生まれる日

 起爆スイッチを押してから、爆発までの僅かな時間
 いつも、俺は考える

 このまま、あと何分かここに留まれば
 今度こそ俺は死ねるだろうか
 この生から解放されるだろうか


 「ショーヘイ! 脱出しろっ」
 無線機から、声が漏れる
 雑音混じりの、男のヴォイス

 「ショーヘイっ! 聞こえているかっ?」
 切迫した声、確かな焦り
 帰還を求める、仲間の声

 ──そして、今日も俺は死に損ねるのだ……



 場末の安酒場サンドベールは、店に似合いの客達でごった返していた。戦地に近いこの町の酒場は、どこも簡易的な売春宿を兼ねている。男達は酒や料理を運ぶ女の中から気に入った相手を選び、金を渡して上の階の小部屋へと向かうのだ。
「ユーディア、指名だよ」
 店の女将の呼ぶ声に、淡い色の髪の大柄な娘は振り返る。異国の血を引いていると誰もが気づく、周囲の人間と異なる髪の色。
「指名?」
 誰があたしを? と娘はテーブルの上の食器や空ジョッキを片付ける手を止め、薄暗い店内を見回す。女将の指差した先には、どう見ても年下としか思えない、小柄な少年が座っていた。
「お、女将さん、あれって……」
「しっ! ああ見えても軍の関係者だよ。入店前に身分証のカードを見せてもらったから間違いない」
「軍の……?」
「上客だよ、たんともてなしておあげ。今時紙幣じゃなくどこに行っても使用可能な金の粒で払ってくれる客なんざ、滅多にいやしないからね」
 女将の囁きに、娘は改めてその客を見た。東洋系の顔立ちをしている。東洋人は若く見えると聞くのではっきり断定はできないが、彼女の眼に映る姿から推測できる年齢は、せいぜい10代半ばかそこらでしかなかった。
「あんたがユーディア?」
 おずおずと近付くと、一人静かにジョッキを傾けていた少年は顔を上げる。無造作に切られた黒い髪、その奥から覗く黒の瞳。
 印象的な眼をしていた。たぶん一度彼に会った者は、この眼を忘れる事はないだろう。
「……参ったな。本当にいたとは」
「?」
 カタン、と少年は立ち上がる。
「俺はショーヘイ。“死にたがりのショーヘイ”だ」
 立ち上がった彼の胸で微かに揺れる、小さな光る物体。それが細い鎖でつながれた十字架である事に、娘は意外な念を抱く。世界を拒絶してるかのような、虚無的な眼をした少年が身につけるにしては、ひどく不釣り合いな物と思えた為に。


