気なく、クオレルは先を促す。大公がこの老人に自分の正体を明かしている事は聞いていたが、それでも肉親を見る愛しげな眼差しで見つめられると鳥肌が立った。冗談ではない、と彼女は思う。まだ大公の娘である事さえはっきり認めていないのに、自国の民を見捨てて逃げてくるような男に我が孫よと思われてたまるものか、と。
 されど、表面的にはできるだけ感情をあらわにせぬようクオレルも心がけている。少なくとも、露骨に嫌悪の表情を浮かべたりはしなかった。老い先短い老人にきつくあたるなと、ロドレフから釘を刺されていたが故に。

「自分の国も守れず逃げてきた男と血のつながりがあるだなんて、うんざりしますね」
 以前クオレルは大公の前で、そう本音を漏らした事がある。聞いたロドレフは、あきれた顔で苦笑した。そして言ったのだ。じゃあ自分の妻を遊びで嬲り殺して、殺してしまってからおたおたするような男を父に持った私はいったいどうしたら良いんだ? と。
 虚を衝かれたクオレルは、困惑の眼差しを主君に向ける。そんな話は初耳だった。大公の実母は若くして病死したと世間には発表されている。城内に保管されていた公式記録にも、そのように記されていた。それを疑ってみた事など一度もない。だが、もし大公の言葉が真実なら、実際はまるで違っていた事になる。
「お前は潔癖症だな」
 そう、大公は言った。どこか羨ましそうに。
「前大公の馬鹿振りを間近で見ていた者からすれば、長らくイシェラを治めていたヘイゲル殿は遥かにましと思えるんだが、それでは採点が甘すぎるか?」
 クオレルは答えられなかった。彼女は、ロドレフしか見ていない。最初から、君主としての手本は常に前を歩む大公だけだった。彼より劣る者を、王として認める気にはなれなかった。それを若いとロドレフは言うが、どうしてもその点は譲れない。

「何なのです?」
 再度促されたヘイゲルは、なおもためらいを見せたが、エフトスとアモーラの視線に後押しされ、ようやくクオレルを呼び出した用件について切り出した。
「各国からの要求に対し、大公殿は何と答えを返すつもりであるのか、それを知りたい。儂とセーニャの身に関わる事であろう? さすがに無関心ではおれぬ」
「!」
 クオレルは眉を寄せる。敵として戦っている国々から使者が訪れ、その全員が城内に留まり返事を待っている以上、ヘイゲルの耳に入るのは時間の問題であったが、各国がどのような要求を突き付けてきたか、までは城中でも限られた者しか知らぬはずである。それが滞在中の客人に筒抜けになった、というのは由々しき事態だった。
「どなたがそれを、とお聞きしたところで答えてはいただけないのでしょうね」
 名ばかりのイシェラ国王は、老いた顔に自嘲の笑みを浮かべた。
「なに、誰が言わずとも使者が来たとなれば、だいたいの想像はつくものよ。どうやら当たりであったらしいがの。その様子では」
 辛うじて舌打ちをこらえ、クオレルは口許を引き締める。迂闊に言葉を返し、まんまと相手に確証を与えたと思うと口惜しくてならなかった。そんな彼女を見つめ、ヘイゲルは語る。
「大方、儂とセーニャを引き渡すよう求めてきたのであろう? あの娘達なら、それぞれ連絡を取り合いそれくらいの事は企むだろうて。国の指導者が乗ってしまったのは問題だがな。いや、単に冬場で兵を動かせぬからこれも良い機会だと乗じたのかもしれぬが」
「娘達?」
 話が見えず首を傾げたクオレルに、アモーラが固い表情のまま告げた。セーニャ妃の姉君様方でございます、と。
「プレドーラスに嫁がれた長女のサデアーレ様、ドルヤに嫁がれた次女のシデアーラ様、それからノイドアに嫁がれた三女のスリョーシア様。陛下の御前で申すのも何ですが、姫様がイシェラの王宮にいらした頃は、どの姉君もそれはきつくあたられておりました」
