断罪の瞳1《1》


 その魂は、長きに渡って眠りの中にあった。
 眠りは余りに深く、それ故肉体を奪った者は忘れていた。彼の者の魂を消滅させてはいなかった事実を。
 己の存在すら主張せぬ眠りに、魂はついていた。未来を奪われた怒りよりも、失った者に対する悲しみが、何もできなかった無力感が、より大きな比重を占めて心を蝕んでいた為に。

 偶然のいたずらで肉体から分離され、赤い宝石の一部となって別な界に移った後も、彼は眠り続けて目覚めようとはしなかった。目覚めたところで、自分が守りたかった相手はもうどこにもいないのだから。
 だが……。
 その怠惰な眠りを断ち切ったのは、全てを焼き尽くす灼熱の炎、炎、炎。
 守護すべき相手から拒絶された守護石は、焼け爛れ形を保てなくなった耳朶から落ちて地面に転がり、眠れる魂を放出する。守護石を形成する血の、本来の持ち主を。器の姿をそのままに写し出す、意思を持った幻影という形で。
(……何だ?)
 突然の予期せぬ覚醒に、幻影の青年は戸惑い、辺りを見回す。まず目に入ったのは、ひどく古びた、水の匂いが殆どしない井戸。それから、自然な火とは異なる気を放つ炎に包まれた村と、傍らに倒れ伏した燻っている誰か。その肉体の大部分を炎に舐め尽くされ、炭化させようとしている存在。そして踏み荒らされた土と、足元に転がる一対のピアス。
(!)
 青年の紫の瞳は、その小さな装飾品に釘付けとなる。赤い、血の色をした二個の宝石。(赤の守護石? まさか……。いや守護石だ、間違いない。それも私の血で造られた物という事は……)
 幻影の手がそれを掴み、拾い上げる。手のひらで転がし、まじまじと眺めた彼は、視線を倒れ伏した相手へと向けた。もはや顔立ちはおろか、性別すらも見分けられない黒焦げの物体へと。
 幻影の妖魔は、形良い眉を寄せる。
(つまり、この炭と化しつつある物は、あの男が守護石を与えてまで守ろうとした存在という訳だ)
 放っておこうか、という考えが頭をよぎる。あれだけ力ある妖魔に赤の守護石を与えられ、その身に直に付けられながらこのような姿になった以上、間違いなく当人は死を望んで救いを拒んだはずなのだから。
(それに守護石を与えた相手が死んだとなれば、奴も少しは私の痛みを知るだろうし)
 放っておこう、知った事ではない。そう決意してその場を去ろうとした時、不意に失った者の不機嫌な表情が思い出された。声までも。
『ケアス』
 思い出の中の教育係は言う。かつて王の側近に、自分の肉体を奪った男に嬲り殺された愛しい者が。
『それは正しい事なのか? お前がしようとしている事は、本当に正しいか?』
(ルーディック……)
 幻影の妖魔は頭を揺らし、思い出を振り払う。そして彼は正しいと思われる行動に移った。己の教育係をあの世で嘆かせぬ為に。仇である男が守護石を与えた相手を救うべく炎を消し、炭化した肉体を崩さぬよう、用心深く注意を払って少しずつ生気を送り込む。
(しかし、この体を元通りに修復するには相当の時間が必要だな。こちらも実体を持たない身である以上、そうそう妖力を放出する訳にもいかないし……)
 正しい行いというものは、常にやっかいで困難を伴う。それでも、一旦助けると決めた以上投げ出す気にはならなかった。肉体を乗っ取ったあの男と自分は違うのだ、と証明する為にも。

 それが、カザレントという国の情勢に深く関わる最初のきっかけとなる事を、幻影の妖魔は知らなかった。


 一つの村の焼失。いかなる理由からか守護石の加護を拒絶し、全身を黒く炭化させ横たわる者。そして井戸近くに放置されていた一振りの剣。
 その剣に籠っていた妖魔の魂と妖力が、人知れず殺されて終わったはずの若者の人生を変え、周囲に影響を及ぼしていく。
 若者の名はルドレフ・ルーグ・カディラ。カザレントの大公ロドレフの隠し子にして、暗殺された宰相ディアルの息子。

