風の行方4《3》


 数分後、ベリーを平らげ篭を空にしたブラン・キオは、笑顔で手を振り別れを告げた。宙に浮かんで消えた相手を見送ったパピネスは、無断で使わせてもらっていた家の玄関先に立つ人影を見て、言葉を失う。
 いつのまに起きていたのか、眠っていたはずの青年がそこにいた。どうやら、キオが去るのを見ていたらしい。
「……具合は?」
 最初の驚きが失せると、パピネスは男へ小走りに近づき尋ねていた。
「腹は減ってないか? ここじゃベリーの類しか手に入らないが、それで良ければ俺、ひとっ走り行って取ってくるから。もっと時間がかかってもいいなら川魚釣りに行くけど」
「…………」
 青年は僅かに首を振り、食欲がない事を示す。それから、言葉ではなく仕草で水が欲しいと訴えた。
「水? あ、そうだな。起きがけって喉乾くもんな。顔洗う水もか? わかった、今汲んでくる。ここで待ってろよ」
 言うなり駆け去ろうとしたパピネスの腕を、青年の手が掴む。どうやら顔を洗ったり飲むだけではなくて、全身に水を浴びたいらしかった。それじゃ川まで案内するべきか、とパピネスは思う。
 村の広場には井戸もあるが、誰もいなくなった村とはいえ、飲用の水を浴びる為に大量に使うのは申し訳ない気がした。もはや旅人でも通りがからない限り、飲まれる事のない水ではあるが。
「川までは少し歩くぞ。……大丈夫なのか?」
 青年は、ぼんやりした表情ながらも頷く。まだ半分現実に戻ってきていないような様子に不安を感じつつも、ハンターは相手を己の肩へと寄り掛からせ、背中に腕を回し半ば支える形で歩きだした。
「その……、今更だけどな。五日前は悪かった」
「………?」
 歩きだしてすぐ、パピネスはこの五日間伝えられずにいた詫びを口にする。目覚めたら伝えるつもりでいたのに、連日待ちぼうけを喰らわされ、時期を逸した形の謝罪の言葉だった。
「寝呆けてたとはいえ、同意もなしにあんな真似をしてすまない。悪かったと思ってる。後で好きなだけ殴ってくれていい。具合が良くなって、足を踏ん張れるようになったら」
 ただ、あんたがそれくらい元気になった頃には、俺は離れる事になるけど、とパピネスは告げる。
「ごめんな。喋る練習に付き合う、なんて勝手に誓ったのに投げ出す羽目になってさ。けど俺、カザレントの大公と去年契約を交わしていて、その期間がまだ終了してないんだ。だのにあんたの側にいたいばっかりに、今日まで任務を放棄していた」
 いい加減戻って義務を果たさなきゃいけない、とうなだれてハンターは言う。ヤンデンベールへ戻ると決意したものの、相手の顔を見ればまた意志が揺らぎそうだった。ただレアールと同じ顔に見えるだけの相手、態度は完全に別人である。なのにその存在は重い。
 目覚めてからの男は、何も語らなかった。以前にもましてひどく無口になっている。それ故、己の台詞に対する反応を知りたければ表情を見るしかなく、その事実が一層パピネスを苦しめた。
 ハンターの言葉を聞いた青年は、眠り病につく以前常に見せていたあの不機嫌な顔ではなく、どこか途方に暮れた寂しげな、別れる前のレアールがよく見せていた表情を浮かべていたのである。
「……頼む。そんな顔するなよ」
 一人で帰りたくなくなるじゃないか、とパピネスはぼやく。だが、どこの誰ともわからない者を連れての国境越えは、まずかった。その上相手はほぼ間違いなく人外の存在である。ケアスならそれでも味方とわかっていたからヤンデンベールへ同行できたが、この相手はそうはいかない。
 何の目的で人間界にいるのか、人にとって敵か味方か未だ全てが謎のままなのである。
 迷いと気まずい沈黙を供として歩いていた二人は、やがて村はずれを流れる川に到着した。川幅はけっこう広く、対岸には鬱蒼とした森が延々と続いている。
