風の行方5《4》


 ロドレフの言葉を聞いて、パピネスは苛立ったように喉をさする。あの日クオレルが手にした短剣で切り裂いた辺りを。
「大公……。あんたさ、まさかとは思うけど自分の娘の精神が木石で出来ているとは考えちゃいないよな?」
「何?」
 予期せぬ言葉を告げられて、訝しげにロドレフはハンターを見る。その反応に、パピネスは溜め息をついた。
「クオレルさんは、あんたが考えているよりずっと感情豊かで傷つきやすい、脆さを抱えた人間だよ。公妃の病の事があったから、自分はああはなるまいと必死で気を張って、周囲から責められても理解してもらえなくても大公代理を務めていたけど、本当は何もかも投げ出して逃げたいって気持ちが常にあったんだ」
「………」
「あんたの娘は、頑張っても頑張ってもそれを当然とされ、更にその上を要求される現実に、一言のいたわりも褒め言葉も貰えない事実に苦しんでいた。優しい言葉や理解者の存在に餓えていたんだ。支えてくれる誰かの手が欲しくて、ずっと求めていた。……せめて父親であるあんただけでも、気づいてやれば良かったのにな」
 もっとも、それに関しちゃ俺も他人の事は言えないとパピネスは苦笑する。
「ま、言えた義理じゃないよな。気づかなかったあんたと、気づいていて求めに応じなかった俺とじゃ、どっちがより罪深いんだろう? ……やっぱ、俺の方かな」
「ハンター?」
「あの日、別れの挨拶をしに出向いた俺へ、クオレルさんは言ったんだ。……一緒について行ってはいけませんか、と」
 公女の地位を捨てて、次期大公の座を放棄して、義務も責任も一切を投げ出して、ついて行っても良いですかと、クオレルは聞いたのだ。拒まないでほしいと、ここで見捨てて行かないでくれと全身で訴えて。
「……で、俺はその申し出を素気なく却下した。だから刺されても仕方ないって言ったんだよ」

「……却下した理由は?」
 それが納得のいく理由なら、たとえばハンターの任務に普通の人間は足手纏いだ、危険だからついてきては困る、という誰が聞いても当然な内容であれば、クオレルは黙って引き下がったはずである。間違っても相手を殺そうとはしなかったろう。ロドレフはそう確信し、答えを待った。
 赤毛のハンターは遠い眼をして、ここではないどこか、存在しない誰かを見る。それから、諦めたようにポツポツと語り始めた。
「俺は、……俺の好きとクオレルさんの好きが違うとわかっていた。俺の場合、クオレルさんが自分に好意を向けているから、好いていてくれてるから好きなんだ。けど、そういうのは違うだろ? 本気で好きなら、相手が自分をどう思っていようと、仮に嫌われていようが欝陶しがられて邪険に扱われようが、好きは好きだろ? 相手が自分を好きでなかったら、自分も相手を好きにならない。そんな馬鹿な話はないだろ?」
 だから、とパピネスは呟く。
「俺は、クオレルさんが自分を好きだと気づいたから嬉しくて、じゃあ俺も好きになった方がいい、好きになれたらいいなって、意識的に好意を持つようにしたんだ。ひどい言い方だけど、もしクオレルさんが会ったばかりの頃のように俺に対し何の関心も示さなかったとしたら、好きにはならなかったと断言できる。……それがわかっているのに、一生を背負い込むような答えを返す訳にはいかなかった」
「ハンター」
「自分の気持ちに嘘なんかつけない。残酷でも何でも、拒否するしかなかったんだ。クオレルさんの事は好きだよ。でも俺の好きは、尊敬できる友人に対する好きの範囲を越えていない。離れていても耐えられる、暫らく会えなくても平気、そんなのは恋じゃない。恋ではないとわかっていて、応じる事は出来なかった……」
「……そういう事か……」
 大公は呻くように言葉を漏らし、椅子の背にもたれかかる。無意識に拳を握りしめて。