「それも仕方があるまいて。儂は愛妾が生んだセーニャの事はそれなりに可愛がったが、他の娘達にはその母親を好いてなかった事もあって、ろくに声もかけなんだ。たまにかけても叱る為では、憎んだところで無理もない。だが……」
 ヘイゲルは言葉を切り、組んだ指を震わせる。
「だが昔の恨みを今こんな形で返されては……!」
 クオレルは嘆くヘイゲルを、実の祖父を感情のこもらない眼で見つめ、問いかける。では引き渡すならゲルバにしてほしいと大公に伝えれば良いのですか、と。
 その問いに対しては、ヘイゲルが答えるより先にエフトスが反応した。
「ゲルバの公爵家には第五王女のソーシアナ様が、ブラウ様と同腹の姉君が嫁いでおります。故に、陛下は行く事を望まれませんでしょう」
「何故です? 第五王女というからにはその方は公妃様よりも年下であったはず。公妃様がカザレントに嫁がれた当時の年齢を思えば、現在まで尾を引く恨みや憎しみを抱いているとは到底思えませんが」
「あれの母親を正妃に迎えたのは、セーニャが嫁いだ翌年じゃよ。まだ生まれてもおらぬわ」
 ポツリとヘイゲルは言う。
「だったら尚更です。何故ですか?」
 どうも妙な話だった。アモーラもこれについては事情を知らぬのか、首を傾げている。だいたい五番目とはいえ正妃の生んだ王女を、自国の公爵家ならまだしも他国に与えるというのがおかしい。イシェラほどの大国の王女であれば、どの国の王家でもあてがう息子がいる限り縁組を希望するはずである。それが何故、公爵家なのか。
 言い澱んでいたヘイゲルは、諦めたように答えを口にする。そもそもはゲルバの王子と婚約が整っていたソーシアナだったが、嫁ぐ一ヶ月前の夜に王宮の庭の茂みの陰から、明らかな性的暴行を受けた状態で見回りの兵士に発見されたのだ、と。
「急ぎ箝口令をしきはしたが、衝撃で口もきけない状態の娘を花嫁として送り出す訳にも行かず、婚儀を先送りしていたところ懐妊していた事がわかってな。慌てて嫁がせようとしたものの、その一件が漏洩して今度はゲルバの側が納得しない。誰の子とも知れぬ子供を身ごもった王女を世継ぎの王子の妻にしろとは、いくら何でも承服しかねる、と申してな。おかげで一時は危うく戦になるところじゃった」
 結局、本当に戦になっては一大事と調停役を買って出た、ゲルバ国王の甥に当たる若い公爵が、自分でよければ王女をもらい受けたいと願い出て、事なきを得たのだとヘイゲルは言う。
「双方の間で話がまとまり、ようやくゲルバに輿入れとなった時には、あれは既に六ヶ月の身重であった。さぞや向こうで肩身の狭い思いをしたであろうよ」
「……それがそのまま公妃様への憎しみにまでつながるという事は、ソーシアナ様を暴行し妊娠させ、王家ではなく公爵家に嫁ぐ羽目に陥らせた張本人は、あのユドルフ・カディラであるという事ですか」
 忌ま忌ましげにクオレルは吐き捨てた。どこまでも災いの種でしかない元カザレント公子、前大公ケベルスがセーニャ妃の処女を奪って生ませた男の名を。
「しかもその姫様は、ユドルフの子を身ごもった状態で嫁いだと? 要するにユドルフの子供が今現在、ゲルバで育っている訳ですか。悪趣味な冗談ですね、全く」
「今年で十ニになるかの。男の子だったと公爵からは連絡が届いたが」
「ユドルフの息子! また随分と結構なお話で。似てない事を神に祈りますよ。あんなのが二人もいたらたまりません」
 天井を見上げたクオレルは、わざとらしく溜め息をつく。ヘイゲルは悄然と肩を落とした。
「その後、娘からは便りも来ぬわ。無理もないがな……」
「だからゲルバも駄目、と。要はどの国にも行かずに済むよう、上手く交渉してくれという事ですね。わかりました。大公にはしかとお伝え致しましょう。無理難題、としか言えぬ事柄ですが」
 肩を竦めてクオレルが言うと、ヘイゲルはうろたえ否定するように首を振った。