「あっ、服脱いで入るのか?」
 川岸に立つや靴を脱ぎ、ズボンのベルトに手を掛けた青年は、パピネスの問いに眼を丸くした。相手の絶句振りに、馬鹿な事を聞いたとハンターは思う。入水自殺する場合ならともかく、服を身につけたまま水浴びする者はそういないだろう。
 もっともどこぞの王族などは風呂に入る時でもそれ専用の浴衣を纏い、決して肌を他人に見せない習慣があるとか聞くが、そういうのはまず例外である。
 普通の人間は水浴びする際、服を脱ぐ。妖魔もそれは同じだろう。一緒にいた頃のレアールもそうだった。ケアスなら違うかもしれないが。
 パピネスの問いを無視すると決めた青年は、躊躇う事なく服を脱ぎ岸から少し離れた草地へ放ると、川の中へ入り深みへ進んで行く。
 キオの妖術で夏に保たれているゲルバは、じっとしゃがんでいるだけでも汗ばむ程に暑い。自身も水に入りたい気分になったパピネスは、相手に余計な誤解を与えたくない一心で耐えていた。
 なにしろ五日前にやった事が事である。ここで自分が服を脱いだりしたらどう思われるかを考えると、いっそ地面に潜り込みたい気分になった。自業自得とはいえ、やはり少々辛い立場ではある。
 不意に冷たい水が、足許で跳ねパピネスの頬に当たる。顔を上げると、川の中央付近へ進んだ青年が腰の辺りまでを水に沈めて、腕を伸ばしていた。
 振り上げられたその手が、水面を叩く。跳ねた水が放物線を描き、ハンターのすぐ横へと飛んでくる。二度、三度と繰り返し。
「……遊んでるな、おい」
 無表情だがしている行為は子供の水遊びのお誘い、である。苦笑したパピネスは立ち上がり靴を脱ぐと、ズボンの裾を捲り膝まで出して水の中へ入って行った。さすがに青年の近くまで進むと水深は膝を越えズボンを濡らしたが、構わず更に進んで対峙する。
「反撃」
 一言口にするや、パピネスは相手の顔目がけすくった水を浴びせる。素早くそれを避けた青年は、パピネスの後頭部へ手を掛けると強引に水中へ押し込んだ。
 息が続かなくなる前に手を撥ね除け、体勢を立て直したハンターは、起き上がりざま相手の足を払い、上体を水に沈める。派手に上がった水飛沫は、パピネスの衣服を容赦なく濡らした。
「あのな、確かに俺は好きなだけ殴ってもいいと言ったけどさ、水死させられてもいいとは言ってないからな。そこんとこ間違うなって」
 立ち上がった青年の肩を掴み、ニッと笑ってパピネスは告げる。その時にはもうズボンのみならず、シャツも髪もたっぷり水を吸って肌に張り付いていた。こりゃまたその辺の家を物色して着替えを探さなきゃな、と彼は考える。髪については一時間も経てば乾くから、と放っておく気になれたが、服の方はそこまで我慢する気になれなかった。
「ま、この場であんたを襲ったりしたなら話は別だけど、そうでない限りあんな真似は……」
 何気なく呟いた台詞は、青年の過剰反応を招いた。いけね、今のは禁句! と反省した時には既に手遅れである。パピネスは激怒した相手によって顔面に拳の一撃を受け、腹部にも蹴を入れられていた。
「……ってーな、もう。んな本気にしなくても……」
 呻いて辺りを見回すと、岸に戻ろうとしている青年の後ろ姿が見えた。口は災いの元と反省はしたものの、多少の反撃はする権利があるはず、と決め込んだパピネスは、音もなく近づくや相手を羽交い締めにし、体重をかけて自分の体ごと川に沈めた。
 もちろん、すぐに解放してやるつもりだった。実際、すぐに離しはしたのだが、沈んだ相手は起き上がろうとしなかった。
「おいっ?!」
 ギョッとして水中に手を突っ込み相手を抱き起こしたパピネスは、新たな驚愕に言葉を失った。