「確かにそれでは、あれに刺されたところで文句は言えぬな、ハンター。そなたは充分誤解させる態度を取ってきたのだろう? 二人きりの時には」
 想いに応じるつもりがないのなら、平気で寝起きの姿を見せたり、特別な名前で呼んだりすべきではない。それではクオレルでなくても誤解するだろう。そう、大公はハンターに説教する。
「ああ……。で、どうする? 父として娘の為にここは一発殴っとくか?」
 己の顔を指差し、パピネスは提案する。ロドレフは肩を竦め、その申し出を退けた。
「そうしたい気持ちは山々だが、やめておこう。胸を刺されて喉を切り裂かれたとなれば罰はもう存分に受けたであろう? 私が殴ってはやり過ぎだ」
 少なくともあの時点では、間違いなく死んでいたしな、と大公は皮肉る。
「さすがにあれで生き返るとは思わなかったぞ。侍医も恐怖に危うく心臓が止まるところだったとぼやいていた。死体の傷口を縫い合わせて着替えさせようとしたら、いきなり手を掴んで自分で着替える、と言ったのだからな。しかし……妖獣ハンターとは皆そうしたものなのか?」
「んっ?」
「つまり、死んでも蘇生可能な肉体を持っているのかな」
 パピネスは慌てて首を振る。俺を基準に妖獣ハンターの能力を測ったりしないでくれ、と。
「たまたま俺の体質が異常で特殊なだけなんだ。普通の妖獣ハンターは、死んだらそれっきり生き返ったりはしない。絶対に」
「ほぅ? なるほど、そなたは異常で特殊で普通じゃないのだな。特異体質の妖獣ハンターか」
 ひでぇ言い様、と思いつつパピネスは頷く。
「そういう事だ。だからこの際、俺の事はうんと悪く言い触らして、クオレルさんの名誉回復と立場改善に務めてくれ。どうせ俺はここから消える身だし、今後何を言われようと痛くも痒くもないからな」
 事実を誤認させるでっちあげや、特定個人に悪意の噂を立てるのはカディラ一族の得意技だろ? とニッコリ笑って言われると、ロドレフは複雑な表情になる。
「とても褒めてるようには聞こえんな、ハンター」
「褒めちゃいないって。言っては何だが、あんたは悪党だと自認してると思ったぜ。違うか?」
 問われて、ロドレフの口元に皮肉な笑みが浮かんだ。
「いや、昔から今日まで変わらず悪党だ。周囲の連中に善人と呼ばれるようになったら、君主は最期だからな」
「わかっているじゃん。じゃあせいぜいその悪党ぶりを発揮して、事態収拾に励んでくれよ。そういう事で、俺はもうここを出てってもいいよな? ああ、それと」
 立ち上がったパピネスは、大公の方に身を屈め囁く。
「生き返った俺だから言うけどさ、あんたの大事なルドレフ公子も絶対死にっぱなしって事はないぜ。保証する」
 ロドレフは破顔し、頷きを返す。
「私も、そう思っている」
 イシェラの森で護衛のザドゥを庇い、その身に何本もの剣を突き立てられ一度は絶命しながら、即座に復活し母親の仇を討ったルドレフだった。毒を盛られたぐらいで死んだまま、という事はない。決してない、と大公は信じていた。ただ少しだけ、自由の身でいたくて姿をくらましているのだろうと。
 普通ならありえない話だが、ことカディラ一族に限って言えばないとは言えない。何せ先祖が先祖である。
「じゃあ、俺は行くから。……クオレルさんの事は頼む。俺に言う権利なんざないだろうが、あまり精神的に追い詰めないでやってくれ」
「ふむ、……何かあれに伝えたい事はあるか?」
 言われて、パピネスは首を傾げ、ややあって頭を掻きながら呟いた。
「殺されても生き返るような節操なしの体を持った最低野郎の事なんか、下水にでも流してとっとと忘れちまってくれ、だな。それが無理なら早死にするよう呪ってくれていい。それくらいの権利はあると、伝言よろしく」
「……ずいぶんな伝言だな」
「正直な本音だよ」
 赤毛のハンターは肩を揺らし、苦笑する。
「クオレルさんに刺されても、殺されても仕方がないってのは俺、本気で思った。大公、あんたも……」
