今日の食材


 毎日、午後の四時を過ぎた頃になると、隣近所で呼び鈴のベルが鳴る。国が各戸に割り当てた、夕食と明日の朝食分の食材が各家庭に配達されるのだ。僅かばかりのお野菜と、申し訳程度の穀類。そして、これだけは充分な量のお肉が。
 食卓には、肉料理が並ぶ。
 昨日も今日もそうだった。明日も明後日もそうだろう。人は自分達の口を養う為に、肉だけは生産し続けている。変わらず、生産し続けているのだ。


 朝食のミートボールシチューを食べ終えると、私はパジャマから服に着替えた。今日は一日社会見学の日、いつもよりは洒落た服を選んで身につける。リボンも、特別なものにしよう。お気に入りのリップクリームは淡いピンクだけれど、今日だけは明るめのレッドを塗る。
 出来るだけ顔色を誤魔化せるようにと、母のドレッサーから拝借しておいたファンデーションを取り出す。長らく放置されていたそれは、乾燥して表面がひび割れているせいかスポンジになかなか付いてくれない。やっぱり、新しいのを購入しておくべきだったらしい。私は諦めて肌色の乳液を掌に取り、顔に馴染ませる。いつもは一回で終わりの行為。でも、今日は三回繰り返した。
 お財布とハンカチとティシュと、一番大事な身分証をベルトに付けたポーチに入れ部屋を出る。ダイニングキッチンではまだエプロン姿のパパが、ママに食事を運ぼうとしているところだった。
 おめかしして教科書も持たず出かけようとする私に、今日が何の日か気づいたらしい。パパは顔色を変え、持っていたトレイをテーブルに置くと、ドアに手をかけた私を背後から抱きしめた。
「……大丈夫だね?」
 震える声で問うパパに、頷く以外何ができただろう。私は平気そうに笑って、大丈夫よと答える。
 大丈夫、旨くやるわ。私は皆と同じように行動する。級友が笑う時は笑い、美味しそうに食べる時は食べるわ。大丈夫よ、心配しないで。ちゃんとここに帰ってくるから。
 パパは、泣きそうな眼で私を見ていた。それも無理はない。
 十一年前、両親はたった一人の我が子を同じ社会見学の日に失っている。そしてそれ故に、当時母の胎内にいた私は、人間として生まれる権利を認められ、ここに存在しているのだ。


