squally
ジロウ様

 薄クリーム色のゆったりしたソファーに腰掛けた矢上一真やがみかずまは、腕組みをしたまま、淡々と流れるニュースを小難しい顔で眺めていた。とはいえテレビは、暴徒による一般市民の大量虐殺を伝えているわけでも、景気低迷による雇用状況の悪化を論じているわけでもない。
「今年も水戸の偕楽園から、花の便りが届きました」
 笑顔を浮かべた美人アナウンサーの明るい声とともに、紅色の小さな花弁が画面いっぱいに映されている。まだ冬を思わせる細く寒々しい枝のあちらこちらから顔をのぞかせる梅の花は、間もなく訪れるであろう春の気配を微かに漂わせていた。
 話によると、日本三名園の1つに数えられるというこの庭園では、毎年2月の半ば頃から3月末まで、『梅まつり』という催しが行われているらしい。野点茶会や琴の演奏など、和の風情を存分に楽しめる趣向がなされているのだと、アナウンサーがにこやかな表情で語った。
「小さな秋ならぬ小さな春を見つけに、お出掛けになってみてはいかがでしょうか」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、一真はリモコンでテレビの電源を切っていた。まるで深呼吸でもするかのような盛大なため息を付いて、真っ暗になった画面を睨みつける。
「何が春だ。このクソ寒いのに」
 一真が腹を立てるのも無理は無い。
 もう3月だというのに、一向に暖かくならない気温。吹き荒ぶ北風は容赦を知らず、下手をすると1月や2月よりも冷たいようにさえ感じる。
 先週の頭には、時期はずれの降雪。
「おまけに今日は――」
 呟きながらソファーの背もたれに寄りかかるようにして左手の窓を眺めると、暖色の厚いカーテンの隙間から、大粒の水滴が流れ落ちるのが見えた。
 夕方過ぎから降り出した雨は徐々にその勢いを増し、あと1時間ほどで日付が変わろうという今現在は、強風まで加わって嵐のような状態になっていた。テレビが消えて静かになった部屋の中に、ザアザアという激しい水音が木霊する。獣の咆哮ほうこうにも似た風音は、理由の無い威圧感を覚えさせる。吹き付ける雨粒の勢いときたら、まるで誰かが窓を乱暴に叩きながらわめき散らしているかのようだ。
 当然快晴の夜と比べ、気温もめっきり冷え込んでいる。ホットカーペットのお陰で辛うじて足だけは温かいが、何の保温もされていない手先は大分冷たくなっていた。
 一真はソファーに座ったまま目の前の机に手を伸ばし、その上に置いてあったリモコンで暖房を付けようとした。が、途中で思いとどまってそのまま手を引っ込めた。
『暖房使ったら罰金! 電気代1ヵ月分を自分で払うこと!』
 リモコンに張られた小さなメモが恨めしい。
 一真には、半年ほど前から同居人がいた。要するに流行の同棲というヤツで、今の時代においては別に珍しくもないことだ。
 お互いに仕事があるれっきとした社会人だし、双方の親の反対も特には無かった。 2人で暮らすには狭いからと一真が新しく借り直したマンションの管理人は良い人で、近所付き合いといっても隣近所だって似たような境遇の奴等ばかりだから、ゴミ出しの時軽く頭を下げる程度で全く問題無い。
 そう、問題は無いのだ。
 ただ1つ、彼女の性格をのぞいては。


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 同棲相手は友人のセッティングした合コンで会った、わりと美人だといえる女で、服のセンスも悪くなかった。
 別に面食いという訳では無かったが、どうせ連れ歩くなら見た目の綺麗な相手の方がいいと思うのは男の――いや、人間の心理だ。一真もご多分に漏れず、正面に並んだ3人の女達の中で一番美しかった彼女に惹かれた。