 公妃に刺されても仕方がない、そんな思いが心のどこかになかったか、と彼は問う。ロドレフは微苦笑でそれに応じた。自分を殺したとしても許す、そうした気持ちがなかった訳ではないのだ。相手がセーニャなら。
 仮にまた同じ事態が生じたとしても、妻の刃を自分は受け止めようとするだろう。周囲に何と思われようが非難されようが、何度でも同じ結果を繰り返すだろう。それで彼女が満足するならば。
 愛している。その程度には愛している。理解し合えはしなかったけれど。
 天女のような美貌の、たおやかな少女を。少女のまま精神を閉ざし、年月を重ねた女性を。
 ハンターもまた、思う。
 時が戻って再びやり直せるとしても、己に向けられた短剣を避けはしない。彼女が死ぬのを見るよりはましだと、自分が刺される事を選ぶだろう。それで相手の気が済むのならかまわない。
 好きだった。その程度には好きだったのだ。恋ではなかったにせよ。
 銀の髪の侍従、大公代理の地位に就いた年上の女性。内面の脆さを必死で隠し、孤独と戦っていた人を。
「元気で」
「ん、……あんたもな」
 窓が開け放たれ、室内に風が吹き込む。手摺りを乗り越えた青年は、最後に軽く手を振り飛び降りた。ほどいた白い包帯を一本、存在した証に床へ残して。

「クオレルのいる牢に行く。今日という今日は、絶対あれに出てきてもらうぞ」
 側近を前に大公がそう宣言した時、城内から赤毛のハンターは姿を消していた。その後の行方は杳として知れず、いつしか彼の話題は人々の口に上らなくなった。
 周辺国全てが敵、と言っていい状況下で契約を結び続けた恩人という意識だけは、消える事なく皆の心に残ったが。


◇ ◇ ◇



 月が変わって六月、カザレントを脱出したパピネスは、ハンターのマントをはずして一般人を装いゲルバ国内に潜入していた。しかも向かった先は人で賑わう中央ではなく、住民が一人もいない廃村である。
(ここで、あいつと離れちまったんだよな……)
 記憶を辿り、彼は歩き回る。鬱蒼とした森が対岸にある川の近くの道を。誰も住んでいない平屋の並んでいる通りを。そして無断侵入した形で使っていた家の中を。
 床には、乾いた血が大量にこびり付いて残っていた。掃除する者がいなかったのだからそれも当然だろう。床板に付着した茶褐色の染みは、ここで惨たらしい行為が過去行なわれた確かな証拠でもあった。
「………」
 屈み込み、自分がいた頃にはなかった染みを指先でなぞると、パピネスは小さく息を吐く。
 この家に置き去りにしたレアールの形見の剣が、血で汚れた衣服の切れ端を突き刺したままヤンデンベールの自室に出現した時は、さすがに彼も仰天した。仰天はしたが、瞬時に村に置いてきた相手の身に生命に関わる危害が加えられていると察し、この地へ戻りたいと願った。切実に願った。けれどそれは、実行はおろか口にさえしてはいけない事柄だった。
「……本当は、すぐにでも戻りたかったんだけどな」
 契約期間中の任務放棄、しかも出掛けたきり連絡もなく行方不明になっていながら、やっと帰ったばかりでまた失踪など許されるはずもない。
 そうでなくても、俺が付いているから大丈夫と保証して連れ出したルーディックを出先で失っているのだ。重傷を負い意識不明でいた間に連れ去られてしまった、という報告内容を耳にした城塞内の兵士達の間では、ハンターの信用はがた落ちである。
 気落ちした様子のパピネスを見て、「一番辛いのは間違いなくあんただろうからな」とザドゥは責めずにいてくれたが、密かにルーディックを気に入っていたエルセイン子爵は容赦がなかった。その日の気分によってくどくど文句を言うかいない者のように無視するか、の違いはあるにせよ負の感情を正面から向けてきたのだ。この上新たに任務放棄して怒りを招く気にはなれない。