「今日の見学先は、国営の食肉工場です。皆さんのお宅に毎日配給されるお肉は、ここで作られ加工されているのですよ。案内の方の言う事を良く聞いて、良い子で見学してくださいね」
 工場へ向かうバスの中、皆がはーい、と元気に答える。私も合わせてはいと答えた。先生は、私に関しての事情を上から知らされている。十一年前の件も含めて。当然、要注意人物としてチェックしている筈だ。気をつけなければならない、充分に。
「偉大なる百年計画が政府により実施され、今年で早七十年目を迎えます」
 先生の話は続いている。実施されて七十年。では計画そのものが見直されるまでに、あと三十年は待たねばならない。それまでには私も結婚し、子を成しているだろう。
「皆さんもお勉強したと思いますが、一世紀以上前からの我が国の人口の増加と、それに伴う食料不足は既に慢性化しておりました。特に世紀末から、今世紀にかけて立て続けに地球を襲った異常気象は、世界各国の食糧事情に深刻な影響を及ぼし、国内自給はもちろん、近隣諸国からの食料輸入すら不可能としたのです」
 もしも同じ事態に見舞われたなら、私もママのようになってしまうのだろうか。人として産む事を認められた唯一人の子、愛しい息子を慈しんできたママは、その死を知って以来部屋に閉じこもってしまっている。私が男の子であれば話は違ったかもしれないが、二度目の第一子として誕生を認可された私は、生憎と女の子だったのだ。
 そしてママは今も、政府の方針に逆らい続けている。明確な意志すらないままに。
 ママは、パパを拒絶するのだ。
 息子の死を知らされた日以来、夫婦としてあるべき行為をする事を拒絶する。パパはとても優しい人だから、家庭内レイプのような真似は決してできない。それ故パパは、上の人達(どういう人達なのか私は知らない)に責められているのだと、パパの妹である叔母は言う。
「ホントに兄さんも、さっさと別れたら良いのに。妻としての義務も、女としての責務も果たしていないのだから」
 彼女がそう言った時、私はちょっと嫌だな、と感じた。別にママの為に、ではない。ママの悪口を聞かされたって、私は何とも思わない。言われても仕方のない人だと思っているからだ。
 私はママに声をかけられた事も、抱きしめられた記憶もない。ママと呼んではいるけれど、あの人を母親だと思っている自分なんて、どこを捜してもないのだ。単なる同居人、少しおかしくなってる女性。私を、欺瞞に満ちたこの世に送り出した人。それ以上の感情なんて持ちようがない。
 嫌だな、と感じたのは多分、私も女であるからだろう。夫婦生活は義務じゃないし、子供を産むのは責務じゃない、そう思いたい。まだまだ結婚とか将来に、夢も希望も持っていたい年頃なのだから。
 バスが止まり、皆がシートベルトをはずす。見学する工場に着いたのだ。
 私は一つ、大きく深呼吸する。兄と同じ過ちを犯してはいけない。それはパパを悲しませる。ここでは真実を口にしてはならないのだ、決して。
「ヨウコソ、ヨウコソ、皆様。当工場ヘヨウコソ」
 案内に出てきたのは、大人の腰の辺りまでの丈しかない、頭部が円形の筒形ロボットだった。なるほど、と私は思う。人にやらせるよりは良いかもしれない。感情を挟む事なくガイドするだろうから。
 工場についての一通りの説明を受け、通路に入った所でちょっとした騒ぎが起きた。赤黒い染みの付いた作業服を着た男性が、床を引きずられるようにして同じ服を着た男達に運ばれていく姿を、皆が目撃したのである。
 死人のような青い顔。痩せこけた頬。袖口からのぞく手首は骨と皮ばかりに見えた。さすがに気になったのか、先生が質問する。あの作業員はいったいどうなさったのか、と。
「アア、ヤッパリ倒レマシタネ」
 機械的な音声が、少し間をおいて答える。コースガイドのマニュアルにはない質問の場合、返事に時間がかかるらしい。
「やっぱり?」
「彼ハ、食事ヲ全ク摂取デキナカッタノデス。ココニ来テ以来。デスカラ、イツカハ倒レルモノト皆思ッテオリマシタ」
「質問」
 男子が一人、手を上げて発言を求める。
「ここで働く人達の食事は、僕等が配給を受けて食べている物と変わりないんですか」
「良イ質問デスネ」
 ロボットの反応は、今度は早かった。こうした質問は過去にもあったらしい。
「コノ工場ノ現場デ作業スル者達ノ食事ハ、皆様ト同ジデハアリマセン。皆様ハ国ヲ構成スル大切ナ国民デスガ、彼等ハ違イマス。彼等ニ与エラレルノハ、食品るーとニ乗ラナイ生ノ屑肉ノミデス」
 動揺が周囲を走った。食品ルートに乗らない生の屑肉、では普通の神経の持ち主なら食べられはしないだろう。つまりここの作業員達は、人間扱いされていないのだ。
「し……質問!」
 震える声が、唇から漏れた。ああ、いけない。目立つような真似はしないと決めていたのに。
「ここで作業する方達って、どうやって集めたのでしょうか。工場で募集広告を出したとかいう話は聞かないんですけど」
 答えは早かった。これは解答がセットされていたのだろう。
「工場ガ募集広告ヲ出ス事ハ、確カニアリマセン。必要ナイノデス。皆様ノ中デ将来、服ガ汚レタリ臭イ思イヲスル仕事ニ付キタイ方ハオリマスカ? イマセンデショウ。ココニ作業員トシテ連レラレテクルノハ、政府ニ逆ライ国家ノ転覆ヲ企ム犯罪者ダケデス。罪人トシテ戸籍ヲ剥奪サレタ者ダケガ、ココデ働ク事ヲ義務ヅケラレルノデス」
 私はギュッとポーチを上から押えつけた。中に入っている身分証、私の存在を国が認めた唯一の証。身を守ってくれる物。先程の男性は、それを奪われてしまったのだ。せっかく人として生まれてきたのに、失ってしまったのだ。
「質問」
 また、別な男子が手を上げる。
「さっきの作業員はどうするんです? 役に立たないでしょう、あの様子じゃ」
 答えは、間をおいて返された。
「ソレニツイテハ、イズレオ見セ致シマショウ。コチラヘオ進ミ下サイ」