「……ショーヘイって、変わった名前ね。どこの国の人なの? あなた」
 鍵を渡された小部屋に入り、相手の上着を脱がせると、ユーディアは尋ねた。聞いた事のない響きの名だった。彼女の知っている国の人間の名前とは異なる。
「日本らしいな。良くは知らない」
 欝陶しげに彼は応え、娘の手慣れた動きを遮った。
「脱がされるのは趣味じゃない。自分で脱ぐ」
「……あら、そう」
 少々ムッとして、ユーディアは手を引っ込める。いつもならこの程度で怒ったりはしないのだが、今夜の相手はどう見ても自分より年下の坊やである。故にこうした拒絶のされ方は腹が立った。あんたは俺の好みじゃない、と言外に告げられた気分だったのだ。
 だが、その腹立ちもシャツを脱いだ少年の上半身を見た瞬間、吹き飛んだ。背に腹に、肩に胸に刻まれた無数の傷。長らく戦場に身を置いて闘ってきた者の証。数えきれない銃創と裂傷と、火傷で引き攣れた皮膚。
 幼くしてこの商売についてからというもの、ユーディアは何人もの兵士を相手にしてきた。けれど、ここまで酷い傷を負った者は見た事がない。それは、少年がこれまでくぐり抜けてきた修羅場を、雄弁に物語っていた。
「どうした?」
 無言で立ち竦むユーディアに少年は首を傾げ、それから合点がいったように己の傷痕に視線を向ける。
「気味悪いのか、これが」
 ユーディアは否定する。気味が悪い訳ではない。痛いのだ。少年の全身から、悲鳴が上がっているような気がしてならなかった。
「無理しなくていい」
 天井の照明が消され、ベッド脇のスタンドのほのかな灯りのみになると、ユーディアはホッと息をついた。それから相手へ近付き自分の服に手を掛けると、少し躊躇った後に問い掛ける。
「あたし、自分で脱ぐ方が良いかしら。それともあなたが脱がせる?」
 店に来る男の大半は、買った女の服を脱がせたがる。その辺りを考えた上での問いだった。が、少年は軽く首を振る。
「脱いでもらう方がいい。女の服だの下着だのは構造が良くわからん」
 そう言って、ポツリと付け足した。
「……女の相手は初めてだからな」
「あら」
 ユーディアは危うく吹き出しかける。なんだ、やっぱり子供なんじゃない、この子。
 ブラウスのボタンをはずし、スカートのファスナーを下げて脱ぎ捨てる。年下の、慣れない坊やの前だと思うと、動きは自然に大胆になった。
 最後の一枚だけは身につけたままで、ベッドに腰をおろした少年の隣に座る。肩を寄せても動こうとしない相手に苦笑が漏れ、背中に腕を回し頬を擦り寄せるや口付けた。
 こんな事は、ユーディアとしても初めてである。唇へのキスは、無理遣り求められでもしない限りこれまでの客には許さなかった。ましてや自分から口付ける事など、断じてなかったのである。
 今回は特別よ、と彼女は思う。だって相手は何も知らない子供だもの。
 事実、少年はベッドに手をついたまま、ユーディアを抱き締めようとさえしなかった。
「んっ……」
 長い口付けに、ようやく少年は閉ざしていた唇を開く。ユーディアは相手の髪を撫でながら、ゆっくりと舌を滑り込ませた。
 ─―え……?
 舌を受け入れた後の少年の反応は、彼女を驚愕させるに充分だった。己の舌を積極的に絡ませて、細やかな刺激を与えてくる手慣れたキスの手管。ちりちりとした官能の波が、腰から背中にかけて這い上がる。
(何……? うそ、慣れてる? この子って……)
 思う間もなく、恍惚とした状態に追いやられた。甘い疼きが全身を支配し、背中へ回した腕に力がこもる。
「キス、上手いんだな」
 唇を離して、少年が呟く。我に返ったユーディアは、その言葉にカッとなった。
「何言ってるのよ、白々しい」
 上手いのはあなたの方じゃない。そう、彼女は思うのだ。が、少年は何故かきょとんとしている。
「何で怒るんだ? キスされて気持ち良いと感じたのは初めてだから、上手いと言ったのに」
「ああそう」
 プイと顔を背けたユーディアは、言葉の意味にハタと気づく。気持ち良いと感じたのは初めて……?
「ちょっと、……ねえあなた、女の相手は初めてだと言ったわよね」
 コクンと少年は頷く。
「それじゃキスされて気持ち良いと感じたのは初めてって、おかしな言い分じゃない。だいたい、どうしてあんなに慣れた応じ方をしたの?」
「ああそりゃ、何度もされてるから」
「………………」
 ユーディアは絶句する。……そう、ありえる話だった。この付近で行なわれる戦闘の殆どはゲリラ戦である。そしてゲリラ戦に参加する女性兵の数は、皆無という訳ではないが男性に比べると極端に少なかった。
 必然的に、体が小さく力の弱い少年兵はそうした対象に回される。何と言っても、年中発情期の人間の雄の集団なのだから。
「あ……まあ、刑務所と軍隊じゃ良くある事よね。驚いたあたしが馬鹿だったわ」
 気を取り直した彼女が照れ隠しに言うと、少年は再び不思議そうな表情を向ける。
「所属部隊の名誉の為に言っておくが、俺が慣らされたのは兵士になる以前の事だ」
「え?」
「だから、自分の国にいた頃の話だ」
「え……? ええっ、えーっ?」
 ユーディアの頭の中は、一瞬大量の疑問符で埋まる。
「だって……日本ってそんな国? ショーヘイ、日本人なんでしょ?」
「日本人なのは親父であって、俺じゃない」
 あっさりと、彼は言う。
「親父の姓はタイラで、名前はカケル。これを漢字で表記して順序を逆にするとショーヘイと読めると言っていた、……とかで俺にこの名を付けたのは母親だし、親父が日本人だと教えたのは母の家族だ。俺自身は知らない。その国がどこにあるのかもな」
 妙な言い方をする、とユーディアは不審に思う。母親の家族ならば、彼にとっても家族であるはずの存在だ。それをどうしてこう他人のように言うのか。
 いや、そもそもどうして彼は、こんな子供の身で戦地にいるのだろう。故国を遠く後にして。
 ショーヘイは、疲れたようにベッドに横になる。
「母は、外国からの商社マンを接待する店に勤めていたそうだ。俺の国では、大抵の女性は金の為そうした職に就く。―そこで母はある日本人と出会い、現地妻となって俺を産んだ。……もっともその日本人は、母が妊娠を告げた途端店にもアパートにも来なくなって、その後さっさと帰国したらしいがな」
「…………」
「良くある話、だろ?」
 ユーディアは力なく頷く。確かに良くある話だった。馬鹿で純粋な女達にとっては、ありふれた出来事である。男を信じて子を宿し、それきり捨てられ残される……。彼女の母も、そうだったのだから。
「母は、それでも親父を信じていたらしい。何か事情があって来られなくなったのだと言い続け、来る日も来る日も戻らぬ男を待っていた。そのうち、待つのではなく迎えに行こうと決心したようで、金を貯めると俺を実家に預け日本まで男を追っていった。お父さんと一緒に帰ってくるからね、と言い残して」
「……そして独りで帰ってきたの?」
 少年は唇の端を上げ、眼を伏せる。
「ああ、独りだな。独りで……遺体になって帰ってきた」
「!」
「まあそんな事情で、この世に俺が家族と呼べる相手はいなくなった訳だ」
「……お母さんのご家族は? あなたを引き取って共に暮らしていたんでしょ?」
 少年は苦笑し、勘弁してくれと呟く。
「年端もいかないガキを脅して、観光客相手に斡旋する奴らを家族と呼べるか?」
「―─っ!」
 沈黙が、辺りを支配した。慣れている、のだ。身体に付いた傷は、戦場で負ったものだけではあるまい。無数の傷、無数の男達の痕跡。
 傷だらけの胸の上で、十字架が光る。
「俺の国の宗教は、男に抱かれるような男は死に値する罪を犯しているのだと、死なねばならないのだと教えている。その一方で、自殺も罪と、許されざる行為と説いている。……だから俺はここに来た」
「ショーヘイ」
「平和な場所で人を殺せば殺人罪でも、戦場ならば罪に問われない。俺を殺す誰かは、その事で罪を負いはしない。俺は、安心してその時を待っていられる」
「……誰かが、あなたを殺してくれるのを待っているの?」
「ああ」
 笑みが、幼さの残る顔に広がる。ひどく無垢で、孤独な笑顔が。
「ずっと待っている。今日こそ誰か殺してくれるかと……明日は死ねるだろうかと……、それだけを望んで生きているんだ……」
 熱い滴が頬を伝った。ユーディアの肩が揺れ、嗚咽が漏れる。
「ユーディア?」
 ショーヘイは、驚いたように彼女を見る。痩せた長い、骨張った指が、泣き崩れた相手の顔に触れた。
「……なの、馬鹿よ……」
「え?」
「そんなの、馬鹿だって言ったのよ!」
 怒鳴ると同時にしがみつく。手が、きつく肩を掴む。
「それで死んだら、いったい何の為にあなた生まれてきたの? 冗談じゃないわ。女はねぇ、そんな風に死なせる為に痛い思いをして子を産む訳じゃないの。生きなさいっ! 生き抜きなさいよっ!」
「…………」
「生きてよっ。他の誰も望まないなら、このあたしが望んでやるわ。死に値する罪なんて言って、救ってもくれない神様なんざ願い下げよ。いい? 地獄ならあたしが落ちてやるわ。だから生きて。わかる? 生きなさいっ!」
 涙で視界が歪む。少年の腕がユーディアの背中に回り、宥めるように手の平で叩く。唇が、濡れた頬に触れていく。
「……ユーディア」
「……何?」
「頼みがあるんだ。……その……」
 少し躊躇った後、彼は言う。
「俺の名を呼んで、さっきの台詞を言ってくれるか」
「……いいわ」
 ユーディアはベッドに膝をつき、少年の顔を見おろして告げた。
「生きて、ショーヘイ。生きなさい」
 互いの指が、相手の生を確かめるかのように絡み合う。
「ショーヘイ、生き抜いて。あたしだけはそれを望むから……」
 囁きかける甘い声。少年の瞳が、月の輝きを宿す。
「YES、ユーディア」
 小さな、けれどはっきりした声が応えを返す。
「ショーヘイ、生きるのよ」
「YES」
 胸が、そして二つの鼓動が、静かに重なった。