 むろん、己の評判をこれ以上下げるのも御免だった。何より、深く追及せずに信じる態度を取ったザドゥを裏切るような真似は、したくないと思ったのだ。
 捜しには行きたい。けれど、それを実行には移せない。移す訳にはいかない。身を切られるような思いでパピネスは日々を過ごし、内心の焦燥に耐えた。
 何も出来ない自分に苛立ちながらも辛うじて任務を投げ出さず、どうにか年を越して契約終了の春を迎え、カディラの都に戻り次の契約は結ばない旨を大公に伝えて、更新を続けた雇用関係から解放された。
 クオレルの事があって来るのは大幅に遅れたが、ともかくも自由の身になり、ここへ戻ってきたのだ。今更だ、とは思ったが。
(……まだ、生きているだろうか)
(どこかで、生きていてくれてるだろうか……)
 血の痕跡を見つめたまま、ぼんやりとパピネスは思考する。床に染み込んだおびただしい血の量。人であれば間違いなく死んでいるはずの。
(けど、あいつは人ではなかったから……)
 生きている可能性はある、そんな僅かな望みに彼はすがる。嫌われていても良かった。どんなに迷惑がられてもいいから、側にいたかった。
 相手がレアールではなく、同じ姿に見えているだけの別人だとわかってはいたが、それでもいいから一緒にいたかった。常に不快な表情を向けられても構わなかった。生きて傍に存在してくれるなら。
「我ながら、未練たらしいよな。俺も」
 苦笑して呟いた時、影が午後の陽射しを遮った。
 戸口に、誰かが立っている。均整のとれた体、長い黒髪、一見黒に見える艶やかな赤い布地のマント、同布で作られた衣装を身につけた……。
「……!」
 咄嗟に、声が出なかった。呼ぶべき相手の名前を未だ知らぬ為に。声は、出てこなかった。自分へ向ける彼の人の眼が、以前とはまるで異なっていた為に。
 何度も間近に見た、不機嫌な表情はそこにはない。向けられたのは、懐かしそうな眼差しと、柔らかな微笑みだった。まるでこの再会を喜んでいるかのような。
「ここ、いる……思った、……だから、来た」
 たどたどしい言葉が、相手の唇から漏れる。まだ喋る事に不慣れな、女性の声が。信じられない思いで、パピネスはそれを聞いた。
「俺が、ここにいると思ったから来たって……?」
 相手は頷く。その顔は、相変わらずパピネスの眼にはレアールにしか見えない。女性体へ変化した時のレアールにしか。
「いる……思った。来た、……で、ここ、に……いた」
 不意に目頭が熱くなる。パピネスは、慌てて手の甲で溢れてきたものを拭った。けれどそれは一向に止まらず頬を濡らす。泣き笑いな顔で、彼は言葉を返した。
「嘘だろ……? それじゃまるで、俺に会いたかったみたいに聞こえるじゃないか。あんた、ずっと俺の存在を迷惑がっていたのに」
 相手は、また頷く。同意の印に。
「迷惑、……それ、正しい。……嫌、だった。……お前、俺……見て、ない。別……誰か……見て、る。……俺……嫌、だった……。お前、……俺、レアール……呼ぶ。それ……違う、俺……違う」
「!」
 告げられた事実に、パピネスは顔色を変える。
「なんだと? 俺、あんたの事をレアールって呼んだのか? いつ、どこでっ!」
 苦笑が、相手の顔をよぎる。それから、しゃがんだままのパピネスに近づいて、床へ片膝を付き視線の位置を合わせた。
「覚え……ない、わかる……。寝呆け、てた……お前。でも……俺、考え、た。……お前俺に……死ね、……言わ、ない。……死、……望ま、ない。……なら……」
 身代わりでもいい、と相手は告げる。途切れがちな口調、不自由な喋りで。誰かの身代わりでも、必要としてくれるならそれでいいと。だから来たと。
「身代わりでいいだって?」
 引きつった顔で尋ねるパピネスに、外見が女性へ変化したままの相手はこくりと顎を揺らす。
「……誰かに死ねと責められたのか。俺が消えた後で」