 列席した友人達も彼女を狙っているという事は、言葉に出さずとも分かっていた。恐らくは彼らも、一真が彼女をものにしようとしている事に気付いていただろう。一真は特に美男子とは言えない平凡な顔立ちだったが、巧みな話術で見事に友人達を出し抜き、別れ際に彼女の携帯電話の番号とアドレスを入手した。
 それからは、事あるごとに電話とメールの繰り返し。飽きられないように、忘れられないように、打算と欺瞞ぎまんに満ちた連絡攻勢。とはいえ自分が惚れているなどとはおくびにも出さず、適当に距離を置き、あくまで『友人の1人』として接し続けた。
 そんな状態のまま1年と3ヶ月。
 数え切れない画面上での逢瀬と何度かの食事にかこつけたデートの末に、彼女の方から付き合いたいと言い出した時は、思わず携帯電話を握り締めてガッツポーズをした。過去に手がけてきた、どんな仕事を終えた時よりも達成感があった。内心の動揺などおくびにも出さず、肯定する内容の落ち着いたメールを彼女に返した一真が、その夜興奮で眠れなかったのは言うまでも無い。
 あの時は本当に馬鹿みたいに舞い上がっていた、と思えるのは、時が経ち冷静に物を考えられるようになった今だからこそなのだろう。
 同棲を始めた当初は、彼女のどんな我儘も可愛さに映った。欲しいというものは可能な限り買い与えたし、残業続きでどんなに疲れていたとしても休みの日のドライブは欠かさなかった。自慢じゃないが英語は苦手な方だったが、海外旅行に行きたいとせがんだ彼女に良いところを見せようと、こっそり英会話の勉強をし、最近名が知れだしたばかりのほとんど日本語が通じない土地で、完璧なガイド役をやってのけた、なんていう事もあった。
 しかし、どんな夢もいつかは覚める様に、恋愛が生み出す熱も永遠に続くわけではないらしい。頼られている、愛されているからこそだという一真の自意識過剰的思考は、調子に乗り始めた彼女の限度を逸脱した欲求の数々によって、あっけなく崩壊した。
 そして気が付いてみれば、自分名義の部屋は彼女の趣味で統一され、自由気ままだった筈の生活は彼女の定めた戒律によってがんじがらめに縛られ、学生時代のアルバイトからコツコツ溜めていた銀行口座はほとんど底をつき、足元には中古車が一台買えそうな値段の毛並の良い猫が甘えた声を上げながらまとわりついてくる始末。
 今現在自分のおかれている境遇を再確認し、改めて数ヶ月前の浅はかさを呪わずにいられなかった一真は、声に出るほど大きなため息をついた。吐き出された吐息が冷たい外気にふれ、微かな白さを残してから一瞬後に消えた。


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 叩き付けられた雨粒が風に翻弄されて、ガラスにジグザグの軌道を残していた。外は相変わらずの暴風雨だ。しかも治まるどころか、時間が経つにつれて酷くなっていくようだった。この調子では、傘をさして歩くことさえ困難に違いない。ビニール傘なら確実にオチョコになってしまうであろう程の強風だ。
 一真はほとんど無意識に、ソファー正面の壁にかかっている時計を見た。
 彼女にねだられて海外で手に入れた短い振り子式のアンティーク時計は、外から響く轟音などものともせず、そ知らぬ顔で尾を小刻みに動かしながら、正確な時を刻んでいた。彫り込みで複雑な細工がほどこされている長針が、同じく繊細な印象の短針にもう少しで追いつきそうだった。二つ仲良く並んで、すぐ近くの天井を見上げている。
「0時か……」
 一真は独りごちて、ソファーの背もたれに体重を預けつつそこに両腕をかけた。正面で固定していた視線を、ゆっくりと右手奥――玄関へと続くガラス戸に向ける。
 磨りガラスの向こう側には、薄ぼんやりとした闇が落ちていた。暗くいかにも冷え切っていそうな廊下に、人の気配はなかった。
 目を細め、何かを諦めたような様子でふぅと息をついた一真は、先ほどから足に擦り寄りつつ時折甘い声を上げている猫の要望に応える為に立ち上がった。面倒くさそうにしながらも後をついて来る一真を振り返りながら、猫が嬉しそうに小走りで餌皿が置いてある台所へと駆けて行った。