 肺から水を吐き出して恨めしげに自分を睨んだ相手の顔は、どう見てもさっきまでとは違う。別人だった。いや、別人と表現するのは正しくない。パピネスの眼に、青年の顔はレアールそっくりに見えていた。それは今も同じである。彼の知るレアールの顔に見えていた。
 ただしそれは、女性に変化した時のレアールの顔だったのである。
「……嘘だろ……?」
 己の頬をつねり、それでも信じられなくて頭を叩いたパピネスは、変わらぬ光景にへたり込む。先刻まで青年だった相手も、不思議そうにパピネスの様子を眺め、次に自身の体を見おろして絶句した。

 無理もない話ではある。一瞬で男性だった肉体が女性化すれば、当人は呆然とするしかないだろう。己が望んで変化した、という訳ではないのなら。
「ええと、これってあんたが自分で変身しようと望んだ訳じゃない……よな?」
 恐る恐るハンターは尋ねる。相手は激しく首を振った。その首もさっきまでとは異なり細い。男性だった時の首を知っている者から見れば、痛々しいまでに細いうなじである。
「やっぱそうか。……参ったな」
 呟いて、パピネスは相手を見やる。一番参っているのは、性別が変わってしまった相手の方だろう。原因不明の眠り病から覚めたと思えば、今度は突然女性の体である。精神が変になったとしてもおかしくない。
「取り合えず、水から上がって服を着た方がいいぜ。冷やしすぎは体に良くないしな。ほら、掴まれ」
 放心状態の相手は、言われるままパピネスの手を借りて立ち上がり、岸へと上がった。
 髪の長さは変わりなかったが、後は全て変化していた。背丈は若干縮んでパピネスの方が高くなっていたし、体つきと顔はどこからどう見ても若い女性である。
「なあ、服だけどさ。やっぱ男物着る方がいいか?」
「………っ!」
 先程まで丁度いい大きさだった衣装、今は全然あわないそれを着込んだ相手は、濡れた髪を揺らし憤怒の眼差しでハンターを睨む。睨まれた当人は、肩を竦めた。
「わかった、そう怒るな。まぁ女の体になったからって、即割り切って女物の衣装を着るのは嫌だよな」
 でも下着は女物にした方がいいんじゃないか、とパピネスは考えたが、懸命にもそれを口にしなかった。既に失言を連発した後である。これ以上殴られるネタを増やしたくはない。
 しかし、はっきり言って目の毒な光景ではあった。水に濡れた体を拭きもせず身につけた薄地の男物のシャツは、肌にピタリと張り付いて乳首の形まで丸わかりである。夜中に一人室内で過ごしている時ならともかく、明るい戸外でこれはまずいだろう。襲って下さいと誘っているようなものである。
 暴走しそうな男の本能をどこまで抑制できるか、理性の限界を試されてる気分で、眼のやり場に困りながらもパピネスは来た時と同様、相手の背中に手を回し歩きだす。体調はだいぶ楽になったように見えたが、それでも足許はまださほどしっかりしていない。一人で歩かせては危ないと思えた。何度転ぶかわかったものではない。
 おまけに足の大きさも変わったせいで、履いてきた靴が合わなくなっている。ゆるくなってしまった靴は歩く度に脱げかけ、その都度相手はよろけてパピネスに寄り掛かるといった按配だった。
(うわっ……)
 よろけた相手を支えようとして伸ばした手に伝わる感触は、先程までと異なり柔らかかった。思わず胸が高鳴るのを感じ、パピネスは嘆息する。
 川に来るまでは、この相手と離れてカザレントへ戻るつもりでいた。けれど今、女性化した相手と並んで歩きながら、ハンターはそれがひどく難しい事になったと考えざるをえなかった。