 時に、公国暦四九五年初冬。運命の歯車は幻影の妖魔の手を借りて、急速に回り始めた……。


◇ ◇ ◇



 公国カザレント。かつては野心に燃える王のもと、諸国に侵略を繰り返しては領土を広げ、最も強大と恐れられていた王国であった国。
 しかし、苛烈王ヤスパの名で知られた王を失った後は、国としてのカザレントの屋台骨は大きく揺らぎ、それまでとは逆に各国から攻め入られ、国土を荒らされては領土を奪われる、いわゆる亡国の危機に追い込まれたのだった。
 そんな中、処刑を逃れ生き延びた王家の最後の一人バルザは、後にカディラ一族の始祖と呼ばれる男装の公爵の協力を得て、どうにか軍を立て直し諸外国の侵攻を食い止め、国を滅亡の淵から救った。
 だが、残された領地は過去を知る者から見れば本当に微々たるものだった。辛うじて守られた領土は細く長く、あちこち枝分かれし普通の国の形には程遠い代物である。故に、最後の王を失って公国となってからのカザレントは、他国の意地の悪い輩から「食い千切られた肉の切れ端と突き立てられた串の図」、もしくは「食べ残しのパンに生えたカビが伸びている」だのと称され、嘲笑される羽目となっていた。
 されどその僅かな領土だけは、カディラ一族と代々の大公によって固く守られ、少しも削られる事なく五百年の間保持されたのである。
 しかし、それすらも今は危うい状況に置かれていた……。