 相手は、再び頷く。口元に笑みは残っていたが、眼はもう笑っていなかった。
「死にたい、……思った。負け……たく、ない……我慢……した。けど、言葉、毒……溜まる。死ね、……言われる、死……望ま、れる……。とても、……きつい」
 だから身代わりの好きでもいい、と呟いた相手を抱き寄せ、パピネスは回した腕に力をこめる。
「誰かの身代わりでもいいなんて、そんな自分を貶める事を言うのはやめろっ!」
「おと、し……め、る……?」
 言葉の意味がわからぬのか、怒鳴られた相手は首を傾げ、問うような眼差しを向けた。パピネスは呻き、唇を噛んで言う。
「俺は……俺なんか、てんで褒められた人間じゃないけどさ。過去を振り返って見れば、消したくなるような記憶でいっぱいだからな。それでも、別な誰かになりたいとは思わない。いいも悪いも全部ひっくるめて俺だから、好きな奴には自分を見てほしいと思う。他人の身代わりでいいなんて思わない。絶対にだ!」
 身体を離し、相手を正面に見据えてハンターは告げる。
「確かに俺は、最初あんたが……その、眼の錯覚だろうけど相棒だった奴に、レアールそっくりに見えたから惹かれた。それを否定するつもりはない。今もあんたは、女の時のレアールそのものにしか見えない。それも否定しない。けど、そんなのは外見だけの事なんだ」
「?」
「俺の好きなレアールは、面倒見が良くて世話好きで、料理が得意で親切で優しくて、どんな時も不機嫌な顔なんか見せる事はなかった。あんたはどっちかって言うとずぼらで周囲の事に無頓着で、もちろん他人の面倒なんざ見ようとしない。おまけに無愛想で可愛げがない。でもな、そんなあんたでも俺はやっぱり好きなんだよ!」
「………」
「あんたはレアールじゃない。いくら俺の眼に同じ姿に映ろうと、中身が全然違う。けど俺は、その中身が全然違うあんたでいいんだ。レアールと異なる態度や素振りのあんたが好きなんだ。わかるか? 性格が違えば、いくら顔が同じでも身代わりにはなれない。なる必要もない。あんたは、他の誰でもないんだ。そして俺は」
 頬を寄せ、パピネスは囁く。
「俺は、迷惑と思われてもいいから、あんたの隣にいたい。いたいと思っている。……側にいさせてくれ、頼む。……側にいてくれ、どうか……」
「…………」

 数分後、二人は並んで戸外を歩いていた。相手が悲惨な目にあったはずの場所、不快な思い出が残る部屋での語らいはまずいと判断したハンターが、外に出ないかと誘ったのである。
 陽は照っているのだが、六月初旬のゲルバに吹く風は冬の如く冷たい。山から吹いてくる風は、残雪の影響を受け寒気を伴い、パピネスに肌寒さを感じさせた。
 ほぼ初夏に近い陽気のカザレント中央で購入した衣装は、長袖と呼べるだけの袖丈を持っていなかった。北に位置するゲルバの、しかも山間部向けの服装とは言い難い。着用している上着の袖は七分丈で、露出している部分の肌は冷気に耐えかね悲鳴を上げていた。
 空き家の劣化した壁であっても、風は一応防げるのだ。人がいれば、放出される熱によって室温も多少は上がる。
「……腕……変、……どう、し……?」
「ああ、これか。寒くて鳥肌立ってんだよ」
 たどたどしい口調で問われたパピネスは、相手の視線が己の腕に注がれてるのを見て苦笑する。そういや妖魔の暑さ寒さの限界点って、人間とは異なるんだよなと。
「寒い……? なら」
「へ? えっ? おいっ!」
 突然の事にパピネスは声を上げる。立ち止まった相手はパピネスに自分の方を向かせ、両腕でマントを広げるや体を密着させて、その内に包み込んだのだ。
「……? まだ……寒い……か?」
 ハンターの震えの意味を誤解して、相手は質問する。そうじゃなくて、と赤面したパピネスは答えに窮した。いったいどう説明すればわかってくれるのか? この元男性だった人外生命体は!