 自分の意志ではなく他者の、おそらく力の強い妖魔の思惑で姿を変えられた相手とこのまま離れたら、何かとんでもない災難がその身に降り掛かりそうな気がしてならない。それは予感というより既に確信であった。
(実際、放っておいたらやっぱ危険だよな。男の体を勝手に女に変えるような変態の目的なんて、どう考えても一つしかない訳だし)
 けどなぁ、とパピネスは髪を掻き乱す。
(問題は、仮に俺が側に居続けたところで、そーゆー意味での危険に変わりはないって事実だよな)
 相手が男の姿で存在した頃ですら、寝呆けていたにせよ手を出していたのだ。それが女の姿に変わったら、何事もなく夜を越せる可能性は限りなくゼロに近い。
 女性化したレアールは(もちろん現在隣にいるのはレアールではないが)パピネスにとって特別なのだ。本来が男性である事を思えば妙な話だったが、こういう言い方が許されるなら、間違いなく彼女はハンターの初めての女、だったのだから。
 それだけに悩みは尽きないパピネスである。ヤンデンベールへこの者を連れて行く訳にはいかない。カザレントへ帰らない訳にもいかない。だが、女性となった相手を放り出していく気にはどうしてもなれない。しかし側にいた場合、自分が何もしない保証はない。いや断言してもいい。絶対にする。けれど一人にするのは……と思考の堂々巡りである。
 そんなパピネスの苦悩に対し、勝手に答えを下す存在が突如出現した。
「ハンター、やっと見つけた!」
 本日二度目の、空から降ってくる声だった。見上げたパピネスは、宙に浮かぶその人の姿に我が眼を疑い、唖然となる。記憶にくっきりと残っている人物だった。二年前、イシェラの森で消えた当時と全く変わらない、成長を放棄したような姿。腰まで覆う長い黒髪に白の長衣。幅広の剣帯、下げた剣。
「……ルドレフ公子……?」
 呼ばれた相手は笑顔で頷き、着地してパピネスの腕に手を掛けると、さりげなく隣に立つ存在から引き離した。
「良かった。これで次期大公殿との約束が果たせる。捜したよ、ハンター」
 次期大公殿ってクオレルさんの事か? 身内でそんな呼び方はおかしいんじゃ……、と言いかけた時には自身の体も宙に浮いていた。焦るパピネスを無視し、その能力で人外の証明をしたカザレントの公子は耳元に口を寄せ、早口で告げる。
「時間が惜しいから、このまま空間移動させてもらう。しっかり掴まっていてくれ。途中ではぐれたら危険だ」
「空間移動? ちょっ……待った!」
 待てと叫んでも止まらなかった。パピネスの都合も聞かず、ルドレフ・カディラは移動を開始する。周囲の風景が歪み、急激に遠ざかる。川が、森が、村の全景が、そして平屋の並ぶ通りに一人残され、佇む相手が。

 八月も終わりが近づいたこの日、赤毛の妖獣ハンターはゲルバから消えた。彼が数日過ごした廃村には、女性化したガーラムと手荷物、そしてレアールの形見の剣が残された。

 突然現われた相手によってハンターを奪われ、村に取り残されたガーラムだが、いつまでもその場にぼんやり突っ立ってはいなかった。当初こそ呆気に取られていたものの、数分後には肩を竦め、ふらつきながら荷物が置いてある家に戻り、改めて体に合う大きさの着替えを物色するという、極めて現実的な行動を取ったのである。
 手頃な服が見つかると、今度は足に合う靴を探した。こちらは二軒先の家で適当な物が見つかった。
 それらを身につけたガーラムは、自身の荷物とパピネスが残していった荷物を一纏めにしてテーブルに運び、さてと座って考え込む。
 必要がなくて置いていった訳ではないのはわかっている。特にレアールの形見の剣は。しかし、わざわざ届けてやるほど親切になれるかというと、ガーラムは首を傾げざるをえない。彼は(厳密に言えば今は彼女だが)そこまで人が好くはなかった。