 カザレントの首都カディラ。国を治める一族の名を冠した都の中心部にある大公の居城では、既に恒例となった感のある終わらない議論が、夜になっても交わされていた。
 右大臣がテーブルを叩き、立ち上がって発言する。
「大公! おわかりでしょうが現在我が国は孤立しております。唯一敵対関係でないアストーナとて、援助や助勢を望むのは無理というもの。春になって戦闘が再開された場合、人的資源も物的資源も少ない我が国に勝機はなく、国境を守る事は不可能でしょう」
「………」
 上座中央の席に座るカザレントの君主は、何の返答も返さない。室内にいる者達の顔に不安げな表情が浮かんだ。
「そうなりますといよいよこれは、あの申し出を受けるしかないという事ですかな」
「そうなりますか……」
 立ち上がったままの大臣は、視線を己より二十歳以上は若く見える君主の面に向ける。実際のところ、両者の年齢差はせいぜい七歳程度でしかなかったのだが。
 これは別に大公に限った事ではなく、カディラ一族の一般的特徴であった。外見が実年齢より若く見える人間を、この一族は高い確率で生み出している。「何十年経とうとも、まるで年を取らなかった」と記述されている始祖の血が、かなり薄められたとはいえ流れているせいかもしれなかった。
「臣下の身で誠に僭越ではありますが、どうかお願い致します。確かに四ヶ国が我が国に対し突き付けた要求は、極めて非常識と言えましょう。ですがここは国の為、民の安全を第一に、何とぞご辛抱下さるよう」
 その発言に、何人かが眥を上げ異議を申し立てる。
「それでは独立国家としての我が国の立場がないではないかっ!」
「さよう、いかに苦境に立たされているとはいえ、他国の申し出にやすやすと従っては、カザレントは政治能力のない三流国家と見なされましょう。それで良いのですかな?」
「そもそもどの国に公妃様をお渡しすると? 一人の人間を四つの国に引き渡すなど無理というものですぞ」
「この場を切り抜けぬ事には、どんな未来もありえない!」
「私が考えるにこの際……」
「つまり……」
「いや、ですから……」
 公国暦四九八年二月初旬、カザレントは各国からの使者を相次いで迎えていた。全く予期せぬ用件で。
 冬将軍の猛威の前に暗黙の了解で休戦状態とはいえ、使者を送ってよこした国々は全て現在の戦の相手国である。その上表現こそ違えど、述べている内容、要求は皆同じであった。簡約すればすなわちこうである。戦をこれ以上続けたくなければカザレント大公はただちに元イシェラ王女であるセーニャ妃を離縁し、滞在中のイシェラ国王ヘイゲル共々我が国に引き渡していただきたい。さもなくば、雪解け後どうなるかはおわかりであろう? そう、各国王室のお偉方は伝えてきたのだ。
 真っ先に訪れ一方的な要求を突きつけたのは、国境が雪に埋もれた今も妖獣を使っての攻撃を仕掛け、警備の兵士及び周辺住民の死傷者数をせっせと増やしているゲルバからの使者である。
 次に書状を携え現れたのは、イシェラの第一王女、末子で唯一の男子たる弟ブラウが生まれるまでは、世継ぎの姫としていずれ王国を継ぐ予定にあった女性の嫁ぎ先、北の王国プレドーラスからの使者。
 次いで第二王女の嫁ぎ先に当たるドルヤ、そして最後に第三王女の嫁ぎ先ノイドアからの使者が、それぞれ打ち合わせたかのように間を置かず訪れたのだった。
「………」
 臣下の終わらない議論を耳にしながら、通告を突きつけられた当事者である大公は一言も口を挟まない。何も言う事がない訳ではなかった。むしろ言いたい事がありすぎて、話しだしたら止まりそうにないが為、沈黙しているのである。
 実のところ、大公の心の内で結論は既に出ていた。未だ正気に戻らぬセーニャと、心痛で健康を害し床に臥している老齢のヘイゲルを敵国に渡すつもりは毛頭ない。問題は、いかに相手を怒らせずそれを伝え、彼等が矛を収める代案を用意するか、であった。
 四ヶ国の目的は間違いなく、イシェラの主権を譲渡するというお墨付きを手にして、分断された領土をまるごと自国の物にする事にある。大公ロドレフに妻セーニャとの離縁、引き渡しを求めたのもその為だ。
 妾腹の第四王女、ヘイゲルの愛娘セーニャは、人質として各国に必要とされているのである。イシェラ国王を意のままに操る上での重要な人質。当然、その身の安全など保証の限りではない。意図が明白である以上、臣下が何と言おうと断じて渡せる訳はなかった。 だが、それでは雪解けと共にカザレントはいっせい攻撃を受け、国としての存続が危うくなってしまう。昨年は圧倒的不利な状況にあっても何とか持ち堪えたが、今年もそうであれと願うのは無理な話だった。
(ディアル……)
 ふとロドレフは亡き宰相、異母姉にして己の理解者であり、共に戦い歩む同胞でもあった女性を思い出す。
『貴族の子弟だけじゃなく、庶民の子供達にも学ぶ場所は必要よ。ローグ』
 遠い昔、歯切れの良い声で黒髪の少女が語った言葉。聞いているのは、まだ十代前半の自分。
『労働階級に知識は必要ないなんて、自分達だけが特権を得ていたい輩の戯言だわ。国を強くしたいならば、まずは考える力を持った子供達を育成する事よ。他人任せで上の者の言うがままに生きる民しかいなかったら、国は間違いなく滅びるわ』
 川縁にしゃがみ込み、野菜を洗いながら、少女の唇が語るのは国の行方、政治、教育のあり方。
『読み書きや算術はもちろんだけど、十歳前後になったら馬術や剣術、ああ、弓も使い方を教えた方が良いわね。全員に全てを教えるのは予算的にも無理があるから、最低でも基礎は身につけさせる事として……。才能がありそうな、もしくは学ぶ事を希望する者には続けて教える事が可能な制度を確立しないといけないわ。とにかく、身を守る為の防衛術については男女の別なくきっちり教え込むべきよ』
 年上の少女の大きな黒い眼はとても真剣で、輝いていた。ささやかな疑問を少年の自分がぶつけると、その眼はなおさら大きくなる。
『どうして女の子にもですって? わからないの、ローグ。カザレントは小国よ、他国に比べれば。けれど取るに足らない小国、とまでは思われていないの。いい? 私達はそんな風にこの国を観察している、いつ敵に変じるかわからない国々に囲まれて生活しているんだわ。そしてね、庶民の女達には貴族のお姫様と違って、守ってくれる騎士などいないのよ』
 守ってくれる者などいない、と戦い生きる事を選んだディアルは言うのだ。当時の自分は知らなかったが、実際には誰かが守ってくれるお姫様の座を、自ら捨てた少女が。
『ええ、それはそうよ。庶民でも父親なり夫なりが守ろうとするでしょうね、その時身近にいられたら。でも、戦になったら男手が家に残っている確率はまずないわ。そんな時、敵を前にして女達はどうするの? 剣も弓も、使い方を知らなければ構える事さえできないわ。馬屋に馬がいても、乗り方を知らなければ乗って逃げる事はできないのよ! それでいいの? そんな存在を後に残して男達は戦場に行くの? それじゃ安心して戦える訳ないじゃない!』
 後に宰相となったディアルは、庶民の子供達の為の教育施設を作るべく奔走し、一方で繰り返し女子にも馬術や剣術を教える必要があると重臣達に訴えた。
 男子への武術教育に関しては反対も少なく、予算の面で多少揉めたものの割合すんなりと法案成立したのだが、女子に関してはそうはいかなかった。大公の側近として会議の席に着いた貴族達は、女性が男性と同じく馬術や剣術を学ぶ事に難色を示し、強硬に反対し続けたのである。
 結局、ディアルが生きて宰相の座にいる間は、彼女の主張は受け入れられなかった。ロドレフも、全面協力をするには至らなかった。守るべき存在である女性に武器を取らせ、敵と戦わせるというディアルの考えに、素直に賛同できなかったのである。男としての心理的抵抗を、どうしても拭えなかったのだ。
『貴方は、女性の手を綺麗なままにしておきたいのね。ローグ』
 どこか寂しげに微笑み、ディアルが呟く。白地に銀糸で刺繍を施された、男物の宰相の衣装を素肌の上に直接羽織った姿で。
『それは良い事よ。本来ならとても良い事だわ。……ただね、ローグ』
 大きな黒い眼、いつも輝いていた瞳が瞼で覆われ、睫が影を落とす。
『ただ、これだけは覚えておいて。武器を持たない人間は、敵の前で完全に無力よ。逃げたくても逃げきる事さえできずに、捕らわれ嬲り殺しにされるだけ。私はそれを知っているから変えていきたいの。無力なまま死なずに済むよう、変えてあげたいのよ。私達の次の世代が、手を汚さなくても生きていける、そんな国にする為に』
 普段と違う、沈んだ表情。握りしめた拳は青白く小刻みに震え、呟かれる台詞はまるで自身に言い聞かせているようだった。