 普段は一真が呼んでもこちらを向きさえしないのに、自分の欲求がある時ばかりこうして素直に甘えてくる。愛らしくも少し憎らしいその姿が、見知った女と重なる。昔から動物は飼い主に似るというが、あれは本当の話なのかも知れない。
 カラカラという乾いた音とともに銀の皿に乾燥餌が零れ落ちると、猫は待ちきれないとばかりに箱の脇から顔を突っ込み、がっつくように食べ始めた。給仕係の一真に恩義を感じるどころか、もはや彼など目にすら入っていない様子だ。どうやら肉を割く為に特化した尖った歯で、転がりやすそうな餌を噛み砕くのに必死らしかった。
 一真は億劫おっくうそうに立ち上がると、小魚やチーズ、肉や野菜の絵がプリントされた高級感あふれるパッケージを片手に、一心不乱に食べ続ける猫を見下ろした。今も降り続く雨の籠もった音に重なって、パリパリと餌を噛み砕く音が部屋の中に響く。
「帰ってこないな。お前の飼い主」
 一真の猫に向けた呟きは、当然のごとく独り言となって虚空に消えた。相変わらずこちらを振り向こうともしない猫の丸まった背を見つめ、彼は大きなため息をついた。
 顔を上げ、カウンター式になった洒落た造りのキッチンの向こうに見える窓を眺めると、ガラスを隔てた向こう側で、暗闇の中に浮かぶ絹糸のような白い筋が暴れ、踊り狂っていた。こんな大雨の中を、彼女はどうやって帰ってくる気なのだろうか。
 確かに朝家を出る時に傘を持っては出たようだったが、気を抜けば飛んで行きそうな傘の柄を両手で握り締め、ずぶ濡れになりながら必死で歩いて帰ってくる彼女の姿など、一真にはどうやっても想像できなかった。
 外は警報が出るほどの暴風雨だ。普通に考えたら何処か安いビジネスホテルにでも泊まるか、もしくはタクシーでマンションの真ん前まで来るかというところだが、彼女に限ってそれは無い。良く言えば倹約家、悪く言えばドがつくほどのケチ。凍えるほど寒い夜に、もう3月だからなどという短絡的な理由で暖房を付ける事すら禁ずる彼女が、そんな無駄金を使うはずも無いのだ。
 ――嫌な予感がする。
 そう直感した瞬間、テレビの前にある四角い机に置かれていた一真の携帯電話が鳴り出した。古き良き時代を生きた人々が揃って顔をしかめそうな、昔流行った歌謡曲の軽快過ぎる現代風アレンジソング。
 メールの着信音だ。
 一真は慌てる事無く猫餌のパッケージをキッチンのカウンターテーブルに置くと、まだ餌にかかりっきりの猫をまたいで、足早にリビングへ戻った。もう少しでサビにさしかかろうという所で横に付いたボタンを押して曲を止め、折りたたみ式の携帯電話を開く。蛍光灯の下でも眩しさを感じるほど明るい画面には、普段表示されているカレンダーの代わりに、『新しいメールが届いています』の文字と薄い青色の紙飛行機が浮かんでいた。先ほどの嫌な予感が、段々と現実味を帯びてくるのを感じながら、一真は一瞬の躊躇ちゅうちょの後にメールボックスを開いた。
 メールの送り主は、予想通りの人物だった。そしてそこには、可愛らしい名前と顔にはそぐわない文章が躍っていた。
『今駅。5分以内に車で。』
 何処の司令室から下った命令を伝える電報かと目を疑うほどの、簡素で一方的な通信。もはや文として機能しているのかどうかさえ疑わしく思えるような文字の羅列。
 一真はこれ以上無いほどに大きく深いため息をつきながら、両手でゆっくりと携帯電話を閉じた。青白い光が消えるのと同時に、カチリという頼りない音が響く。急がなければいけない用事が出来たというのに、一真はしばらくその場に立ち尽くしたまま動かなかった。いや、正確には動けなかったといった方がいいだろう。溜まったうっぷん全てを込めて恨めしそうに睨んだ窓の向こうには、当分衰える事の無さそうな大雨が、轟音を伴って滝のように流れていた。
「行かなきゃ……駄目なんだろうな」
 誰に言うでもなく呟く。