 その子供は、陽光に当たった事がないのかと思われる程、白い柔らかそうな肌をしていた。
 ポチャポチャとした手を作業員に引かれ、素足でペタペタと汚れた床を進む。愛らしい顔には、何の表情も見られない。衣服はいっさい身に付けてなくて、腹部には大きな焼印があった。この工場の物である事を示す記号と、登録番号が。
「アノ家畜ハ、今日デ生後四年目ヲ迎エマス。一番美味シク食セル頃デス」
 案内ロボットが、ガラスで仕切られた工場内の様子を見せながら説明をする。質問が飛んだ。
「生後十年目までの肉はごく僅かな例外を除いて高いと聞きましたが、あれを口にするのはどんな人達なんですか?」
「政府官僚、モシクハ企業ノ社長ヤ重役ノ方々デス。一体デ少量ノ肉シカ得ラレナイ為、コノ段階デハ滅多ニ殺シマセン」
 血で濡れた調理台に、子供は寝かされる。相変わらず表情はない。これから殺されるというのに、まるで他人事のようだった。そもそも感情というものを持っていないのかもしれない。あるいは、幼すぎて事態を理解していないのか。
 私は震えを必死にこらえた。眼をそらしちゃいけない。悲鳴を上げてはならない。平気な顔で見なければいけないのだ、他の級友と同じく。決して、決して兄のように叫んではいけない。
《何故誰も止めないんだ?》
《あれは人間じゃないかっ!》
 それは禁句だ。
《僕等と同じ、人間じゃないか! どこが違う?》
 子供の、小さな頭部が下に用意されていたバケツに落ちた。兄の首もここで切られた。そして肉体はバラバラにされ、どこかの家庭の食卓に上ったのだ。もしかしたらそれは、我が家の食卓かもしれない。
 ママは、考えてみる事をしなかったのだ。兄が殺されたその日まで。自分の産んだ、人間と認められない子供達、彼等が辿る運命について。
「考えちゃいけないのよ」
 小さな呟きが、後ろに立っている女子の口から漏れた。
「あれが自分の妹かもしれないなんて、考えちゃいけないんだわ。あそこにいたのは喋る事も泣く事も知らない、名前すらないただの食用肉なんだから」
 子供の体は、大きな肉切り包丁をあてられ解体されていた。バケツに落ちた頭部、生きていた時のその顔は、後ろに立つ女子と少し似ていたかもしれない。
「アア、先程ノ作業員ガ連レテコラレマシタ。ゴ覧下サイ」
 機械的な声にハッとして、視線をガラスの向こうに戻す。一瞬、その人が先刻運ばれていた作業員と同一人物とはわからなかった。裸で、頭を刈られ毛髪が一本もなくなっていた為に。
 男性の視線が、見学している私達に向けられる。痩せこけた青い顔に、苦いものが浮かんだ。これは人だった。裸体を他人の眼にさらす事を、恥ずかしいと意識している。言葉を理解し、物事を思考する、名前を持った人間だった。
「アレハ、皆様ノオ宅ニオ届ケスル食肉ニハ向キマセン。育チスギテマスシ、見テノ通リ痩セテマスカラ」
 不味くて食べられたものではない、という意味合いの事をロボットは語る。では、彼をどうするのだろう。
「アノ者ニハ、作業員用ノ食料ニナッテイタダキマス。ソレクライシカモウ役ニ立チマセンノデ」
 自分の運命を悟った男性の顔に、様々な表情がよぎる。恐怖や、憤怒。悲しみと諦め。そして訴えるような眼。これが正しい事か、と叩きつけるようなきつい眼差し。