「そうではない、……そうではなくて……。儂は良いのだ。もうこの年まで生きればいつでも死ぬ覚悟はできている。だがセーニャは……、あの娘だけは不憫でならぬ。政略抜きで求めた女が、唯一残した忘れ形見なのじゃよ。あれを、かつての恨みを晴らさんと狙っている者達の待つ場所へ送ってほしくはない。儂はセーニャを政治の駒扱いして、正気であった頃さんざん苦しめた。この上更に辛い思いはさせたくないのだ……」
 それは嘆願だった。老いた父親の、娘を思うが故の切実な願い。国王としての誇りも捨てて、自分の前に頭を下げる祖父の姿に、クオレルは言葉を失う。周囲を満たした沈黙は重く、誰も、何も言えなかった……。


「大公? お戻りでしたか」
 ヘイゲルの前から一礼して下がり、急ぎ控えの小部屋に戻ってきたクオレルは、人の気配を感じて覗き込んだ大公の居室内に、本来まだ近臣達との会議の席にいるはずの主の姿を発見し、柄にもなく驚きの声を上げた。
 己の侍従を務める我が子の声を背に受け、暖炉の前へとしゃがみこみ冷え切った手を炎にかざし暖を取っていたロドレフは、ややきまり悪そうな顔で立ち上がり、早めに戻った事についての言い訳をする。あの様子では何年経とうと結論はでそうにない、一人で静かに考えた方が遥かにましだ、と。
「そうでしたか。お戻りの時に持ち場を離れていて申し訳ありません。今すぐ温かいお飲物を用意致しますので」
 言うなり身を翻し、控えの小部屋を抜け厨房へと向かいかけたクオレルに、軽い調子でロドレフは注文をつける。果実酒のお湯割りではなく、香茶を二つ用意してくれ、と。
「お前も一緒に休んで、私とお茶にしないか? 冷え込む夜に香茶を飲むのも、たまには良かろう」
 思ってもみなかった大公からの誘いに、クオレルは戸惑いつつも承諾する。が、一言付け加える事は忘れなかった。
「言っては何ですが、香茶に利尿作用がある事はご存じですよね、大公。これだけ寒ければその効果はさぞ絶大だと思います。結果的に貴方が深夜用足しに起きる羽目になったとしても、私は断じて責任を取りませんからその旨ご了承下さい」
「……お前」
 あきれたように、ロドレフは我が娘の顔を見る。そしてひょいと肩を竦めた。
「仮にそうなったとしても、お前に代わりに行ってきてくれ、などとは頼まぬ。安心するがいい」
 クオレルは苦笑して頷き、手早くセッティングにかかる。厨房から熱いお湯をもらって戻ると、ポットとカップを温め、湯が適温になった頃を見計らって葉に注ぐ。葉が開いたところでポットにカバーを掛け、カップや受け皿と共にテーブルへ運ぶと、慣れた手つきで一滴もこぼす事なく均等に二つのカップへ注いだ。
 他国であれば間違いなく小姓がするであろうこれらの細々とした仕事を、小姓上がりの侍従は今も続けていた。大公と直に接する機会を、他人に譲ろうとは思わなかったのだ。 最後の仕上げに小瓶に入った酒を数滴香茶にたらし、一方のカップを大公の前に置く。それから、おもむろに席に着いた。
「イシェラ産の茶葉が去年の夏から全く業者の手に入らなくなりましたので、代わりにアストーナ産の物を購入したのですが、香りの点ではやはり多少劣るようですね。それなりに吟味したのですが」
「仕方あるまい。非常時にそう贅沢は言えぬさ。心の贅沢に関しては、いかなる時でも持つべきだがな」
 現在残された唯一の友好国であるアストーナ産の葉を使った香茶を口に含み、ロドレフは微笑する。彼にしてみれば、香茶の香りを楽しむゆとりもなくした時が問題だった。それを考えれば、現在の状況はそんなに切羽詰まっている、という程でもない。自分はまだこうして、香茶の香りや味を楽しむ事ができるのだから。
「で、お話はなんでしょう。大公」
 カップを置いて尋ねたクオレルに、ロドレフは何のことかな? としらばっくれる。
「何も話す事がなければ、わざわざ私を誘いはしませんでしょう」
「心外だな。そんな風に思われていたのか? 私は」