 目をつぶり諦め顔でかぶりを振って、一真は持っていた携帯電話を無造作にジーンズのポケットへ突っ込んだ。大またでリビングを渡り自室に行くと、クローゼットから出した上着を引っつかんですぐに戻ってくる。左手を袖に通しながら玄関へと続く廊下の扉を開けると、ひんやりとした空気が一真の全身を包んだ。
 思わず身震いしたくなるほどの温度差。だが、彼の足は迷う事無く、入ってきた時と同じ速度で奥へと進んでいく。まとわりつく冷気をかき分けるように進むその顔に、先ほどのうんざりした表情は浮かんでいなかった。
 玄関に辿り着くまでには上着に両袖を通し終わっていた一真は、くつを履きながら壁にフックで掛けられていた鍵の束を手に取った。それはマンションの鍵2種類に、お互いの実家の鍵が2種ずつと、明らかに形が違うぶんだけ目立って見える車のキーが、観光地の名前が書いてある、猫を模したキャラクター付きのキーホールダーにくっつけられた、お世辞にも携帯に向いているとは言えない代物だった。
 玄関先の電気はつけず、リビングから差し込む薄明かりと感触を頼りに、一真は先ずマンションの鍵を探した。ガチャガチャと派手な音を鳴らして1枚1枚確認しながら、本のページをめくるように目当てのものではない鍵を後ろに送っていく。
 作業を進めながら一真が考えていたのは、彼女への不満では無く、駅で会った後どうするかという事だった。
 玄関先で既に指がかじかみそうなほどに寒いのだから、氷雨が舞い踊る外の寒さは筆舌に尽くしがたいほどだと言っても、それほど大袈裟ではないだろう。そんな環境で立ち尽くしていれば、手足の先は勿論、体の芯まで冷え切ってしまうに違いない。深夜営業のレストランにでも入って待っていてくれれば心配は無いのだが、恐らくそんな無駄金は使うまい。
 一真は辛うじて雨風がしのげる場所にある駅前の柱に寄りかかり、両腕で体を抱え込んで震えている彼女を想像した。
「ファミレスでコーヒーでもおごってやるか」
 チャリンという軽快な音を響かせて、探していたマンションの鍵を握り締め、彼は白い吐息とともに呟いた。ジーンズの後ろにあるポケットに小銭入れが入っているのを手探りで確かめて、木目調のデザインが施されたステンレススチールの扉を開く。
 リビングから廊下へ出た時とは比べ物にならないほどの冷気が襲い、思わず首をすくめた。これでは出来るだけ早く行ってやらないと、あまりにも可哀相だ。
 一真はなるべく音がならないように気遣いながら急いで扉を閉め、ほとんど同時に1つ目の鍵も閉めた。続いて2つ目の鍵を閉めようとする音が、無人の玄関に木霊する。
 その時丁度食事が終わって満足した猫が、部屋の中に同居人が一人もいなくなった事に気付いて、玄関先に顔を出した。こもった空間にガチャガチャと響く金属音の出所を探し、玄関マットに座り込むと不思議そうにドアノブの辺りを見上げた。やがてその音も止み、代わりに焦りを隠せない一真の心情を映す靴音が慌しく駆け抜けて行くのを、天に向かってピンと張った両の耳だけが追った。
 暫くすると、荒れ狂う雨の音に混じって、車のエンジン音が聞こえてきた。先ほどの靴音と同じで、こちらも逃げ去るかのような早さで遠のき、すぐに雨音に混じって掻き消えた。人の気配がなくなった部屋の玄関先に、風と雨とが奏でる交響曲が再び響き始める。
 残された猫は暫く玄関のドアをじっと眺めていたが、ふっと体の力を抜くと、至極興味無さそうに大きな欠伸と伸びをした。

−FIN−


《管理人コメント》
『隻翼の鵬』様のキリ番ニアピンを踏んで、『夜の雨』をテーマに書いて頂きました! ジロウさん、ありがとうございます! 真夏に寒い話(いや、怪談じゃなく気温が(笑))、ご苦労様です。『倦怠期の馬鹿ップル』があまりにぴったりの表現で笑ってしまいました。早春の夜の冷たい雨の情景がリアルだなあ。
なお、背景に使っている写真も、ジロウさんの作品です。