(ヤンデンベールの城塞に戻ったとは思うが……)
 レアールの思念がまだ肉体に留まっていたら、行けと彼をせっついたはずだった。しかし、そうした干渉が現在はない。残留思念は既に霧散していた。体内のどこにも、レアールがいた痕跡は感じられない。再度目覚めたあの時から。
(じきに消えるとわかっていたから、焦ってあんな夢を見せた訳か)
 許したくはないが理解は出来るような気がした。心を残している相手がこの世にいて、自分は既に死んだ身で守れなくて、その身に危害が加えられはしないかと心配していたのなら、何とかその可能性を消そうと、事態を阻止せんと全力を尽くすだろう。
 レアールの場合はそれが、夢で過去の出来事を自分に追体験させる事だったのだ。こういう状況下で生きてきた、だから自分を対等に扱ってくれる相手が、必要としてくれる相手が大切だったのだ、と訴える為に。
 それは殆ど祈りに等しかった。頼むからパピネスを傷つけないでくれ、邪険にしないでくれ、突き放した態度を取らないでくれという思いの呪縛。
 そんなものに巻かれてやる気はガーラムには少しもなかったが、取り合えずハンターがあの夜寝呆けてした行為は許す事にした。夢の中で体験した事柄に比べれば、蚊に刺された程度のものである。どうって事はない。それにパピネスは一応、自分に謝ったのだ。
 夢の中の妖獣達は、下級妖魔の面々は行為の後でレアールに謝罪したりはしなかった。自分がルーディックに対し謝らなかったように。
 相手を傷つけているという自覚はあっても、それがいけない事だという感覚はなかったのだ。常に相手の無駄な抵抗を楽しんだ。苦痛と屈辱に耐える姿を眺めて、面白がっていた。己のしている事がどのような恐怖を、痛みを、辱めを相手に与えるか考えた事がなかった。思いやった事がなかったのだ。レアールを嬲っていたあの連中も、ルーディックを玩具扱いしてきた自分も。
「…………」
 ここ数ヶ月の過去を振り返って、ガーラムは溜め息をつく。ルーディックが自分を暫らくの間、腐れ外道だの変態魔物だのと軽蔑的な口調で呼び続けた理由が、今になって理解できた。確かにあんな思いを連日させられていたら、そう呼びたくもなる。否、殺意を抱いてもおかしくない。
 そこまで思考を巡らした時、ガーラムは深刻な落ち込みを感じた。あのルーディックに死を願われていた、とは思いたくなかったのである。しかし、現実に自分がやってきた事は、憎まれても殺意を抱かれても仕方がない類の行為だった。
 けれども、ガーラムにはわからなかったのだ。己が夢の中とはいえ被害者の立場に回されるまで、全然気が付かなかったのだ。自分にとっての単なる遊びが、対象とされた側にとっては加害者へ殺意を抱くに足る、重大な行為であったとは。
(いいや、違う。確かにやった事は酷かったが、自分の死までルーディックは願ったりしない。嫌ってはいたろうが、殺意までは抱かなかったはずだ)
 そう、異界の魔物は思い直す。根拠はあった。蜘蛛使いの存在がそれである。ルーディックは彼に妻子を殺され、自身も一度殺されていた。けれど、その相手に殺意を向けたりはしなかった。それどころか、時には笑顔を見せていたではないか! 同僚だから、と顔を合わせ付き合い、特別に手作りの菓子を運んだりもしていたではないか。
 自分に対してもガーラムと名を与え、その名で呼び掛けるようになっていた。殺したいと思っている相手への対応ではなかった。一度交わした約束は決して破られなかったし、うんざりした表情をしながらも、常に遊びに応じてくれた。
『むやみに人を殺したがるんじゃない。遊びなら俺がいる。夜まではおとなしく待て』
 それが、ヤンデンベール城塞にいる間の、ルーディックの口癖だった。
