元気なアジア・タイランド3



 4日目、プーケットでの1日自由行動の日である。同じツアーのメンバーはオプショナルツアーに出かけたので、朝から晩まで1人で行動となったのだが、前日の夜買い物に出歩いた事で少しは勇気が湧いていた。英語は殆どわからない、タイ語に至ってはこんにちはとありがとうしか言えないが、何とかなると信じて朝食後地図を頼りに海へと向かう。ホテルから海岸までの距離と、所要時間を確認しておきたかったのだ。
 飲み屋街を抜け、小学校らしき建物の前を通り、更に観光客目当ての店が立ち並ぶ通りを過ぎると、海岸が眼に入る。ホテルを出てからおよそ15分。常夏の国とはいえ、雨季で水がやや濁っているせいか泳いでいる観光客の姿はそう多くはなかった。
 それでも砂浜はサッカーやセパタクローをする若者で賑わい、ビーチパラソルの下マッサージを受けている初老の白人や、髪を三つ編みにされている日本人らしき女性を何人か見かける。更にトップレスで堂々と歩いている白人女性やシートの上に寝そべる水着姿の肥満気味な老夫婦などを目にすると、日本人的な気後れもどこかへ吹き飛んだ。
 靴を脱ぎ、裸足で砂浜を駆け波打ち際へと足を踏み入れる。冷たい水の感触を求めて。が、音を立てて打ち寄せてきた波は何故かあったかい。首を捻って更に足を踏み入れるがやはり温かい。水と言うよりぬるま湯である。岩手育ちの私にとって、海の水とは鳥肌が立つくらい冷たいもの、と認識されていたのだが、南国の海水は日本のそれとは全く別物であった。
 戸惑いつつもせっかく来たのだからと1時間あまり波打ち際を散歩した後、ホテルに戻って水着に着替えプールに入る。いくらなんでもプールの水なら少しは冷たいだろうと思ったのだが、その考えは甘かった。こちらもしっかりぬるま湯である。夜でも気温が30℃以上の国では水温が下がる訳はない。水は冷たいものという私の常識は、ここでは通用しなかったのである。
 そんなこんなでぬるめの温泉に入っている気分のままプール、海と泳ぎまくった翌日、日焼けした肌の痛みと虫刺されのかゆみに悩まされつつ帰国する。日本に到着して私が真っ先に走ったのは、ディスカウントショップの薬局だった……。
 教訓、タイに行くなら虫よけスプレーとかゆみ止め、そして日焼け止めクリームは必ず持参すべきである。後で後悔しない為にも。(ちなみに私の場合、腹薬だけはどこに行こうと必要なしである。シンガポールの水道水を1リットル飲んでも、下痢しなかったもんね)
 蛇足であるが、薬局の次に私が足を運んだのは池袋の某同人誌専門の古本屋だったりする……。いやー、どこまでもオタッキー★ ケタケタケタ。


◇ ◇ ◇


 かくして5日間の観光・リゾートの旅は終わりを告げた。9月下旬の段階では、私の肌に水着の跡はくっきりと残っていたが、それにもまして鮮やかに記憶されているのは、バンコクで見た様々な光景である。まるで終戦後の日本と言われた、あの光景。
 熱と湿気を含んだ風、ジリジリと照りつける日差し。そこで生きる人々。
 裸足で駆け回る痩せた子供の姿。トラックの荷台にぎゅうぎゅう詰めとなり労働に向かう大人たち。排気ガスを浴びながら地べたに座り食事をする工事関係者。不衛生な環境に負けない、強靱な肉体。通貨価値が暴落する中でも笑顔を忘れず生きる、前向きな精神。現代の日本人にはない強さ、したたかさ。
 あれがかつての日本であるのなら、あの雑多なエネルギーが日本にもあったというのなら、それは今どこに行ってしまったのだろう。
 帰国後いったん再就職したものの、現在の私はまたまたリストラで失業中の身である。(会社が離職票をなかなか発行してくれない為、手続きが取れず宙ぶらりんな状態で自宅待機を余儀なくされているが)
 失業手当てが出るまでは無収入の身なので、預金を下げては国民年金を振り込んでいるのだが、これが高い。年々額が高くなる。確か20歳の頃は月々8千円だったのが今は1万3千3百円。無収入の人間にしてみれば、結構な支出である。次はどれだけ上がる事やら。しかし自分達が受け取る段になれば、年金支給は全く当てに出来ないだろう。老人の数が多すぎるのだから。
 けれども私はタイで、終戦後の日本と称された光景を目の当りにした。貧しかろうと信心を捨てず、王族を敬い国の為がむしゃらに働く(この辺は戦前の日本かも)人々の姿をこの眼で見てきた。
 あれが現在年金生活者と呼ばれる人々の若い頃の姿なら、失業中だろうが無収入だろうが何としても年金を払い続ける必要がある、と思うのだ。終戦後の日本を支え、復興の為に身を粉にして働いた人々の老後の面倒を見るのは、彼等が築き上げた繁栄の中で守られ育った我々の義務ではなかろうか。同じ国に生まれた人間が背負うべき、当然の責務ではないか?
 年金は、自分たちの将来の為に積み立てる預金ではないのだ。この国を支えてきた人々の今現在の生活を守る為に支払うものなのだ。
 だがこれは、タイという国に行かなければ、バンコクの人々を、社会を、生活をこの眼で見なければ得られなかった感覚であり、思考である。日本から一度も離れず、この揺りかごのような国の中だけに留まっていれば、気づかず終わる事柄なのではなかろうか。
 近すぎて見えないものはある。恵まれた人間は、比較対象が側にない限り自分が恵まれている事に気づかない。そしてそれは、TVや新聞、インターネットの画像では、決して実感できはしないのだ。
 だから、一度は旅に出てみよう。自国を離れ、外からじっくり住んでいる世界を観察して見るといい。驚きと再発見が、そこには必ずある。百聞は一見に如かずということわざの意味を、その時貴方は知るはずだ。

 では、思い出しながら綴ってきたこの駄文もそろそろ終わりにするとしよう。
 私の住む地元は、求職者数10人に対し求人数は2人という、失業者にとってははなはだ厳しい現状にあるが、4万円が2日で3万円の価値に下がるタイに比べればまだまだ日本は安定した国であると思える。そう悲観する事はない。
 考えてもみよう。5人に1人は必ず就職できるのだ。ならば元気出して行こうではないか。なにしろ50年前の若者の現在の生活は、我々の肩にかかっているのだから。そこで一言、
『元気出せ、日本!』

−FIN−

※この文章は、1999年1月下旬の段階で書かれたものです。現在の私はちゃんと勤めております ……そして予想通り、払う年金額は上がっております。給与だけではやり繰りできず、貯金を下ろして生活してまーす。ううっ、いつまで持つかな、この状況。

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