 ジープのエンジン音が、朝靄の町に響く。ユーディアの胸に顔を埋めたまま寝入っていたショーヘイは、その音に気づくやがばっと跳ね起きた。
「いけね、時間だ。迎えが来やがった」
「迎え?」
 ひやりとした感覚に、ユーディアは身を竦ませる。一夜自分の腕に抱かれた生命は、今日また帰ってしまうのだ。墓場となるかも知れぬ場所に。
「ユーディア?」
 ベッドの上で自分自身を抱き締めるようなしぐさを見せた娘に、ショーヘイは近付く。行くなと訴えているユーディアの眼差しを受け、困り果てた彼は無意識に胸をまさぐり、それを掴んだ。母の形見の小さな十字架を。
「……ユーディア」
 娘の首に、細い鎖が回された。乳房の上で、十字架が光る。
「あんたにやる。たぶん安物だろうけど、持っててくれ」
 ユーディアは弾かれたように少年を見つめた。
「駄目よ! だってこれ、あなたのお守りなんでしょう? あたしなんかによこすなんて……」
 ブーツを装着したショーヘイは、既に出発の準備を整えていた。引き止めようとする娘の手が、肩に掛かる。
 軽いキスが、唇を掠めた。
「そいつは元からユーディアの物なんだ。迷惑でなかったら受け取ってくれ」
「え……?」
 ユーディアは指で十字架に触れる。裏側に、文字が彫り込まれている感触があった。急ぎ裏返して見れば、そこにあったのは親愛なるユーディアへ、というメッセージとK・Tのイニシャル。
「ショーヘイっ!」
 窓を開け、身軽にジープの助手席へと飛び降りた少年の背中に、ユーディアは呼び掛ける。
 ─―お母さんに言ってほしかったの? 生きろと、生きていてほしいと言ってほしかったの? あなたが本当に望んだのは……。
 窓を見上げた少年は、一夜を共にした相手に向けて敬礼のポーズを示す。
「愛してるよ、ユーディア」
 愛してるよ、お母さん。
 ショーヘイは笑う。ユーディアも笑った。ジープが動きだす。
 遠ざかる黒い頭を窓から身を乗り出したまま見送ったユーディアは、ベッドに戻り胸の十字架を握り締めた。唇は、同じ呟きを繰り返す。
 生きてね、ショーヘイ。生きていて。あたしだけはそれを望むから……。