『お前の相手は俺がする。壊したいなら俺にしろ。他の者に危害を加えるな』
 そして一人で全ての被害を引き受けた。妖魔界の王の思惑通りに、犠牲になり続けた。
 だが、ならばあれも思惑通りだったのだろうか? 急激に消えていく記憶に恐慌状態となり、怯えてすがりついてきたルーディックも、失いたくないと思った自分の心の動きも全部王の計算の内だったろうか? それは余り楽しくない想像である。
 気配に気付いたのは、次の瞬間だった。
(噂をすれば影とか言うが、考えただけで現われるか)
 出来ればこいつには会いたくない、関わるのは御免だと思いつつ、ガーラムは顔を上げる。予測した通り、そこには妖魔界の王が立っていた。
 最初は影を送り込んだのかと思ったが、どうやら実体の方らしい。となると、現在妖魔界の宮殿には分身である影が残っている事になる。
『御苦労な事だ。術が上手くいったかどうか確認の為だけに、わざわざ本体が出向いてくるとは』
 唇を閉ざしたまま、ガーラムは相手の脳へ直接言葉を伝える。人間のパピネスにそれをするのはまずいと自制していたが、妖魔界の王なら構わないと思えた。
「……意外と冷静だな」
 視線が合うなり、王は言った。いきなり性別を変えられた以上、もう少し焦っているかと思ったが、と。
『冷静? 充分衝撃は受けている。とっとと戻せ』
 心外だと眉を寄せ、ガーラムは告げる。自分も悪ふざけは多々してきたが、このように相手の性別まで変えたりはしなかったぞ、と暗に匂わせて。
「断る」
 あっさりと、王は要請を却下した。
『なに?』
「断ると言った。私としては中身が異界の化け物に変化してなお、見知った我が側近の姿でいられるのは不快でたまらぬのでな。女の姿でいるのが嫌なら、さっさと死んで喰らった魂を解放してやるが良い。そうすれば内に留められたルーディックとて、早めに転生できるだろう」
『……それが貴様の狙いな訳か』
 半ばあきれ気味に呟くと、ガーラムは首を傾げる。
『他者に死ねと言われれば、反発して生きたくなるものだ。そうは学習しなかったか?』
「学習? そなたのような者から、そうした言葉を聞くとは思わなかったな」
 嘲るように王は言う。一瞬後、彼はガーラムの前に移動して、その両肩を掴み椅子から立ち上がらせていた。
「自分で死ぬ気がないのなら、死にたくなるようにさせてもらう。そなたの手首には、向こうでルーディックにはめさせた妖力封じの環が今もあり、中身は違えど体は妖魔界の住人で、結局は我が支配下の者だ。操る気になればどうにでも出来る」
「………」
「わかるか? そなたは現在、体を持たぬ霧状の異界の魔物だった頃より遥かに抹殺が容易い状態にあるのだ」
『ほう?』
 王の言い草にガーラムは眉の端を吊り上げた。が、抹殺が容易と言いながら、死にたくなるようににさせてやるとは主張がどこか矛盾している。今いち、理解出来なかった。
(どういう意味だ? 確かに自分はこの体をまだ上手く使えないでいる。力も制限されているから、自由に動けた前より殺しやすいというのはわかるが)
 妖魔界の住人の体だから己の支配下にある、というのもたぶん嘘ではないだろう。妖魔界の生命は、全て王が百年毎に創り出していると以前聞いた覚えがある。創造者は自分より強い妖力を持った者を、その地位を脅かすような存在を造ろうとはしないだろう。
 だから、今の自分を抹殺するのは容易いという言い分はわかるのだ。わからないのは、死にたくなるようにさせるという台詞である。誰かに殺されるのと、自分から死を選ぶのでは意味が違う。
 王の言い方では、どうも己は自ら死なねばならないらしい。その辺が謎である。
(いったいどうやってそれを可能にする気だ?)