 わざとらしく嘆いて見せる主君に対し、クオレルはあっさり肯定の言葉を返す。
「ええ、そんな風に思われているんですよ、大公。そういう事で、さっさと本題に入りましょうか」
 アモーラが聞いたなら、おそらく眼を剥いて怒鳴り出すに違いない口調でクオレルは大公を促す。もっともこれは長年の付き合いによる気安さというもので、親子の甘えでは決してなかったが。
「わかった。やれやれ、お前に誤魔化しはきかんな」
 大公は額に落ちてきた前髪を手でかき上げ、その意図があった事を笑いながら認める。そうしてつと立ち上がり、カーテンの向こう、窓の外の暗がりにほの青く浮かび上がる雪景色を眺め口を開いた。
「今年は雪が多いな。幸いにして、と言うべきか」
「そうですね」
「しかしこの雪の中を旅するのは、さぞかし辛いだろうな。あのハンターはもう、ゲルバとの国境に着いたと思うか?」
「!」
 思いもしなかった事を尋ねられ、一瞬クオレルは顔色を変える。大公は気づかぬ素振りで椅子に戻り、腰をおろした。
「まだ……だと思います。怪我が治りきっていない状態でしたので、馬を使っては傷に響くと馬車に乗る事さえ断っておりましたから。今も徒歩かはわかりませんが、途中で馬を借りたとしても、夏場ならともかく雪道ではそう進む事もできません。おそらくは、まだ着いていないものと……」
「そうか。確かにその可能性の方が高いな。それにしても解せぬのはあの傷だ。間違いなく血は止まっているのに、どれだけ治療を施そうと乾きもふさがりもせぬ傷など、これまで聞いた試しがない」
 クオレルは、包帯を取り替える際にその眼で見た生々しい傷口を思い出し、唇を噛む。
「私も聞いた試しはございません。妖獣相手の怪我人はイシェラにて眼にする機会もありましたが、妖魔に襲われての傷というのはさすがにこれが初めてですし」
 そう、昨年この城内に現れハンターに危害を及ぼしたのは、明らかに人外とわかる存在だった。妖獣と異なり人としか見えぬ姿形をして、されど人とはまるで違う気を発する相手。その存在は、クオレルの記憶にしっかりと残っている。ただし、顔だけは何故か霞がかったようにはっきりとしなかった。
 そしてあやふやとなる記憶。不自然な時間の空白。ハンターの部屋を訪ね侵入した妖魔の姿を眼にし、攻撃を仕掛けられ、反射的に飛び出したハンターがその背に自分を庇い、それから……。
 クオレルは額を押さえる。血が止まらない、と思ったのだ。どうしていいかわからず、人を呼びに行く事もできず、意識を失ったハンターを抱え泣いていたと思う。
 だが、そこから先の記憶はひどく曖昧である。誰かが側にいて話しかけていたような気もするのだが、本当に誰かいたのかと問われたら、自信を持って頷く事はできない。
 ともあれ、気がつけばクオレルは、医者を呼ぶべく夢中で廊下を駆けていた。眠っていた侍医を叩き起こし、城内の衛兵にも異変を告げて部屋に戻れば、室内に先程の妖魔の姿はなく、一人ハンターだけが仰向けで、血溜りの中倒れていたのである。そして不思議な事に、全ての傷口からの出血は、ほぼ止まっていたのだった。
 しかし、その後の治療経過はお世辞にも良好とは言えない状態で推移した。生命に関わる重傷を負った衝撃から、翌日未明より高熱を発したハンターは、多量の失血も重なってベッドから身を起こす事もできず、一ヶ月余りも意識が朦朧としたまま過ごし、大公の居城で年を越すはめになったのである。
 結果、国境を越えては組織だった攻撃を仕掛けてくる妖獣達から、警備の兵士を守る為にゲルバとの国境へ向かうはずだった彼の予定は、大幅に崩れる事となった。
 それ故、一つの噂が城内を、否、都中を駆け巡ったのである。すなわち、ハンターの存在を目障りとしたゲルバが、妖獣部隊をまとめている妖魔に願い出て彼を襲わせたのではないか? と。そんな噂が皆の間に流れても、少しも妙に感じない程ハンターがその身に負った傷は酷かった。死なずに済んだのが信じられん、と医者が呟いてしまう程に。