 私は理解した。彼は戦ったのだ。現在の制度を良しとせず、これを改変する為に戦い、そして敗れたのだ。ならばその眼に、私達は何と映るだろう。級友達は見つめている。大半はワクワクとして。刺激を求めている、彼の口から悲鳴が上がる時を待っている。
 ああ、今、眼をそらしてはいけない。やめてと叫んではならない。パパを悲しませない為に。私が生きる為に。生きて、家に無事帰る為に。
「前に出して」
 無意識に、そう言っていた。
「ちゃんと見たいの。どいて」
 不満げな男子を押し退けるようにして前に進み、ガラスに顔を近づける。
 きつい眼が、乗り出した私に向けられる。痩せこけ肉のそげた顔の中で、そこだけが生気を強く放つ、戦う者の眼。
 見つめている、見つめ返す。そう、見届けてあげる、貴方の最期を。忘れないように。決して忘れないように。唇が、声にならない言葉を紡ぐ。
 ──忘れない、覚えている───
 男性の眼が、見開かれる。
 ──忘れない、貴方を決して忘れはしない───
 言葉は、旨く伝わったのだろうか。彼は、ちょっと笑ったように見えた。
 見届けよう、眼をそらさずに。拳を握りしめ、私は見つめる。目を閉じたところで、世界は何も変わらない。
 調理台の上に、新たな血が流れる。ちぇっ、と誰かが舌打ちした。悲鳴も上げないなんてつまんないの、と。
 そして、首から先を失った体は巨大な挽き肉機にかけられ、骨まで砕かれて練り出されていく。人の姿をした生命体の肉を、どれほど飢えようとも食べる事の出来なかった男のそれが。
「あのお肉、少しもらえないかしら」
 呟いた私に、先生が眼を丸くする。
「見学者ニハー……帰リニオ土産ヲ渡シマスガ……、アレハ、間違イナク、不味イ……デスヨ。血抜キモ不完全デ……骨マジリデスシ。良イ……ノデスカ?」
 ロボットも困惑したらしかった。答えが間延びしている。私はこくりと頷いた。あれを食べたいの、と。
「安心したわ」
 不意に笑い出した先生が、私の肩に手を置いて囁く。
「貴方は、お兄さんやお母さんと違って大丈夫なようね」
 私は微笑む。わかっちゃいないのね、と思いながら。でも、取り合えずは肯定しておこう。その方が都合は良いのだし。


 コトコトコトコト、お肉を煮込む。出勤時間が遅いパパは、その分帰宅も遅くなる。調味料をテーブルに並べ、私は味付けを考える。配給された食材は、スライスされたお肉と玉葱が半個、キャベツの葉が二枚程。それから麺がちょっとだけ。
 でも、それを食べるのは明日の朝だ。今日は工場から直接もらったお肉、あの人のお肉で料理を作ろう。玉葱を半分だけ使用して。ソースは何が良いかしら?
 必ず、美味しく食べてあげる。絶対に不味いなんて言わせない。
 貴方の意志は私の中に、貴方の勇気も私の中に。貴方の命は私と共に。そして、私と生きるのだ。この先ずっと。
 コトコトコトコト、お鍋が揺れる。愛してる、そう囁いて、私は涙を隠し味に加える。



◆END◆



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