 あいにくだが、女の体にされたぐらいで死のうとは思わない、とガーラムは告げる。王は、その言葉に目を細め微苦笑した。
「大丈夫だ、心配せずともすぐに死にたくなるだろう」
 この台詞も、すこぶる矛盾している。大丈夫ですぐ死にたくなるとは。
「その前に一つ聞いておくが、蜘蛛使いはあの後どこへ消えた?」
「?」
 ガーラムは訝しげな眼差しを王に向ける。何で奴の行方なぞ自分が知ってなきゃいけない? と。
「ルーディックの魂を喰らった後のそなたと会ったところまでは、私にも足取りが掴めている。その後がまるでわからぬのだ。どこへ行ったか知らぬか?」
 妖魔界の王は、苦い表情で率直に尋ねる。
「ずっと捜しているが、今も見つからない。もしかしたら既に生きてはいないのかもしれないが……」
『それはない』
 きっぱりと、ガーラムは断言する。
『ルーディックの残した伝言はちゃんと伝えた。寿命が尽きるまで生きろという内容だった。奴も納得したはずだ。だから死んではいない』
「ルーディックが生きろと言えば生きるのか? あれは」
 皮肉っぽい口調で問う王に、ガーラムは頷きを返す。
『貴様に命令されるよりは、ずっと従いやすいだろう』
 王は自棄気味に笑い、憎悪を込めた眼でガーラムを見据える。
「私を前にして、ぬけぬけと良く言う」
『貴様の臣下でも、界の住人でもないからな』
「だったら私の創った、我が界の住人の体を返せ! それは私がレアールの為に造り出した体で、異界の化け物が器にしていいものではないっ」
『知らん。貴様が望む限り、死んでなどやらない』
 王の眼差しには、もはや殺意がこもっていた。
「その言葉、後悔するぞ」
 告げられた言葉の意味を正確にガーラムが理解したのは、それから僅か数分後の事だった。


◇ ◇ ◇


 窓、そして扉を開け放ち、室内の風通しを良くしても、血の臭気はなかなか消えなかった。外は、いつのまにか夜の闇に包まれている。
 ようやく体の自由を戻された相手は、床に突っ伏し喉に手を当てたまま、苦しげに吐き続けていた。顔の近くの床に撒き散らされた吐瀉物の中には、肉片と小さな手足が何本か混じっている。
 その光景を眺めていた妖魔界の王は、不意に奇妙な感覚に捉われた。外見がどうあれ、床に倒れている者の中身は異界の魔物なはずである。だが、精神が絶え間なく悲鳴を上げ口からも時折嗚咽を洩らし、無理に飲み込まされた物を吐き続けているその姿は、暴力に打ちのめされた無力な女性にしか見えなかった。
 実際、妖魔界の王が取った手段は、女性に対する仕打ちとしては(元は女性でないにせよ)悪辣極まりなかった。相手が妖魔界の住人でなく、自分の企みを結果的に邪魔した存在だからとはいえ、惨すぎたと言えよう。
 眠り続けて目覚めた直後で、歩行もろくに出来ない状態にある、と承知の上で女性体に変化させたのは、この術を行なう為であった。
 異界の魔物を、自ら死を選ぶはずもない存在を追い詰めるには、これくらいやった方がいいだろうと考えて。
 そもそも、王はルーディックに同情していなかった訳ではない。いつ事情を打ち明け泣き付いてくるか楽しみに待っていて、結局泣き付いて来なかったからと見て見ぬ振りをし助けてやらなかったにせよ、彼が一人で異界の魔物の犠牲になり、嬲られ続ける状態をよしとしていた訳ではなかったのである。
 そうした事情もあって、妖魔界の王はガーラムが嫌いだった。向こうも嫌っているのは間違いなかったが、より王の方が嫌悪感を強く持っていた。
 再び大量殺害や破壊活動が出来ぬよう、ルーディックから完全に分離できない中途半端な封じを行なった時も、気づきながら相手は全く動じなかった。ルーディックが死んだ場合、引きずられてそなたも死ぬと伝えてもなお、ガーラムは平然としていた。だからどうした、と。
 そんな異界の魔物に、言葉に出来ない憤りを王は抱き不快感を募らせていたのである。
 そこへとどめに、レアールの肉体乗っ取りであった。