 そして一週間前、傷口の殆どがふさがらない状態で、それでも熱は下がったし、ある程度戦えるぐらいに体力も回復してきたから、とハンターは荷物をまとめ出立を決行したのである。
 もちろん、クオレルはこれに反対した。死にに行くようなものです、と叫んで止めた。泣き落としまでかけたのだ。それでも、駄目だったのである。ハンターの決意は固く、どれほど彼女が懇願しても変わる事はなかった。

「あのさ、クオレルさん」
 出発の朝、困ったように笑いながら、赤毛のハンターは言ったのだ。
「俺は、自分がいなければならない場所に行くんだよ。俺にしかできない、俺が成すべき事をする為の場所へ」
 年下のハンターにそうなだめられてしまうと、クオレルは国境行きを反対する事はできなくなった。それでも、これきり二度と会えなくなるのでは、という不安は消えない。まともに顔を合わせたら叫びだしそうで、ついうなだれてしまう。こんな態度をとってはいけない、とは思うのだが、とても笑って見送る気にはなれなかった。
 そんな彼女の心情を察したのか、赤毛の青年は歩を進め体を近づける。
「……ライア」
 耳元を、微かにくすぐるような囁き。唇を寄せ、ハンターがその名を呼ぶ。ごく限られた者しか知らぬ彼女の本名を。指先が髪を撫で、大きな手が肩を抱く。
「俺は帰ってくるから」
「………」
「必ず帰ってくる。約束する。勝手に逝ったりはしない」
 クオレルは無言で髪を揺らし、顔を上げる。年下のハンターは、安心させるように微笑んで彼女を見つめていた。その表情を見た瞬間、クオレルは面を伏せ、まばたきを繰り返す。涙がこみ上げ、溢れそうになった為に。
「……そう言われても私は不安です、ハンター。姿も見えない所で心配しながらただ待つのは、ひどく辛いものなんです。わかりますか?」
「うん……、そうだろうな」
 背中を軽く叩いて、ハンターは同意する。
「貴方が五体満足で力が充実していた時でさえ、私は心配でどうにかなりそうだったんです。だのに今度は病み上がりの、傷も治っていないそんな体で行くという。それで安心して見送れると思いますか? 不安で気が変になりそうですよ!」
 うつむいたまま、クオレルは叫ぶ。大人げない、と思いながらも叫ばずにいられなかった。
「ライア」
 再度、その名をハンターは呼ぶ。クオレルの耳朶に触れる寸前まで唇を寄せ。
「……俺の名前さ、パピネスというんだ」
「ハンター」
 驚いて体を離し、クオレルは相手を見つめる。赤毛のハンターは、少し照れくさそうに笑った。
「次に帰った時は、名前の方で呼んでくれるかな。良かったらだけど」
「はい……」
 機械的に、クオレルは頷く。
「わかりました、ハンター。今度戻ってきたら……」


「クオレル?」
 呼びかける声に夢想を破られ、慌ててクオレルは顔を上げる。どうしたのだ? という表情で、大公が覗き込んでいた。
「す、すみません。ぼんやりしておりました。あの、何の話でしたでしょうか」
 うろたえ、言い訳しながらもクオレルは、夢想の内容を示すが如く頬を赤らめた。そんな我が子の様子に、大公はニンマリと笑う。
「お前の気持ちには去年から気づいていたが……。どうやら少しは進展があったと思って良いらしいな、例のハンターと」
「なっ……!」
 普段の冷静さはどこへやら、首まで真っ赤に染め頭を振って否定する娘の姿に、ロドレフはいたく御満悦だった。これは滅多に見られぬものを見た、と。
「別に進展などという事はありません。名前を教えてくれただけです!」
「だが、嬉しいんだろう? 名前を知って」
「それは……」
 今度は否定できずに、クオレルは口ごもる。確かに嬉しかったのだ。ようやく呼ぶべき名前を相手が教えてくれた事、その名で呼ぶよう求めてくれた事が。