 今ならわかる。己の側近だったフラグロプの所業を知らされた今は。おそらくあの前日の夜、ディアルは凌辱されていたのだろう。宰相の座を辞して城から出ていけという脅しに屈しなかった、その代償として。
 男の暴力を撥ね除ける力もない女の身である事実を、助けを求める事もできない孤立した立場を、無理矢理に思い知らされたのだ。
 そして彼女は一人でそれを受け止め、戦い抜こうとしたのだ。弱音の一言も吐かず、逃げもせず。
『武器を持たない人間は無力よ、ローグ』
「………!」
 ロドレフはきつく唇を噛む。あの当時、城内の政争で武器になるものと言えば、まずは持って生まれた身分を指していた。血筋の高貴さ、そして富と人脈。改革を目指す若い大公の独断で宰相に任命され、前大公ケベルスの娘である事実を周囲に隠していたディアルには、そのどれもなかったのだ……。
 ディアルの死後、ロドレフは遅ればせながらも彼女の提案を受け入れ、反対意見を蹴散らし法案を可決して即刻実行に移した。そうしてカザレントの少女達は、ままごとの道具の代わりに玩具の剣や弓を与えられ、正しい使い方を幼い頃から教え込まれた。
 更に子供達は学校の体験学習で小馬の世話を任され、付き合う内にその習性を学び、遊びの中で乗馬を覚えていった。そこに男女の別はなかった。
 結果としてそれが国の底力となり、カザレントを現在も存続させている。こうなると、誰もがディアルの先見の明を認めない訳にはいかなかった。彼女は正しかったのである。こんな平和と呼べない時代においては。
 カザレントの民は男女を問わず、いざとなれば皆戦士に変わる。十歳以上の子供なら誰でも、剣の構え方、弓矢の扱い、馬の乗り方を知っていた。むろん体格的にも体力の上でも大人の敵兵相手にまともに戦えはしないが、それでもすぐには殺されずに済んだ。
 そして武術の基本を学んだ女達は、襲撃を受けても怯えて泣き叫んだりはせず、包丁だろうが草刈り鎌だろうがその場にある武器になりそうな物を手にして、侵入してきた敵に対峙した。敵を発見してから襲撃までに僅かでも時間的余裕があった者は、馬に飛び乗り敵の来襲を知らせに兵舎へと駆けた。
 彼女達は、立派にカザレントの戦力だった。女と見て舐めてかかった敵兵をてこずらせ辟易させる戦力だった。
「大公! これでは埒があきません。大公御自身のお考えはどうなのですか?」
 一向にまとまる兆しを見せぬ意見の対立にうんざりしたのか、右大臣が呼びかける。ロドレフの追想と思惟は断ち切られ、現実に意識を引き戻された。
「私の考えか」
 呟いたロドレフは、皆の視線が自分に集中しているのを感じる。集まった面々、己より年上の長らく政治に関与していた者達が、自らの肩に責を負うのを恐れ、大公の決断に任せてしまおうと思っている事は明らかであった。苦い笑みが、カザレントの君主の口許をよぎる。政治の中枢にありながら、ここにいる者達は決断力も実行力も、気概においてすらディアル一人にかなわないのだ。
「私の考えなど、どうでも良いのではないか?」
「大公っ?」
 皮肉めいた笑みを浮かべロドレフが発した一言は、そこにいた一同を青ざめさせるに充分であった。
「国を守る、民を守る。この大前提を掲げられ、君主として成すべき事をしろと迫られたら、私の意志など塵にも等しい。ここで諸君等が各国の申し出に対しどういう結論に達しようと、それが私の意に沿ったものでないことだけは確かであろう。だがまあ」
 席を立ち、扉に向かいながらロドレフは言う。
「雪解けまではまだ日がある。結論を急ぐ事はあるまい。使者の方々には申し訳ないが、返事はもう暫く待っていただくとしよう。事が事だけに、そう早々と答えは出せぬと伝えれば、ごり押しはしてこぬさ。あと何日かはな」
 振り向いた主君の、内心を伺わせぬ笑顔を眼にした近臣達は、重苦しい気分で沈黙しその背中を見送った。彼等は、大公の地位に就いた人間が実は国家に捧げられた贄である事を、この時初めて認識したのである。