 王は、レアールの魂が消滅した以上、ルーディックにこの先レアールとして生きてもらわねばいけないと考え、その為には人間のルーディックとしての意識を持ったままでは不都合だと、記憶を消しにかかったのである。
 人であった頃の記憶を全部消したら、改めてレアールとしての記憶を植え付けるつもりでいた。人間界へ追放した本物のケアスと異なり、妖魔界で傍らに置く相手なら、完璧に記憶を操作できると目論んでいた。
 ルーディックがレアールとして、同僚の側近として妖魔界に留まれば、蜘蛛使いも早まった行動は取らないだろうと、密かに期待していた部分もある。
 だのにその思惑は、余計なちょっかいをかけた異界の魔物によって水泡に帰したのだ。ルーディックの魂は人間であった記憶を完全に失う前に喰われて肉体の内に留まり、残された体は魔物に使われる羽目になった。
 こんな事が許せる訳がない。見逃してなるものかと妖魔界の王は自ら赴き、自分の神経を逆撫でしてきた相手へ罰を与えようとしたのである。
 彼は考えた。どのような目にあえば異界の魔物が深く傷つくか、死にたいと願うようになるか。
 考えた末に、まず女性化させて胎児を宿らせる事とした。そして体内の栄養を胎児に吸収させ、体や骨を弱らせた上で堕胎させる、という方法を選んだのである。これを繰り返せば、如何な魔物でも耐えられないだろうと。
 実際に行なった時は、想像していたよりも更に血なまぐさい行為となった。空気を変質させ魔物の全身に圧力をかけた形で四肢の自由を奪い、動けない状態にした上で胎児を宿らせ、急成長させた。それだけで、既に相手は恐慌状態である。自分の内に異質な存在が根付き、しかも眼に見える形でどんどん大きくなっていくのだから。
 王は、相手の腹部が胸より膨らんだところで躊躇わず攻撃を仕掛けた。雷に撃たれたような衝撃を、刃物で続け様刺されたような痛みを、魔物が耐え切れず流産するまで繰り返し腹部に加え、終いに手で引きずり出した。
「死にたくなったなら、そう言ってもらおう。そうすればやめる。……前言撤回するつもりはあるか?」
 ガーラムは青ざめたものの、首を縦には振らなかった。結果、血塗れの胎児はその口に押し込まれ、無理矢理胃へと流し込まれた。
「今のでは小さすぎて、大した負担にはならなかったようだな。では、次はもう少し成長させてからにしよう」
 吐瀉物に喉を詰まらせ苦しんでいる相手を無視して、王は再度事を行なう。今度は先程と違い胎児は大きく、出血量もひどかった。頭も大きい為、口に押し込むのも一苦労である。面倒になった王は、相手の顔の上で胎児を引き裂き、ある程度小さくしてから突っ込んだ。
「前言撤回する気は?」
 質問に対する応えはない。ガーラムは眼を見開いたまま、口から喉にかけてを埋め尽くした肉片により、窒息していた。それでも、側近になる程の妖魔の体では、そう簡単には死ねない。体が無事である限り寿命が尽きていなければ蘇生する。この時もそうだった。
 ガーラムは三度息絶え、三回とも蘇生した。しかし三度目に生き返った時には、体中の骨が脆くなっていて、王が軽く力を込めただけでも簡単に折れた。出血を止めるだけの気力も、とうに無くしていた。頃合か、と王が空気による圧迫を解くと、仰向けの状態から身を捩り、うつぶせになって胃の中の物を吐き出す。
 咳き込む度、肺を防御している骨が折れたような嫌な音がした。王は、何度目かの問いをまた投げ掛ける。
「前言撤回して死ぬ気はないか?」
 ガーラムは僅かに顔を上げ、怒りに燃えた眼を向けた。
『……失せろ。死にたいなら、貴様が死ねばいい』
「……それが答えか。しぶとい奴だな」
 肩を竦めた王は、出血だけでも止めようと手を伸ばす。
『……触るな!』
 ガーラムは必死でその手を逃れ、王を睨もうとした。が、そこ迄だった。気力は尽き果て、視界が暗くなる。
(……ルーディック……)
 薄れていく意識の中で、異界の魔物は思った。お前は死ねとは言わないな? と。