「で、あのハンターの方は、いったいお前をどう思っているんだ? はたから見ていてしかと判断できるような素振りは、今のところ見受けられないが」
「………」
 クオレルは答えられなかった。好意は間違いなく持ってくれている、と思う。ただその度合いは、自分より少ないと気づいていた。積極的に声をかけるのも、部屋を訪ねていくのも自分なら、手や腕へ触れる事を求めるのも自分である。ハンターの側からそうした行為を仕掛けてきた事は、なだめる時以外にない。まして性的な接触となると、正直言って皆無であった。
 それでも彼が意識朦朧としていた頃には、二人きりになるとこっそり口づけたりもできたのだが、意識がはっきりしてからのハンターは、それを許さなかった。一度目が大丈夫だったからって、次もその次も大丈夫なんて保証はないだろう? と。
 相手が何を心配してるのかわかるだけに、クオレルも口づけを交わす事は諦めた。実際朦朧としていた頃でさえ、唇の感触で気づいたのか眼を開けたパピネスは、彼女に訊いてきたのである。「大丈夫なのか? 何ともないか?」と。
 自分を庇って大怪我をしながらなお、己に直接触れる事で常人には持ちえない力による害が及ぶ事を心配し、細かな配慮をされてしまうと、もう我侭は言えなかった。平気ですから、と言い続ける気にはなれなかったのだ。
「ハンターに限ってまさかとは思うが、身分違いだと遠慮して引いている……のではあるまいな」
 見当違いな意見を口にする大公に、クオレルは苦笑し首を振る。
「それこそまさかです。そんな事は気にしない、と本人が前に言ってましたよ」
「ならばそれは理由にならんな……。となると、あの一歩引いたような態度は何なのか、全くもってわからん」
「………」
 クオレルはどこまで話したものかと迷い、ややあって口を開いた。
「好きだ、とは言われました。昨年、この城へ戻ってきた時に。ただしこうも言われました。私の想いに応えてやる事はできない、と」
「……?」
 ロドレフは首を傾げる。確かに、これでは何の事かわかるまい。しかし、これ以上踏み込んだ内容を語る気には、クオレルはなれなかった。たとえ相手が敬愛する主君、そして実の父であろうとも。ハンターは、自分だけに肉体の秘密を打ち明けてくれたのである。それを他の人間に、たやすく漏らす訳にはいかなかった。
「まあ、妖獣ハンターが結婚したとか家庭を持って落ち着いた、などという話は生まれてこの方聞いた事もないが……。彼等の間には、何かそうした取り決めでもあるのかな?」
「さあ、そこまでは私にもわかりかねますが」
「うーむ、こんな事なら以前ハンター達を集めた時に、じっくり話を聞いておくべきだった」
 腕を組み、わざとらしく眉を寄せた大公に、クオレルは笑いを漏らす。
「これだけは言えます、大公。結婚は、一生待っても無理でしょうね。相手がハンターの場合は」
 ロドレフは真顔になり、カップに残っていた冷めた香茶を飲み干す。そしておもむろに身を乗り出した。
「お前もそう思っているのか?」
「え……?」
「一生待っても、あのハンターとは結ばれないと、そう納得しているのか?」
「………」
 クオレルは膝に置いた左手をきつく握りしめ、大公を見つめ返す。それから深く息を吸い、昂った気を静めにかかった。
「諦めたくはありませんし、納得したいとも思いませんよ。ですが大公、恋愛は一人で成立するものではないでしょう。ハンターは、私を妻には望みません。そういう形で私の想いが成就する事はないんです」
「ふむ……」
 ロドレフは頷き、椅子の背もたれに寄りかかる。息を吐いたクオレルは、そんな主君に向け問いかけた。
「お話は、この件についてのみですか」
「ああ……、いや、この件もだがもう一つある。こっちの方が更に重要かもしれん」
「何でしょう」