 女性の体だ、という自覚がまるでないとしか思えない。成人した男にこの状況で身体を密着させて、その気にならないとでも思っているのだろうか?
(いや、ありうる。こいつの場合、その可能性は大だ)
「これ……でも、……寒い? ……まだ」
 とことん勘違いしている相手は、答えぬパピネスへ再度問う。赤毛のハンターは溜め息をついて頭を振り、笑みを浮かべて答えを返す。
「いいや、寒くない。おかげで暖まった。ありがとな」
 ついでとばかり頬に口づける。男だった頃みたく嫌がるかな? と危惧したが相手は拒もうとしなかった。ただ唇の感触をくすぐったがり、身を竦める。
 が、一瞬後その笑いは凍り付く。不意に空中へと出現した存在によって。
「なん……で? まだ……何も……」
 パピネスから体を離した相手は、信じられぬ様子で現れた存在を凝視する。青ざめ、両手を震わせながら。
 そんな相手を気に掛けつつ、パピネスもまた視線を突如現れた人外の者に向ける。
 それは、人ではなかった。ひとめでそうとわかる容姿と気を発していた。蜘蛛使いのケアスも大層な美貌の持ち主だったが、目の前の存在は彼を凌駕していた。だから、パピネスにはわかってしまった。こいつは妖魔界の王だと。同時に、直感した。この男こそが、隣に立つ相手へ危害を加え、死ねと責め続けた奴なのだと。
「……そんなに髪の毛伸ばしてたら欝陶しいだろーに。第一、歩く度地面や床を掃いちまうんじゃないか?」
 雰囲気に圧倒されながら発した第一声は、異なる界の支配者を苦笑させた。それから、王は視線をパピネスの背後に回った存在へ向ける。
「そう警戒しなくても良い。拘束しに来た訳ではない。用があるのはそなたではなく、そこにいる人間の方だ」
「は? 俺に用?」
 眼をぱちくりさせ、パピネスは声を漏らす。妖魔の王が一介の人間相手に何の用だと。
「妖獣ハンター、……そなた、死ねない体になってはいないか? 正確には、死んでも生き返る体に」
 苦笑を浮かべたまま、妖魔界の王は尋ねた。パピネスは訝しげな表情となり、対峙する王を見据える。
「それならこの前生き返って周囲を驚かせたばかりだが、それがどうかしたのか?」
 返答に王は嘆息し、こめかみを押さえた。
「では、変化して手遅れという事だな。気の毒に」
「何の話だよ? 手遅れだの気の毒だのってのは」
 苛立ったパピネスの問いかけに、王は頭を振る。
「人の子の妖獣ハンター。そなたはもう、生きていない」
「!」
「厳密には、人としては生きていない、と言うべきであろう。そなたの肉体は今後老化する事もないし、百年二百年が過ぎても生き続ける事になる。このままでは」
「おい……?」
「ルーディックを責める訳にはいかぬな。あれは自分が動かしている体の潜在能力を完全には把握していなかった。咄嗟に蘇生させようとして行なった事が、どのような結果を人の肉体に及ぼすか知らなかったのだから」
「待てよ……。いったい何の話を……」
「ああ、教えてあげよう、妖獣ハンター」
 口元に微笑を残したまま、王は告げる。
「ヤンデンベールにいたルーディックの体は、そなたが相棒と呼んでいた妖魔、……レアールのものだ」
「なっ……!」
「そしてその体は現在、そこにある。中身はルーディックでなく、異界の化け物になってしまっているが」
 人の子の妖獣ハンター、と王は呼びかける。
「覚えておくがいい。そなたが死を望んだ時は、そこにいる存在を消滅させねばならぬのだ。骨も残さずに」
 理由の説明もなく、妖魔の王は消えた。謎めいた言葉に立ち尽くすパピネスと、困惑するもう一人を残して。