 居室の壁の奥に設けられた秘密の通路を通り、凍りつくような空気の詰まった暖を取る設備のない、歴代大公の肖像画がかけられた小部屋に足を踏み入れると、ロドレフは軽く息を吐き、燭台の灯りを柱のくり抜かれた部分に置いて、絨毯の上に横になった。
(……ずいぶんと疲れているな)
 乱れて額にかかる前髪を払い、彼は思う。それも肉体の疲れではなく、精神の疲れだった。肉体疲労ならばまともに眠って食事をとれば回復するが、精神的疲労を回復するにはそれだけでは足りない。
(だからディアルを思い出した訳だ)
 必要としているのだ、今。彼女の存在を。あの柔らかな胸と抱きしめてくれる腕を、枕代わりの膝を、髪を撫でていく指を。
 その頭脳を、助言を、背中を押してくれる手を。たとえ自分がいなくなっても、カザレントは無事存続できると信じさせてくれる相手を、ロドレフ・ローグ・カディラは欲していた。ディアルなら、その期待に充分応えてくれる。しかし、現実には彼女はいない。
 カザレントの大公は拳を固め、ギリリと唇を噛む。だが彼は、どれ程嘆いたところで亡くなった者は戻ってこないと知っていた。同じく、イシェラで行方不明になり生死も知れぬ息子が、都合良く現れてはくれぬ事も。
 だから全ては、自分が背負うしかないのだ。
 どうすべきか、答えは出ている。問題はその後の事だった。男装し侍従として側に仕えているクオレルこと、ライア・ラーグ・カディラ。セーニャとの間に生まれた嫡出子たる娘へ国を託す事は、平和な時代だったら出来ただろう。次期大公としての教育は、自分なりに行なってきたつもりだった。君主として必要な覚悟も心得も、他者を見る眼も養わせたはずだった。
 もしもカザレントとその周辺の国々の関係が一年半前と同様であったなら、己は何の迷いもなくクオレルを正式に披露し、位を譲り渡しただろう。しかし、今の状況下で大公の座を娘に任せては、一生恨まれかねないとロドレフは思う。何故なら自分はクオレルに、公女としての身分も特権も与えてこなかったのだ。きらびやかなドレスも身を飾る装身具も、貴婦人達が好んでつまむ甘いお菓子も同年代の少女達とのお喋りもない。地位の高い貴族の娘として生まれたなら、当然享受できたはずの贅沢とまるで無縁な日々を過ごさせ今日まで来たのだ。
 これで次期大公としての義務と責任だけは押しつけるなど、とんでもない話である。母親の身分が低かったにせよ一応公子として扱われ、ある程度の権限を与えられていた自分でさえも、いずれ己が肩に背負うものを思うと重圧で気が滅入ったというのに。
 実際、ディアルが指摘してくれなかったら、何もかも投げ出していたかもしれないところだったのだ。
『ねぇローグ。貴方が新しい服や靴を常に与えられるのは何故? 私達が口にできないような料理の並ぶ食卓につけるのはどうしてか、考えた事があるかしら』
 手にした箒を軽快に動かしながら、ディアルは語る。少女時代の彼女は、常に忙しく働いていた。自分と話をする時さえ、のんびりと休んでいた事はない。
『皆が貴方にそれを許しているのは、将来貴方が自分達を、命も生活も含めて守ってくれると信じているからよ。いざという時は盾になってくれる存在だからこそ、自分達の払った税金で贅沢な暮らしをしても認めるの』
『いい? 決して忘れては駄目よ。貴方が暖かい部屋で綺麗な服を着て美味しいものを食べ、飢えも寒さも知らず明日への不安もなく暮らせるのは、カザレントの民の奉仕の上に成り立っているという事を』