 身構え、クオレルは訊く。ハンターの件以外に重要な事など、今の自分にあったろうかと思いつつ。
 大公ロドレフは、いつになく生真面目な表情で妻と同じ銀髪の娘を見据え、その言葉を口にした。お前に、次の大公としてこの国を背負う覚悟は果たしてあるか、と。


 自室に戻ったクオレルは、扉を閉め鍵をかけるなりズルズルと崩れ、床に座り込んだ。体の震えはまだ、一向に収まらない。
 ああまで真剣に、正面切って大公が問題を突き付けてくるとは、今日まで考えてもみなかったのだ。自分がいかに甘かったか、事態に直面してやっとクオレルは認識する。正式に認めなければそれで済む、という事柄ではなかったのだ。大公とセーニャ妃の娘であるという事実は。
 事を曖昧にしたまま背を向けて、逃げようとしていた自分を彼女は知る。だが、ただのクオレルで、大公付きの侍従でいたかったのだ。ライア・ラーグ・カディラという本名はいきなり背負うには重すぎた。
 それはそのままカザレントという国を、そこに暮らす民を背負う事を意味しているのだから。
「なに、お前の答えによって各国の使者に対する返事の内容が変わる、という事はない。その点は安心して良いぞ」
 重い空気を払うように、大公は言った。今すぐ答えを出せとは言わぬ、とも。
「しかし返答次第では、こちらもせねばならぬ準備があるのでな。期間が短くて悪いのだが、三日以内に決断してもらえぬか?」
 それが、大公にしてみればギリギリの譲歩であったのだろう。既に各国の使者達は、返事がなされぬ事に苛立ちを見せ始めている。単にこちらを焦らせ、答えを急かすつもりでの素振りや言動であるかもしれなかったが、急がねばならないのは確かだった。
 クオレルは両手で顔を覆い、唇を噛みしめる。大公家の血を引いた責任を負わなくて良いのなら、心は決まっていた。カザレントの公女ではなく侍従のクオレルで、もしくは貧乏貴族を親に持つライア・トバス・カディラとして生きたいと。カディラ一族の末端の一人、男爵家の長女でいたかった。
「ですがそうやって、私が全てを投げ出したなら……」
 クオレルは呟く。自分がただの貴族の娘として生きる道を選べば、大公亡き後カザレントは指導者を失い、他国の食い物にされる。隣国イシェラが良い例ではないか。あれ程の大国でも、上に立つ者が国外にあってはまとまらず、周辺諸国の侵略の前に為す術もなく敗れ、滅びの道を歩もうとしている。カザレントが同じ運命を辿る事は、極めて明白だった。
「ハンター……、いいえ、パピネスでしたね」
 張り出し窓から身を乗り出し、夜の冷気と降る雪に包まれたクオレルは、そこにいない相手を求め、静かに呼びかける。闇の向こう、遥か彼方に眼を向けて。
「貴方に相談したいのに、側にはいてくれないのですね……。貴方が私だったらどちらを選ぶかは、もうわかっていますけど」
 傷が治らぬ身で、成すべき事をする為に行くのだと旅立ったハンター。それを思えば、答えはすぐに出る。彼はこうした立場に置かれても、決して自分のように迷ったりしないだろう。迷わず、即時に決断するだろう。その強さが好きで、同時に少し恨めしい。誰もがそんな風に、自分のしたい事ではなくせねばならぬ事、を選んで生きられる訳ではないのだ。
「……パピネス」
 積もった雪を指で払い、窓の縁に頬を寄せると、クオレルは小声で呟く。

「ハンターではなく、名前で呼びます。だからちゃんとここに戻ってきて下さいね、私の元へ」
 その時まで、自分はクオレルと名乗っていられるか定かではないけれど……。
そうひとりごちながら、侍従として勤める男装の公女は眼を閉じる。降り続く雪は、風に乗って彼女の上に舞い落ち、素肌に触れては溶けていく。いつしかそれは水滴となり、涙のようにクオレルの頬を濡らしていった……。

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