「まるで恋人同士といったムードのお別れじゃないか。昨夜はお楽しみだったようだな、ショーヘイ」
 町から離れると、運転席の男は陽気に喋りだした。
「……」
 ショーヘイは軽蔑的な表情を浮かべ、相手を睨む。
「結構な言い草だな。俺をあの店に置き去りにしてさっさと消えた張本人が」
 男は肩を竦め、口笛を吹いた。
「なぁに、同じチームの一員が女の肌も知らない内に地獄の門を潜ったら哀れだと、皆で気を利かせたんじゃないか」
「ほう?」
 ピクリと、ショーヘイの眉が寄る。
「そいつは聞き捨てならないな。つまり昨夜の一件は、チーム全体で企てた事、と見做していい訳か? レン」
「あ、いや、そいつは……」
 薮をつついて蛇を出した、と気づいたところでもう遅い。ショーヘイはポキポキと指を鳴らしつつ、銃の弾込めに入る。
「ま、作戦終了後にメンバーの傷が多少増えたからといって、看護兵は不思議に思いやしないよなぁ?」
「あ、あのなショーヘイ」
「何だ?」
  冷ややかな笑みを向けられ、レンはがっくりと肩を落とす。
「安心しろ。ケツの穴に銃口突っ込んでのロシアンルーレットなんざ、捕虜の尋問の時にしかしない」
 レンの血の気が一気に引いた。運転中にも関わらず、手がハンドルを離れ十字を切る。神様神様、俺はこいつの敵にだけは回りたくないっ!
 死にたがりのショーヘイ、その呼び名は既に過去のものである。
 どんな作戦であれ、まるで死を求めているかの如く真っ先に突撃し、血路を開く東洋系の傭兵。撤退の時は常にしんがりを務め、必ず生き延びる男。
 10代にしか見えない容貌と小柄な身体を持つ戦士は、今や地獄も怖れて門を閉ざす死神、と称される存在になっていた。本人がそれを望んだ訳ではなかったが。
「なぁレン、一つ聞きたい事があるんだが」
 ハンドルを握る手に力がこもる。
「はい、なんざんしょ」
「お前、先の作戦の時、俺を呼んだろ?」
「―─っ!」
 運転席の男は、危うく急ブレーキを踏みかける。あの妨害電波の雑音の中から俺の声を聞き分けたのか、こいつはっ!
「脱出しろと言われたから出てきたが……、俺は、生きてる方が良いと思うか?」
「…………」
「生きろと昨夜の女に言われたが、……俺に生きる価値はあるのかな」
 男はジープを停め、ショーヘイの顔を覗き込む。
「お前は、俺達にとって必要だ。ショーヘイ」
 多少上擦った声で、男は言う。
「忘れるな。お前は必要なんだ。チームにも、この国にも」
「……ああ……」


 生きなさい、とユーディアの声が告げる。
 生き抜いて、と母が子を世に送り出す。
 心音は優しいルゴールの調べ。酒場で働く娘は、いつか母になる者として男に触れる。
 生きなさい、ショーヘイ。
 ─―YES、ユーディア。
 生きなさい、生きて、あたしがそれを望むから……。
 ─―YES、ユーディア。YES……。

 そして男は還るのだ。戦場という名の混沌とした子宮の中へ。
 再び生まれる日の為に。



−FIN−


陸ちゃんの方の小説だからそのまま書き写そうと思ったのに……思ったのに駄目でしたーっ! あちこちでちょこちょこ直しが入っちゃいましたよ、あうあうっ☆
元の通りの小説とは言い難くなってしまいましたが、勘弁して下さい。(天越久遠)