『全ては借り物よ。いつかはそれを返すの。ローグ、与えられる事を当然と思ってはいけないわ』
「………」
 ディアル・ディーグ・カディラは少女の頃から聡明な女性だった。広い視野を、大局を見る眼を持っていた。自分よりずっと国の統治者としてふさわしかったのではないか、という思いは今も消えない。
 少年時代ロドレフは、ディアルと同じ年齢に達すれば同じように物事を見られるのではないかと考えていた。だが、そうではなかった。十六になっても彼は十六歳の頃のディアルの思考に追いつかず、十七になってもそれは変わらなかった。そして追いつく事のできないまま、永久に失ったのである。
「全ては借り物、いつかは返すか」
 呟いて、ロドレフは上体を起こす。いつか、は既に目前だろうと彼は思う。それならそれで構わなかった。自分は母よりも、そしてあのろくでなしの父である前大公より長く生きている。この上楽隠居して家族と暮らしたい、などと要求するのは欲深というものだろう。
 部屋の中央にあるカディラ一族の始祖、女公爵レアール・カディラの彫像をロドレフは見つめ、そっとその肩に頭を寄せる。人に寿命があるように、国にも寿命はあるのだ。自分の代で滅ぼしたくはないが、それが寿命であれば仕方がないと諦めもつく。五百年前に滅ぶはずだったカザレント。銀髪の女神がバルザの前に現れた時のような奇跡を、二度も望むのは無理であろう。
「まあ、勝ち目がなくてもおとなしく滅ぼされてやるのは性に合わんな。始祖に対しても申し訳が立たん。ここはせいぜい、派手に足掻くとするか」
 苦笑と共に呟いて、ロドレフは小部屋を後にする。その瞳に宿る輝きは、決して敗者のものではなかった。


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